La Civiltà Cattolica

La Civiltà Cattolica
日本版
(公財)角川文化振興財団バチカンプロジェクトから刊行!
ローマで発行された最古のカトリックジャーナルが史上初、日本版で刊行されました。

日本版創刊1号

「ラ・チビルタ・カットリカ」創刊の歴史

教皇と教会に奉仕する雑誌
La fondazione de «La Civiltà Cattolica»:
Una rivista al servizio del Papa e della Chiesa
Giovanni Sale S.I.
ジョヴァンニ・サーレ神父

***
晴れて日本版刊行となった「ラ・チビルタ・カットリカ」。その創刊には、実はいろいろな人たちの思い、さまざまな経緯が複雑に絡み合っていたことがこの記事からわかります。
現在の中立的ジャーナルとしての発展の礎です。
La Civiltà Cattolica 2017,I, 335-349

 1850年4月6日、ナポリのサン・セバスティアーノ修道院の中庭に設置されていた印刷所にて「ラ・チビルタ・カットリカ」の第一号が出版された。タイトルページには、「イタリア全土に向けた定期刊行物」と書かれ1、薄い水色の表紙にはラテン語の「Beatus populus cuius Dominus Deus eius.(自身の主である神を持つ人々は幸福である)」という銘文も見られた。雑誌が、当時流行していた「教会の刊行物」と大きく異なっていたのは、これがイタリア語で書かれていたことにある。当時のイタリア語は、政治的統一体としてのイタリアという概念がまだ存在しなかった時代に、北から南、トリノから教皇がいるローマ、さらにパレルモに至るまで、イタリア半島のすべての人々を一つの理想の元に「結びつける」ものだった。
 雑誌は政治や宗教、文学や科学などさまざまな分野の第一線で議論されている問題を扱い、わかりやすく、異なる考えを否定するのではなく尊重する形で、核心に触れることを目指した。「もし編集者が上から命令するかのような書き方をすれば、それは傲慢と取られるだろうし、また特に信仰の異なる人を激しく叱責するようなことがあれば、対話することはできないであろう2」とタパレッリ・ダゼーリオ神父は書いている。
雑誌創刊から167年、記念すべき4000号が発行された今こそ、この雑誌の歴史を振り返るにふさわしい機会といえよう。 雑誌の創刊と発展は、まさに当時のイタリアの激動の歴史とともに歩んできたのだ。

イエズス会士たちと「ラ・チビルタ・カットリカ」の創刊

1814年のピウス7世によるイエズス会の復興から30年ほどたったころ、イタリア内のイエズス会士たちの間で、彼らによって独自に編集された雑誌を創刊するという議論が始められた。それは1846年のことであり、ウィーン会議(1815)によってどうにか得られたヨーロッパの政治体制が「1848年革命」によって崩壊する2年前のことであった。当時ローマ管区長だったパスクアーレ・カンビ神父は、計画に関して何人かのイタリア人イエズス会士の学者たちに意見を求めた。この呼びかけに応えたのが、アントニオ・ブレッシャーニ神父、イザイア・カルミナーティ神父、マッテオ・リベラトーレ神父、ルイージ・タパレッリ・ダゼーリオ神父である。彼らは興味深い助言を提出した。
当初の計画では、ラテン語で書かれた学問全般にわたる雑誌を創刊することをイメージし、読者には、哲学や神学的問題に対するカトリックの視点を知りたいと望む学者たちを想定していた。つまり、当時普及していた、学問のあらゆる分野を扱った広範囲な学術誌のようなものであったといえる。多くの神父たちが、この方向での意見を述べた。
呼びかけに応えた神父の中で、唯一新しい考えを示したのが、タパレッリ神父である。彼は文化を扱う雑誌、特に人々の関心に沿った生きた文化を扱う雑誌を求め、より多くの人がアクセスできるよう、全文がイタリア語で書かれることを望んだ。また彼は、非キリスト教徒や信仰に敵対する人との関係にも言及し、世界がまるで善人と悪人とに分かれているかのように権威的な口調で「刊行物」を書くのは良い方法ではないと考えていた。
カンビ神父は、受け取った報告をすぐにイエズス会総長のヤン・ローターン神父に送り、彼に決定をゆだねた。その間に、タパレッリ神父のほうでも直接総長に興味深い手紙を送っている。「その中で彼は、イエズス会士たちが忠実な絶対王政擁護者であり、いかなる他の政体に対しても(たとえそれが正統なものであったとしても)、敵対しているとみなす偏見を、これを機にきっぱりと否定するような出版を始動するよう提案している。」彼は実際、新しい雑誌では、自由主義をすべて誤りとみなして急進派自由主義と穏健派自由主義(この中にはキリスト教徒も含まれていた)との違いを考慮しない保守派勢力(当時イエズス会の中に浸透していた)が優位に立つことを望んでいなかった3
しかし総長は、タパレッリ神父によって提案され、カンビ神父から託されたこの計画をはねつけた。彼はイエズス会の敵対者が、これを機にイエズス会士たちが世俗のことに介入しようとしていると攻め立て、批判を再燃させることを恐れていたのだ。さらに、この議論も、新しい雑誌の出版の計画も、1848年の革命によってイタリアからイエズス会士がヨーロッパ中に分散したため、中断された4。イエズス会総長ローターン神父も、フランスのマルセイユに亡命を余儀なくされた。
1849年も終わる頃になってようやく、イタリアのイエズス会士たちによる雑誌の創刊が再び話題にのぼるようになる。しかし、今回の計画の立役者は、カルロ・マリア・クルチ神父であった。彼はこれまで議論に加わってはいなかったが、パリで過ごした経験を活かし、またおそらくタパレッリ神父の影響を受け、「カトリックの刊行物」に関する詳細な計画を準備し、当時イタリアの総長代理となっていたカンビ神父に提出した。彼はそれを読み、称賛しながらも、この計画が政治的な理由からあまりに難しく危険であると判断し、棚上げにした。この計画は、当時(「ローマ共和国」期)両シチリア王国に亡命していていた教皇に代わってローマを指揮していた3人の枢機卿たち(アルティエーリ枢機卿、デッラ・ジェンガ枢機卿、ヴァンニチェッリ枢機卿で、「赤の3頭政治」と呼ばれる)をも困惑させた。
しかしクルチ神父はあきらめることなく、1849年12月9日教皇に謁見し、この計画に興味を示したジャコモ・アントネッリ枢機卿に相談した。枢機卿はすぐにこの件を教皇ピウス9世に報告すると、教皇は真剣にこの問題と向き合い、12月26日の謁見の際、亡命先のマルセイユから戻ったばかりのローターン神父と話し合っている。ローターン神父は最初は渋々ながらも、教皇がクルチ神父の計画を支持することを表明すると、勇気と決意をもってこれを受け入れた。とはいえ、このような「一般の人々のための雑誌」の計画がこれほど短期間の間に実現し、成功を収めたのは、やはりクルチ神父の積極性と、彼の活発で情熱的な性格やその有能さのおかげであろう。また、そもそもこのような新しい方法でカトリック文化を広めるという考え自体は、1848年にシチリアでの暴動が勃発した際にも穏健派自由主義の味方をしたタパレッリ神父によるものだったのだ。
クルチ神父の計画5は、非常に詳細で整然としていたが、もともとイエズス会の神父たちが考えていたような研究者のための論文集の出版ではなかった。なぜなら、「そのような雑誌は、科学者や聖職者といった一部の限られた読者層しか持たないため、イタリアではほとんど反響を呼ぶことはないであろう。......そのようなタイプの普遍的雑誌では、イタリアの事柄を本気で扱うことなどできないだろう」と考えていたからである。また計画では「大衆に影響を及ぼす」ようなビラの類を出版することも除外していた。なぜなら「それは我々に危険な評価を与え、政治に介入させる危険性があり、また人々の感情を損なう恐れがある」からであった。 クルチ神父はそうではなく、その中間の道を選んだ。すなわち「ラテン語の論文集と日々のビラの中間として、月に2回、数百ページの雑誌を出版する」ことであり、「科学的なことに関して、科学者にだけ向けられたものと、大衆に対して実用的なことのみが著されたものの中間として、さまざまな内容を織り交ぜ、中間層に向けたものを出版する」ことであり、「ヨーロッパ規模のジャーナルを編集することと、ローマやトスカーナに関するビラをつくることの中間として、イタリアのジャーナルを出版する」ということであった6

「ラ・チビルタ・カットリカ」の初期の数十年

 「ラ・チビルタ・カットリカ」の創刊は、1850年1月9日と定められた7。当時ナポリ近郊のポルティチに滞在していたピウス9世は、ローターン神父との私的謁見の際に、現行の誤りを排し、自由主義者や合理主義者たちの攻撃からカトリック教義や教皇庁を守るために、イタリア人イエズス会士によってイタリア語で書かれた「一般向けの刊行物」の出版を始めるよう命じた。イエズス会士たちは、すぐにこの教皇の命令を実行に移すことを決め、この大がかりでデリケートな企てに着手するかどうかという長年イエズス会内で続いていた論争に終止符が打たれたのである。
 ローターン神父は、はじめに提案がなされた際には、恐れとまではいわないものの、非常に慎重な姿勢を示していたが、ピウス9世の命令を受けると、「教皇が望んだこの試みの最も有力な保護者となり、いかなる反対者からも断固としてこれを守り抜いた8」という。新しい雑誌の初期の執筆者たちは、イエズス会の有能な学者たちによって構成されていた。それぞれ神学、哲学、文学の分野に区分され、みな気鋭の著作家としてすでに名を馳せていた人物であった。まず当時のイタリアのイエズス会の中で偉大な思想家であったルイージ・タパレッリ・ダゼーリオ神父とマッテオ・リベラトーレ神父の名前が挙げられる。タパレッリ神父は、『事実に基づく自然法の理論』の著者として知られ、1848年のパレルモの争乱を支持した人物であり、一方のリベラトーレ神父は、トマス神学の研究者で、『InstitutionesPhilosophiae(哲学提要)』の著者であった。この初期の「創設者」のメンバーの中には、小説や教訓的寓話の作者として有名なアントニオ・ブレッシャーニ神父や、実証科学の研究者であり、当時イタリアの主要な高校で採用されていたテキスト『物理化学原論』の著者であるジョヴァンニ・バッティスタ・ピアンチャーニ神父、さらにカルロ・ピッチリッロ神父、ジュゼッペ・オレリア神父、そして新しい雑誌の編集長となったカルロ・マリア・クルチ神父(ジョベルティに対して重要な護教的作品を書いた人物)がいた。なお、クルチ神父は最終的には、教皇庁とイデオロギーや政治思想において対立し、編集長の地位を失い、さらにはイエズス会からも去ることとなるのだが9
 いずれにせよ、まさにこのクルチ神父に、創刊された雑誌の次の戦いの責務がのしかかっていた。雑誌が教皇に忠実であり、かつすべての正統に創設された政権を尊重する方針をとる上では、絶対王政の擁護に与しないすべてのものに対して懐疑的な、ブルボン家やタヌッチ派に対抗しなければならなかったのだ10
 創刊号の論文で、クルチ神父は「現代のジャーナルとしての私たちの計画」と題し、新しいカトリックの刊行物として提案するこの新しい雑誌の目的を説明している。さらに創刊号には、タパレッリ神父の「教育に関する社会理論」と題した学問的な論文や、リベラトーレ神父の「イタリア革命の政治的合理主義」と題した興味深い論文も掲載されていた。一方、ブレッシャーニ神父は彼の小説『ヴェローナのユダヤ人』の第一章を掲載し、雑誌が広く普及することに貢献した。創刊号は4200部印刷されたが、すでに4月の段階で6000部に増刷され、数か月の間に、印刷部数は8000部以上にまで到達した。雑誌はイタリア各地で予想外の成功を収めた。これは極めて効果的な流通システムのおかげでもあった。
 クルチ神父の論文には、雑誌が実現しようとしていた計画について次のように書かれている。「脅威となる異端に歯止めをかけ、堕落した文明を正すための規範を守るため、我々の刊行物の中では社会に関する論文と、カトリックに関わる論文を並行して扱っていく。[...中略...]この2つのいわゆる教育的論文に加えて、現在進行している誤りに対する一般的論争や、上記のものの中で示された真実を、科学的ではないが優美な形で補強しようとするような娯楽的論文も加わるだろう。これが我々の刊行物の基盤であり、主な内容である11」。
 しかし、絶対主義政権下に出版されたために、この始まったばかりの試みにはすぐに影が差した。「ラ・チビルタ・カットリカ」は両シチリア王国の当局の検閲にかけられただけでなく、雑誌の普及を阻止すべく全力を注いでいたブルボン家の検閲にもさらされた。その結果、自由主義者やフリーメーソン、急進派といった一様に反教権主義を主張していた人々がこの試みを中傷する際に指摘していたように、雑誌は多くの人々から、絶対主義政権に奉仕するものであり、立憲主義と議会政治の敵であるとみなされる危険があったのだ。しかしながら、執筆者であるイエズス会士たち、とくにタパレッリ神父とクルチ神父は、死にゆく運命にあった王政の「支持者」とみなされることを望んではいなかった。
 そのことは、雑誌の計画書にも明確に表れている。この計画書を神父たちはひと月の間に、イタリア全土に約12万部も普及させたのである。これによって、「ラ・チビルタ・カットリカ」は専制的絶対主義とつながるつもりはなく、カトリックの観点から普遍的な文明に恩恵をもたらすものとなるために、教皇庁やカトリックの教義にのみ、その確固たる基盤を据えている、ということが明らかになった。この点に関して、先に述べた計画書には次のように書かれている。「皆さんご覧のように、これらの記事はイタリア全土に向けられたものです。たとえ今のところはどこか特定の町のことだとみなされていたとしても、我々はいつの日かこれが皆にとって自分たちの土地のものとみなされるようになることを願っています。この点において、我々の刊行物の出発点はローマ以外にはありえません。まさにイタリア、そして世界を豊かにした最初の文明の源であるローマ以外には。ローマ教皇の独立が保障されるようになれば、すぐにでもローマの地に移動することを目指しています」。
 政治的な点では、この計画は、すでにイエズス会の総長によって定められイエズス会のすべての刊行物に適応されていた姿勢を再確認するものであった。「『ラ・チビルタ・カットリカ』はカトリック、つまり普遍的であるために、いかなる政治政体に対しても、それが合法的に形成され、公正に行われるのであるならば、歩みを共にするものでなければならない」。
 しかしこの雑誌の計画は、両シチリア王国の「王政派」にとって好ましいものではなかった。王フェルディナンド2世はローターン神父をわざわざローマから呼び寄せ、苦言を呈している。彼は雑誌が、「無関心主義」であり、神の法、すなわち君主制を支持するものではないと責めた。実際、「王政派」にとって、「ある特定の政権に与することなく、単に権限の原理を認める12」だけでは保護の対象とならなかったのである。雑誌が思想と表現の自由を保ちながら、ブルボン家の独裁体制のくびきのもとに服従することができないことは明らかであり、またブルボン家(当時イタリアではひどく嫌われていた)からの検閲を受けている限り、自由主義者たちに信じられるものとはならないことも明らかであった。「ラ・チビルタ・カットリカ」と王権側との間での度重なる衝突ののち、リベラトーレ神父からの強い要請を受けて、ようやく総長は1850年9月21日に雑誌の編集者たちにナポリを離れ、ローマに行くよう命じ、以後ローマが雑誌の拠点となる。編集委員は、クイリナーレの修練生たちの住居(ただし運営はサン・ロムアルド教会に置かれた)に移動し、中庭には印刷所も設置された。1850年11月1日にはローマで初めての「ラ・チビルタ・カットリカ」が出版された。このローマへの移動は、編集委員全員から手放しで歓迎されたわけではないとはいえ、雑誌にとっては大いに役立った。しかしながら、望んでいたような自由を完全に得たわけでもなかった。ブルボン家による検閲に代わって、すぐに教皇の検閲がなされるようになったのだ。しかし教皇が支持する原則を、雑誌は普遍的で絶対的なものとしては受け入れられなかった。
 雑誌はナポリ時代からすでに非常に効率的で近代的な流通システムを採用していた。それは「マネージャー」(イエズス会士であることが多かった)と呼ばれる信頼できる責任者を筆頭にした、普及のための地方のネットワークを基盤としたものである。マネージャーたちは、現地に張り巡らされた流通経路を組織することを任された。注目したいのは、まだイタリアが小さな国家に分断されていた当時は、雑誌を短期間で各地に届けることが非常に難しかったということである。なぜなら多くの税関を通らなければならず、その度に検閲やコントロールの対象となったからだ。しかしこのシステムは、すぐに完璧に機能するようになり、数か月のうちに雑誌は8000部以上を印刷するまでになった。これはこの当時においては記録的な部数である。雑誌はこうして「実際に」統一されたイタリアの利点(これは当時自由主義者たちによって主張されていた)を証明したのだ。とはいえ、「この雑誌はイデオロギー的には、教皇の世俗権を守るためにそれを非難しなければならなかったのだが」13
イエズス会士たちは、イタリアという国が政治的に存在する前から「イタリアの」という言葉を用いて自身の雑誌を表していた。第一シリーズの間(1850‒1853)、「ラ・チビルタ・カットリカ」の表紙には常に「イタリア全土に向けた雑誌として」というキャプションが付けられていた。「スーサからマルタまで、ニースからトリエステに至るまで各地でその土地のものとみなされるように14」と。その点でこの雑誌はまさに事実上統一運動の先駆者であった。統一を批判する論文をあげながらも、実際にはそれをすでに実現していたのだ。

1866年の小勅書Gravissimi supremi

 「ラ・チビルタ・カットリカ」の第二シリーズは1853年から始まる15。その計画書は16万部以上印刷され、イタリア全土だけでなく、それ以外の地にも広まった。この計画のもと、雑誌はトマス・アクィナスの神学を復興させ、それを知的活動の基盤に置くことを目指した。「我々の先達たち、とくに聖トマスがそうしたように、トマス神学を復興させ、現実に適用させる16」ことが目指されたのだ。計画を勇敢に進めていった執筆者には高名なトマス神学者のリベラトーレ神父やタパレッリ神父、カルヴェッティ神父などが名を連ねている。彼らは、現在の無神論的合理主義に対抗する手段として、同じく合理的な方法でありながらも、神を中心に据える方法を考えた。「ラ・チビルタ・カットリカ」のトマス神学への転換は、レオ13世が1879年に回勅AeterniPatrisによって始めることとなるものを先取りし、またそれを準備するものであったといえる。
 雑誌はローマでも、政治的な問題に関しては、いかなる政体にも与することなく、「合法である限り(もしくは容認できるものである限り)すべてのものを尊重する」という原則を守り抜いた。タパレッリ神父は彼の兄弟マッシモにあてた手紙で、「ラ・チビルタ・カットリカ」のピエモンテ政権(サルデーニャ王国)に対する攻撃は、「議会制への敵意として解釈されるべきではなく、教会の不運の苦しみによるものだ17」と書いている。つまりピエモンテ政権が主張する反教権政治が原因であるというのだ。また1859年のフランス、サルデーニャ王国とオーストリアとの戦争の際には、雑誌は政治的問題に対して、教皇からの提案でもあった沈黙という手段を貫いた。実際、教皇は私的謁見の際にタパレッリ神父に、「戦時下に雑誌が危険な問題を避けることを望んでいることを表明し、現在の態度を貫くよう勧めている18」と記録されている。
 記録によると、ローマ時代、雑誌は通常編集長もしくはその代理人から、すでにページ数がふられた状態で教皇に送られていた。つまり雑誌に対して、「事前検閲」のようなものはなされていなかった。しかし、教会に役立つとみなされる政治、もしくは教義に関する題材は、教皇が雑誌で扱うよう何度も提案したり、要請することはあった。ピウス9世の要請で当時書かれた最も重要な論文の中には、「聖母マリアの無原罪の御宿り」の教義を擁護するものや、第1バチカン公会議のための論文が挙げられる。後者では初めて「教皇不可謬性」に関しての論考が扱われており、これが公会議参加者たちの議論によってではなく、無投票による全員一致によって承認されるべきであることが示された19
 当初から雑誌の編集者としてすでに特定のメンバーが存在してはいたものの、「ラ・チビルタ・カットリカ」の「執筆者たちの組織」はすぐには形成されなかった。クルチ神父のボローニャ亡命時、カルヴェッティ神父を中心として、執筆者たちによる独立した組織を(イエズス会総長を介して)教皇のもとに創設する許可が、教皇から与えられた。この新しい組織の基本方針は、クルチ神父自身によって定められていた。彼はカルヴェッティ神父に「教皇聖下が使徒座の権威によって、教皇の意のままに教会のために奉仕するイエズス会の執筆者たちの家を、イエズス会の総長の指揮のもとに創設することができるよう」提案していた。
 ピウス9世の1866年2月12日の小勅書Gravissimumsupremiによって、執筆者たちの宿舎が、上述のクルチ神父の提案を全面的に受け入れる形で創設された。勅書には「この勅書をもって、使徒座の権限により、イエズス会の刊行物『ラ・チビルタ・カットリカ』の執筆者たちが永久に住むことができる施設を、イエズス会の他の宿舎において有効な規則と権利に従い、そしてイエズス会総長に全面的に従う条項のもとに創設する。この組織の規則は、イエズス会総長から本刊行物にあてられたものと同様であり、カトリック教会や教皇庁を擁護するためのものを出版することに全力を尽くすことである20」とある。
 1870年のピエモンテ政権(イタリア王国)によるローマ占領と、それに伴う教皇の世俗権の放棄は、教皇に大きな打撃を与えた。「ラ・チビルタ・カットリカ」の神父たちも、この事件の蚊帳の外にいることはできなかった。この「既成事実」に対する抗議として、リベラトーレ神父は、「これは神の法に反し、武力によってのみ支えられており、いかなる場合においても受け入れることはできない」と述べ、1870年にローマからフィレンツェに居を移すことを決めている。彼にとってフィレンツェは反教権主義の伝統を持つとはいえ、「我々が活動を続ける上でより適した町」だったのだ。しかし、神父たちはフィレンツェに滞在した17年の間に、実際には何度も急進派や無政府主義者たちの、「言葉に限らない」暴力を受けることとなった。「ラ・チビルタ・カットリカ」のフィレンツェ時代は、最終的に教皇レオ13世がローマに編集組織を戻すことになる1887年まで続いた。
 その間に、雑誌の運営側では、まさしく世代交代が起きた。昔からの管理者の中で残ったのは、新教皇の回勅Rerumnovarumの起草のために尽力した、いまや老年のリベラトーレ神父と、オレリア神父だけであった。残りの執筆者たちは、いわゆる「第2世代」といわれるグループに属すイエズス会士たちで構成されていた。すなわち、ヴァレンティーノ・ステッカネッラ神父、ジュゼッペ・ファントーニ神父、ジョヴァンニ・コルノルディ神父、ガエターノ・ゾッキ神父、ラッファエーレ・バッレリーニ神父、ベニアミノ・パロンバ神父、ジョヴァンニ・バッティスタ・フランコ神父、そしてフランチェスコ・ベラルディネッリ神父である。これらの神父たちはみな、レオ13世の長い治世の間、雑誌のために活動した。
 しかし、注目すべきは、第1世代と第2世代の間にある本質的な違いである。雑誌の創設者たち(クルチ神父、タパレッリ神父、リベラトーレ神父)は「使徒座と教皇の政治的関心に奉仕する手段である以前に21」思想家であった。彼らもまた教皇庁に従う義務を負ってはいたものの、「自主的活動」を行い、タパレッリ神父自身は見ることはかなわなかったものの、レオ13世によって認可されることとなる新スコラ哲学の隆盛の土壌を準備した。それに対して第2世代は、まさに「既成事実」に対するカトリック側の抗議の時代を生きた人々であった。彼らは、イタリア王国によって不当に権利を侵害されたと考える教皇庁や教皇の利益を守るため、反教権主義の政府や熱狂的ジャーナリストたちに対抗して戦わなければならなかったのだ。
 これは雑誌のスタイルやその政治的方向性に多大な影響を与えた。このころ、イタリアにおいて「ラ・チビルタ・カットリカ」は、ダヴィデ・アルベルタリオ神父の「ロッセルヴァトーレ・カットリコ」(訳者注:1864年から1907年にかけて発行されたカトリックによる新聞)や、ジャコモ・マルゴッティ神父の「ルニタ・カットリカ」(訳者注:1863年に発行された同じくカトリックによる新聞)とともに、政治のみならずイデオロギーの面でも妥協を許さない砦として、教皇の侵害された権利を過度に擁護しようとする守護者となっていた。この方向性は、特にフィレンツェ時代から顕著になった。さらにその傾向はローマでも続き、ピウス10世の治世が始まるまで、政治的選択においても、カトリック教会の制度の面でも、「ラ・チビルタ・カットリカ」の政策を方向付けたのだ教皇と「ラ・チビルタ・カットリカ」の執筆者たちが政治的立場において完全に意見を一つにし、教皇の世俗権を守ろうとする動きは、短期間ではあるもののピウス9世の後に続いたレオ13世の時代に一時的に欠けることになる。レオ13世は新しい対話の路線を築き、イタリア王国に対して慎重に歩み寄る方向性を示したのだ。1887年に彼は、誤解や対立が生じることを避けるため、先に述べた通り、雑誌の拠点をフィレンツェからローマに移すよう命じた。これによって、雑誌をより直接的にコントロール下に置くためであった。このことは、当時「ラ・チビルタ・カットリカ」と教皇の間で完全に意見が一致していたわけではなかったことを示している。なお、この後両者の協調はすぐに顕著となり、以後イエズス会士の雑誌が、多くの人が指摘するように、教会公認の代弁者のようになっていく。いずれにせよ、雑誌は教皇の考えを示すだけでなく、いくつかのデリケートな問題に介入し、ある特定の議論をカトリックや世俗の人々がどう受け止めるかを吟味するための手段となっていった。
 レオ13世は1890年の小勅令Sapienticonsilioにて、1866年のピウス9世の小勅令を認可し、「ラ・チビルタ・カットリカ」の執筆者たちに、「最初に彼らの間で協議し選んださまざまなテーマ(文学、歴史、科学)を扱い、カトリックの教義や自由学芸の発展に貢献するものは何一つその領域から除外しないよう」命じている。加えて「しかし、彼らの真の任務とは、ローマ教皇の権利を守ることであり、哲学や神学に専念し、そして両分野で聖トマス・アクィナスを指標とすることで、カトリックの教義を守ることである22」と述べている。「ラ・チビルタ・カットリカ」の創設時からの規則では、組織的、実務的規範に加えて、厳格に各執筆者、並びに雑誌全体が着想を得るべき哲学や神学の基準も定められていた。これは「ラ・チビルタ・カットリカ」が熱心に、そして無理なくしてきたことであった。神父たちは、この理論を「人類の永遠の哲学」とみなしていた。すなわち、自然知識の普遍的な形であり、すべての人々、すべての文化的・社会的コンテクストにおいて有効であると考えていた。そしてそれは第2バチカン公会議まで維持されたのだ。
 今や100年以上にわたって続いてきた「ラ・チビルタ・カットリカ」の歴史にとって、決定的な転換点は、教皇ヨハネス23世の召集した第2バチカン公会議の際に生じた。これによって、雑誌が生まれ、発展してきた際の教義や文化、イデオロギーの古い枠組みが一変したのだ。この変化ののち、雑誌は以前とは同じものではなくなった。
 ヨハネス23世と若き編集長ロベルト・トゥッチ神父(のちにヨハネ・パウロ2世によって枢機卿に任命される)との最初の謁見の際(1960年2月2日)、彼は温和だがはっきりとした様子で、これ以降、雑誌はこれまでのように教皇による検査を受けるのではなく、彼がその忠誠心と能力を高く評価している教皇庁国務長官、ドメニコ・タルディーニ枢機卿の検査を受けるよう提案した。「愛すべき息子よ、あなた方が書くものは私にはあまりに難しすぎるので、すべてを理解できないのです!タルディーニ枢機卿と話し合ってください。彼は頭が良いので!23」と教皇は編集長に冗談を交えて声をかけたという。さらに編集長に、もし枢機卿の考えが教皇の考えと異なる場合は、枢機卿の考えに従うようにと付け加えた。この時、トゥッチ神父は、教皇との直接謁見の機会に時折、雑誌の進捗情報に関して報告することを約束している。
 このようにして、ピウス9世によってはじめられ、期間や方法はそれぞれ違うとはいえ、すべての教皇たちが頑なに守ってきた伝統が終わりを告げることになった。神父たちの中には、これが雑誌の権威の低下や新教皇の雑誌に対するある種の敵対心と感じる者もいた。しかし実際はそうではなかった。むしろヨハネス23世は、雑誌が第1バチカン公会議の時に行っていたように、新しい公会議(当時準備段階であったが)のための論文を(彼はこれを個人的に検討していた)作成するよう、そしてその様子を日々追いかけて記事にするよう要請した。
 続く教皇たちもパウルス6世から教皇フランシスコに至るまで、それぞれ方法は違えど、皆雑誌の活動を利用し、また「ラ・チビルタ・カットリカ」の編集委員に送られた多くの教皇のメッセージや手紙が物語っているように、現在の世界中での雑誌の文化活動を支え続けている。そう、それは今日まで続いているのだ。
[原田亜希子訳]

1 Memorie della Civiltà Cattolica. Primo quadriennio 1850-53, Roma, La Civiltà Cattolica, 1854, 35参照。
2 Acta Romana Societatis Iesu (ARSI), Prov. Rom. 1003, 1, 2. タパレッリ神父の報告は1847年1月11日付である。
3 手紙は以下の文献の中で紹介されている。P. Pirri, Carteggi del p. Luigi Taparelli d’Azeglio della Compagnia di Gesù, Torino, Bocca, 1932, 202-217.
4 De Rosa (ed.), Civiltà Cattolica. 1850-1945: Antologia, vol. I, San Giovanni Valdarno (Ar), Landi, 1971参照。
5 この資料は以下の文献の中で全文が紹介されている。A. Ferrua, «Il primo progetto della Civiltà Cattolica(novembre 1849)», in La Civiltà Cattolica, 1971, III, 258-267. G. Martina, «Curci, Carlo Maria», inDizionario bibliografico degli italiani, Roma, Istituto della Enciclopedia Italiana, 1985参照。
6 A. Ferrua, «Il primo progetto della Civiltà Cattolica (novembre 1849)», cit., 260.
7 「ラ・チビルタ・カットリカ」の初期の歴史に関しては、1853年から書かれ始めた日誌の中に詳細に記されている。またもう一つの重要な資料は、Memorie della Civiltà Cattolica. Primo quadriennio 1850-53, cit.である。
8 P. Pirri, «La Civiltà Cattolica nei suoi inizi e alle prime prove», in La Civiltà Cattolica, 1924, II, 23.
9 1854年から1856年7月まで続いたボローニャでの亡命生活の後、クルチ神父は雑誌の編集を再開した。しかし戻ってきた彼は、その激しい気性や、意見の相違から仲間たちとの不和が生じるようになった。そのため日誌によると、長い 間ローマ郊外のフェレンティーノに滞在していたようである。1864年以降、彼の雑誌への貢献は大幅に減少し(それ に関してピウス9世はピッチリッロ神父に苦言を呈している)、1866年には完全にその活動を辞めている。少しずつク ルチ神父は雑誌から離れていった。雑誌は彼自身が創設したものではあるが、教皇の世俗権限に関する彼の著作で は、彼はピウス9世の考えにも反するようになり、1870年代の「強硬カトリック路線」といわれる動きからは完全に距離 を置くようになる。このころ彼は教皇に「反抗する」カトリックのシンボルとなり、1877年に総長は彼をイエズス会から 解雇する(彼自身からの辞職扱い)。1884年にはすべての彼の著作が禁書目録に入れられ、同年、聖職停止処分と なった。1891年5月、彼は亡くなる数日前に再びイエズス会に復帰している。G. Mucci, La riforma della Chiesa nel pensiero di C. M. Curci (1809-1891). Contributo allo studio del riformismo italiano dell’Ottocento, Roma, Univ. Gregoriana, 1972; ID., Il primo direttore della «Civiltà Cattolica». Carlo Maria Curci tra la cultura dell’immobilismo e la cultura della storicità, Roma, La Civiltà Cattolica, 1986; ID., «Libertà carismatica e riforma della Chiesa: il caso Curci», in Rassegna di teologia 16 (1975), 136-154; G. Martina, «Curci, Carlo Maria», in Dizionario biografico degli italiani, cit., 417-422.
10 法学者で政治家であったベルナルド・タヌッチは、ブルボン家のナポリにて重要な職務を担っていた人物である。
11 C. M. Curci, «Il giornalismo moderno ed il nostro programma», in La Civiltà Cattolica, 1850,I, 1, 17.
12 P. Pirri, Carteggi del p. Luigi Taparelli D’Azeglio della Compagnia di Gesù, cit., 289.
13 G. Martina, «Curci, Carlo Maria», cit., 419.
14 Memorie della Civiltà Cattolica..., cit., 30.
15 「ラ・チビルタ・カットリカ」は1903年までに3つのシリーズに分かれている。各シリーズは12巻(3年の間に出版)から構成され、それぞれ初めに「計画書」が出されていた。
16 Memorie della Civiltà Cattolica..., cit., 52.
17 P. Pirri, Carteggi del p. Luigi Taparelli d’Azeglio della Compagnia di Gesù, cit., 316.
18 Ivi, 678.
19 G. Martina, La Chiesa nell’età dell’assolutismo, del liberalismo, del totalitarismo. Da Lutero ai nostrigiorni, Brescia, Morcelliana, 1974, 601.
20 Archivio della Civiltà Cattolica (ACC), Documenti papali, 33 E, 1, 1, 1.
21 G. De Rosa, La Civiltà Cattolica 1850-1945..., cit., 69.
22 ACC, Documenti papali, 33 E, 1, 2, 2.
23 B. Sorge, Uscire dal tempio. Intervista autobiografica, Genova, Marietti, 1989, 72.
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コロナによって開けた我々の世界認識方法

La pandemia ha aperto una
breccia nel nostro modo di pensare la realtà
Diego Fares S.I.
ディエゴ・ファレス神父

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昨年、突然現れた新型コロナウイルス。 全人類を等しく襲ったこの災いには、どんな意味があるのか。またこれによって我々にもたらされたものは何か。 我々に求められているものは何なのか。冷静な目で分析された哲学的考察です。
La Civiltà Cattolica 2020, III, 32-44

 ポスト・トゥルース(Post Truth)とは、『オックスフォード英語辞典』によると、「世論を形成する際、客観的な事実よりも、感情や個人的信条へのアピールの方がより影響力を持つ状況」であるという1。しかし、ポスト・トゥルースという問題はこうした定義につきるものではない。いわゆる“客観的事実”というのは、記録し定量化され得るものを意味している。今日私たちが目にしているのは、ある主張ないし事実を大勢が認めるかどうかというような事柄をリアルタイムに算定することにより、こうして“定量化された感情”が、認められたあるいは認められなかったものに対する好悪の“投票”や“大衆のイメージ”として、何かしらの“現実”になってしまう状況だ。
 新型コロナウイルスが急速に広まったことは、このウイルスについての“客観的な”数値──感染者は何人か、さまざまな推移モデルに基づき想定される感染者数はどれほどか、など──の算定を非常に複雑な問題としている。しかし、ウイルスの現実的な脅威は、複雑かつ仮説の限りにおいてではあるが、“意見”に対する科学的なデータの真価を確立している。
 つまり近年、「フェイク・ニュース」の毒性は「現実が崩れる」ことを私たちに通告したが、私たちが今体験しているのは、新型コロナウイルスの死に直結する毒性は「ポスト・トゥルースもまた崩れる」ことを知らしめようとしていることだ。もしいわゆる“客観的な”現実がデマ情報の衝撃により崩れたのであれば、今やすべてが崩れていることになる。すなわち、感染症と死のために生命という現実が崩れ、“科学的な”報道は、私たちがこれを評価し客観視できないために崩れ、そしてデマ情報は、その効力が長続きしないのだから、ウイルスを無毒化する方法を見つけない限り、崩れるのである。
 私たちに課せられた「ソーシャル・ディスタンス」は、今後も続けざるを得ないだろう。それは単に他者との間に物理的に距離を置いたことで生じた断絶であるだけでなく、あらゆることに対して生じる断絶である。私たちがなすべきは、引き返すことであり、私たちがつくり上げたこと、私たちがなし述べたことを批判的に反省することである。

現実は崩れた

 『真実の終わり2』、これはニューヨーク・タイムズ紙の記者だった、ミチコ・カクタニの著書の題名だ。2年前に出版されたこの本で彼女は、ホルヘ・ルイス・ボルヘスを引用し、トランプ時代における権力掌握のツールとしての情報操作について、鮮やかに仮借ない分析を行った。そして、自身の主張を論証するにあたり、ボルヘスの短編、「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」を用いている。「ほとんど間をおかずに、現実がいくつかの点で譲歩をした。実際には、この譲歩を願っていたのだ。十年前は、秩序をよそおった調和的なもの──弁証的唯物論、反ユダヤ主義、ナチズム──が人びとを魅了することができた。トレーンに、秩序ある天体の極小かつ極大の存在に、どうして呪縛されずにいられるだろうか?3」(訳者注/J.L.ボルヘス『伝奇集』鼓直訳、岩波書店、1993年、38-39頁)ボルヘスのこの短編では、天文学者、生物学者、技術者、哲学者、詩人、化学者、倫理学者、画家、幾何学者から構成される秘密結社が、トレーンと呼ばれる一つの惑星をつくり上げた。結社のメンバーはともに、トレーンの地理、建造物、思想の諸体系などを磨き上げていった。このように魅力的な方法により、トレーンは少しずつ現実以上に現実的なものとなっていった。不思議な百科事典に収録されたトレーンでの生活についての物語は、その内的な一貫性により、ジャン・ボードリヤールが言うところの尽きることのない「現実の砂漠」よりも4、優れた意味を世界に与えることを望む人々を満足させた。そして、少しずつトレーンの「秩序」が現実世界に取って代わり、人々の生活を占拠していった。

人間のいない場所

 徐々に後退していきトレーンに取って代わられる現実、というイメージには不安にさせられるものがある。
 はじめに私たちは、人々の感情や個人的な信念を前にした際の“客観的な”現実の後退に注目しよう。アメリカの元下院議長、ニュート・ギングリッチがトランプ大統領の顧問であった時のある発言が好例だろう5
 「2016年の共和党大会でCNNのキャスター、アリサイン・キャメロタがニュート・ギングリッチに対し、移民排斥主義的な法と秩序を強調したトランプによる敵意のこもったスピーチについてインタビューを行った。米国が暴力と犯罪に悩まされているという描写が不正確だという指摘に、元下院議長は激しく反論した。『あなたの見方はわかる』とギングリッチは言った。『リベラルたちは完備された統計値を手にしている。それは理論的には正しいかもしれないが、人間の感覚と合わないというのが今の印象だ。人々は怯えているのだ。彼らは自分の政府に置き去りにされたと感じている』。犯罪統計はリベラルからの数字ではなく、FBIから得られたものだとキャメロタは述べた。ギングリッチはこう返した。『確かに。でも私が言ったことも同じく正しい。人々は実感しているのだ』6」。(訳者注/ミチコ・カクタニ『真実の終わり』岡崎玲子訳、集英社、2019年、52頁より、一部を改変。)

 肝心なのは、この種の考え方への道を開いたのが真実についての深刻な混乱であるのか、あるいは別の何かであるのかということだ。つまり、次のように問うことができるだろう。FBIのデータよりも「人々の感情」を真実とする時、いわゆる「ポピュリスト」はどの点をついているのだろうか。
 まず、FBIについての映画を見慣れた私たち皆にとって、信頼できるとされるFBIの統計資料に頼るのは、いくらかおめでたいことだと思われることは脇に置いておこう。むしろ私たちが着目するのは、キャスターのキャメロタが言おうとしていること、すなわち、私たちは“感情”ではなく“事実”に基づき合意するべきであるということだ。重要なのは、事実と感情の対置が議論の的になっていることだ。例えば頑強な意志は、現に何か統計的に測定可能なものへと変わるが故に、確かな“事実”である。物理的な事柄として、現実的であり確かであるのだ。世論は計測可能な対象として──リアルタイムで計測できるというだけでなく、かなりの信頼性をもって予測され得るのだから(それほど前のことではないが、特に総選挙においてこれは測ることができた)──政治的主体となったが、これは権力を行使する(あるいは勝ち得ることを望む)者と影響を与え合うのである。
 ここでこの現象について立ち止まるつもりはない。“事実”を“印象”あるいは“感情”と対置するだけでは今や十分ではない、ということを指摘すれば足りるだろう。犯罪件数や移民数、GDP成長率を計る諸統計へ、特定の政治家に確実に投票する人々についての統計が加わるのだ。そして、ギングリッチが主張するように、これらのすべてが「理論的には正しいかもしれない完備された一連の統計」となり、また、「人間の感覚に合わない」ために重要ではないものとして扱われるのである。
 こうした表現が示すものは明らかだ。「人間の感覚」が実際にある場が重要なのだ。つまり、人々のいる場所である。どのような道を取り、いかなる政治を支持し、誰を代表者として選ぶかを自由に“決定”するために人が置かれている場所を指している。
 “人間”という言葉が用いられていることは重要だ。実際、現実が“崩れる”ことになったのは、人がいる場所として匿名のデータは確かであるのか疑われたことによる。つまり人の希望や恐れを考慮しなければいけないのであり、言い換えれば、人が選択する時に置かれている場所を考慮し、人が尊重されていると感じ、数値を見るよう強いられないようにすることが重要なのだ。抽象的なデータが持つ匿名の力に対置されるのが、現実の人々が持つ感情だ。このことはすべての人に絶対の価値を、すなわち、自身の票が持つ確かさとそれを行使する自由により、どんな統計であっても物ともしない力を与えてくれるのである。

 こうしたことを「ポピュリズム」として非難し続ける人がいる。彼らは、ポピュリストを軽蔑し、ポピュリストは「人々を信じている」のではなくむしろ誘導しているのだと断言している。しかしながら、過度な単純化はおそらく適切ではない。というのも、いわゆる「ポピュリスト」はある程度において人々の心の琴線に触れている、と考えることもできるのだから。彼らは、「すべての者たちが誘導している/私たちは誘導している」ということを大勢に示し感じさせることを発見した、あるいはそれに成功したのである。そして彼らは、人々が良識により感じ、理解し、判断したことと直接に向き合い、また、そうした人々を“数値”や“概念”を知らない無知なる大衆とみなしはしないことを選んだ。ポピュリストが人々へ語るのは、「皆さま、私は皆さまが感じたことをくみ取る努力をし、皆さまが選んだことを尊重します」ということである。「私が示した数字を見てください、私の言い分を認めるべきでしょう」と言ってはいないのだ。

ポスト・トゥルースもまた崩れる

 新型コロナウイルスのパンデミックによって何が生じたのかについて考察しよう。今やポスト・トゥルースもまた崩れたのだ。ボルヘスの短編においてトレーンの空想の産物が現実世界に“現れた”ように、今では「現実の産物」──とりわけ新型コロナウイルスに伴う死者──がポスト・トゥルースの物語の中に「測り得る形で」現れているのを私たちは目にしている。何か支配的な物語を有していた(いる)者たちが、感染の顕著な増大を前にして、何度も速やかに物語を変える必要があることに気付いたことを私たちは知っている。
 注目すべき興味深い例が、ドナルド・トランプ大統領の言説の変化である。この現象は、アメリカのいくつかのメディアにより徐々に明らかにされている7。大統領の言葉は聴衆の耳に響いていたが、彼らの目は、パンデミックのデータとともにテロップが流れる、テレビ画面の下部に釘付けになっていた。そこで私たちが調べたところ、新型コロナウイルス検査で陽性者が初めて出た時、トランプは「関係あるのは中国から来た一人だけだ。事態は制御できている。完全に良くなるだろう」と述べた。1月22日のことであり、テロップは「感染者1名、死者0名」と伝えていた。受け取った情報が「別の局面」のものであり、生じていた事態が全く新しいものであったが故に、大統領が「私にいかなる責任もない」と言ったのは3月13日のことであり、テロップは「感染者2,200名、死者49名」を示していた。そして、トランプが「ずっと知っていた。これは本物の、パンデミックだ。非常に深刻だと私は聞いていた」と言ったのは3月17日のことであり、テロップは「感染者6,135名、死者111名」を示していた。

 既にこの時、一貫しない発言についてのCNNの記者による質問に答えてトランプは、自身の会見を一つ一つ分析した人は、彼の口ぶりが一貫して「国に平穏をもたらすためのもの」であることがわかるだろうと断言した。そして、人々を不安にしているのはCNNであり、彼自身がそうすることを望んだならばもっと不安にさせることもできただろう、と記者に語った。この会話は3月30日になされたが、テロップは「感染者16万8名、死者2,984名」を伝えていた。6日後には感染者は31万2,481名、死者は9,132名に達した。しかしながら、感染者が60万名を超え死者が2万6千名に達した時、大統領は攻撃へと立ち戻り、パンデミックについて警戒を促すのが遅かったとしてWHOへの拠出金の取り止めを告げた。この記事を執筆している現在では、感染者が2千6百万人以上、死者は12万7千名を超えた(初めの会見から、大統領は10万人が「莫大な数」だと言っていたのだが)。
 データは変動し続けるだろう。物語も同様に変化するが、その変動は予見され得る。それは二つの極の間を動き、トランプが定義するように、その“トーン”に関係している。彼の言説は、「人々を落ち着かせ」ようとするトーンと、「敵へ怒りを向け」ようとするトーンの間を動いているのだ。これこそポスト・トゥルースの言説が常に持つものであり、どのようにしてポスト・トゥルースが絶えず再強化され地歩を固めるのかを示している。

物語を占拠するための突破口と闘争

 ポスト・トゥルースの言説は人々の根源的な求め、すなわち「平穏である」ことへの欲求に訴える。こうした「平穏化」の仕組みの一つが、「スケープゴート」探しだ。しかしながら、パンデミックが拡大するにつれて、こうした言説では不十分となるどころか失望を、また多くの場合、まさに憤りを呼び起こすことになる。ワクチンと治療法が見つからない限り、誰も「平穏である」ことはできないのだ。また、「スケープゴート」はまず役に立たない。ウイルスは、私たちを知らないうちにウイルス自身の味方にしてしまう敵なのだ。新型コロナウイルスは私たちの免疫系に取り付くが、このことはウイルスについて決定的であろうとするいかなる言説によっても揺るがない。事実、パンデミックを抑えることができず「共生する」しかないという可能性が見えてくるや否や、データと検疫の管理への疑念が示され始めた。そして、アルゼンチンの人類学者、リタ・セガートが「新型コロナウイルスについての物語に適応するための闘争」と呼ぶものが先鋭化した8。多くの言説は、パレスチナ出身の知識人、エドワード・サイードが「語りの権利」と定義したものを獲得しようとしてなされる9。生じた事柄について、最終的な──あるいは支配的な──物語を語る力を誰が持っているかという闘争がなされているのだ。
 セガートは、提示されているいくつかの対照的な物語に言及している。ある人々にとり、起こったことが意味するのは、資本主義とエゴイズムにとっての終局である。他方、別の人々は、疫病は社会に見捨てられた人々への大虐殺となると断言している。また、中国が行った国民に対する権威的な統制の実験なのだと疑っている者もいる。またある者たちは、敵(感染者)に用心するよう教えるファシスト的な教育について語っている。こうした極端な意見と同時に、より興味深い別の意見もある。私たちが目にしているのは、地球における人類の優越への信頼が危機に陥っており、また、「地球が私たちを支配しているのであって、地球を私たちが支配するのではない」という、多くの文化圏において常に言われてきたことが生じている状況である。セガートは、多くの国家において「母性国家」という概念が生じていることを明らかにしている。統治するだけでなく、母のように、とりわけ脆弱な者たちを世話する国家である。この意味でパンデミックは世界的に主役の座を、女性的な立場に、女性特有のものに、すなわち、母のようにあり、世話をし、家族を創り出すことに明け渡したのだ。
 興味深いのは、あらゆる物語への突破口が開かれたが(「再武装化」のための闘争をリアルタイムで見ることができる)、まだ占有されていない領域には検討の余地があるということだ。
 パヴェル・ゼルカのような著述家は、問題の開かれた性質を強調し、「この物語の最終章はまだ書かれていない。それは、かくも明白な影響を伴う危機において、どのようなリーダーがウイルスに対して良い結果を得られるかに大きくかかっている。現在、ポーランド、フランスあるいは他の国家が疫病の解明に成功するかどうか、あるいは、EUが自身の有用性や不可欠であることを示せるかどうか、知る者はいない。どの観点から、どの政府が勝利するのかを知る者はいないのだ」「数か月のうちに人々は、ヨーロッパが彼らのためにほとんど何もできなかったのか、それとも多くのことをなしたのか知るだろう。おそらく、将来のパンデミックに備えることをヨーロッパに求めるか、あるいはヨーロッパをはねつけるだろう。苛立たしくあるが、あらゆる方向性があり得るように思われる10」と述べている。 ウイルスが制御されない限り、また、ワクチンと治療法がない限り──浮き沈みはあるにせよ──突破口は開かれたままだろう。まさに、科学的なデータに基づく真実にも、人々の認識に基づく真実にも突破口が開かれている。そして、政治組織や市場と同様に、家庭においてもこのことは感じられる。政治は、個別の利害のみならず公共性を考慮したうえで、決定しなければならないということを自覚している。科学的なデータにも、人々の精神状態にも注意を払っているのだ。最も知的な政治家は、自分自身の過ちや偏った見方に気付き、速やかにそれを変える能力を示した者である。単なるイデオロギーによる構想は、たとえ拡散し、また変化するとしても、これらを両立させることはない。

 人々はこうしたことをすべて感じ取っている。新型コロナウイルスについての統計とともに生じているのは、数値に注意が向けられるが、これを解釈することが複雑な作業であり、かつそこに絶対的な価値を与えられないことが知られるということだ。反対に、数値を相対化することにより、感染者の増減、快癒した者が抗体を獲得し感染することはないかどうか確かに知ることはできないということ、そしてとりわけ致死率といった現実の問題に注目するようになる。死者は統計的操作の対象であるとしても、客観的な「事実のデータ」を構成している。少なくともある点において、「操作し得ない」現実は優位にあるのだ。

思考と突破口

 あらゆる物語はここで疑問符を付され、ウイルスという現実に対する頑強な“抵抗”を前にして、開かれた思考が必要であることがうかがえる。そもそもこの思考の開放は、私たちが“思考”と呼ぶものの本来の側面である。考えるということは、現実を把握し、それが何であり、どのように機能するのか判断するだけではない。私たちの知的活動を可能にするものこそ、まさしく“精神の”開放である。なぜならそれは自覚的であり、現実全般に向けられているからだ。

 こうした神秘は、私たちは意識において明示的な仕方でそれを客観視することなくそこに浸かって生きているのだが、二つの極の間の緊張のうちにある。つまり我々の個人的な視点(自覚的で自身の開放に責任を持つもの)と、すべての他者の視点(同様に自覚的で責任を持ち、それについて我々が尊重しあい、対話しなければいけないような展望と決定権を備えたもの)である。そしてこの緊張の真ん中に私たちが“現実”と呼ぶものが、私たちをも包摂しながら立ち現れ、展開するのだ。

個人の虫観と俯瞰する鳥観

 個人の虫観と俯瞰する鳥観の間の緊張は、あらゆる個人、国家、歴史において、さまざまな強さと程度を伴って生じる現象である。現在私たちが直面している新たな現象は、虫観と鳥観が全世界において傾向としては似た形で生じている。例えば、新型コロナウイルスによる死者と感染者の数は、すべてのメディアが言及する基本的なデータである。このような状況でなければそれを聞くことを望む者とそうでない者とがいるようなニュースがあるが、現在、私たちは皆、パンデミックに立ち向かう助けとなり得る考えを、それが誰によるものだろうと聞くことを望んでいる。そして、実際には役に立たないもの、また、私たちが陥っている社会、健康、労働、経済、政治、文化、宗教における危機から私たちを救い上げてくれないものに満足することはない。驚くべきは、パンデミックが「終結しつつある」という、また、ウイルスが「脅威を失いつつある」という兆候が現れるや否や、「この突破口を閉ざす」傾向がすぐに生じるということだ。従って、真実が複雑であることを深く心に刻むためには、そして、デマ情報の忌まわしい悪臭をはっきりと知るためには、今の開けた状態を利用する必要がある。一緒に考えようとする思索家たちを呼び集め、さまざまな独自の展望から共通の真実を探すのである。

共有される経験こそ私たちを対話者とする

 漠然とした不安と不確かさのうちにも、議論の余地のない知識として称賛できることもある。例えば、パンデミックについて私たちが持つ経験は意義深い。これまでなされたことがない規模で、現実に一つの経験を多くの人々が共有している。これは容赦なくやってきた。「グローバルに」広まる他の経験の場合は、その経験は即座に個別化され、文化、地域、時代、社会の独自の特徴を帯びてしまう。しかし、パンデミックにおいては反対のことが起きる。すなわち、この経験こそが個々のすべてに共通のものとなるのである。
 経験が共有されていることから、この経験が私たち皆を──我々が出会うすべての人を──「対話者」へと変える。すなわち、私たちがパンデミックについて話す際に各々が、他者の経験への敬意と関心のうちに、また自身の経験という権威のもとに、これを語るのである。とりわけ特別な主題となるのが、何を語り、なし、そして考えるにしても、私たちはソーシャル・ディスタンスを維持することを強いられているという経験だ。この距離は物理的なものだけではない。ある意味で、私たちは離れている。認め合うにせよ侮辱し合うにせよ、合意を固めるべく握手することも、また、殴り合うこともできない(あるいは以前のように、挑発的に相手の顔の前に近づき侮辱することも)。しかしその一方で、私たち皆が巻き込まれているこの問題の前では対等である対話者として、私たちは近づいてもいる。このために、人類を分断するあらゆる裂け目のうちでも、私たちがそこに避難し身を守ろうとしている心の淡い膜に開いているこの突破口は、なんとしてでも維持されるべきものなのだ。というのも、これこそが私たちを一つにしているのだから。何か共通するものへの開放こそが私たちを超越して存在し、それが私たちを一つにしているのだ。

主要な「敵」への理解における変化

 私たち皆が「妥当な対話者」であるということは、他の現象によっても明らかにされている。すなわち、敵への私たちの理解の仕方が変わったことだ。それは、次のように定式化し得る。
 「私は感染者になり得る。もしそうなったならば、まず確実に、私は近くにいる誰かに感染させるだろう」。こうした確信は、何か「外部」の、撲滅し、祓い清め、断罪できるものとしての、「敵」への理解を変えた。ウイルスは、宿主にとっては困ったことになるが、自身が生存し複製をつくるために健康な細胞を利用する特性を持っているため、感染拡大においては私たちの一人一人をウイルスの“味方”にしてしまうのである。ウイルスは私を傷つけるが、さらに他の者たちを害するためにウイルスが私を利用するのを私は避けなければならない。
 皆が解する真実は──これを理解しない者は社会的制裁を受けることになる──私たちの生活のあらゆる分野に関わる新しい現象をもたらし、それはソーシャル・ディスタンスの変化に示されている。
 咳によってウイルスがまき散らされる距離を定義することは、公共空間の在り方を全面的に変えた。交通、公共空間、大規模イベント(コンサートからミサあるいは聖地への巡礼まで)のすべてをだ。私たちがつくり出した都市、建築物、交通機関はこれまで私たちをますます近づけてきたが、今では、1メートル以上の距離を置く必要性が世界を麻痺させている。こうした距離を許容するべくつくられたものなど殆ど無いのだから、あらゆるものが不親切なものになってしまった。伝染するウイルスだけが、私たちのつくり上げたこの世界を単独で変えることが可能であり、そして、まさにそうしたのである。

突破口は奉仕としての考え方へと私たちを導いている

 自然と私たちの関係について、もう一つ新たなことが生じた。というのも、ウイルスが拡散し大規模に死者をもたらしているにもかかわらず、私たちは知識によりウイルスを“支配する”ことができないという状況につきあたっているのだ。私たちは、私たちの要求に対して比較的“従順な”ものとして自然をみなすことを常としてきたのであり、何らかの方法で自然の抵抗を「予見する」ことに、また、少なくとも私たちの関心に応じて、自然を操作することに成功してきた。世界的に私たちを脅かしている現実の自然を「支配できない」ということは、自分たちの利害優先という考え方から、現実に「奉仕しようとする」考え方へと私たちの思考を決定的に動かすことになる。現に、すべての国家がワクチンを用意しようとし、皆が同じ問題に直面してより良い措置を見つけ出そうとしている。他者に尽くすという考えも、普段は隠れている。特に生活に必要なものがすべて満たされ、ウイルスのように自然が命を脅かさず、私たちが自分たちの限界を感じることなく、自然を探求できる時には、表には出てこない。
 現実が統制下にある、あるいは、チェルノブイリにおいてそうだったように、ある特定の場所に限定された形でことが起こった場合、知るべき対象となるのは、「他者としての他者」ではなく自身の要求に即した他者である。だが、ウイルスのような致命的な脅威が生じ、そこから自分たちを守ることができない場合は、身を守るべく、そのままの他者を知り、それが何でありどのように機能するのかを知る欲求が先鋭化する。そして、このような「他者」としてあるものがすべてを規定する。つまり投資すべきお金や、必要な時間、払われるべき犠牲がどのくらいであるのかを規定するのだ。研究には「私たちの」条件が設定されることはない。そして、一部の者だけが利用できるために成果が考えられるようなこともない。一人の救済は皆の救済に関わっているからだ。

 他者に尽くそうとするこうした思考は、愛するものへの精神の働きとして自然と生じているが、通常、社会や経済の分野には容易に適合しない。というのも、後者においては、実際に見られるように、「物語を奪取する」欲求が優勢であるからだ。例えば、両親は自分たちの息子について、何が彼を幸せにするか、ありのままの形で知りたいと望む。彼らは、自分たちの欲求に適うものを息子に押し付けるのではなく、むしろ、選ぶのは息子自身であるようにして、愛情をもって自分たちの価値観を彼に教えることを望んでいる。もちろん、両親と息子との関係の中には欲求の対立が常に存在する。友情関係においても、他者に尽くそうとする思考のこうした特質をはっきりと見ることができる。
 愛は真実の尺度であり、愛以外の尺度を認めることはない。このことが時に強いるのは、真実は、苦痛に満ちているとしても、常に明らかにされるということだ。また時には反対に、神がそれを明らかにしようとしない限り、ある事柄が隠されたままであることもある。人間関係において、このことがあてはまる。しかし、自然との関係では、これまで述べてきたように、常にそうあるわけではない。差し迫った自分たちの都合に従い、ある時は自然のある面を完全に明らかにし、またある時はこれを隠しておこうと決めるのは、私たち人間である。だがウイルスについては、そうはいかない。すなわち、ウイルスの危険性が、私たちが感染して死んでしまわないよう、ウイルスとの付き合い方を見つけ出すべく、私たちのすべての知と力を結集させているのである。こうした「自然の法則」への敬意は、他の分野で私たちが守ることはないが、ここでは生死に関わる問題として私たちに課されている。
 「奉仕」とは広く対象を前にして、自身を捧げることを意味している。すなわち、相手がありのままの姿でいられるように、自身の精神的領域を相手に自由に使わせるのである。現象学的な働きとしては、主体が積極的に奉仕をなすのだが、これにより主体は相手にあるがままの状態でいさせるのである。現象の「ロゴス」を探し、それを支配したり、我々の物語を押し付けるのではなく、被創造物全体の中で相互に影響を与え合い、それぞれのありのままの姿を尊重する形で行われる補完的な作業なのだ。
[林皓一訳]

1 F. Occhetta, «Tempo di post-verità o di post-coscienza?», in La Civiltà Cattolica, 2017, II, 215-223.
2 M. Kakutani, La morte della verità. La menzogna nell’era di Trump, Milano, Solferino, 2018. ミチコ・カク タニは、日本人の父をもつアメリカ人記者であり、1983年から2017年にかけてニューヨーク・タイムズ紙の書評担当 者であった。1998年にピューリッツァー賞を受賞したように、現代文学への批評により名が知られている。彼女の最初 の著書である『真実の終わり』では、ここ数十年のうちにアメリカで(また、世界の大部分で)広まっていた考え方が主題 となっている。これが政治において、「政治的正しさ」の限度を超えるほどにより多くの支持者を獲得できるような人物に権力の座に至ることを約束したというのであった。
3 J. L. Borges, Tutte le opere, Milano, Mondadori, 1984, 640.
4 J. Baudrillard, Simulacri e impostura, Milano, Pgreco, 2008を参照。
5 T. O’Donnell, «Newt Gingrich raves that Trump is just like Theodore Roosevelt», in The Week, 13 aprile 2020を参照。
6 M. Kakutani, La morte della verità, cit., 68.
7 CNN, «¿Cómo ha cambiado el discurso de Trump frente al coronavirus?», 1 aprile 2020. 8 «Entrevista a la antropóloga Rita Segato en Brotes Verdes», 31 marzo 2020. 9 E. Said, «Permission to Narrate», in Journal of Palestine Studies, 13 1984, III 27-48.
10 P. Zerka, «La guerra por las narrativas que el Covid-19 ha desatado en el corazón de Europa», in El Confidencial, 23 marzo 2020.
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【世界の視点】新たな時代である令和の日本

Giovanni Sale S.I.
ジョヴァンニ・サーレ神父

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元号が変わってはや 3 年。すでに令和 3 年を迎えていますが、平成から令和に変わるときに日本は、バチカンではこのように注目されていました。 多少、事実と違う点はあるにせよ、当時の安倍政権への言及など、世界がどのように日本を見ていたかという 視点を知るには実に興味深い記事です。
La Civiltà Cattolica 2019, IV , 253-268

新たな元号の日本

 2019 年の 4 月 30 日と 5 月 1 日は日本の現代史の一コマとなるだろう。この 2 日間は、明仁天皇の退位(2 世紀ぶりの出来事である)とその子徳仁の「菊の玉座」 への登位、また、新たな「元号」の始まりによって記憶されるのである。この新元号により伝統的な紀年が新たに始まった(元年から始まる)。
 厳粛だが簡素な退位礼は、4月30日17時(現地時間)に東京の皇居、松の間で行われ、わずか10分のことであった。天皇──日本語で「天の君」を意味する──は、300人の出席者とテレビ放送を前にして、国民に向けて短いメッセ—ジを述べた。長年にわたり国の象徴として受け入れ支えてくれたことに感謝し、日本においても、また全世界でも「明日から始まる新しい時代が平和で実り多くあること」への期待を示した1
 翌午前、伝統的な衣装をまとった天皇は、「三種の神器」の前で礼をすると、定められた祭礼を行った。「三種の神器」というのは、神道において王権の象徴となる剣、宝玉、鏡である。これらは聖所に聖遺物として保管されており、公的な大祭においてのみ──原則としては、天皇にのみ託され明らかにされるが──取り出される2。神器は今では新たな天皇である徳仁の天皇たる象徴である。新天皇は簡素ではあるが胸を打つような儀式により皇位に就いた。
 実際は、このいわゆる「譲位」(皇位の継承のこと)は非常に長い一連の典礼が定められているが3、10月22日に、数多くの外国の元首の列席の下でなされた壮麗な「大嘗祭」、すなわち即位式により締めくくられた。
 明仁の治世は30年にわたった。この長い軌跡において、日本は並みならぬ変化を体験した。目覚ましい経済成長を経験したのである(日本の資源は乏しいのにもかかわらず)。それは世界でもっとも豊かで進んだ国の一つとなるほどであった。2008年の世界的な危機の後、日本の経済は停滞したものの、最近では特に科学技術の分野を中心に国内総生産においてはまずまずの回復の時期を迎えている。
 明仁は1989年に即位した。近隣諸国(中国、韓国、インドシナ、フィリピンなど)への侵略戦争と軍国主義の天皇であった父、裕仁の死後のことであり、「平成」(「遍く平和」の意)時代が始まった。裕仁は、太陽の女神であるアマテラスの子孫であると信じられていたように、公的には現人神として知られた最後の天皇である。実際、当時の日本を麻痺させ連合国に対する戦争を止めさせた広島、長崎での「核による大虐殺」の後、第二次世界大戦が終結し、天皇は、アメリカの将軍ダグラス・マッカーサーの圧力の下、勝者により戦争犯罪で告発されない保障のかわりに、神道の伝統が天皇に帰してきた現人神であることを止めた。こうして彼は、皇位を保ち、国全体を打ちのめすことになったであろう断罪の辱めを避けることに成功したのであった。勝者により定められた1947年の新たな憲法は、天皇の世俗化を試みながらも、「国と国民の統合の象徴」とすることで天皇の重要性を認めた。そして、表象の次元においてであるとしても、政治的権力を剝奪された天皇と日本国民との間に、再び栄光ある過去の名の下での不可分の統合がつくり上げられたのである。
 退位した明仁は、85歳であり、日本国民に大いに愛されている。というのも、(通常人々の前に姿を現すことのなかった)それまでの天皇たちとは異なり、彼は皇后とともに、人々に会い、外交儀礼にとどまらず旅することを望んだのだ。さまざまな機会において彼は、近隣諸国に対して19世紀の日本がなした侵略政策の非を認め、確かな平和への意志を示してきた。その在位期間のうちに明仁は全国47都道府県を訪れたが、頻発する自然災害が起きた時に駆け付けるのが常であった。美智子皇后とともに、福島の被災者の側で地面にうずくまる天皇の写真は、世界中を駆けめぐり、概してこうした態度に敏感な日本人へ非常に強い印象を与えた4。現在、調査によれば、人々は天皇の役割に政治的重要性を認めようとしているという。
 明仁の退位は2016年の立法により備えられ統制されてきたが、天皇は「義務である儀礼を果たすべく、遠く触れ難い領域に」留まるべきだと考える5、古い国家の栄光への懐古主義者と、反対に、明仁が受け入れた新たな現代的な「天皇のあり方」を尊重し、天皇を神格化する伝統の継続を批判する者たちとの間に論争を呼び起こした。後者が伝統を批判するのは、実際にはそれが、近年の調査が示すような、日本人が高く評価する政治的・社会的責務から天皇を遠ざけることになるからである。しかしながら今現在、実際に優位に立ち「菊の玉座」を管理するのは──現行の政府において多数派をなす──伝統主義者である。
 5月1日、前日に明仁が退位した皇居の同じ広間において、男性からのみ成る小さな一団を前にして(実は女性はこの儀礼に参加することを許されていない)、新たな天皇である59歳の徳仁は、即位のため神道の伝統により定められた──「三種の神器」と印璽の受け渡しのような──諸儀式を行った後、臣民に宣誓し、常に憲法に従ってふるまい、自身の務めを責任をもって果たすことを約束した。
 加えて、「上皇陛下のこれまでの歩み」を引き継ぐことを望み、「国民の幸せと世界の平和」を祈ると述べた6。つまり新たな天皇は、国際誌が強調したように、彼の父が始めた「歩み」を引き継ぐ意志を示したように思われる。この「歩み」は日本人の共感を勝ち取ったが、それは日本人だけの共感ではなかった。
 同日に新たな「元号」が始まったが7、「令和」(「秩序と調和」)という名は4月1日には現行の政府により既に発表されていた。この名前は、9人の専門家からなる委員会が選定した名前の中から行政府が選んだ。この語を構成する2つの字は、「秩序、法」(「令」)と「平和、調和」(「和」)を意味する。しかしながらこれは、これまでのように中国の古典からではなく、初めて日本の最古の詩歌集である
 『万葉集』から採られたものであった。この中で「令和」は、冬の終わりについて語り素晴らしい吉兆を告げている一首のうちに現れている8
 このような新たな「平和と調和」の秩序は、日本のキリスト教徒とカトリック信徒にも関わることである。この国においては少数派であるとしてもだ9。2019年11月23日より27日まで教皇フランシスコは日本を訪ね、この機会において、カトリック共同体のみならず、新天皇の徳仁と安倍晋三首相と会談する予定である。「日の出づる地」への教皇の訪問は二度目であり、1981年の聖ヨハネ・パウロ2世に続くものだ。フランシスコは彼が訪ねたのと同じ場所を訪問する予定である。すなわち東京と、殉難の都市である広島、長崎だ。
ここでおそらく、核兵器の断罪と平和へのメッセ—ジを世界へ告げるだろう。

経済回復と人口危機の間に立つ日本

 「元号」の切り替わりは日本にとって困難な時になされた。それは、内政における諸問題によるもの──経済成長の水準は(近年、鈍化しているにしても)政府にとり特段の不安の要因ではなかったとしても──であり、また、外政における難問によるものである。後者については、好戦的な北朝鮮とアメリカの間の(一時的な和解と合意の約束から一転して生じた)対立、そして、わずか数年のうちに日本を追い抜き──アメリカに次いで──世界第2位となった、世界経済における中国の台頭がその要因である。
 日本の首相、自由民主党の安倍晋三は10、2012年──日本を長い停滞から解放すべく、野心的な経済・金融政策を打ち出した11──より連続して政権の座にあり、2019年1月22日の国会での施政方針演説において、「新たな時代」を念頭におき、長年この国を苦しめてきた「国難」から脱するために、「新たな国創りの時」が来たと述べた12
 ここで安倍首相は、日本の社会と経済のアキレス腱である人口危機に言及している。日本は世界でもっとも老人人口が多く、出生率も最低レベルだ。もっとも、こうした数値は、モナコ公国やイタリア、ドイツといった西欧の最先進国も日本と共通している。日本の統計局によれば、2018年1月、人口は1億2,696万人であった。統計局の予想は、2040年には約1億1,000万人に減少し、時がたつとともにさらに減り、2053年には9,930万人に至るというものである。今や政治家にとりもっとも懸念されるのは、65歳以上の人口が占める割合である。現在は27.8%であり、推計によれば2040年には35%に達する13。こうしたことは、政治・社会のみならず経済構造においても深刻な影響をもたらすだろう。
 日本の政治家は現に生じている人口減少を認め、将来の減少を食い止めるべく、人口1億人を下回らないという目標を実際に設定した。こうした人口減少は、既に長年にわたって進行してきたが、ともかく日本経済に大きな打撃を与えるだろう。日本経済は、景気後退にあるわけではないが、世界第2位の経済力を誇った20世紀最後の数十年間には持っていた推進力を失ってしまった。
 確かなことは、現在、労働市場にある人口の大部分が、将来には手厚い社会福祉制度に頼るということだ(現在は国内総生産の20%を超えており、さらに推計によれば、2035年には35%を上回るという)。だが、これと並行して納税者は減少の一途をたどるだろう。成長を支える労働力の減少をうけ、現在の政府は近年、新たな市場の開放を約束している。例えば、EUや太平洋の豊かな諸国との間の経済協定の締結である14
 人口減少により、現在の日本は外国人労働者を大いに必要としている。とりわけ非熟練労働者が対象だが、もちろんそれにとどまらない。現行の法律が移民を奨励していないとしても、日本の在留外国人は約300万人いて、外国人労働者はおよそ130万人であり、多くは中国から来ている15
 日本のような民族および文化が同質的な社会にとり、外国出身者の定着は必ずしも歓迎されることなくきたのであり、移民の存在は受け入れがたいものであるのだ。政府が外国人労働者を「還流」させようとしているように、日本人は彼らの受け入れに反対している。いずれにせよ、現状の経済成長の水準を保つために取り組むべき挑戦であるのだが。
 2015年、中東は戦争による混乱のうちにあり、(シリアにおけるように)数百万の人々が祖国を離れていたが、豊かな日本は27人にのみ難民資格を与え、翌年には600人の北朝鮮難民に難民資格を与えた。2018年には、1万493件の申請があったが、42件のみが受け入れられた。難民は仮滞在許可を得るまで──前もって1,000〜2,000ドルの保証金を払い──「在留管理局」(むしろ「拘禁管理局」だろう)に閉じ込められることになる16
 さらに留意されるべきは、移民の大部分が就くのが、通常、中流の日本人が従事することを望まない仕事であることだ。というのも、そうした仕事──いわゆる「3K」(「きつい、汚い、危険」)──は、つらく環境が悪く危険だと思われているからだ17。こうした仕事は一般に給与が低く、不規則な勤務時間となりがちである。国内の労働者不足は、当局に仮滞在の移民の拡充(従来は大きく制限されていた)を余儀なくさせた。いずれにせよ、日本の雇用情勢は世界でももっとも高い水準にある。失業率は3%を超えていないのである18。こうした状況を指して、経済学者は「完全雇用」水準と呼ぶ。しかしながらこれは、日本の労働市場が不均衡に苦しんでおらず、将来に何らかの限界を示さないことを意味しない。
 人口危機は他の分野にも、安倍首相が国家の現在と大国としての将来にとって最重要であると考えている分野にも影響を与えた。軍事である。実際に軍への入隊者は減少を続けている。ある学者たちによればこの原因は、政治と軍事についての不適切な規定にあるという。また別の学者たちによれば、「主要な原因は、閉塞した労働市場、大卒者にとり十分な雇用、そして民間部門でのより高い給与にある」という19。ここから導き出されるのは、将来、軍務へ若者を募ることは難しくなり、従って日本が東シナ海の尖閣/釣魚諸島のような、辺境の安全を確保することはますます困難となるということだ。
 若者が軍務を忌避することは(軍務はかつて社会の上層においても名誉ある職と考えられていたが)、政治の領域にも大きな影響を与えている。実際、現在の政府が、軍備強化を進めている方針には反対が示されているのだ。こうした傾向は、とりわけ新しい世代において顕著であり、民族主義と、日本の再軍備を強く制限してきた憲法9条の改正という──安倍首相が繰り返し表明してきた──政治目標を抑制させることに寄与している。
 職の安定と中流階級に保障された高給が、現在の政府が煽り立てようとしているであろう、ポピュリズムと民族主義に対する抑止力として機能している。スティーブン・ナギが言うには、「何らかの豊かさを享受している人々が、同様の生活の質にお墨付きを与えてきた憲法を変えることを望むとは思い難い」のである20

地政学における「俯瞰」

 新たな日本が抱えるいわゆる「国難」への対処は、地政学の分野においても重要な課題となるだろう。この点について安倍首相は、現代日本の外交の方向性を示すべく現状を分析する際に、「俯瞰」の比喩をしばしば用いている21
 日本政府が懸念する第一の問題はアメリカとの関係である。特別かつ──多くの人にとっては──代替不可能な関係だが、しかし、トランプ大統領と、外交政策と経済分野での彼による最近の決定は、大きな不安の種となっている。
 日本とアメリカの関係は、冷戦期より発展してきた。譲るところのない仇敵から(彼らを打ち負かすべく大戦末期には、遺憾にも、核兵器を用いたほどであった)、わずか数年のうちに(決定的であったのは1950年の朝鮮戦争勃発であった)、日本人はアメリカのもっとも信頼できる同盟者にして支援者となった。アメリカは、ロシアや中国の共産主義の拡大を抑え込むべく、かつての「枢軸国」、すなわちドイツ、イタリア、日本の再建と経済復興を支えたのであった22
 安倍の「俯瞰」は、経済の分野でも地政学でも、アメリカに錨をとどめるものであった。たとえ、ここ数十年にわたって、日本が帝国であった過去に郷愁を覚える民族主義者たちが、このような問題ある「追従」を批判してきたとしてもだ。いずれにせよ、いわゆる「リアリスト」は、東アジアにおける中国の進出と日本の後退を考慮すれば、アメリカとの特別な紐帯は不可欠であると考えている。
 実際、2017年夏の北朝鮮危機の「エスカレーション」は、平壌が取り入れた核兵器とミサイルの危険性を明らかにした。忘れてはならないが、北朝鮮政府が実現したミサイル発射実験は日本の領域をかすめたのだ。日本政府はかねてより、アメリカによる保護──日本は領土(沖縄)のうちに、対中国として機能するアメリカの重要な軍事基地を受け入れているが──は有効なのかどうか、そして日本とアジアの敵対勢力との軍事衝突が起こった時に「東京のために死者を出す」覚悟がワシントンにあるのかどうかを見極めようとしている。
 実際には、多くの保守政治家がこのことに疑念を抱いている。彼らは再軍備政策を推進し、1947年の憲法により定められた「強いられた平和主義」を放棄し、そして何らかの形で「アメリカの安全保障の傘23」を離れる、あるいは少なくともアメリカへの依存を減じようとしている。こうした方針はトランプの大統領就任に伴い、また、環太平洋連携協定からの離脱や保護貿易の発動による脅迫のような、彼の経済分野での政策によって、いっそう確かとなり説得力を増している。保護貿易の脅迫は、近年、多くの日本企業に関税を避けるべく生産拠点をアメリカへ移転することを強いたのであった24。だが、日本の「リーダー」がもっとも懸念するのは、北朝鮮の独裁者である金正恩に対して、トランプが政策を変更することである。この点について、ワシントンの諸機関では意見が分かれており、北朝鮮の核の脅威と共存する用意のある者、「限定的」だが効果のある攻撃により、日本(と韓国)を反撃にさらそうとも金正恩を罰することを望む者、そして、不測の結果を伴うが軍事行動により、「ならず者国家」から生じる脅威を消滅させようと思う者がいる。いずれの意見も、日本と周辺諸国にとって有害かつ悲惨なものである。結局、東京もソウルも「どのようなものであれワシントンと平壌の間での核を伴う衝突による犠牲者となる用意はない」のである25
 日本と韓国の関係については、両国は公式には友好国でありながら、過去の怨恨が再燃している。1905年から1945年まで、朝鮮の38度線以南の地域は日本軍により植民地とされていたのであり、この時、日本軍は隣接地域の大部分と中国の重要地域を支配していた。さらに東京とソウルの間には、竹島(韓国では独島)問題のように領土をめぐる緊張がある。両国の関係はイデオロギー対立により、また貿易問題により、ここ数か月のうちに大きく悪化した。最近では、日本が工業原料の輸出制限を定め、信頼できる貿易国から韓国を除外したところ、韓国による同様の措置を招いた26。同じく東京が鼻白んだのは、純粋にプロパガンダとして、2018年の平昌冬季五輪において北朝鮮と韓国の選手団が一緒に行進したことであった。日本はこれを、北朝鮮に友好的な韓国政府がなした敵対的な行為と捉えたのである。
 地政学の次元において、ある日本の学者たちによれば、この国の「戦略」は正反対の2つに分かれている。一方では「ジャパン・ファースト」の原則を支持する者がおり、他方では反対に、何かしらの「グローバル・ジャパン」を選ぶ者がいるのだ27。前者は、日本が島嶼部あるいは、限定的ながら、日本近海に関わる問題にのみ集中すべきであると考えている。この場合、アメリカとの同盟は安全保障においてきわめて重要であり、他の選択肢よりも好まれるものである。対して、いわゆる「グローバリスト」(あるいは帝国主義者)は──安倍を筆頭に──アメリカとの同盟を維持するが、しかし、ここ数十年のうちに東アジアと西太平洋が、超大国中国の(経済と軍事の分野における)覇権に飲み込まれてしまうことを阻止すべく、他の大国とも関係を結ぶことが適切であると考えている。この観点からは、とりわけインド、オーストラリア、インドネシアなどの国々が注目される。安倍によれば、日本とインドは、「緊密に結ばれたインド・太平洋に対する中国の影響力の増大により危険にさらされている、開かれた海路」での極めて重要な利害関係から結びつくことになるという28。だが最近、習近平による野心的な計画である「一帯一路」の建設にインドが支持を表明したことから、日印の協調には亀裂が入った。
 日本と中国の関係が両面性を持つことも思い起こされるべきだ。実際、中国は日本の最大の貿易相手である一方29、東アジア地域での経済支配をめぐって日本とあからさまに競争している。このことは日本の政府首脳には、政治と軍事における脅威でもあると感じられている。事実、中華人民共和国は毎年、驚くべき比率で(5%から7%)軍事費を増大させており、これは1億5,000万ドルにまで達したが、日本政府の安全保障への予算の3倍にあたる。
 日中の対立のもう一つの要因は、東シナ海にある(琉球列島の一部をなしている)尖閣/釣魚諸島をめぐる問題である。この諸島は日本が実効支配をしているが、中国が領有権を主張している。加えて、敵対勢力が日本の領域に接近するためにはこの諸島を通過しなければならないために、この地は日本にとって戦略的に重要である。また、この諸島の領海は、非常に広範であるが、天然ガスや石油といった重要資源が眠っているとされている30。2012年、日本政府と東京都は、この領域への北京の要求に対抗すべく、小さな群島をなす5島のうち3島を買い取った。これに対し中国は、問題の諸島を含むように領空を拡張する敵対的な声明を発した。両国の衝突を避けるべく、2015年9月、アメリカ政府は交渉の場を設けた。交渉は今も続いているが、容易に解決される問題ではないように思われる。というのも、この間に中国は、防衛を目的として直ちに人工島を建設したように、周辺領域の軍備を固めてきたのである。
 中国と韓国に加えて日本はロシアとも、クリル列島をめぐり領土問題を抱えている31。東京にとってこの領域は、国土の最北部を支配するために戦略的にもっとも重要だが、モスクワはこの地域が日本人により不当に占拠されているとみなしている。近年、二国間で続いている交渉では、ロシアにとりこの領域は戦略的に特段の価値がないこともあり、解決に至るように思われる。この問題についての安倍とプーチンの妥協は、両者にとって都合の良いものとなり得るかもしれない。想定される合意議定書では、日本が、ガスパイプラインの建設も含め、シベリア産天然ガスの新規供給を獲得し、ロシアは、有利な経済協定に加え、アメリカによるミサイル基地設置を阻止すべく、当該地域の非軍事化の約束を得ることになる。これはプーチンにとり、少なからぬ外交での勝利となるだろう。
 また忘れてはならないのが、日本が地政学の観点から慎重に進めてきた、いわゆる「資源外交」である。これは、日本政府が戦後にとってきた柱となる戦略の一つであり、サウジアラビアやイランのような産油国との外交関係を優先するものである。そこでは時に、アメリカの同盟国ではない、また、西洋の政治制度・イデオロギー体系を共有していない諸国家への接近が求められてきた。現在も東京によりこうした方針はとられており、「極めて重要なエネルギー資源へのアクセスを確保するためならば、相手国の政治的動向に目をつぶる用意が常にある」のだ32

日本政治におけるグローバリズムと軍事

 識者によれば安倍晋三のグローバリズムは、世界の大国に比した日本の「身の丈」を考慮しながらも、非常に野心的であるという。事実、日本の領土はイタリアよりわずかに広いだけだ(人口は2倍であるが)。大国と肩を並べるためには、現在の人口危機から生じる社会・経済の損害を抑えることが、また同時に、独自の防衛体制を増強することが必要だろう。後者について安倍首相は非常に心を砕いている。2017年10月の総選挙での勝利の後、与党である自由民主党は、1947年の憲法が定めた戦後の「平和主義」を乗り越え、東アジアにおける安全保障の分野での第一線に立つべく動いている。
 既に述べたように首相は憲法第9条を改正するつもりである。というのも、憲法第9条はあらゆる侵略の断罪と独立した軍の創設の放棄を明確に宣言しているのだ33。2015年、安倍は国会においてある措置の承認を得ることに成功した。これにより、憲法第9条の規定を再解釈し、日本の軍隊は──数は限定されてはいるが、技術の面では最先端にある──「集団的自衛」への参加を認められた。つまり、「友好国」を助けに来た日本が敵対勢力から攻撃された場合だけでなく、また、「友好国」が不当に攻撃ないし侵略を受け、国家の安全と自由に対する脅威が生じた際に、軍事力に訴えることが可能となったのだ。1992年の(湾岸戦争の後の)国会での決議は、国際連合平和維持活動における軍の派遣を政府に認めていたが、それは非常に厳格な規定の下であった34
 既に2017年の選挙の後に、安倍は憲法第9条の改正を国会に求めることができたが、民族主義の立場への世論の支持を得るために待つことを選んだ35。だが事態は、参議院の半数を改選する2019年7月20日の選挙により複雑なものとなった。首相が率いる与党連合は先に見たように依然として多数派であったが、結果は予想されていたものより悪く、今や、憲法改正の承認を容易に得る道は首相に閉ざされている36。だが、それにもかかわらず安倍は、再び日本国民は政治の安定を評価したとの声明を発表した。「私たちの政治の継続への信任を私たちはいただいたのであり、野党の皆様には、この民意を正面から受け止めていただきたい」と彼は述べたのである。しかし、最新の調査によれば、日本人はこの問題にあまり関心を持っていないという。むしろ、年金改革や、問題となっている消費税(Iva)増税のような、社会・経済についての問題に強い関心が集まっているようだ。
 新たな元首の即位と新たな「元号」の始まりは、2020年に東京で開催されるオリンピックと同様に、国際社会において日本が再び一流の大国として浮上する重要な契機である。
 民族主義者と保守主義者によれば、安倍首相は、「彼と緊密な関係にある神道ロビーも利用し、誇りと民族の一体性の回復」に向けて着実に日本を導いているという37。だが2019年の直近の選挙は、こうした政府の方針がかなりの数の日本人に望まれていないことを示した。いずれにせよ、首相と彼を支える連立与党は、ますます切迫している経済・社会の本質的な問題に関して国民を団結させようとするならば、このことをよく考えなければならないだろう。
[林皓一訳]

1 www.repubblica.it/esteri/2019/04/30/news/giappone_imperatore_akihito_al _via_riti_abdicazione-225143489
2 G. Santevecchi, «Il penultimo imperatore», in Corriere della Sera, 30 aprile 2019, 14を参照。
3 儀礼の一部は、国家の諸機関や、招かれた多くの元首や首相を前にしてなされた。こうした儀式に政府は2億ユーロの費用を計上した。
4 P. D’Emilia, «Il Giappone non sa più chi è», in L’Espresso, 26 aprile 2019, 58を参照。
5 «La rivoluzione giapponese», in Limes, n. 2, 2018, 11.
6 www.repubblica.it/esteri/2019/05/01/news/giappone_al_via_ascensione_trono_imperatore_naruhito-225210768/
7 日本の元号による紀年法ではグレゴリオ暦2018年が平成30年にあたり、また、2019年5月1日から、すなわち徳仁天皇の即位とともに令和元年に入る。
8 «L’era indecifrabile», in Internazionale, 5 aprile 2019, 33; G. Santevecchi, «Il Giappone entra nell’Era Reiwa.
Significa “ordine, armonia e pace”», in Corriere della Sera, 1 aprile 2019を参照。
9 日本のカトリック信徒は現在45万人であり、これは人口の0.5%にあたる。さらに言えば、この大半は外国からの移民である。
1919年においてわずか17万4000人であったことを考慮すれば、1世紀の間に著しく増加したと言えよう。G. Gardinale, «Il viaggio del Papa in Thailandia e Giappone», in www.avvenire.it/papa-francesco-inthailandia-e-giappone-in- novembre/; F. Gnagni, «Come sono i rapporti tra Vaticano e Giappone», in www.formiche.net/2017/10/quale- lo-stato-e-la-storia-dei-rapporti-tra-santa-sede-e-giappone
10 1954年生まれの安倍晋三は、一度ならず首相に選任されている。2006年(1年だけであったが)、続いて2012年、そしてもっと も新しいのは2018年の総選挙後の選任である。彼は自由民主党 (Ldp) でももっとも保守的かつ民族主義的な派閥の代表で あり、この派閥は神道の古い伝統を復興させ、日本を太平洋でもっとも強力な国家とすることを追及している。彼の主なる政治目 標には、戦後、戦勝国により定められた憲法(特に第9条)の改正がある。2017年10月22日の国政選挙における自民党の勝利 (議席の3分の2を得た)の後、北朝鮮との危機が喚起した恐怖の高まりを背景に、安倍は自由民主党の党首に再選された。日 本では首相は与党の党首であることから、彼は首相にも再任されたということである。さらに3年間務めることで、彼は日本でもっと も長く在任した政治指導者となる。www.ilpost.it/2018/shinzo-abe-liberal-democraticiを参照。
11 2012年の選挙での勝利の結果、首相となった安倍は「アベノミクス」といわれる政治・経済における野心的な政策を打ち出し た。通貨、税務、構造改革の分野に関わる施策から成り、このいわゆる「三本の矢」が長年の社会経済危機を後にして国家を再 建し得ると述べた。通貨政策では、首相の目標はインフレ率の年率2%を維持することであった。日本の負債は先進国の中で最 大であるが、その9割が国内におけるものであることから方法によっては制御が可能である。「三番目の矢」である構造改革はこ のところ大きな困難に直面しており難航している。政府は、経済成長を抑制しさまざまなレベルでの腐敗が進んでいる、巨大で複 雑な官僚機構の一部を取り除こうとしている(www.investireoggi.it/economia/abenomics-ovvero-la-disperata-lotta-per- la-sopravvivenza-del-giappone/; Atlante Geopolitico Treccani 2018, Roma, Istituto dell’Enciclopedia Italiana, 2018, 419を参照)。だがこれは達成には程遠い。このように鳴り物入りで唱えられた「アベノミクス」の効果は、2015年にいたっ てようやく垣間見られた。経済はわずかに1%の回復を示し、これが小数点以下の増加を伴い現在まで保たれている。思い起こさ れるべきであるのは、2008年の世界的な危機の前、日本の成長率の水準は5-6%の付近を推移していたことだ。現在、東京は 2020年のオリンピックへ大きな期待をよせている。専門家によれば、このオリンピックは外国からの多大な投資を集め、国内の消 費を増大させる機会となるという。
12 «La rivoluzione giapponese», cit., 12.
13 S. R. Nagy, «La crisi demografia e una nuova restaurazione Meiji», in Limes, n. 2, 2018, 73.
14 Ivi, 74.
15 «La rivoluzione giapponese», cit., 12を参照。
16 S. Mesimaki, «La disperazione dei migranti in Giappone», in Internazionale, 6 settembre 2019, 33を参照。
17 S. R. Nagy, «La crisi demografica e una nuova restaurazione Meiji», cit., 75.
18 E. González, «Se in Giappone sono in tre ad agitare il Martini», in la Repubblica, 10 giugno 2019を参照。
19 注目すべきは、日本では若年労働者の三分の一以下が正規雇用者であることだ。また、給与は長年にわたり上昇せず、しばしば 若者は不安定さと困惑を感じている。I. Ugboaja, «Missing Manpower», in Harvard International Review, 17 (2017), 4 を参照。さらに、いわゆる「消失者」(「孤独死」)、すなわち痕跡を残さず消えてしまう人々と、とりわけ若者の間で外部との関係を 絶つ人々(「引きこもり」)が増加している。多くの老人が、社会からも見捨てられ、自身の住居で一人亡くなるままにされている。P. D’Emilia, «Il Giappone non sa più chi è», cit., 59; A. McKirdy, «Prigione dentro», in Internazionale, 28 giugno 2018, 44を参照。
20 S. R. Nagy, «La crisi demografica e una nuova restaurazione Meiji», cit., 76.
21 «La rivoluzione giapponese», cit., 16を参照。
22 T. Marshall, Le 10 mappe che spiegano il mondo, Milano, Garzanti, 2017, 246を参照。
23 Ph. Orchard, «Japan, a Pacifist in Name Only», in Geopolitical Futures, 29 (2017), 12.
24 «La rivoluzione giapponese», cit., 16.
25 Ivi, 17.
26 ソウルは、東京との軍事情報共有協定からの脱退により脅しをかけた。これを実行したならば、「このステールメイトは、アメリカ −日本−韓国による抑止効果を消滅させただろう」(S. Maslow – P. O’Shea, «I rapporti difficili tra Tokyo e Seul», in Internazionale, 30 agosto 2019, 32).
27 M. Tsuruoka, «Japan First versus Global Japan», in The National Interest, 14 (2018), 1を参照。
28 «La rivoluzione giapponese», cit., 20を参照。
29 2017年の日本の主要な輸出国は、アメリカ(20%)、中国(18%)、韓国(7%)である。輸入において日本は、エネルギーのような 重要な分野の多くで外国に依存している。日本は世界第三位の石油消費国であり(中国とアメリカに次ぐ)、液化ガスと石炭の 消費では第一位だ。商品輸入の大部分は中国(25%)とアメリカ(11%)からのものである。T. Marshall, Le 10 mappe che spiegano il mondo, cit., 245を参照。
30 Ivi, 248.
31 A. Shimbum, «Japon-Russie: les Kouriles, les îles qui bloquent la paix», in Courrier international, 4 settembre 2019, 27を参照。
32 S. R. Nagy, «Il Giappone vuole tornare potenza dei mari», in Limes, n. 7, 2019, 156.
33 憲法第9条はこのように規定している。「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争 と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸 海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」(www.printfriendly.com/p/g/xajbhz).
34 Atlante Geopolitico Treccani 2018, cit., 426. 日本は公式には立憲君主制だが、そこでは天皇は文化的な象徴としての役割を果たすのみである。行政権は首相が指揮する政 府に委ねられている。二院制を採っており、国会は衆議院(「下院」)と参議院(「上院」)により構成されている。前者が優越してお り(事実、政府への信任投票はここでなされる)、465人の議員から成り、4年ごとに改選される。後者は242人の議員から成り、任期は6年だが3年ごとに半数が改選される。Ivi, 420を参照。
35 事実、保守政党の同盟は、憲法改正に必要な両院での三分の二以上の議席から現状では遠くにある。さらに、改正には国民投 票がなされなければならない。www.repubblica.it/esteri/2019/07/21/news/giappone_elezioni_abe-231713636/を参 照。連立する政党(公明党)とともに自民党は、上院の改選124議席のうち66議席を得た。
36 N. Puorto, «Abe punta al cielo con l’aiuto della lobby scintoista», in Limes, 12 marzo 2018, 82.
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教皇フランシスコのタイと日本の訪問

Il viaggio apostolico di
Francesco in Thailandia e Giappone
Antonio Spadaro S.I., direttore
アントニオ・スパダーロ 編集長

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2019年、教皇フランシスコが来日したことは記憶に新しいですが、そのときの彼の足跡を、「ラ・チビルタ・カットリカ」編集長のスパダーロ氏が詳細にたどってくれました。その時々の教皇の言葉を織り交ぜながら、 いまのローマ教皇庁の極東への思いを明らかにしています。
La Civiltà Cattolica 2019, IV, 467-483

 タイと日本の訪問は教皇フランシスコにとって32回目の、そして2019年では7回目の教皇の外遊である。彼が訪れた国は今や51か国に上り、そのうち2019年に訪れたのは11か国である。今回の旅は、2014年8月のアジアユースデーのために訪れた韓国、そして2015年1月のスリランカ、フィリピン、さらに2017年末のミャンマー、バングラデシュに次ぐ、アジア訪問であった。

共感、友愛、出会いの文化

 教皇を乗せた飛行機は11月19日の19時ごろローマ・フィウミチーノ空港を出発し、11時間半後、現地時刻の翌日の12時半に、タイの首都バンコクの空港に到着した。
 今回の教皇のタイ訪問は、2013年9月12日にローマで教皇フランシスコと前首相インラック・シナワトラが会談した際に提案された招待に応えるものである。この訪問が「キリストの弟子にして、宣教師たちの弟子たちへ」と称されたことは象徴的であった。というのも、教皇フランシスコのバンコク訪問は、シャム王国にパリ外国宣教会の宣教師たちが到来してから350年を記念するものであったからだ。そして現在その宣教活動の成果として、タイには約38万人のカトリック信者(6900万人の全人口のうちの0.58%)、12の司教区と436の教区が存在している。
 11月21日9時に、教皇は首相官邸へと向かった。イタリア式のその建物は、ヴェネツィア・ゴシック様式がビザンチン美術やタイの様式と調和した造りとなっている。教皇は首相プラユット・ジャンオーチャー氏に迎えられ、彼との会談ののち、政府高官や外交官と面会した。首相が教皇に挨拶した際、彼は世界における教皇の「指導者としての役割」に言及し、社会的平等、貧困、環境、平和といった世界的に重要なテーマを考える上で、教皇が「信仰や社会環境を超えて、すべての者のインスピレーションの源」であることを述べた。
 教皇は演説で、タイ王国が「先祖代々の精神的、文化的伝統を守る」国であり、「内部にさまざまな民族集団が存在する中、異なる文化、宗教、哲学、考えの間に調和と平和的共存を築き上げること」ができる国として敬意を表した。そしてそれは、世界規模に投影されていく。「現代はグローバル化の時代であり、経済的・財政的側面からのみ考えられることが多く、我々諸民族の美や精神を生み出している本質的な特徴を消してしまいがちです。そうではなく、違いに敬意を表して尊重する形での統一を実際に体験することこそが、世界を大切にしようとするすべての人々に刺激とインスピレーションを与えるのです」と述べている。
 教皇はその後「我々の時代の特徴の一つ」である移民に関しても言及した。そして最後に、今回の旅の中で他の場所でも述べたように、「あらゆるタイプの搾取や暴力にさらされ、傷つけられている我々の時代の女性や子供たち」を挙げ、「我々の子供たちの幸せを守る」ために行動することを奨励した。
 次に教皇は、1869年にラーマ5世によって建立され、タイの僧侶や彼らの指導者の歴史的住居であるワット・ラーチャボピットを訪れた。その内部は、タイの伝統建築と、王がヨーロッパ旅行で目にしたヨーロッパのゴシック建築とが見事に融合している。円形の中庭の中央に、高さ43メートルの金が施された仏塔があり、そこには仏舎利が安置されている。大僧正としてタイの仏教集団を指揮するソムデット・プラ・マハー・ムニウォン僧は、教皇に心のこもった挨拶をし、何よりも「教皇聖下の訪問は、タイ国民にとって新しい友の訪問ではなく、絆がさらに深まった友の訪問である」ことを強調した。
 それに応える形で、教皇はこの出会いを「我々の先祖たちによってはじめられた、相互に認め、尊重し合う歩み」の中に位置づけ、「違いの中にも、お互いを認め、尊重し合う機会に恵まれた時に、我々は分裂によって傷つけられている人々を勇気づけ、支える希望の言葉を世界に発することができるのです。学問の交流、そして我々の伝統に共通している瞑想、慈愛、良識の実践によって、我々は、共感、友愛、そして交流の文化を世界中に形成することに貢献するでしょう」と述べている。
 挨拶の後、教皇と大僧正との間の会談が公に行われ、互いに贈呈品が交わされた。注目したいのは、教皇から大僧正に2019年2月4日にアブダビにて署名された「人類の友愛のためのアブダビ宣言」のコピーが贈られたことである。そこには、「我々人類が兄弟となるよう、我々は一緒に力を尽くさなければいけません」というメッセージが添えられていた。
 その後、11時15分に教皇はセント・ルイス病院へと向かった。この病院は120年前に、当時シャムの教皇代理を務めていた大司教ルイス・ヴェイ神父によって、営利目的ではない私設の機関として設立されたものである。病院のホールには、医師や看護師、病院関係者のみならず、他の教会の福祉施設の関係者など約700人もの人が集まった。病院長の挨拶に応える形で、教皇は医療従事者たちに「隣人の聖なるすばらしさを見出せるような神秘的兄弟愛」へと心を開くよう促している。そして「治療のプロセスにも、人が経験しなければならないすべての状況において、尊厳を与え、援助するまなざしを取り戻すための塗油の秘跡の力が必要です」と述べている。その後、教皇は40人ほどの患者との面会を求めた。彼らの中には、他の福祉施設から来ている者もいた。
 午後、教皇は現在のタイ国王の正式な住居であるアンポーン宮殿にて、タイ国王ラーマ10世と私的に面会した。教皇と国王はすでに2019年5月4日に公式な謁見を行っていた1。教皇は国王とスティダー王妃に迎え入れられた。その後、教皇は17時30分ごろスパチャラサイ・スタジアムに向かい、そこで18時からミサを行った。ミサでの説教で、教皇は福音書を「弟子たちを揺り動かし、歩みへと向かわせようとする質問が織り込まれた」テキストとして紹介した。タイに到着した最初の宣教師たちは、福音の問いへの答えを求めてまさに歩みを始めたのである。タイの文化と、宣教師たちの出会いがなければ、「今日、タイのカトリックにはあなた方の特質がなかったことでしょう。この地に特有の笑顔に満ちた歌やダンスはなかったことでしょう」と教皇は続けている。
 説教の中で教皇は、宣教師たちは、宣教とは「我々が皆家族として、父なる神の慈愛に溢れた腕の中に抱きしめられるように扉を開けることである」ということを知っていたのであり、そのことをタイの教会は思い出す必要があると述べた。特にこれは、もっとも弱い者たち、「売春や売買にさらされている子供たちや女性たちといった、真の尊厳がゆがめられてしまっている人たちに対して言えることであり、夢を台無しにし、薬物に依存する若者や、家や家族を奪われた移民たち、そしてその他、自分たちが忘れられ、捨てられてしまったと感じているすべての人々を思います」と言葉をかけている。

適応と根源への本質的な道

 翌11月22日9時に教皇フランシスコは、タイの最初の殉教者である福者ニコラス・ブンカード・キトバムラング(NicolasBunkerdKitbamrung)の聖地を訪れた。福者ニコラスは1930年から1937年にかけて、タイ北部の、人が近づくことが困難な未開の地域での宣教活動を進めた人物である。そのために、彼はラオスやミャンマーと国境を接し、「山の民」の町として知られていたチェンライに居を構えた。
 福者ニコラスの聖地は2003年5月に完成された。現代建築の八角形の建物で、セント・ピーター教会の正面に位置する。教会では、司祭や、修道士、神学生、カトリック教理を教える教師(カテキスタ)たちとの面会が行われた。歌が歌われ、修道女の証言の後、教皇が演説を行った。
 まず初めに、彼は過去の根の上に司祭たちの実り豊かな生活がしっかりと根付いていることを述べ、最初の宣教師たちのように、「主が愛し、主が命を与えたもののために戦う人」であることを呼びかけた。またその際の方法として、現地の文化に適応させることを挙げている。「福音が外国の衣服という覆いを取り去るようにしなければいけません」。教皇は「新しいシンボルやイメージをつくり出したり、主が我々に与えようとした奇跡をタイの人々が理解する助けとなるような特別な音楽をつくり出すことに、恐れを抱かないように」と促した。「福音を文化に適応させようとすることを恐れないでください」。福音を適応させる目的は、主の言葉を「主を知りたいという気持ちを呼び覚ますことができる」ような方法で伝えることなのだ。
 一方で、「多くの人にとって」キリスト教信仰が「外国の信仰であり、外国人の宗教である」ということを「苦悩とともに」認めなければならないことにも言及した。勇気をもって、「現地の言葉で、つまり母親が子供に子守唄を歌うその言葉で、信仰を告白する方法を見出し、翻訳ではできないタイ語で表現することによる肉付けをする必要があります」。教皇はこう続け、宣教の言語は常に現地の言葉であるべきとする彼の考えを示している。その後、教皇は、聖地にてタイ司教会議の司教たちや、アジア司教協議会連盟2の司教たちと面会した。そこでのさまざまな話の中で、教皇は司教たちを、それぞれの地域の人々の心配を担っている羊飼い(指導者)だと表わしている。まさに最初の宣教師たちの記憶こそが、我々がどのように行動するべきか判断するすべとなるのだ。「福音の活力を制限してしまうことにもなり得るような」教会組織やメンタリティーが存在している、と教皇は述べている。それに対して、精霊こそが、「教会に先立ち、教会を新しい規範が形成される地点へと到達するよう導くのであり、キリストの言葉を通じて、我々の文化の心の奥底の核へと導いてくれるのです。我々は精霊が宣教師よりも前に到達し、そして宣教師とともに常に存在していることを忘れずにいましょう」。ここでこの言葉を強調しておきたい。つまりこれは、決して世界を見捨てることのない精霊に対する教会の改心を求める言葉なのだ。宣教師は征服者ではない。精霊の歩みに、司牧者としての良識をもって従う存在なのだ。
 宣教師たちは、成功を保証してくれる土地を探したのではない。その反対に、彼らは「主が与えることを望まれた生命や、幸福、そして友愛の種を受けることが、先天的にできないような人や文化など存在しない」ことを確信していた。福音に無関心な地など存在しない。なぜなら福音は「法学者や罪人、収税人、娼婦、過去と同様、現在のすべての罪人たちといった、すべての人々の中にまかれた恩恵なのだから」と述べた。
 その後、11時50分にタイのイエズス会士たちとの間で私的な面会が30分ほど行われた3。そして、午後15時10分に教皇は、ラーマ5世によって20世紀初頭に創設され、タイでもっとも古く、高名なチュラロンコン大学へと移った。講堂で、教皇はキリスト教や他の宗教のリーダーたち18人と面会した。一人一人に教皇は個人的に挨拶の言葉をかけ、公式の挨拶に続いて、演説で次のように述べている。「時間や空間の概念として、島国のロジックが優勢を占め、それが対立を解決するための有効な手段だと考えられていた時代はもはや終わりました」。世界の危機には、多面的なアプローチが必要であり、そのためには、偉大な宗教の文化がそれぞれの精神的遺産を持ち寄ることで、確固たる助けを提供するだろう。
 一方で、グローバル化はローカルな文化やその価値を脅かしている。「一つの統一的モデルを課すために、地方の文化や価値を評価しようとしない傾向」にあり、それによってある種の均質化が進み、多様性をなくし、特に若者を、「大量生産されたコントロール可能なもの」へと変えてしまっている。教皇はこれを文化の真の破壊と定義した。ここから、過去の生き生きとした豊かさを発見し、自身の根源を見出すことを訴えたのだ。
 最後に、16時20分ごろ、教皇は聖母被昇天に捧げられた、赤煉瓦づくりの新ロマネスク様式のアサンプション大聖堂へと向かった。ここでは聖チェチリアに捧げる英語のミサが、若者たちが参加する中、とり行われた。教皇は彼らに対して「我々の祖先である父母、祖父、先生たちの信仰に根を下ろすよう」繰り返した。「過去にとらわれるのではなく、新しい歴史的状況である今に応える助けとなるような勇気を持つことを学ぶために」と語りかけている。翌11月23日8時45分に、教皇はバンコクのドンムアン空港でのお別れのセレモニーののち、東京に向けて出発した。教皇に別れの挨拶をするため、そこにはタイの11人の子供たちが集まっていた。

日本:歴史的証人の語り

教皇を乗せた飛行機は、東京羽田空港に17時40分に到着した4。教皇は駐日ローマ教皇庁大使館へと向かい、食堂にて、司教会議の司教たちと面会した。そこには日本の3つの大司教区と13の教区の司教たちが集まっていた。長崎大司教高見三明神父からの歓迎の挨拶のあと、教皇の言葉が述べられた。教皇は、日本でのキリスト教の布教の始まりを告げる聖フランシスコ・ザビエルの日本到来からの470年の歴史に思いを馳せ、またパウロ三木や、高山右近、いわゆる「隠れキリシタン」といった殉教者たちにも言及した5
教皇は日本での布教活動の特徴を明らかにした。現在日本の1億2600万人の住民のうち、カトリック信者は44万人であり、人口の0.34%にあたる。「確信をもって植えられた種、殉教者たちの記憶、主が与えられた成果を忍耐強く待ち望むことは、日本での宣教方法を特徴づけており、それをあなた方は日本の文化に適応させてきました。その結果、あなた方は長年の間に、日本社会から非常に評価される教会の顔をつくり上げてきたのです」と述べた。
信頼、忍耐、結果だけを重視しない活動は、「適応と対話を強く求めてきた」これまでの努力を際立たせている。「それがヨーロッパで発展してきたものとは異なる新しいタイプの方法を確立することを可能にしたのです」。特に教皇は、日本では宣教において初期の段階から、「書物や演劇、音楽や他のすべてのジャンルにおいて、大部分で日本語が使われてきた」ことを挙げている。このことは、「初期の宣教師たちがこの地に対して感じていた愛」を示すものであり、その愛こそがまさに福音を伝える上で不可欠なものなのだ。なぜなら、「愛される者のみが、救われることができるのですから。抱きしめられる者のみが、変わることができるのです」。その愛はこの地ではしばしば殉教をもたらした。しかしまさに「殉教の教会であるからこそ、世界の平和や正義に関する我々の差し迫った問題にとりかかる際に、自由に発言することが可能になるのです」と続けた。

広島と長崎:声をあげる

 翌24日の日曜日、7時20分に教皇フランシスコは東京から長崎に飛んだ6。10時15分、どしゃぶりの雨の中、教皇は1945年の8月9日に投下された原爆の爆心地に到着した。この場所は平和公園に隣接した爆心地公園にある。ここで教皇フランシスコは、核兵器に反対する彼の熱意を力強く強調した。教皇の核兵器に対する意志は本誌でもすでに詳しく取り扱ってきたことである7
 原爆の爆心地にて、教皇は長崎県知事、長崎市長に迎えられた。二人の被爆者から受け取った花を、教皇が原爆落下中心地碑に献花した。教皇はろうそくに火をともし、黙とうを捧げた。その後、彼の強いメッセージが発せられた。まず初めに言及したのが、「人類の心にあるもっとも深い願いの一つ」である「平和と安定への願い」である。しかしこの願いに対する一番の答えとは何だろうか。答えは明確だった。「恐れや不信から生じる偽の安全のもとに」平和と安定を保障することは不可能である。「恐れや不信は民族間の関係を蝕み、すべての対話の可能性を阻止するでしょう」。平和と国際的安定は「現在、そして将来のすべての人類家族が共有する相互尊重のもとに、将来のための協力と団結という世界的な倫理によってのみ可能となるのです」と教皇は主張した。つまり「核武装を進めている現状に対して声をあげる」べきなのである。教皇フランシスコは自身の主張を強化するために、これまでの教皇の言葉である、聖ヨハネス23世の回勅PaceminTerrisや聖パウルス6世の回勅PopulorumProgressioも引用した。「相互不信の動きは、核兵器の使用を制御する国際的枠組みを崩壊させる」恐れがある。さらに兵器の技術革新の中で、深刻化している「多国間主義の衰退」が加わる。そのため教皇は「核兵器禁止条約による核兵器の開発を禁止し、廃棄を求める国際協定」に対する支持を表明した。そして、前年の「7月に日本カトリック司教協議会によって核兵器廃絶のための呼びかけが行われていた8」ことにも言及している。
 次に、10時35分に教皇は西坂公園へと向かった。ここは、1597年2月5日にイエズス会士にして日本人初の聖職者であった聖パウロ三木をはじめ計26人が関白豊臣秀吉の命によって処刑された場所である。彼らはピウス9世によって1862年に列聖された。彼らの死は、日本のキリスト教徒に対する2世紀にわたる厳しい迫害時代の始まりを告げている。この同じ場所に、1962年に等身大の26人の殉教者のブロンズ像が十字架の形にはめ込まれた記念碑が建てられた。正面には同じく殉教者に捧げられた聖堂があり、この場所は日本二十六聖人殉教地として巡礼地に定められている。
 記念碑の裏には、長崎のキリスト教の歴史を保存する記念館がある。教皇は記念碑に献花し、迫害されたキリシタンの子孫から手渡されたろうそくに火をともすと、黙とうを捧げた。さらに聖遺物に献香を行ったのち、言葉が述べられた。その中で教皇はこの場所を「復活を告げる記念の場」であると表現している。なぜなら「最後の言葉は死に属すのではなく、生に属すことを宣言している」からである。また同時に個人的な告白であるかのような発言もしている。「私は、この殉教者たちに捧げられた記念の場所に、聖人たちと出会うために来ました。辺境の地からやってきて、日本の初期の宣教師や殉教者たちの歴史にインスピレーションを受けた一人の若いイエズス会士の謙虚さをもってそうしたいと思います」と。教皇が常に「隠れキリシタン9」に対して強く感銘を受けてきたことを思い出していただきたい。彼は教皇に選出された直後の2013年4月17日にも、「隠れキリシタン」について言及している10
 ここで教皇フランシスコが伝えたかったメッセージは、はっきりしている。再び彼は「声をあげる」ことを求めたのだ。メッセージは以下の通りである。「宗教の自由がすべての人に対して、地球上のすべての場所で保障されるように」。そして「全体主義の政治や分裂、過度の営利主義、人々の行動や運命をコントロールする憎むべきイデオロギーによって宗教に対してなされるあらゆるいかさまに対しても声をあげましょう」と付け加えている(人類の友愛のための宣言、アブダビ、2019年2月4日)。教皇がアブダビ宣言を引用したことは、非常に重要だ。なぜなら彼が東洋にて人類友愛の議論を進めたいと願っていることを証明しているからだ。すでにそのことは、バンコクの仏教の大僧正に宣言のコピーが渡された際にも示されていたが、これはこの旅の最後にもみられることとなる。教皇の言葉のあと、教皇による祈りが捧げられた。
 大司教館で昼食をとった後11、13時20分に教皇は長崎県営野球場へと向かった。ここで教皇はミサ(王であるキリストのミサ)を行った。教皇の説教は、再び「声をあげる」ことを求める機会となった。「長崎はまさにその心に、癒しがたい深い傷を負っています。それは多くの罪なき者の想像を絶するような苦しみの痕跡なのです。また過去の戦争の被害者のみならず、今日もなおさまざまな場所で起きている第三の世界大戦によって苦しむ犠牲者たちもいます。ここで我々の声をあげましょう。身をもってこの恐ろしい罪に苦しんでいるすべての人のための祈りの中で」。
 ミサを終えると、教皇は長崎空港から広島に出発し、17時45分に広島の地に到着した。到着後、教皇はすぐに平和記念公園へと向かった。1945年8月6日に原爆が投下されたその場所には、1954年に建築家丹下健三によってデザインされた公園がつくられ、12万平方メートル以上の敷地内には、緑あふれる自然や、さまざまな記念碑、記念館がみられる。公園のシンボルとなっているのは原爆ドームだ。クーポラを頂くその建物は、元安川の川岸に立ち、原爆によってひどく損害を受けてはいるものの、完全には倒壊しておらず、また原爆の残した爪痕を忘れないよう修復されずに今も当時のまま残っている。1996年にはユネスコの世界遺産に登録された。
 ここでは「平和のための集い」が約2000人の参列者のもとに行われた。暗闇と静寂の中、原爆ドームを背景に、教皇は記帳した後、20人の宗教者たちや原爆の被害者たちと言葉を交わした。彼らのうちの2人が渡した花を教皇が慰霊碑に献花し、続いて「平和の大使」がろうそくを捧げると、鐘の音に続いて、参列者全員による1分間の黙とうが捧げられた。それはさまざまな宗教を信じる人、また宗教を信じない人にも皆一様に共有された。また22人の原爆の生存者たちも招待されていた。彼らの中の2人の証言が語られた。
 その後、教皇は次のように述べている。「憐みの神、歴史の主よ、この場所から私たちはあなたに目を向けます。死と生、崩壊と再生、苦しみと慈しみが交差するこの場所から。ここでたくさんの人々、彼らの夢や希望が、一瞬の閃光と炎の中に消え、影と静寂以外そこには何も残りませんでした。一瞬にして、すべてが破壊と死の暗い闇へと飲み込まれていきました。この静寂の深淵から、今日もなお、亡き人たちの強い叫びが聞こえてきます」。
 教皇はまた、被害者が「さまざまな場所から来ており、名前も、中には話す言語が違う人もいた」ことを強調することを忘れなかった。日本人だけの悲劇ではなかったのだ。被爆者が証言したように、あの爆弾は全人類に対して投下されたのである。
 教皇は次のように続けた。「確信をもって、戦争のために原子力を使用することは、現代において犯罪以外の何物でもないことを強調したいと思います。これは人類や人類の尊厳に反するだけでなく、我々の共通の家の将来のすべての可能性に反するものです。戦争に原子力を使用することは、倫理に反します。核兵器を所有することもまた同様に倫理に反することです。私はすでにそのことを2年前にも言及しました。我々はこのことについて裁かれるでしょう、新しい世代の人々が我々の挫折を裁く裁判官として立ち上がるでしょう。我々が平和を口にしながらも、諸国間での行動を何一つ起こさなかったならば。戦争のための恐ろしい武器を新たにつくりながら、どうして平和を語れるでしょうか。差別や憎悪に対する不当な行いを正当化しながら、どうして平和を語れるでしょうか」。核の使用のみならず、保有をも糾弾することは、すでに教皇が2017年11月10日にした宣言を改めて強調するものである12。しかし今回の訴えは、所有を「倫理に反すること」と定義することで、より強く直接的なメッセージとなった。「核を紛争を解決するための正統な手段とし、核戦争の脅威をもって威嚇している中で、どうして平和を提案できるでしょうか」。式典の後、教皇は広島空港から東京へと向かった。

「三重の災害」から未来への訴えへ

 11月25日月曜日の9時50分、教皇は、セミナー会場であるベルサール半蔵門に向かった。ここで教皇は、2011年3月に起きた東日本大震災の被災者と面会した。
 この震災はマグニチュード9の地震に次いで、悲惨な津波と福島の原子力発電所事故を引き起こした。カリタスジャパンによると、この震災の犠牲者は19,689人、行方不明者は2,563人にのぼるという。さらに犠牲者には、避難先での生活状況の悪化によってこの8年間の間に亡くなった3,723人が加わる。中には、失望や孤独にさいなまれ、自ら命を絶つ道を選んだ人もいる。「東南アジアを襲った自然災害や、日本の福島での原子力発電所事故のような環境への大惨事を忘れてはならない」、当時の教皇ベネディクトゥス16世が2012年の外交官への演説においてこう言及したことを思い出していただきたい。悲劇が起きた直後に、日本の司教団は政府に原子力発電の撤廃と原子力にかわる新しい再生可能エネルギーの研究を要請した13。環境を守り、貧困と戦いながらも気候変動にも対応することは、人類の総合的発展を促進するために重要なものである。教皇はこの歩みに追随した。今回の教皇の訪問の全体的テーマとのつながり、福島の被災者との面会と回勅Laudatosi’のメッセージの間のつながりは非常に明確である。教皇は東京大司教、そして震災という三重の災害によってもっとも被害を被った地区である仙台司教に迎え入れられた。そこには300人の被災者も参加していた。教皇はその中の10人と直接会話を交わした。3人が彼らの経験を語った。教皇は演説の中で、世界規模での解決策を模索するために広く訴えることを求めた。「私たちの家族のメンバーが苦しんでいるのであれば、その人とともに我々も皆、苦しむことを自覚するよう活動する必要があります。なぜなら、同じグループに所属していることを自覚しない限り、相互交流を成し遂げることはできないからです。そしてそれこそが、問題を自覚し、世界的に解決策を模索することができる唯一の方法なのです。我々はそれぞれ相互に他者に属しているのです」。
 教皇は、災害によって被災者たちが災難に見舞われたことで、社会から切り離され、見放され、烙印を押されたように感じてしまっていることをよく理解していた。「地域社会に絆が再び構築されない限り、そして人々が再び安定した生活を取り戻さない限り、福島の事故が完全に解決されることはないでしょう」。そしてさらに、教皇は原子力撤廃を要請した日本司教団に対する支持をも表明した。未来を考え、「我々の後に来る次の世代の人々に残したい」ものに対して責任を持つことへの訴えは強いものであった。
 その後、10時50分に教皇は、東京駅近くの皇居に向かった。
 この場所は、1603年から1867年まで日本を統治していた将軍徳川家の居城である江戸城があった場所である。徳仁天皇は皇居の入り口で教皇を迎えた。彼の即位は2019年5月1日に行われ、2019年10月22日には正式な即位儀礼のもと、第126代日本国天皇としての即位が宣言された。天皇との面会は、まさに日本の心との面会であった。日本国民は天皇を愛し、特に困難な状況において天皇を身近に感じ、彼を日本の象徴とみなしているからだ14
 面会のあと、教皇は東京カテドラル聖マリア大聖堂へと向かった。建築家丹下健三の設計により、1964年に献堂された大聖堂は、ダイナミックなカーブの施された8つの壁によって構成された現代建築である。大聖堂の中で、教皇は若者たちと面会した。そこにはあらゆる社会階層や宗教に属す若者たちが参加し、中には移民も見られた。若者たちは教皇を熱狂的に迎え入れた。
 カトリック教徒、仏教徒、そして移民を代表して3人の若者が言葉を述べ、歌が歌われた後、教皇が演説を行った。「あなた方を見ると、日本で生活する若者たちの文化や宗教的多様性を見ることができます。そしてあなた方の世代が未来に与える素晴らしいものを見ることも。あなた方の間の友情や、あなた方が今ここにいることは、皆に『未来は一色のモノトーンではない』ということを気付かせるでしょう。そして勇気をだせば、それぞれが社会に与えることができる多様性の中にその未来を見ることができるのだということを」。
 演説で教皇は日本社会の現状に配慮した。世俗の伝統にテクノロジー化が入り込み、現在の日本は交流の機会もないまま、猛烈なスピードで進む国という印象がある。そこからいじめの現象が生まれてくる。いじめは加害者の弱さや脆さの表れである。また社会内部に恐怖の感情が蔓延していることの明白な証でもある。恐怖が国際関係を形作るように、共同生活をも形成する。一方で、何年も家の中に閉じこもったままの若者の引きこもり現象もよく知られている。彼らはパソコンや携帯電話を通してのみ社会とつながっている。「たくさんのものを発明してきましたが、幸いにも神のおかげで、魂のセルフィーはまだ存在しません。幸せになるためには、他者に助けを求める必要があります。魂の写真は他者に撮ってもらわなければなりません。つまり自分の殻から出て、他者の方へと歩みよることです。特に必要としている者の方へと」。教皇フランシスコはこう述べた。
 特に若者世代に内面の空洞化が進んでいることは、教会の責務への訴えである。「ある人物、もしくはコミュニティー、社会全体が外見上高度に発展していると思われていながらも、内面においては貧しく、落ちぶれ、活気がないことはよくあります。まるで中身が全く存在しないつくられた人形のようです。彼らにとってはすべてがつまらなく、もはや夢を見ることができなくなっている若者がたくさんいます」。活気ある社会組織や、家族的な生活を構築することが必要であり、経済や社会が過度に競争を強いる状況に屈服しないことが必要である。探求心を持ち、内面の活気を維持することが必要なのだ。「ある高名な先生がかつて次のように言いました。知恵を探求するための鍵は正しい答えを見つけることではなく、正しい質問を発見することにあるのです、と」。
 午後15時20分に、教皇は東京ドームへと向かった。ドームには、聖体拝領を望んだ人のうち、5万人しか入ることはできなかった。教皇はここでミサを行った。説教の中で、彼はこれまでに行った演説でのテーマを再び取り上げ、信仰の展望をはっきりと示した。「イエスの中に、我々は人間の極みを見出します。我々の考えをことごとく凌駕する至高へとイエスが我々を導くのです」。教会は社会の中で出会う「けが人を癒す野戦病院」でなければならないと語った。
 ミサの後、教皇は総理大臣官邸へと向かった。官邸は、内閣府の中にある。ここで教皇は私的に安倍晋三前首相と会談した。つづいて、政府高官と外交官との面会が行われた。首相の挨拶の後に行った演説で、教皇はかのアレッサンドロ・ヴァリニャーノの言葉を引用しながら日本に対する「敬意と称賛」を述べた。ヴァリニャーノは1579年に次のように書いている。
 「神が人間に与えられたものを見たいと望むものは、日本を見に来ればよい」と。
 教皇は核の問題をここでも取り上げ、「より広い国際的賛同を得て活動をしていけるよう、政治的プロセスを踏みながら、さまざまな側面から」取り組まれるべきであることを主張した。多国間主義はまさに、教皇フランシスコにとってグローバルな問題が取り組まれるべき世界におけるキーポイントである。真に正しい人間的社会とは、人類の根本的な兄弟愛を認める社会である。この機会に教皇が再び、2月に署名された「人類の友愛のためのアブダビ宣言」を引用したことは重要である。「人類家族の未来にとっての我々の共通の懸念が、とるべき道として対話の文化を、行いとして協力を、方法や基準として相互認識をとるよう」促している。また教皇フランシスコの演説のもう一つのポイントは、「桜の花のイメージ」によって紹介されている。その「はかなさ」は我々に「我々の共通の家が自然災害によってのみならず、人間の強欲や搾取、破壊によっても影響を受ける脆いものであること」を思い出させた。
 11月26日火曜日、7時30分に教皇は上智大学に向かった。上智大学は1913年にイエズス会によって創設されたカトリックの大学である。すでに教皇は2017年10月18日に、700人の上智大学の学生とビデオ会議にて会話し、この機会に学生から教皇に向けてさまざまな質問がオンライン上でなされていた。そしてこの日、教皇は私的にイエズス会士とともにミサをあげ15、彼らと朝食を共にしたあと、高齢の司祭や病人と面会した。その中には、2008年から2016年にかけてイエズス会総長であったアドルフォ・ニコラス神父の姿も見られた。
 その後、教皇は、大学を見学し、ホールへと向かった。彼はその時、日本社会が機能的で非常によく秩序立てられているものの、そこに「何かを求め、何かを探そうとする感覚、より人間的で、慈愛に満ちた社会をつくろうとする深い願いが感じられる」ことに気付いた。大学は現在9つの学部に29の学科、59か国の約300校との協定を持ち、日本でもっとも優れた大学の一つとみなされている。さらに21か国からの1400人の教授陣を誇る。教皇は「創設当初から、大学はさまざまな国、時には対立する国々から来た教授陣の存在によって豊かになってきた」ことを強調した。この架け橋としての役割は、大学にとってのまさにミッションの柱の一つであり、大学はすべてのレベルにおいて、「社会的、文化的に異なっていると感じられるものをも結びつけられるような日本をつくるよう、常に開かれていなければならない」のだ。 その後、教皇は東京羽田空港へと向かった。11時35分ごろ、最後の別れの挨拶を終えると、教皇を乗せた便は、ローマ・フィウミチーノ空港に向かって離陸し、現地時刻16時30分ごろ、ローマの地に到着した。
[原田亜希子訳]

1 M. Kelly, «Thailandia»,in La Civiltà Cattolica, 2019, IV, 269-276参照。
2 タイ司教会議(Cbct)は、国内の2つの大司教と、9つの司教の司祭たちによって構成されている。現在の会長はバン コクの大司教フランシス・クサビエ・クリングサク(Francis Xavier Kriengsak Kvithavanij)枢機卿である。タイ司教会議はアジア司教協議会連盟のメンバーであり、連盟には、南アジア、東南アジア、東アジア、中央アジアの司教会 議が参加し、香港に拠点を持つ。19のメンバーをかかえ、現在の代表はミャンマーのヤンゴン大司教チャールズ・ボー(Charles Bo)枢機卿である。
3 この時の会話文の全文はLa Civiltà Cattolica, 2019, IV内に掲載されている。
4 教皇は2014年6月に当時の首相安倍晋三氏より日本を訪れるよう招待されていた。2019年1月23日に、教皇フランシスコは、第34回ワールドユースデーのためにパナマに向かう機中にて日本への訪問を公表した。今回の訪問は、教皇の2度目の訪日であり、1981年2月のヨハネ・パウロ2世の訪日に続くものである。
5 T. Witwer, «Justus Takayama Ukon. Grande missionario giapponese del Cinquecento», in La Civiltà Cattolica, 2017, I, 175-184[ジュスト高山右近 16世紀の日本人宣教師(日本版創刊0号 20-30)]; R. De Luca, «La scoperta dei “cristiani nascosti” del Giappone», ivi 2009, IV, 327-333[今後日本版に掲載予定]参照。
6 2018年5月2日、長崎市長田上富久氏は、広島市長松井一實氏との共同署名のもと、教皇フランシスコを、1945年 の原爆の標的となった長崎、広島へ招待する手紙を送った。
7 D. Christiansen, «Il “no” della Chiesa alle armi nucleari. Implicazioni morali e pastorali», in La Civiltà Cattolica, 2018,I, 544-557; ID., «È tempo di abolizione delle armi nucleari», ivi 2019, IV, 156-162.[今後日本版に掲載予定]
8 www.cbcj.catholic.jp/2019/07/18/19260/ 2018年1月に教皇は1945年に長崎にて撮られた、亡くなった弟を背負った日本人の若い少年の悲痛な写真を公開した。その際教皇は、原爆の象徴であるこの写真を撮った写真家の息子へのメッセージも添えている。
9 R. De Luca, «La scoperta dei “cristiani nascosti” del Giappone», ivi 2009, IV, 327-333[今後日本版に 掲載予定]参照。
10 この時、教皇は日本の教会の歴史に対して、16、17世紀の激しい迫害にもかかわらず存続していることを称賛している。このことを、2014年1月15日の一般謁見の際や、2015年に日本の司教たちと面会した際にも表明している。
11 大司教館に向かう車に乗る前に、教皇に福者中浦ジュリアン(1568‐1633)の絵が渡された。中浦ジュリアンは、1582年に切支丹大名の名代として、3人の少年たちとともにローマに使節として派遣された有名な天正少年使節の一人である。その後イエズス会の司祭となり、キリスト教徒への迫害の際、殉教した。2008年11月23日、他の187人の日本人殉教者とともに列福されている。
12 教皇は会議参加者に、「核兵器のない、非武装の世界のための展望」を宣言した。その際、教皇フランシスコは「核兵器の使用によって人類や環境にもたらされる悲惨な結果を考慮するならば、激しい不安を覚えずにはいられない。さらに、何らかのミスによってそのような兵器が事故的に爆発するリスクを考慮するならば、なおさらその使用の脅しやその保有自体を強く糾弾するべきである。なぜならその存在自体が、対立している国家間のみならず人類全体にとっての脅威として機能するからだ」と主張している。
13 www.cbcj.catholic.jp/2011/11/08/10367/
14 G. Sale, «Il Giappone nella nuova era imperiale “Reiwa”», In La Civiltà Cattolica 2019, IV, 253-268[新 たな時代である令和の日本(日本版1号 34-44)]参照。
15 ミサの際の説教の全文はLa Civiltà Cattolica, 2019, IV内に掲載されている。

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