La Civiltà Cattolica

La Civiltà Cattolica
日本版
(公財)角川文化振興財団バチカンプロジェクトから刊行!
ローマで発行された最古のカトリックジャーナルが史上初、日本版で刊行されました。

日本版創刊3号

禅の修行とキリスト教の瞑想

Esercizio Zen e Meditazione Cristiana
Hans Waldenfels S.I.
ハンス・ヴァルデンフェルス神父

***
欧米諸国でも広く認知されている禅。
仏教を発祥とはするものの、その本質は、
自分自身の存在を見つめ、
真実に近づくという点において、
キリスト教の瞑想とも通じます。
日本で神学を学び、仏教への造詣も深い
ハンス・ヴァルデンフェルス神父の
深淵な考察です。
La Civiltà Cattolica 2017, III, 209-222

 イスラム教と異なり、仏教はそれほど人々の関心を集めてきたわけではない。しかしながら、キリスト教の教会がもはや社会生活のさまざまな層において沈黙や瞑想への導きとはなっていないだけに、なおさら仏教は、アクティビズム(積極行動主義)や熱狂的運動によって特徴づけられる時代にあって、宗教的視点からの求道者たちに対してそれらとは別の道を提示するのである。
 とはいえ、教会ではさまざまな省察の機会が与えられており、その際、アジアからの刺激もしばしば取り入れられてきた。その意味では、単なるアジア的な実践への魅力にとどまらず、その具体的な諸要素もまた活用されている。

禅と西洋

 本稿では仏教徒の瞑想によって提示されるものを取り上げ、非仏教徒、とりわけキリスト教徒によって実践されるような禅の修行について論じたい。これを論じることにした理由は、ヨガが精神と身体の鍛錬として世間により広く普及したのに対して、アジア的な瞑想という宗教形式は日本の禅を通じて西洋にもたらされたからである。しかも、流行となった「禅」という言葉の使用は多様な提言の中にまで拡大しており、それは部分的には、自らをそう規定し、そう自任していた「師」たちのおかげなのである1。他方で、「禅」という言葉のそうした使用が異端的か否かについて過去何世紀にもわたって表明されてきたその判断の浅薄さは、理論と実践を明確に分ける必要がある以上、今日ではもはや容認できるものではない。
 あらゆる文化において、言語による表現が可能な理性的認識と並んで、人々が言葉を介さずに互いにコミュニケーションをとるような認識形式も存在する2。トマス・アクィナスは、同等性と心的な親近性に基づく認識すなわち「親和性」を意味するものとして「cognitio per connaturalitatem(親和性による認識)3」を論じている。ジョン・ヘンリー・ニューマンは、枢機卿としてのモットーに「cor ad cor loquitur(心が心に語りかける)」という一文を選んだ。
 過去には、イエズス会士ペーター・リッペルトの著作『心から心へ』(1924年初版発行)が広く読まれていた。日本語では「以心伝心」(心から心へ)という表現がかなり普及しているが、これは仏教の禅に由来し、心の状態の直接的な伝達を意味する。これらすべての場合に重要なのは、言葉を介して伝達されるのではなく瞑想の実践においても考慮されるべき認識なのである。

禅の修行

 禅の修行は、まずは沈黙の中で姿勢を正して坐った状態で行われる(坐禅)4。修行者は背筋を伸ばして座布団の上に坐り、宗派によって、顔を壁に向けるか、もしくは僧堂で他の修行者と向かい合い、目は開くか閉じるかして、足は片方の足先を他の足の腿の上に折り曲げて前に組むか〔半跏趺坐はんかふざ〕、右の足先を左足の腿の上に載せ、左の足先を右足の腿の上に載せて蓮そのものの形になるように両方の足先を折り曲げて前に組むかして〔結跏趺坐けっかふざ〕手を合わせる。寺院では通常、1回の坐禅は20分続く。その後、歩きながらの瞑想(経行きんひん)の修行が続き、短い休憩のあとに坐った状態での瞑想がはじまる。この修行は基本的に静止した姿勢で行われる。
 外なる静寂に呼応するのが内なる静寂である。この内なる静寂は、最初は呼吸の数を数えたり息を吸ったり吐いたりし、時間が経つにつれて静かな呼吸、より正確には腹式呼吸が安定するようになることで達成される。こうした鍛錬の目的は、修行者が妄想や想念から解放された状態に達することである。
 多くの宗派では、いわゆる「公案5」という謎めいた小話や簡潔な言葉が用いられる。修行の実践者は、その明らかな非合理さのゆえに、こうした小話や言葉にひとつの解を見つけるまで公案に取り組まなければならない。白隠禅師の有名な言葉「片手で鳴らす音を聞け!」〔隻手音声〕、あるいは「無」(何もない、…でない、…しない6)などがその典型的な例である。しばしば用いられる「無」は、何も考えないことを求めるものではない。それはすべての想念を断ち切って修行者を空くうにし、解放する剣なのである7
 修行の間じゅう、師は修行者に手を差し伸べる。実際、禅を行い悟りという目的を達成しようとする者は師の指導に身を委ね、師は僧堂で通常1日に1回教え(提唱)を授ける。しかし、より重要なのは師との面会(独参)である。それは必ずしも対話からなるものではなく、修行者がまだ何も会得していないことや、改めて修行に没頭するために師のもとから辞去しうることを彼に理解させる師の一瞥で十分なことも多い。
 そうでない場合には簡単な手がかりが得られ、そして最良の場合には、修行者の内に何か新しいことが生まれたり、突破口が開けたり、部分的な悟りあるいは壮大な悟りさえも得られたりする。しかし、悟りに到達したあかつきには、誰もそれ以上先には進めないという決まりがある。悟りは認知される必要があり、このことは、師の称号や師からの承認を得るためにはなおさら意味を持つのである。

禅と霊操

 今や、禅は世界中で実践されている。仏教徒のみが禅を実践できるのか、もしくは実践すべきなのか、という問いに対しては、しばらく前からひとつの答えがすでに与えられており、原則としてすべての人に禅の実践が認められている。
 我々にとっては、聖イグナチオ・デ・ロヨラ(1491-1556)の霊的修行(霊操)との比較が有効であろう8。そこでも「修行」という言葉が使われる。修行に関する、より掘り下げた研究によって、禅の修行とイグナチオ会の修行の間に構造的な対比を見出しうることも指摘されている。イグナチオ会の修行は道のりを示すという霊的実践に関係しており、近代の幕開けにあって、イグナチオにとってこの修行は神とのつながりを実存的に認識するように人々を導くための道となるものであった9。それゆえ彼は、修行の場所と時間、身体の姿勢、心構え、そして修行の流れの中で歩むべき各自の道に関して厳密な指示を与えたのである。さらに彼は、修行を指導する者の務めや、その者がそれぞれの修行者に対していかにふるまうべきかについても詳しく記している。
 だが、こうした詳細な内容の大部分はしばらく前から忘れ去られてしまい、長い間、修行というものは会議の論題に限られてしまっていた。しかしそうこうするうちに、アジアからの刺激を少なからず受けて何かが変わった。多くの修行の過程に心身的要素が取り入れられ、参加者のグループは拡大し開かれたものになった。修行は、道を求めてその道のりの途中にある者たちに再び道を示す指標となったのである。

西洋における禅の実践者

 禅の修行、あるいはヨーロッパでこの名称や似たような名称で呼ばれることを行っているのは、概して「西洋の」文化圏出身の者たちである。おそらく彼らは、その信心深さに違いはあるものの宗教的信条をともにするキリスト教徒たちであり、キリスト教の共同体とつながりを持ち続ける根っからのキリスト教徒や、名目上そこに所属しているにすぎないキリスト教徒、あるいはさまざまな理由で教会を離れた人々などである。さらに、洗礼を受けることなく宗教的な視点から求道し、そのため禅のようなアジアの修行に身を委ねる人々の数も増加している。
 各人の事情に応じて、そうした修行に対する反応は異なっている。信仰心の篤いキリスト教徒の中には、自分たちの環境では見つけられずその欠落を感じていた何かを修行の中に見出し、それゆえ異国の地からもたらされた禅との出会いを自身の信仰の深化ととらえる者たちがおり、このことは司祭や聖職者たちによって証言されている10。いわば「外から」来て、修行によって得られた内なる入り口を通じてキリスト教への道を見つける者たちがいる。逆に、キリスト教を抑圧的で制限的なものと感じ、他方で教義や律法に縛られない禅の修行を開放的なものとして体験した者たちもいる。さらに、こうしたグループとは別に、西欧の人々の中には、キリスト教から遠ざかり仏教を通じて自身の人生の目標を達成したと信じて、「三宝」すなわちブッダ(宗祖)、ダルマ(教え)、サンガ(集団)を受け入れる人もいる。
 こうした経験に含まれるさまざまな意義を前にして、単に禅の修行を拒否したり、危険視したり、警戒ばかりすることは、まったくナンセンスである。すべての薬が万人にとって有益で助けとなるわけではない。しかしこのことは、ある人にとって良くないものが他の人たちにとって有効な助けとなりえない、ということを意味するものではない。このことを理解するためには、医者や薬剤師など、とにかくその分野の専門家に助言を求めることが重要である。

イエス、「道」、禅の道

 キリスト教の観点から見ると、多元主義がますます広まっていく時代にあって我々は、各自が個人的な選択を行うよう求められている。それゆえ我々は、アクセス可能なすべての道を検討することによって、カール・ラーナーが彼の全研究の最後に考えていたこと、すなわち、イエス・キリストが我々にお示しになった道とは我々が自らの存在目的を達成できるとより強く確信した道なのだという考えを、共有できるようになる。
 我々はまた、ナザレのイエスに比肩しうるような他の教祖は存在しないと確信することもできる。他の道は、誤った道とは言えないまでも、目的地まで行き着かない、あるいは少なくとも道としてイエスほど遠くまでは行き着かない、と考えることができよう。しかしこの確信は、もしそれを根拠づけることができるとしても、我々の主観的なものに過ぎない。我々は、最後の審判をより高次の審級すなわち神の自由な決定に安んじて委ねることができ、他人の運命も最終的には神の審判に委ねるべきなのである。
 こうした前提を踏まえて、我々が霊の識別においてとるべき指標はいかなるものかを考えてみたい。イエスの最初の弟子たちも、彼らに教えを説く者を「師」と呼んでいた。そこで、彼らが師に決定的な問いを投げかけた時のことをみてみよう。
 亡くなる少し前のイエスとの別れの会話の中に、弟子たちから発せられた2つの問いがあるが、これらの問いは、識別に関するキリスト教の基本的指標の問題に対する最初の答えを我々に示唆しうるものである。聖トマスは言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」。そしてイエスから答えを受けた。「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネによる福音書14章5-6節)。聖フィリポがそのすぐあとに頼んだ。「主よ、わたしたちに御父をお示しください」。そしてイエスから答えを受けた。「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネによる福音書14章8-9節)。
 これら2つの答えは一体となる。ペルソナにおけるイエスは道であり、我々はその道で究極の存在たる神に出会い、神は我々の前に顕現する。人としてのイエスの生き方は、我々を神のもとへと、あるいは神のもっとも親密な生へと導く道を具体的に示している。父と子は異なるものでありながらひとつの存在であり、我々に伝えられる父と子の同じ精霊において単一性を有している。自らを死にいたらしめる道に関するイエスの話は「秘儀伝教」であり、つまり、イエスを見て真に理解する者はイエスによって神の神秘へと導かれるのである。この意味でイエスは、神を求めるすべての者たちにとって、彼らの探究の道におけるしかるべき結節点であり続けるのだ。

戒律:愛の2つの掟

 イエスが自らについて語っていることを前にして、我々はいかにして彼と関わることができるのかをより具体的に問うならば、愛の2つの掟に出会う。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。第二の掟はこれである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」(マルコによる福音書12章29-31節)。聖マタイはさらにはっきりとユダヤ教を念頭において、以下のように約言する。「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(マタイによる福音書22章40節)。
 事実イエスは、ヘブライ人としてこの2つの掟によって自らの宗教的伝統の中に身を置いている。彼は、言葉と行為によって伝わる唯一神を信じており、神やその似姿である他者と対話するよう人々に促す。「イスラエルよ、聞け」という言葉は、宗教的には人類史における一里塚であり、人類の宗教においてエコーのように鳴り響いている。
 さらに愛は、自分たちを取り巻く現実やすべての住人を含む被造物全体に対して人間がとるべき開かれた態度のもっとも効果的な表現である。人間の世界にとって、マタイ福音書(マタイによる福音書25章31-46節)において示された最後の審判の壮大な場面ほど説得力をもつイメージはない。そこでは愛の具体的な御業が列挙されたあとに、実際にその者になされたことは人の子イエスになされたのである、反対に、その者になされなかったことは人の子イエスになされなかったのである、と述べられている(マタイによる福音書25章40、45節)。イエス自身、人の子である。自身の行為と苦しみの中で彼は、人間であることが何を意味するのかがまさに示される瞑想の道筋をつけるに至った。イエスのようにふるまうとき、そしてそのようにふるまうようにとの他者の求めに気づいたときにも、人はイエスとひと続きの道にいるのだ。
 他の共観福音書とは異なり、ヨハネ福音書が最後の晩餐についてではなくイエスが弟子たちの足を洗ったことを述べているという事実は、人間が神の恩恵との出会いにおいて真に自己実現できるようになるためにイエスが引き受けた負担がどれほど大きかったのかを示している。福音書記者は、以下のようにイエスを他者に仕える師として描いている。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(ヨハネによる福音書13章12-15節)。あるいは、福音書記者マルコのさらに大胆な記述として「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコによる福音書10章45節)。「愛」と「奉仕」という2つの言葉は、今日ますますキリスト教として理解されるものの中心に置かれるようになり、キリスト教をシンプルで容易に理解可能な共通項にしている。言葉そのものではなく言葉の実践が重要であり、ある意味では沈黙が言葉に先行するのだ。

神の「ケノーシス」

 奉仕の愛や自己をかえりみない愛は今日では別の言葉と関連しており、その言葉はそれ自体として仏教徒とキリスト教徒の対話を生じさせ、おそらくまたそうした対話のための新たな空間を創出した。イエスの受肉における神の「ケノーシス」を示す聖パウロの言葉を見てみよう。キリストに従うよう説き勧めるテキストである『フィリピの信徒への手紙』2章5-8節において、聖パウロは以下のように述べている。「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を空にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。
 聖パウロは、キリストが「heauton ekenōsen(自分を空にした)」と断言している11。「空」という言葉は、その字義通りの意味では十分に理解することができない。日本の禅の師たち、そして哲学者の西谷啓治も、こうした言葉が仏教徒の精神性や思想の根本的概念のひとつに類似していることを認識しており、彼らはその省察の中で繰り返しスンヤタ(空)について考察していた12
 スンヤタという言葉自体はもともと禅に属するのではなく、紀元後2世紀の博学なインド人神秘主義者ナーガールジュナに遡るものであり、とりわけ仏教の内容に関する偉大な遺産が形成されたのは彼のおかげである。哲学的な意味をも有するこの言葉は、主として精神的実践を意味するために用いられているもののひとつである。仏教の禅において本質的に重要なのは、「空の空化」のプロセス、すなわちそこに執着することすら許されないで「空」とよばれていることからの大胆な離脱作業である。空とは、省察の対象となりうるような状況のことではなく、空を知る者に対してキリスト教神秘主義者(スペイン人の古典的思想家である十字架の聖ヨハネやアヴィラの聖テレサから、マイスター・エックハルトのようなライン地方の神秘主義者たちまで)の言葉を想起させるプロセスなのである。

「私の『公案』はイエス・キリストである」

 パロッティ会修道士ヨハネス・コップ(1927-2016)は、彼の著作『Schneeflocken fallen in die Sonne(雪片は太陽に溶ける)』第4章のタイトルにこのフレーズを冠した13。彼の禅の師である山田耕雲老師はイエス・キリストについて公案をつくり、以下のように述べた。「イエス・キリストを実現せよ」。この表現の意味は、信仰を理解するための2つの仕方、すなわち「キリストへの(キリストに対する)信仰」と「キリストにおける(キリストの内側での)信仰」について論じる際にコップによって説明されている。

 キリストへの信仰は、外から近づくことであり、つまり彼に救いを求めることである[…中略…]。それは神──啓示やしるしに基づいて思い描かれたり表現されて我々に向き合っている神──への信仰であるが、こうした啓示やしるしは、それらが含む真理を我々が自分のものとするように、つまり内在化するように促し勧めるのである。[…中略…]こうした内在性の厳しさ、つまり〔神と人間の〕極端な対極性の厳しさに身を置く者は、福音書の大胆な要求の中で、最初は理解不能であった課題を遂行することで果たされる契約を理解しうるのだ。その者は「キリストへの信仰」の厳しさやその危険を認識しており、「キリストへの信仰」は各人の時機に応じて不意に「キリストにおける信仰」へと一変するのである。しかし彼はこれを言葉で言い表すことはできない。ここでは、公案によってその課題が遂行されるのである。私はある公案においてその内在を経験したあと、キリストにおける内在、すなわち新約聖書の啓示の目的と意味についての新たな理解を得た。閃光が走り、稲妻が輝き、「内在」が突然生じるのだ14
 結着がつけばその意味を失う公案の場合とは異なり、「キリストへの信仰」から「キリストにおける信仰」への移行は終結を意味するのではなく、終わりのない、さらなる深みへと導く過程のはじまりを示す。聖書を知る者にとって、「キリストにおける信仰」について語ることはさまざまな面で聖ヨハネや聖パウロの言葉を想起させる。実際、「子における父」と「父における子」、「私におけるキリスト」と「キリストにおける私」、「我々における彼」と「彼における我々」などの表現を我々は知っており、これらは神のもっとも内的な生の神秘へと我々を導き入り込ませる言葉なのである。
 禅において英語の動詞realiseの2つの意味(「達成する」「理解する」)で「実現」されたことは、聖書の理論的定式に基づいて経験となり「実現された」行為となるが、我々はある種の驚きとともに以下のように問いたくなる。仏教徒の師は、「イエス・キリストを実現せよ」と言うことによってどのようにして彼のキリスト教徒の弟子を説得できるのだろうか。
 だが実際ここでは、禅の修行は修行者をキリストから遠ざけるものではなく、キリストの中に自身を内在化するための道を見つけさせるものであるといえる。聖体拝領の挙式が修行と強く結びついていることは、少しも驚くにはあたらない。イエズス会士フーゴ・ラサール(日本名エノミヤ・マキビ)にとって、聖体拝領の挙式は接心つまり修行に充てられる時間、「心に触れる時間」の中核をなしていた。この望ましい経験を必ず心に留めておくべきである。

誘惑

 「霊の識別」を達成しようとするならば、その際の危険についても論じる必要がある。イエスの公生涯のはじめに、荒野での誘惑に関する記述がある(マタイによる福音書4章1-11節参照)。同様に、禅の修行の展開においても、無視して避けることのできない危険な状況について論じる必要がある。ここで語られるのは「魔境」(霊界)である。それは幻覚やそれに類する現象のことであり、修行者は自らに身を任せない場合にのみ、これを克服することができる15。禅の修行が大胆な離脱、すなわち、修行者が最終的に自分の思考も含めてあらゆるものに対して空となることのうちに存することを考慮するならば16、いかにしてこの種の危険な状態に陥りうるのかを容易に理解できよう。完全な静寂に達して「いかなる想念も生じない」ときに、潜在意識や無意識の中に置かれていたすべてのことが再び意識に浮かんできて、空を感じるという行為自体の中に留まろうとする可能性が出てくるのである。
 修徳神学では、誘惑はまだ罪ではなく、ひとつの決断を要する状況にすぎないことが絶えず主張されてきた。そしてこのことは、上述のような修行にもあてはまる。修行を積んだ者たちが授ける最良の助言は、「外見」「暗示」「イメージ」に信を置かないということである。これらに身を任せない者のみが悟りの境地に辿りつく。
 キリスト教の霊性の話に関しては、荒野の聖アントニウスの姿が有名である。図像の中で彼の脇に配された子豚が誘惑を想起させるが、この誘惑は多くの絵画の中で効果的に表現されており、おそらくそれがもっともドラマチックな手法で描かれているのはマティアス・グリューネヴァルトの作品《イーゼンハイム祭壇画》である。
 「魔境」(魔界)の経験もまた、修行を積んだ他の者たちや最終的には師との対話を必要とする。キリスト教的識別もまた、ここにはじまる。つまりそれは、師としてのキリストとともに未知なる修行に加わってキリストを「身にまとう」という経験がなされたのか、それとも、キリストを知らず、彼に向かって歩んでいないことを認めなければならないのかを決めることである。誘惑によって生じることになる状況は本質的に2つの可能性を残しており、修行者がキリストに続く道を進み、その道上で修行の助けによってさらなる深遠さを獲得するという証しを示すことも、修行者が実際にそこから遠ざかっていくという証しを示すことも可能なのである。

沈黙のあとの言葉

 識別の過程においては、修行のあとに生じることも、その成果となることも重要である。ここで我々に問われるのは、沈黙のあとに言葉へと導き「発話を促す」ものは何か、そしてこの地点に到達した者は何を行うのか、ということである。
「人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」(マタイによる福音書12章34節)。イエスは信者の内で語りかけるようになるのか、また、いかにして語りかけるようになるのかを考察することは、キリスト教のアイデンティティーの基本的な指標となる。今日我々は、日常の生活環境の礎が破壊され、荒削りな理論的規範が鎖のように砕け散る時代に生きている。しかし、キリスト教の信仰に実存的に──そしてそれは自覚的であることも意味するが──錨を下ろしていない者は、いかにしてキリスト教信仰によりしっかりと結び付けられた形で瞑想の修行を終わらせることができるだろうか。多くの者にとって、キリスト教信仰の中心的な奥義への接近は妨げられている。「神」と口にしても、さらに言えば「神」という言葉が「三位一体の神」あるいは「3つのペルソナにおける神」、そして「真の神にして真の人間」イエスを意味するとしても、彼らは孤立したままである。信者ですら、間違った方法で自分の気持ちを示したり、そのために非難されることをしきりに恐れている。換言すれば、信仰を持つ者であっても、しばしば、自分が実際に何を信じているのかを述べることができないのである。およそ今日では、人々は言葉に関して制限されていて不自由であると感じており、宗教面では、人々が「自分たちは何を信じているのかわからない」と言うのをますます耳にするようになった17
 哲学的、心理学的教育を受けていないために、キリスト教の一部の瞑想の師たちは境界線上に追いやられている。彼らにとって神の言葉は非人格化されたものとなり、人間となったイエスはもはや歴史的側面からは関心の対象にならず、それ自体としてひとつの普遍的原理になったということは、驚くにあたらない。ここでは、十字架の苛酷さが容易に越えられない壁となっている。それが事実であることを示しているのは、一方では非キリスト教徒にとって十字架上のキリストとの対面がしばしばショッキングな経験となるということであり、他方ではいわゆる「ポストキリスト教」時代において、なおもキリスト教徒である者たちもそうでない者たちも十字架というシンボルを社会生活から消そうとし、大部分の若者にとってこのシンボルはもはや何ら彼らの関心を引かない礼拝の対象になったということである。しかし、真にキリスト教徒たらんとする者は、十字架に向き合わなければならない18
 とはいえ、宗教的言語の領域においては、沈黙の中で行われる行為の指標が常に重要である。イエスが語る最後の審判(マタイによる福音書25章31-46節参照)において肝心なのは、無私の献身であり、隣人に対する慈愛に満ちた義務なのである。霊操に関しては、言葉を発さずに霊操修行のあとに閉塞的な自己完結の中で、おそらくは完全にエリート的な自己満足の中で自分の生を送り続ける場合、キリスト教の観点からすれば、啓示を受けて霊に生きた生を語ることはできないということになる。仏教徒とキリスト教徒の対話においては、真の啓示は深い認識や理解として一方的に解釈されうるものではない。むしろ啓示とは、思いやりに満ちた献身を持って、啓示を受けていない世界に関心を向けるように導くものなのである。
 イエスとともにタボル山で過ごしたあと、弟子たちは──聖書にあるように──自分たちの周りにイエス以外の誰の姿も見なかった(マルコによる福音書9章8節参照)。キリスト教の観点からみれば、霊の識別のためにはイエスが人間の生において生じさせる関心が決定的である。これは、最初の弟子たちにとって、エルサレムに向かうパレスチナの道を彼とともに歩むことを意味したのだ。

[芹澤なみき訳]

1 筆者は、イエズス会の師たち──実践的な面ではフーゴ・ラサール(日本名エノミヤ・マキビ)(1898-1990)、そしてその豊かな歴史研究とともにハインリッヒ・デュモリン(1905-1995)──を通じて、折にふれ日本における禅の東洋的瞑想に導かれてきた。ラサールは筆者を修行へと導き、彼の師となった原田祖岳の寺院で行われた1週間の修行「接心」に筆者を同行した。筆者は、原田に続いてラサールの師となった山田耕雲老師(1907-1989)にも知遇を得ることができた。ラサールについては、H. M. Enomiya-Lassalle, Zen-Weg zur Erleuchtung, Wien, Herder, 1960 (伊訳 Zen, via verso la luce, Roma, Appunti di Viaggio, 2002); Id., Zen-Buddhismus, Köln, Bachern, 1966; Id., Zen-Meditation für Christen, Weilheim, Otto Wilhelm Barth, 1969 (伊訳 Me-ditazione zen e preghiera cristiana, Roma, Paoline, 1979) 参照。この他に、それ以降に出版されたものとして、特にローランド・ローパーによる改訂版が挙げられる。デュモリンについては、H. Dumoulin, Geschichte des Zen-Buddhismus, Bern, A. Francke, vol. I: 1985; vol. II: 1985; Id., Zen im 20. Jahrhundert, München, Kösel, 1990; Id., Spiritualität des Buddhismus, Mainz, Grünewald, 1995参照。キリスト教と仏教の比較については、Id., Östliche Meditation und Christliche Mystik, Freiburg, Karl Alber, 1966; Id., Begegnung mit dem Buddhismus. Eine Einführung, Freiburg, Herder, 1978 (伊訳 Buddhismo, Brescia, Queriniana, 1981)参照。公案集の翻訳としては、Mumonkan. Die Schranke ohne Tor, Mainz, Grünewald, 1975参照。山田耕雲については、Die torlose Schranke. Mumonkan. Zen-Meister Mumons Koan-Sammlung, Münc-hen, Kösel, 1989が挙げられる。
2 以下については、H. Waldenfels, An der Grenze des Denkbaren. Meditation - Ost und West, München, Kösel, 1988, 148-176, 特に150-152参照。
3 Tommaso D’Aquino, s., Sum. Theol. I, q. 1, a. 6, ad 3; I-II, q. 23, a. 4c; q. 58, a. 5c; II-II, q. 45, a. 2c; q. 60, a. 1, ad 1 e 2 e s参照。
4 坐禅についてはこれまでもしばしば詳述されてきた。今なお推薦できるのは、Ph. Kapleau, Die drei Pfeiler des Zen. Lehre - Übung - Erleuchtung, Weilheim, O. W. Barth, 1972 (伊訳 I tre pilastri dello Zen. Insegna-mento, pratica e illuminazione, Roma, Ubaldini, 1981)。以下の記述に関しては、H. Waldenfels, Faszina-tion des Buddhismus. Zum christlich-buddhistischen Dialog, Mainz, Grünewald, 1982, 116-118にみられる短い紹介を参照。
5 「公案」とは、文字通り、過去に起きた「公の事案」を筆写したものである。特に重要な2つの公案集として、『無門関』(和文;伊訳として a cura di Z. Shibayama, Mumonkan. La porta senza porta, Roma, Astrolabio Ubaldini, 1977. 註1, 4, 7で挙げたハインリッヒ・デュモリン、山田耕雲、フィリップ・カプロー、柴山全慶の著作も参照)とW. Gundert, Bi-yän-lu. Meister Yüan-wu’s Niederschrift von der Smaragdenen Felswand, München, Carl Hanser, voll. I-III, 1960-1973の翻訳版がある。
6 「無」は空間的、形而上学的な意味での「何もないnulla」を意味するわけではなく、「…でないno」を意味したり、「行わない」「言わない」など、注解書の中で語られる剣のように切断を示す「…しないnon」をも意味するので、ここでは3つの訳語を挙げておく。
7 「無」は『無門関』の最初の公案の核をなしている。前出Die torlose Schranke..., 30-334に収録された山田による注解書『提唱』およびZ. Shibayama, Zu den Quellen des Zen, Bern, Donauland, 1976, 31-46参照。
8 H. Enomiya-Lassalle, Zen und christliche Spiritualität, München, Kösel, 1987, 125-186 (伊訳 Zen e spiritualità cristiana, Roma, Edizioni Mediterranee, 1995)参照。本書はラサールの名で出版されているが、ローランド・ローパーとボグダン・スネラによるその改訂版である。
9 K. Rahner, «Die ignatianische Logik der existentiellen Erkenntnis bei Ignatius von Loyola», in Id., Sämtliche Werke, Bd. 10, Freiburg, Herder, 2003, 368-420 (伊訳 «La logica della conoscenza esi-stentiva in Ignazio di Loyola», in Id., L’ elemento dinamico nella Chiesa. Princìpi, imperativi concreti e carismi, Brescia, Morcelliana, 1970)参照。 10 W. Johnston, Der ruhende Punkt. Zen und christliche Mystik, Freiburg, Herder, 1974; Id., Christian Zen. A Way of Meditation, San Francisco, Harper and Row, 1971 (伊訳 Lo zen cristiano, Roma, Coines, 1974); K. Kadowaki, Zen und die Bibel. Ein Erfahrungsbericht aus Japan, Salzburg, Otto Müller, 1980 (伊訳 Lo zen e la Bibbia. L’esperienza di un sacerdote, Cinisello Balsamo (Mi), San Pa-olo, 1990); Id., Erleuchtung auf dem Weg. Zur Theologie des Weges, München, Kösel, 1993; J. Kopp, Schneeflocken fallen in die Sonne. Christuserfahrungen auf dem Zen-Weg, Annweiler, Plöger, 1994 (伊訳 Così la neve al sol si disigilla. Esperienze di Cristo sulla via zen, Roma, Appunti di Viaggio, 2001); M. Seitlinger - J. Höcht-Stöhr (eds), Wie Zen-Meditation mein Christsein verändert. Erfahrungen von Zen-Lehrern, Freiburg, Herder, 2006参照。
11 K. Rahner, «Zur Theologie der Menschwerdung», in Id., Sämtliche Werke, Bd. 12, Freiburg, Herder, 2005, 318 (伊訳 «Teologia dell’Incarnazione», in Id., Saggi di cristologia e di mariologia, Roma, Pa-oline, 1967, 113)参照。受肉においては、このような大胆な神〔性〕の放棄によってイエスの中に生じたことが人間イエスの中で起きている。「人間としてこの者は、まさしく彼の自己表現における神の自己顕現なのである。というのも神は、まさに姿を現して自分自身を愛として告げるときに、すなわち愛の気高さを隠して自分自身を普通の人間として表すときに顕現するからである」。
12 この点に関する参考文献は以下の文献に詳細に記載されている。H. Waldenfels, Absolutes Nichts. Zur Grun-dlegung des Dialogs zwischen Buddhismus und Christentum, Paderborn, Bonifatius-Verlag, 2013.同著者の第二部である Gottes Wort in der Fremde. Theologische Versuche II, Bonn, Borengässer, 1997, 167-331; 129-164も参照。
13 前出J. Kopp, Così la neve al sol si disigilla, 51-63参照。
14 同書94.
15 前出H. Enomiya-Lassalle, Zen Weg zur Erleuchtung..., 50-53参照。
16 日本語では「思考が存在しないこと」(不思慮)と「思考しないこと」(非思慮)が区別される。特に前出H. Wal-denfels, Gottes Wort in der Fremde..., 235-238; T. Izutsu, Philosophie des Zen-Buddhismus, Reinbek, Rowohlt, 1979, 101-125 (伊訳La filosofia del buddhismo zen, Roma, Astrolabio Ubaldini, 1984)参照。
17 E. Hurth, «Sie wissen nicht, was sie glauben. Zur religiösen Wissenskrise in einer nachchristlichen Gesellschaft», in Herder Korrespondenz 66 (2012) 141-146参照。
18 この立場または信仰告白は、科学的な議論と同じレベルに置かれるべきではなく、純粋な概念レベルでの比較は十分ではない。宗教には語られた言葉を超えていく傾向があることを考えれば、理論の「言語化」のプロセスはそれにふさわしい場所で行われるべきであり、今ここで我々が論じている霊の識別と混同されるべきではない。
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アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
東洋と西洋の架け橋

Alessandro Valignano,
Ponte tra Oriente e Occidente
Piersandro Vanzan S.I.
ピエルサンドロ・ヴァンツァン神父

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安土桃山時代から江戸時代初期の日本に
滞在した司祭・ヴァリニャーノ。
天正遣欧少年使節の派遣を
計画・実施したことで知られますが、
異文化への理解、敬意を持つことによって、
キリスト教文化を定着させた
功績について詳説します。
La Civiltà Cattolica 2007, I, 157-166

 2006年10月27日、28日の2日間にわたって、キエーティ(イタリア共和国アブルッツォ州の都市)にて『ルネサンス人アレッサンドロ・ヴァリニャーノ:東洋と西洋の架け橋』1と題した国際学会が、このキエーティ出身の偉大な宣教師の死後400年を記念して開かれた。ヴァリニャーノは優しさと粘り強さを兼ね備え、根本的に異なる文化や宗教間の対話を、相手の習慣に宣教を適応させるという独自の福音方針をとることで、可能にした人物である。もし今日、この方法がさまざまな国々にキリストのメッセージを伝えるための道になっているとするならば、それは特に極東に対して西洋人が無知であった16世紀頃の日本や中国においてまさにとられるべき道であった。
 ヴァリニャーノの人物像や彼の著作は宣教の世界において卓越した評価を得ており、彼については次のように語られている。「彼は長身の人物であったが、彼の精神性はそれよりもはるかに高かった。彼の構想、方法、目的や、困難に立ち向かい、勇敢に解決していくやり方は常に偉大だった。すべてのことに対して彼は常に先を見通す広いビジョンを持っていた。彼には、貧弱で乏しい面は何一つなかった。彼のキリスト教における父であるイグナチオとともに、彼は世界のように広い心を持っていたのだ2」。彼の福音を伝えようとする熱意、すべての者との対話を求める意欲は類を見ないもので、西洋人とは大きく異なる習慣や考え方、ふるまいを理解しようとする探求心はとどまるところを知らなかった。それゆえ彼は、後にイエズス会全体で適用されることとなる文化適応主義の宣教方針の先駆者であるだけでなく、今日、多民族・多文化・多宗教社会でありながらも、「グローバルな村」の中で共存するための唯一の道である相互理解がいまだできていない現代社会にとってのモデルでもあるのだ3

日本における若きイエズス会士の洞察力(直観)

 1539年にキエーティに生まれたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、パドヴァで法学を学んだが、そこで、おそらく彼の持ち前の衝動的な性格ゆえに裁判沙汰となり、ヴェネツィアの牢獄に収監された。牢獄で数か月過ごしたのち、彼はカルロ・ボッロメオ枢機卿のとりなしによって釈放されると、ローマに移り、熟慮の末、イエズス会に入会した。1566年にはサンタンドレア・アル・クイリナーレにて修練期を過ごし、その後、当時ヨーロッパでも名だたる教師陣を誇っていたコッレージョ・ロマーノ(ローマ学院)にて人文学を学ぶ4。1569年から1571年にかけて、修練生の指導を務め、管理能力を発揮すると同時に、神学を学び、司祭となった。
 1573年4月25日、ヴァリニャーノはイグナチオ・デ・ロヨラの3代あとの後継者であるベルギー人の総長エヴェラルド・メルクリアンによって、「東インド管区の巡察師」に任命された。まだ年若いヴァリニャーノに対するこの決定の理由として、キエーティで開催された学会でザベリオ会神父アウグスト・ルーカ氏(日本での宣教活動を経験したのち、現在は歴史家として活動)は次のように指摘している。「彼は機敏で鋭い知性の持ち主であったため、すべての出来事の本質とその対処方法を適切な洞察力によって即座に見抜くことができた。彼はヴェネツィア共和国やローマのルネサンスの環境の中で、異なる文化に対する人文主義的メンタリティーを形成していた。情熱的で時に激昂するほど衝動的であり、精力的で頑固な性格であったが、自身の衝動性を自覚していたために、徐々に自身を禁欲的努力によって抑えるすべを覚え、それにより敵意や反対に冷静に耐えることもできた。皆を分け隔てなく愛する広い心の持ち主であり、さらに病気の仲間に対しては特別な配慮を示し、個人的に世話をして、夜通し看病することも厭わなかった。総長メルクリアンの指示以上に自身の心に従って、彼は優しさやいたわりをもって人々に接し、それゆえ皆が彼によって愛されていることを感じ、同じように彼を愛そうとしたのである5」。
 彼は1574年3月21日に39人の宣教師たちとともにリスボンから出発した。道中の不運や、インドで生活する上での苦悩は、統治権力者の物質的関心や、商人や役人、軍人たちによる悪行によってもたらされる福音活動への障害や妨害に比べればたいしたことはなかった。また当時インド人がキリスト教徒になるためには、彼らは自身のアイデンティティーを放棄し、洗礼によってヨーロッパ人となり、西洋の名前や衣服、慣習を踏襲しなければならず、このことが改宗の一つの重大な障害となっていた。当初はヴァリニャーノも不正を正すことにとどまり、真の福音の適応主義を計画してはいなかった。なぜなら当時インドはポルトガル王室の布教保護権下にあったため、宣教師や司教を選び方法を決定するのは彼ではなかったからだ。しかし1579年の7月に日本に到着すると、彼は方針を変え、彼の特徴であったその衝動性と使徒的粘り強さから、改宗者に自身の文化を放棄させ、西洋の文化を受け入れさせることは間違いであり、非キリスト教的であることを示した。そのために彼は、日本で布教活動を指揮していたポルトガル人フランシスコ・カブラルのメンタリティーや指示に真っ向から対立することになった。そしてヴァリニャーノは日本人の洗練された慣習や、礼儀正しいそのふるまい方を学ぶことを求めたのだ。その結果、彼のもとにいたイエズス会士たちは、まったく異なる生き方に適応する形で、聖パオロが示した次の言葉に従って福音を広めることができたのである。「ユダヤ人に対してはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、私が福音に共にあずかる者となるためです」(コリントの信徒への手紙一、9、20‒23)。

対話を求めて:適応主義

 1581年10月に、彼は「Il Cerimoniale(日本の習俗と形儀に関する注意と助言)」の作成をはじめた。この作品は、アドリアーナ・ボスカーロ氏が指摘するように「日々のふるまいの詳細なガイドラインと呼べるようなものであり、長い観察によって構築された鏡のようなものである。そこでは食事のマナーから着るものや身だしなみ、その他さまざまなふるまいや明確な言語的コードに至るまでが扱われている」。なぜなら、宣教師たちにとって最初に心に刻むべき義務が、アプローチする際に不可欠な要素である言語をよく習得することであるならば、日本人の礼儀作法を習得し、どのような状況においても、とりわけ高位の人物と接する際には特に、洗練されたふるまいをするよう学ぶこともまた不可欠なことであるからだ。「日本人は他のどの民族よりも、礼儀正しく清潔な民族です6」とヴァリニャーノは書いており、それゆえ、ふるまいだけでなく、身だしなみや住居を清潔に保ち、畳の上に置かれた低い机で食事をすることに慣れ、決して平静や節度を失わないよう感情を制御するために細心の配慮をすることを勧めている。
 服装に関しては、イエズス会士の黒い衣服は、僧侶の使う僧衣とそう大きく異ならず、僧侶、中でも特に禅宗の僧侶は、社会的地位によってさまざまな区分が存在する日本社会において彼らのモデルとなるべきものであった。カルメロ・リゾン氏が強調するように、ヴァリニャーノは「このような民族には、イエズス会士のほうが特別な福音方法を考慮しなければいけないだけでなく、さらなる配慮が必要である。すなわち、彼らの生活の形をあらかじめ詳細に勉強し、その高次の考え方、ふるまい方に完全に適応して、押し付けたり、日本の文化的アイデンティティーを破壊することなく、対等な者同士の対話を構築できるようにしなければならない7」ことを確信していた。ヴァリニャーノにとって、イエズス会士は「日本人化」しなければならなかったのであり、日本世界に少しずつ入り、福音活動において彼が根本的なものと考えていた適応主義を実行する必要があったのだ8
 ヴァリニャーノはその天賦の才によって、それらを尊重させ、キリスト教やヨーロッパ文明を極東世界に広めただけでなく、受肉の神秘に関して第2バチカン公会議が明言したものをも先取りしていた。「教会はすべての者に救済の神秘をもたらし、神による命を与えるために、すべての集団の中に入っていかなければなりません。それはまさにキリスト自身がその受肉によって彼が生きた時代の人々の社会や文化的状況の中に身を置いたことと同じ動きなのです」(Ad gentes, n. 10)。その視点において、ヴァリニャーノはその国の宗教の上に、似てはいるものの、しかしその中に「洗礼準備者たちを真実に導くために頼るべき真実の光」を見出せるような考えを形成させた。それは負の要素から浄化させながら、成長させるべき「キリストの種」である。対話相手を侮辱することなく、ただ相手が真実を見つけるための手助けをし、その人物が「真の法」に到達し、それに従うよう、人類の持つ力(判断力)を頼りに永遠の幸せに到達するよう努めるのである。つまりこの「真の法」を日本にすでに存在していた「教え」の比較対象として提示したのだ。
 彼は、日本で支持されていた宗教が仏教であったことから、その教えに注目し、そして神や創造の概念の欠如という仏教の特徴を明らかにした。実際、仏教には神を表す言葉は存在しなかった。しかしヴァリニャーノは、仏教徒が「すべての根源・真理」を表す言葉として「一心9」という言葉を使っていることに気が付き、次のように書いている。「仏教の教えによると、すべてのものの根源であり、すべてのものの中に内在している『超越的存在』があります。世界の他の構成要素と同様に『自我』もまたこの超越的存在に属し、すべてのものは消えると、彼らが『一心』と呼ぶところの唯一の根源に戻るのです。それは永遠で、純粋なるものであり、光り輝き、形を持たず、不変のものであり、理性的思考を持たないものです。永遠の生命を生き、宗派によってさまざまな名前で呼ばれています」と。仏教では、生涯においてこの真理を完全に会得した者(悟りを開いた者)は、「仏の栄光のもとに」参加することを許されるのであり(原文通りキリスト教的表現を使って説明しています・訳者注)、こうしてすべてのものの根源に戻るのであるから、福音においては、この一心に狙いを定め、すべてのことは(キリスト教の)信仰を予告している、すなわち福音で示されるものがすでに準備されているということを伝え、永遠で純粋で光り輝き形を持たないものなのではなく、肉体を持った人間であり、超越的存在でありながらも手の届く存在である「根源」との交わり(聖体拝領)へと促すのである。
 ヴァリニャーノは日本での最後の滞在期(1598‒1601)に、日本のキリスト教の「はじまりと発展」を語る新しい歴史を書くことを熱望していた。彼の忠実な仲間であるルイス・フロイス神父によって書かれたもの──フロイスはすでにこの種の歴史書をポルトガル語で完成させていた──をもとに、最初のイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルの活動からはじめ、ヴァリニャーノの時代まで、管区長ごとに時代順に5巻本の作品にまとめることを構想していた。
 残念ながらこの作品は1巻のみの完成となったが、そこにはM・アントニ・J・ウセレル氏の報告で強調されたように、日本に対する民俗誌的、地理的、文化的に貴重な記述のみならず、「日本におけるイエズス会の宣教をローマの初期キリスト教時代の活動と比較した4つの神学的考察の章」という興味深い記述も見られる。日本のキリスト教の歴史が神の摂理であるとする解釈のもとに、ヴァリニャーノは「フランシスコ会やドメニコ会の修道士たちが、イエズス会士の非キリスト教徒たちへの説教において正統を逸脱しているとする鋭い非難10」に反論し、自身の福音の方法の有効性を示そうとしていたことがうかがえる。日本の教会の未来に対する彼の計画は、できるだけ早く日本人の司祭や司教、そして彼らに協力する日本人の在家信者たちによって自分たちで運営できる形を確立すべきであるという考え方に基づいていた。とはいえ、その夢が実現するためには、最終的に2世紀以上も待つことになる。

中国のキリスト教宣教の先駆者たち

 残念ながら日本のキリスト教徒に対する何十年にもわたる迫害によって、この楽観的な予想は砕かれることとなったが、カトリックの伝道師たちが2世紀半後にこの地に戻った際に、彼らはキリスト教の深い根がすでに植えられていただけでなく、それが忠実に守られ、父から子へと受け継がれていたことを見出すことになる。その一方で、ヴァリニャーノは神がしばしば与える不思議な縁によって、日本で実験された最善の方策が、日本では迫害によって停止するものの、中国において大きく発展するのを見ることになった。実際1578年にヴァリニャーノは、巡察師としてマカオに立ち寄った際、ゴアの管区長に、勇気を持った有能な人材を使って中国での福音を行うという困難な道を試すよう提案している。これにより、日本で実験された適応主義を中国で行うという使命のもとに、当初はミケーレ・ルッジェーリ神父が、そして彼に合流する形で1582年にはマテオ・リッチ神父がやってきた。
 こうして流血の迫害によって中断された日本での活動が、この2人の先駆者たち──そして彼らに続く者たち──の機知と、巡察師による絶え間ない指導のおかげで中国に広まることになった。ヴァリニャーノは彼らを新たな指示やその洞察力によって見守るだけでなく、より重要な決定には彼自身が介入することもあった。何よりも彼は、宣教師たちが中国人に受け入れられ、彼らのメンタリティーを理解できるよう言語を習得することを求め、直接的経験のもとで活動させた。まず最初に、ヴァリニャーノは、日本と同様に中国でも僧侶が尊敬を得ていると考え、彼らに僧侶のような服装をするよう指示を出した。しかしすぐにマテオ・リッチは──彼は、コッレージョ・ロマーノ時代から強い関心を示していた分野である数学や天文学の知識のみならず、「世界地図」を作成したことですでに現地で高く評価されていたが──僧侶が中国社会ではあまり評判がよくないこと、もっとも評価されている階層は、儒学者や科学者であることを理解した。実際、厳しい試験を経て選別された彼らが中央政府を指揮し、地方や都市部の職務を担っていたのだ。
 それゆえ、マテオ・リッチは仲間とともに他の地方へと移動すると、儒者のような服装で現れた。この彼の洞察力のおかげで、現地の人々から高い名声を博し、南京に第3の拠点を開くと、そこで官僚たちとの交流をはじめ、丁重に受け入れられることになる。この大きな変化によって宣教師たちは壁を打ち壊すことに成功し、慎重ながらも徐々にキリスト教の基礎や、魂の永遠性、死後の生命に関する精神的談話をはじめることが可能になった。特にマテオ・リッチは中国文化に精通していたので、カテキズムと学問的キリスト教教理の間に根本的な区分を導入することを求めた(今日では、布教準備、段階的福音、神学・教義的完成と言えるようなもの)。
 冒頭の学会の報告で、ジャンニ・クリヴェラー氏が指摘したように、「この方法によって自然な啓示と実証的啓示の違いを神学的につくり出すことに成功し、中国人の文化的な動向を熟知していたリッチは、中国の状況にキリスト教の護教的様相と学問的様相の違いを適応させ11」、それによってヴァリニャーノの称賛を得ることになった。ヴァリニャーノは総長に次のように報告している。「中国での宣教は、まさに人のなせるわざ以上の奇跡的な結果をもたらしています。中国人がすべての外国人を嫌い、軽蔑していることを考えると、今後100年たっても我々がこれほどの信頼を得、王の宮廷(北京と南京)に参入することができるとは思ってもいませんでした12」。
 つまりヴァリニャーノの歓びはひとしおであり、彼は状況が許すや否やすぐに日本を離れ、より近くから中国での宣教の先駆者たちを補佐するためにマカオに赴いた。その間にマテオ・リッチはヴァリニャーノが北京に行き、自身の目でこの多くの努力の結果を見られるよう通行証を手配していた。しかし、彼がこの待望の旅に出る前の1606年の1月20日、マカオにて死が彼を襲った。リッチ神父は次のように書いている。「フランシスコ・ザビエル、そして巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父という2人の非常に神聖な人物が中国に入ることなく、その入り口で死を迎えられたことは神の御心でした」と。

結論13

 西洋の地理的大発見、そして極東に対するヨーロッパの関心が再び高まった世紀に生きたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、不屈の宣教師であり、神の愛の伝達者であった。インドやマラッカ、日本に宣教に訪れ、そして中国のように個人的には訪れなかった場所にも、現地の文化やその民族の伝統を尊重しながら福音を行うよう、自身の仲間を派遣した。彼は勇気と知性により、福音に際し彼の先人たちが使っていた伝統的な宣教方法をとるのではなく、徹底的に未知の東洋世界を知り尊重するために、その世界の中に自ら身を投じることを決意した。実際、彼は日本に着くとすぐに、自分の前に2つの道が開けていることに気がついた。すなわち、対話の道か、対立の(そしてその結果言葉での対話のない)道である。
 「私には不合理に思われます」1595年11月23日の手紙の中で彼はこう記している。「神父たちが日本で生活していながら、日本人の洗練された習慣や礼儀正しいふるまいに順応しようとしないことは。日々礼儀作法における何らかの違反を犯し、また侍や大名との会談で気の利かない行動をしているようです。しばしばキリスト教徒たちは、宣教師の家に行き、違和感を感じたり、気分を害することさえありました。このことは、僧侶たちが洗練された礼儀作法で彼らと接することを考えるとより一層深刻な問題です」。これはいったい、どうしたら避けられるのか? ヴァリニャーノは日本人を注意深く慎重に観察し、彼らの欠点──暴力的で好戦的といった──と同時に、文化や知性といったその長所を理解した。日本の生活を尊重し平和を求めることこそが重要であることを確信した彼は、許しや慈愛、相互尊重によってキリスト教のメッセージを広めるために、イエズス会士たちを「日本人化」させることを望んだのだ。
 トレント公会議の改革の真の落とし子であるヴァリニャーノは、福音を広め、キリストへの愛が教会の神髄であると信じ、「さまざまな王国に信仰を広めるためのいかなる機会をも逃すべきではありません。それよりもむしろ神の愛の火によって日本全土が燃え盛るよう全力を注ぐべきなのです。我々はキリスト教徒の、信仰に対する粘り強さの点で神を信頼しなければなりません。神は使徒たちによって蛮族(原文ママ/訳者注)をキリスト教に改宗させたのですから、日本人のように救いを求め、理性に従おうとする用意のある賢明な民族に対して、我々はより強い希望を持てるでしょう」。すべての人間に共通の財産であり、他者を理解する手段である理性が、福音の言葉を通じて、対話者の知性や心を照らす手段となるだけでなく、会話に基づく真摯な対話を保証したのである。
 ブルーノ・フォルテ猊下が強調されたように、「理性がすべての人類の共通の財産であるとみなされ、そしてそれが現実の知的構造の中で行使されるよう教育された場合にのみ、異なる人々が真の意味で出会うことができ、対話が可能になるのである。この対話の方法によって、文明間の出会いが可能になり、暴力の法──多くの人が自身の目的を遂行するための近道として好んでいるものの、すべてにとって必然的に悲惨なものであることが明らかなもの──は、人間の理性や心の奥底に刻まれた自然の法の力に場所を譲ることになるのだ」。
 ヴァリニャーノは先見の明をもって、そのことを直感で感じ取り、そしてその生涯を異なる文化や宗教間の日々の対話を織りなすことに捧げることで、実現した。そしてまさにこのことは今日においても、平和のもとに我々が多様性を守りながら共存していくための唯一の道であり続けているのだ。

[原田亜希子訳]

1 キエーティ・ヴァスト大司教、キエーティ市、キエーティ・ペスカーラ大学、日本大使館後援のもと、キエーティ貯蓄銀行によって開催された本学会には、ローマグレゴリアン大学、ローマイエズス会歴史研究所、ローマ日本文化会館が協力し、各国の研究者たちの参加が見られた。
2 P. D’Elia, I grandi Missionari, Roma, Unione Missionaria del Clero, 1940, 121.
3 奇妙なことに、ヴァリニャーノに関しては、1660年代にダニエッロ・バルトリが日本のイエズス会の活動に関する彼の著作の中で詳しく書いているものの、その後1900年初頭に本誌の中で言及されるようになるまで(La Civiltà Cattolica, 1906, I, 641-659とII, 147-158; 414-434参考)扱われることはなかった。さらにその後再び忘れ去られていたヴァリニャーノは、シュッテ神父の大著Valignano’s Missionsgrundsätze für Japan, Storia e Letterature, 1958によって再び脚光を浴びるようになる。そして近年ではこれまでの研究の空白が埋められる傾向にある。V. Volpi, Il Visitatore, Casale Monferrato (Al), Piemme, 2004(邦訳 ヴィットリオ・ヴォルピ『巡察師ヴァリニャーノと日本』原田和夫訳、一藝社、2008年)は日本滞在期を中心にした伝記。A. Luca, Alessandro Valignano: la missione come dialogo con i popoli e le culture, Bologna, EMI, 2005はヴァリニャーノの生涯とその旅の様子を資料に基づき再構築し、厳密ながらも細部に固執しすぎない形で効果的に彼の福音戦略の新規性を紹介した作品。詳しくはLa Civiltà Cattolica, 2006, IV, 99s参照。
4 グレゴリウス暦改歴(1582年)の中心人物であったドイツ人イエズス会士クリストファー・クラヴィウス(1538-1612)などが挙げられる。
5 この点に関しては以下を参照。M. Valignano (Università di Ferrara), La famiglia Valignani al tempo di padre Alessandro; M. Asami (Keio University, Tokyo), Lord-Vassal Relation in feudal Japan as seen by Alessandro Valignano; R. De Luca (26 Martyrs Muserum, Nagasaki), The politics of evangelization: Valignano and his relations with the Japanese rulers of the sixeenth century; F. García Gutiérrez (Uni-versidad de Sevilla), Valignano and the introduction of western art in Japan.
6 A. Boscaro (Univeristà Ca’ Foscari, Venezia), Valignano interpreta il Giappone: Il Cerimoniale. J. Borges (Loyola College, Maryland), Redrawing the face of the Jesuit mission in India: highs and lows in Alessandro Valignano’s mission strategy; P. Correia (Universidade Nova, Lisboa), Valignano’s Apo-logia and its concept of evangelization; S. Hirakawa (University of Tokyo), Valignano e le sua politica di adattamento culturale: l’influsso tardivo su Nakamura Masanao, modernizzatore Meiji; J. López Gay (Pontificia Università Gregoriana, Roma), El Sumario de las cosas de Japon (1583): una delle opere principali di Alessandro Valignano K. Igawa (University of Tokyo), Valignano’s description of Japanese society and historical materials in Japan.
7 C. Lisón-Tolosana (Real Academia de Ciencias Morales y Políticas, Madrid), Valignano o il fascino della differenza. ヴァリニャーノによって発案された日本人少年使節(1582-87)はまさにその象徴であり、彼らに関する展覧会が、国際学会を機にキエーティにて開催された。
8 ヴァリニャーノの日本人に対する称賛や、彼らの持つよい面に同化しようとする努力は、ヴァリニャーノ自身にもよい影響を与えていることは注目に値する。実際、巡察師としての初期の時代、宣教師たちはしばしば彼の怒りが爆発する様子を目にしていたが、日本での経験ののち、彼は自身を制御し、優しさを保てるようになったことから、皆に評価されたという。まさに宣教師がキリストの教えを人々に与えるだけではなく、彼らの伝統から人生における貴重な教えを得られた宣教の好例と言えよう。
9  「一つ、唯一」を意味する漢字と、「心、中心、精神」を意味する漢字によって構成されたこの言葉は、究極の現実を表すものであり、次のように説明できる。「一心とは全面的絶対であり、形而上学的に、二つの要素を通じて表されるものである。すなわち『あるがままの姿』と言える絶対性(真如)と、現象(諸事)である。これらの要素それぞれが、すべての存在を包括しているのである」。(M.A.De Giorgi, Salvati per grazia attraverso la fede, Bologna, EMI, 1999, 282)
10 M. A. J. Üçerler (Institutum Historicum Societatis Iesu di Roma), Valignano come storico della missio-ne: la sua ultima parola sul Giappone nel «Principio y progresso» (1601-1603).
11 G. Criveller (Holy Spirit Seminary of Hong Kong), Alessandro Valignano e Matteo Ricci: padri della missione cinese. R. Po-Chia (The Pennsylvania State University), Valignano come visitatore della Cina: Il significato per la storia della missione gesuitica.
12 このようにアウグスト・ルーカは「イエズス会の初期の宣教方法(15-16世紀)」を扱った彼の伝記の中で記している。
13 この章での引用は以下の文献による。B. Forte (arcivescovo di Chieti-Vasto), Attualità dell’opera e del messaggio di Alessandro Valignano.さらにヴァリニャーノや彼のメッセージの現在的意義に関しては以下を参照。F. Mazzei (Università «L’Orientale» di Napoli); V. Volpi (UBS Italia spa), La relazione del Valignano nella gestione della diversità culturale nell’età della globalizzazione; A. Tamburello (Università «L’O-rientale» di Napoli), Epilogo dei lavori: considerazioni conclusive.
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ルターの破門から500年

La scomunica di Lutero:
500 anni dopo
Giancarlo Pani S.I.
ジャンカルロ・パーニ神父

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マルティン・ルターといえば、
宗教改革の立役者として、
たとえキリスト教徒でなくても
その名は知られています。
異端とされ、ローマ教皇に破門されてから、
すでに500年の時が流れた現代においても、
そのルターの功績がいまだに
取り沙汰されるのはなぜなのか。
カトリック世界への自戒も込められた
興味深い考察です。
La Civiltà Cattolica 2021, I, 118-132

 1521年1月3日、教皇勅書Decet Romanum Pontificemによって、ルターは異端と宣告され、破門された。その前年の1520年の勅書Exsurge Domineの要求にもかかわらず、彼が自身の主張を撤回しなかったからである1。その時から、カトリック世界において彼は「異端者」、とりわけキリスト教世界の統一を引き裂き、聖職者の地位や宗教生活を覆した者とみなされてきた。
 なぜ500年もたった今、この破門について言及するのだろうか。残念ながら彼の影響は歴史の中で今も強く存在し、苦しみを生み続けている2。教会法においては、破門それ自体は当該者の死をもって消滅するが3、ルターの場合は、その効力がほぼ500年もの間続いている。まるで教皇勅書がルターだけを「破門」したのではなく、改革自体をも破門したかのようである。
 このような歴史的な結果をもたらした経緯には、ウィッテンベルクの「95か条の論題」やガエターノ枢機卿の審問、そして破門から最終的に1521年4月のヴォルムスでの審問に至るまでの、教会側とルター側双方から生じたさまざまな出来事が存在する。

ウィッテンベルクの論題:討論の要請

 1517年10月31日の「95か条の論題」は、長らくルターからの教会に対する挑戦とみなされてきた。これが諸聖人の教会の門に掲示されたことがそれを物語っているだろうと。しかし、多くの人が歴史的事実だと思っている掲示のエピソードは、実際には伝説に過ぎないのであった。このことを取るに足らない細部と片付けることはできないだろう。なぜならこの事実によって、この掲示をルターからの教会に対する反乱とみなす数世紀にわたって受け継がれてきた解釈が覆されるからだ。そのことについては5年前にも詳しく取り上げた4
 論題は、ルターがマインツの大司教アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクに送った手紙に付随するものであった。彼は、ドイツでの贖宥状に関する説教の責任者であり、この贖宥状の販売によって得られたお金は、サン・ピエトロ大聖堂の再建のために使われるはずであった。聖職者であり、大学教授であったルターは、人々が自分自身や死者のために贖宥を得ようと選帝侯の領地の外へと我先に向かっている当時の状況を心配していた5。ウィッテンベルクでは、ザクセン選帝侯フリードリヒ3世が、現金が外部に流れ、彼のライバルであるマインツ大司教のもとに行くことを避けるために、贖宥状を禁止していた。
 ルターは、ドメニコ会士たちが贖宥状を無責任に紹介するその方法や、信徒たちに救済についての誤った考えを植え付けていることに困惑していた。誰一人として自身の救済について確信を持つことはできない。彼は、「贖宥状のバカ騒ぎ」にとって代わられ、すっかり忘れ去られている「すべての司教の第一にして唯一のミッション」こそ、福音を伝えることにあると指摘した6。それがまさに1517年10月31日、諸聖人の祝日の前日であった。
 手紙に付けられた「95か条の論題」には、説教からルターが感じた疑いについて大司教が考察するための異議が述べられ、この問題を深めるための論文De indulgentiis(贖宥について)も含まれていた。また教会当局に向けられていたために、全文がラテン語で書かれていた。つまり、1517年10月31日に論題の掲示などなかったのである。この掲示に関しては、大学の創設やその歴史を記している記録の中にも見られない7

なされなかった返答とローマでの告発

 ルターが手紙の返答を受け取ることはなく、また討論や、少なくとも説明を求める彼の声に対する反応もなかった。それどころか、大司教アルブレヒトは憤慨し、論題を「新しい教義」を広めるものという告発とともにローマに送った。
 すぐに論題はドイツ中で多くの反響を呼んだ。しかしこれを広めたのはルターではなかった。彼は、返答をむなしく待った後、それについて何人かの友人に話した。そこから音を立てずにひっそりと、広まりはじめたのである。1518年の1月には、論題は印刷され、各地に知られるようになった。これによってローマに対する激しい非難が巻き起こったことから、ルターは民衆に向けての説明が必要であると感じた。そこで1518年3月に、「贖宥と恩恵についての説教」をドイツ語で出した。さらにそれに続いて、ラテン語での論題の神学的解説も出している。レオ10世に献呈する手紙とともに書かれたこの論考は、一つの「抗議」によってはじめられた。教皇の声に、教会を導き指揮するキリストの声を認めながらも、彼は次のように締めくくっている。「この私の宣言によって、私が間違うことはもちろんあり得ますが、私を異端者にすることはできないということをはっきりと伝えられていることを願います8」と。
 ローマでのルターの訴訟は遅々として進まなかった。しかしながら、教皇は教皇庁の神学者シルヴェストロ・マッツォリーニ(通称プリエリアス)に論題を審査するよう依頼した。彼は教皇の権威と不謬性に基づいて、「教皇権にかんするマルティン・ルターの大胆な結論に対する対話」をわずか3日で書いた。論題は、聖書に対する解釈の点で却下されたのではなく、教義の正統性と教会の統一に不可欠な教皇に関して議論したことによって却下されたのである9。この返答が表面的であると人文主義者たちは一様に評価を下したものの──エラスムス自身も「非常にばかげている」と定義しているが10──、プリエリアスがこの論題の問題を理解していたことは認めざるを得ないだろう。というのも、教皇の権威は、当時ローマでは皆によって「不可謬」であるとみなされていたのだ11。そしてまた、これはタイトルにあるような対話ではなく、有罪判決だった。「贖宥に関して、ローマ教会が実際にしていることをしてはいけないとみなす者は誰であろうと、異端者である12」。彼にとって、聖書の恣意的解釈と思いあがりは、異端者の特徴であった。ルターに対する彼の評価は、まさに彼が望んだとおりの効果を発揮した。すなわち、ルターは異端と教皇に対する反逆の告発に弁明するためにローマに召喚されたのだ。
 その間に、皇帝マクシミリアン1世もこのアウグスチノ会の修道士によって巻き起こった動きに対して教皇レオ10世に通告していた。この動きは信仰の統一にとって危険であるだけでなく、帝国の秩序をも乱すものであった。そこで、「ルターの件」はガエターノ枢機卿に委任された。彼は名の知られたドメニコ会の神学者であり、また偉大な聖トマス・アクィナスの注釈者でもあった。そして当時ちょうどアウクスブルク帝国議会のためにドイツに滞在していたのだ。彼がルターを審問し、もしルターが主張を撤回しないのであれば、ローマに連れていくことになった。

アウクスブルク帝国議会での審問

 ガエターノは2つの論点を準備していた。1点目は、58条に関してで、彼の主張は1343年のクレメンス6世の勅書Unigenitusに反するものであった。ルターにとって、教会の宝とはキリストや聖人たちの功績ではなかった。2点目は秘跡に対する信仰の問題で、秘跡の効果が、それを受ける人の信仰に関係するのかどうかという点であった。枢機卿にとって、ルターの新規性は伝統の範疇に入るものではなく、彼のメモの中にはこう書かれている。「これは新しい教会を創設することを意味する13」。
 審問では、ガエターノは最初の点に限定した。ルターは勅書Unigenitusをよく知っていることを示し、枢機卿の誤った引用を修正してそのことを証明したが、この勅書が聖書に基づいておらず、聖書の引用において意味をゆがめていることから、強制力のあるものとはみなさなかった。彼は聖書に対する教皇の権威は認めているものの、パウロの教えには異議を唱えた(『コリントの信徒への手紙一』14、30-33)。いかなる信徒でも、精霊がそれを示される時にはいつでも聖書の言葉を正当に解釈できると主張したのだ。したがって、彼は論題を撤回することはできなかった。なぜなら彼の主張は聖書に基づいていると考えていたからである。
 枢機卿が、教皇に従わなければいけないと主張した際には、ルターは、アンティオキアの論争でペトロがそうであったように、教皇も間違うことはありうると主張した14。枢機卿の善意にもかかわらず、アウクスブルクの審問は無意味に終わった。結局のところ、聞く耳を持たない者同士の対話だったのだ。ルターは、彼が何を間違っているのか聖書を使って示されなかったために、主張を撤回することはなかった。ガエターノはこのアウグスチノ会士の頑固さに憤慨していたが、彼の宗教的主張を活気づけていた本質をつかんではいなかった。
 ルター側は、書面で枢機卿に詫びながらも、「助言を十分に受けていない教皇」に対して、もっと彼に情報を伝え、安全な場所で公会議を開くよう要請している15

ガエターノとフリードリヒ3世

 10月25日にガエターノはフリードリヒ3世に対して審問の報告書を作成した。その中で彼は、ウィッテンベルクの教授・ルターに接した際と同様の好意的な態度を見せながらも、教皇勅書Unigenitusに対するルターの主張の深刻さを指摘しなければならなかった。そのため、ルターをローマに引き渡さなければならず、そのことを要求したのだ。
 この手紙に対する返事が来たのはかなりあとの12月8日のことだった。外交的手腕を見せながらも、断固としてフリードリヒはルターに対する告発を否認し、次のように書いている。「マルティン・ルター氏の教義が信仰に反するものである、もしくは危険であると何らかの確固たる根拠をもってみなされる場合は、私自身が全能なる神の助けと恩寵のもとで審問を行うのであり、他の者による勧告は必要ありません16」。侯はルターの著作を調べさせていたが、教会の教義に反するものは何一つ見つけられず、いかなる罪の証拠もなかった。ルターは審問にかけられていたが、異端者としての判決は受けていなかったのだ。フリードリヒは神と自身の良識の名誉のためにキリスト教君主としての義務に従う準備があることを宣言した。彼自身が創設し、支持しているウィッテンベルク大学で異端が出ることは、著しく不名誉なことであり、だからこそ侯は確固たる態度で乗り出したのである。

国際政治と「ルターの件」

 1519年1月12日にマクシミリアン1世が死去した。皇帝位の有力候補は皇帝の孫のスペイン王カルロス1世だった。彼が皇帝位につくと、相続によってハプスブルク家とスペインとの双方を継承するため、教会国家は彼の領土に囲まれる形になることから、教皇レオ10世は、ルターの君主であり、ハプスブルク家の皇帝選出に反対していたフリードリヒ3世が皇帝位を受け入れるよう画策した。しかしこの策略は失敗に終わり、最終的に皇帝カール5世(カルロス1世)が選出された。その間にルターの裁判は中断され延長されたため、この動きはさらに広まることになった。
 1519年7月、神学博士であり大学教授のヨハン・エックとのライプツィヒ討論で、ルターが教会の改革を求めているだけでなく、その構造をも攻撃していることが明らかになった。彼にとって真の頭はキリストだけであるために、教会は地上の頭を必要としていなかった。さらに、教皇の首位性は福音書の中に書かれていないため、信仰に基づくものとはみなされなかった。最終的にエックは、ルターから公会議も間違えうるという証言を引き出すことに成功した。ドイツで開催された唯一の公会議コンスタンツ公会議は、ヤン・フスを有罪とした点で間違っていたのだとルターは主張した。討論の勝者はエックであったが、人々は教皇庁に対抗することができるドイツの英雄としてルターを称賛した。
 ウィッテンベルクの教授・ルターの抗議には、Gravamina nationis germanicaeの問題も持ち込まれた。これは税や、聖職録、恩恵といった、半世紀もの間、ローマ教皇庁に対するドイツ人の不満を集めていたものであるが、それまでは改革や議論すべきものとはみなされていなかった。これらにも焦点があてられたことで教皇の信用を失わせ、ドイツ国内で激しいナショナリズムを生み出した。根本的な改革のみが、沸き上がったこの緊張状態を変えることができる唯一の方法だった。

勅書Exsurge Domine

 ルターによって提示された問題に、いまだ回答はなかった。彼に対する賛同の嵐は、論題に対する大学側の判断を抑制したようである。マインツの神学者たちは論題をローマで検証するように大司教に提案するにとどまった。ルターが学んだエルフルト大学は、明確な態度をとることを避けた。最初の意見は、1519年8月に出されたドメニコ会の拠点であったケルン大学によるものであり、それにルーバン大学が続いた。これらの対応の遅さから、大学側がこの議論に対して意見を述べることに抵抗を感じていたことがうかがえる。
 いずれにせよ、これらの意見は、1520年6月15日の勅書Exsurge Domineの起草に影響した。この勅書は、『詩篇』74章22節の「神よ、立ち上がり、御自分のために争ってください」によってはじまり、そして『詩篇』80章14節の「森の猪がこれらを荒らし、野の獣が食い荒らしています」へと続く17。ルターは狼の群れとともに、主のブドウ園を食い荒らす野生の猪として表された。これこそまさにルターの要求に対する教会側の最初の「公式」な返答であった。しかし彼の最初の要求や、スキャンダルに終止符を打ちたいという思い、良識の問題を世俗の方法で扱うことに対する疑問には何ら応えるものではなかった。
 勅書はルターの著作の中から41の条項を「聖なる耳にとって異端で、非常識で、誤ったものであり、純朴な魂を誘惑し、カトリックの教義に反するもの18」として断罪した。しかしそれぞれの条項のどこが批判の対象になっているのかを明示しなかったために、どれが異端であり、どれが純朴な者にとって危険なものであり、もしくは神学において議論の余地のあるものなのかがはっきりしなかった。またルターの著作の印刷や出版、そして一般の人がそれを読むことさえも禁止し、それを見つけた場合は当局が接収し、公開焼却することを命じていた。
 勅書はルターの過ちを断罪していたのであり、ルター自身を断罪していたわけではない。しかし、彼に60日以内に主張を撤回しなければ、破門であることを課した。しかし、残念ながら、勅書Exsurge Domineの誇張したトーンや、これが急いで作成されたことによって、教会の権威に少なからぬ損害を与え、その効果を失わせてしまった。
 トレント公会議までこの勅書が、ルター自身が距離を置こうとしていた劇的な状況に対する教会の唯一の公式な発言であったのに対し、彼によって生じた危機の波及効果はあらゆる方向に増大し、広がっていった。勅書はようやく出されたが、しかし望んでいたものとは逆の効果を生み出し、特にドイツ世界と教皇庁との関係に関する問題をも巻き込んだ。結果として皮肉にも、このウィッテンベルクの教授・ルターのための宣伝となったのである。

破門

1520年のルターによる改革的作品の出版19と、ケルンでの彼の著作の焼却──ルターも同様のことを教皇勅書に対して行い、そこにこっそりとExsurge Domineのコピーも入れていたのだが──は、事態を急速に悪化させた。指示されていたようなルターによる発言の撤回がなされないまま60日がたったため、1521年1月3日に破門の勅書Decet Romanum Pontificemが発布された。教会の世俗権を担う帝国は、中世の司法の伝統に従って判決を認め、刑を執行しなければいけなかった。
 しかしカール5世はそれを実行しなかった。それは皇帝位に選出された時に、いかなる臣民も審問されることなく有罪となることはないと誓ったからではなく、フリードリヒ3世がルターをヴォルムス帝国議会に召喚し、自己弁護する許可を与えていたためであった。帝国議会において、破門者を直接裁くのではなく、率先して宗教的、神学的訴訟を解決しようとしていたことは注目に値する。この選択は過去の伝統からの前進とみなせるかもしれないが、一方で、ルターに応えるために必要な聖書や教義に対する解釈が、帝国議会という世俗の機関にて討論されることを意味していた。それゆえ良心の危機に一切触れることのない単純化した解決法をとるしか道はなかった。

ヴォルムスの審問

 ルターは召喚状のもとにヴォルムスの帝国議会に召集され、1521年4月16日に到着した。それは凱旋式のようだった。彼は、ローマの権力に抵抗することができるドイツの象徴として迎え入れられた。翌日、審問がなされた。彼に20冊の本が提示され、彼が書いたものなのか、そしてそれらを撤回するつもりがあるかどうかと尋ねられた。ルターはそれらを彼の著作と認め、また考えるための時間を求めた。しかし彼は何一つ否定するつもりはなかった。なぜなら「信仰と魂の救済に関わるものであり、天上においても地上においてももっとも偉大な神の言葉に関わる問題20」だったからだ。異端者の審問は、こうして各々の良識を審査する挑戦となった。ルターのみならず、すべての者が、自身の信仰と神の言葉について意見を述べることになった。裁判官も、評決において自身の救済を危険にさらすかもしれなかったのだ。
 4月18日、帝国議会にて、彼は再び撤回するつもりがあるかどうかと聞かれた。ルターはそこで、すべての本が同じ内容について書かれていないことに言及し、それらを3つのグループに分けた。最初のグループは信仰心に関する本であり、そこには何一つ非難するべき点はない。2つ目のグループは教皇庁や教皇権擁護者に関するものであり、これに関しては、その教義と行いによって彼らが「キリスト教世界を台無しにし、良心を傷つけ、人々の富、特にドイツの富をむさぼり食っている21」ために、撤回することはできない。3つ目のグループは「ローマの独裁を支持し、私が教える信仰心を破壊するために活動している者たちに対する22」批判だった。それゆえ、彼は何一つ撤回することはできないが、皇帝や出席者たちに、聖書に基づいて彼の誤りが何であるのかを示すよう求め、聖書のもとには「すべてを撤回する23」つもりであることをはっきりと示した。
 書記官は反論した。「お前は、すべての異端者と同じく、聖書という名の傘に身を隠し、他の異端者と同様、聖書が自分の思うままに解釈できるものであると思いあがっている。その上お前の異端は新しいものではない。すでにその罪が断罪されたフス派や、ヴァルド派、ウィクリフやフスと同じ過ちを繰り返しているに過ぎない。聖書を理解できるのは自分だけであるなどと思いあがるのではない。お前の判断を、昼夜聖書研究に尽力した多くの教会学者たちのものよりも優先させてはならない。キリストが創設し、使徒たちが世界中に教えを説き、たくさんの奇跡や殉教者の赤い血によって裏付けられ、教会学者たちの教えによって示されてきた正統な信仰を疑ってはならない。まさにその信仰の中で我々の先人たちは死んでいったのであり、この信仰は公会議が認めてきたものである(書記官はコンスタンツ公会議に関しても引用している)。はっきりと矛盾なく答えよ。お前はお前の本の中に含まれる間違いを撤回したいのか、そうではないのか24」。
 命を危険にさらし、火刑になるかもしれないことを自覚した上で、ルターは答えた。「聖書からの証拠なくして、そして明確な論拠によって示されない限り、私は認めないでしょう(実際、私は教皇も公会議もそれだけでは信じていない。それらは何度も過ちを犯し、矛盾しているのだから)。私は私が引用した聖書の文言のみを信じるのであり、私の良心(意識)は神の言葉(聖書)にのみ従います。それゆえ、私は主張を撤回することはできないし、望んでもいません。良心に反する行動をとることは、健全なことではないからです。──そしてドイツ語でこう続けた──神よ、私を助けたまえ。アーメン25」。
 3度も彼は聖書という言葉を口に出し、「聖書のみ」と宣言した。なぜなら神の言葉は教義の基盤となり、彼の良心の上にそびえ、彼に撤回しないよう確信させていたからだ。この深い確信のもとでの彼の頑強な答えは、彼の聖書に対する考えに基づくものである。彼にとって最後の頼みは、神の不謬の言葉であり、聖書であって、聖書の解釈の権威でありながらも歴史の中で何度も間違いを犯してきた教会ではなかった。ドイツ語での最後の言葉は、彼の説教を締めくくる際に使っていた簡潔なものであった。自分の国の言葉で述べたことによって、彼はドイツ国民にも語りかけていたのだ。

ルターの有罪判決

 カール5世はルターの証言を聞いたのち、退室するように命じた。翌日、彼は先祖の例に従う意向を厳粛に宣言した。つまりこの修道士の言葉に対し、彼はカトリックの信仰や彼の祖先たちの神に対する敬意に反していると。マルティン・ルターは「神に反し、現在と同様、過去数千年にわたるキリスト教全体に対して間違いを犯している。[…中略…]彼によると、キリスト教全体が過ちを犯しているという26」。この異端者とはもうすでに十分議論していることから、皇帝は心を決めた27
 ヴォルムス勅令は教皇特使ジェロニモ・アレアンドロによって厳かなラテン語で起草され、それは恐怖を感じさせる攻撃的な文体であった。勅令を宣言する前に、皇帝はそれをドイツ語に翻訳させ、あとで独裁的にふるまったと批判をされないためを思ってか、諸国に承認させた。ルターは帝国全土からドイツの敵であり、全キリスト教世界の敵として追放され、彼の著作は焼却処分となった。「教皇聖下の勅書によると、彼は神の教会に属さない者、頑固な分離者であり、明らかな異端者とみなされるべきだ28」。さらに彼を、「人間ではなく、人間の形をした悪魔であり、人類の滅亡のために修道士の服に身をまとい、悪の巣窟に異端を集め、その上、偽りの信仰の説教によって新しい異端を生み出し、真の信仰や[…中略…]福音の平和や慈愛を破壊しているのである29」。異端に対して終止符を打つことが教皇や皇帝の責務であった。それゆえ、「ルターを領地に受け入れたり、かくまったり、食べ物や飲み物を与えたり、援助を与えること」は禁止され、「どこであろうと彼を見つけたら捕まえ、もしくは捕まえさせ、我々に引き渡さなければならない30」。
 教皇特使の思惑に反して、布告は出された直後から圧倒的に人気がなく、今日においても狂信的な歴史家たちはこれを「ローマの恥ずべき布告31」とみなしている。アレアンドロは、布告の発布において、次のように言ったという。「これが悲劇の終わりになるでしょう」と。しかし終わりではなく、教皇庁のとあるスペイン人が「これはむしろはじまりであるように思われます32」と彼に答えたように、まさにこれはプロテスタントとローマ教会の間の数世紀にわたる対立のはじまりだった。
 破門によって、ルターは帝国全土から追放された(このことが、彼の残りの生涯の間、常に重荷となっていた)。彼と彼の信奉者たちは検閲や、破門、そして聖務停止(秘跡を受けることの禁止)の憂き目を見ることになった。しかし一方で、神学的問題は国家や政治の問題へと形を変えていった。ドイツ全土が教皇庁に対して激怒し、この布告を重視しなかった。フリードリヒ3世自身もザクセン選帝候領ではこれを交付せず、そのためドイツ内で唯一ルターが自由に生活し、動ける場所となった。彼の著作は出版、販売され、誰一人罰せられることなくドイツ全土へと広まっていった。
 問題を最終的に解決するためには上からの決定だけで十分であろうという幻想の中に、ローマ教会は希望を抱いていたが、この問題は「頭と四肢の改革」が不十分であったことから徐々に生じていた障害を取り去るためのまったく別の注意と努力が必要だった。もちろん、けりを付けるべき問題とは、教会とルター双方からの、真実をすべて具体化し、それを広めたいという主張であった点は考慮するべきであろう。中世が終わり、新しい時代の幕開けであった。
 判決文には、使徒パウロの言葉が引用された。「分裂を引き起こす人には、一、二度訓戒し、従わなければ、かかわりを持たないようにしなさい」(『テトスへの手紙』3、10)。中世では、破門は非常に厳格な方法によって遂行された。これがキリスト教の伝統に従っているということは、ルター自身も認めており、彼はプロテスタントにおいても破門を残すことを望んでいる33
 実際1518年に彼は破門の「効力」に対して書いていた34。そして今や自分自身でそれを経験したのだが、しかしルターが経験した破門とは規律と外面においてのみ、つまり教会と秘跡から引き離されることだけであり、精神的破門として信仰や神への愛から引き離されることはなかった。神からは、罪のみが追放された。そして『ローマの信徒への手紙』(8、35)の「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう」を引用している。
 ルターは「不当な」破門についても言及している。その場合にも、言葉や行いによって破門されることになった訴訟を取り消すべきではない。正義と真実は、教会の霊的一致へと我々を導くものであり、規律のために放棄されうるものではないのだ。

500年後の今

 500年たった今、ルターが果たした役割を否定することはできない。彼は恩恵や神の慈愛の福音に基づき、改宗へと訴えることで「改革」をはじめることに成功した。そしてこの改革は、悲劇的な結果を伴いながらも、カトリック教会にとっても利益をもたらすものであった35。ある歴史家は、ルターの伝記の最後に、今日の教会は少なくとも2つの点で「ウィッテンベルクの挑戦」に感謝するだろうと述べている。一つは、初期の時代の信仰に回帰し、信仰の絶頂を取り戻す助けとなったことであり、そしてもう一つは、世俗化したルネッサンス期の教皇庁を解放することに貢献したことにおいてである36
 2011年、教皇ベネディクト16世はエルフルトにある、ルターが神学の勉強をしたアウグスチノ会の元修道院にて、ドイツのプロテスタント教会会議の代表と会見し、改革者の「歩みの原動力」となった根本的な疑問に言及している。「どのようにして慈悲深い神を得ることができるだろうか? 37」これによって彼は信仰に基づいた全教会の責務を喚起したかったのだ38
 2015年11月15日、教皇フランシスコは、ローマのルター派教会を訪れた際、「カトリック教会は勇気をもって、『常に改革する教会』という意味において、そして公会議が歩んだ道に従い、精霊の光と力に導かれた人々が行ってきたように、マルティン・ルターの人物や改革についての意図を入念に、そして誠実に再評価すること39」を祈願している。またルターが「改革者であり[…中略…]おそらく彼の方法には正しくないものもあったとはいえ[…中略…]しかし教会もまた、模範的モデルではなかった。腐敗や、世俗化、金銭や権力への執着が見られた。だからこそ彼が声を上げたのである40」とも述べている。
 実際、2016年10月31日、ルンドにて、教皇フランシスコは「改革は教会が聖書を中心に据えることに貢献した」と感謝を込めて述べ、「ルターの精神的経験は、我々が神なくしては何もできないことを我々に思い出させてくれる41」と主張している。
 500年の対立、論争、そして血みどろの争いの後、歴史は今やルター派とカトリックの間の新しい兆候を示している42。特に、キリスト教徒内の分裂は非常に深刻なスキャンダルであり、福音を広める際の妨げとなることは両者に認識されている43。キリスト教統一の歩みは、異なる信条同士を再び近づけ、そしてキリストという真実への探求において相互に実りをもたらす新しい道を開いている。キリストは祈りの中で、彼の弟子や後世の者たちに対して「すべてが一つに」(『ヨハネによる福音書』17、11.21-23)なることを求めている。「一つ」となることは、神の栄光であり、聖なる主を明らかにし、我々を皆兄弟にしてくれるのだ。

[原田亜希子訳]

1 P. Fabisch - E. Iserloh (edd.), Dokumente zur Causa Lutheri (1517-1521). II. Vom Augsburger
Reichstag 1518 bis zum Wormser Edikt 1521, Münster, Aschendorff, 1991, 456-467 参照。
2 ルターの破門の500周年に当たり、ルーテル世界連盟と、ローマカトリック教会は、「義認の教理に関する共同宣
言」のイタリア語改訂版を出した。そこにはマルティン・ユンゲ牧師(ルーテル世界連盟の総幹事)とクルト・コッホ
枢機卿(キリスト教一致推進評議会議長)以外にも、イヴァン・M・アブラハムス司教(世界メソジスト協議会総幹
事)、ジョサイア・イドウ・ファーロン司教(全世界聖公会総主事)、クリス・ファーガソン牧師(世界改革派教会共
同体総幹事)が調印した。これは、「争いから交わりへ」と歩みをともに進めるための一歩であった。
3 J. I. Arrieta (ed.), Codice di Diritto canonico e leggi complementari, Roma, Coletti, 2018, 903を参照。
4 G. Pani, «L’ affissione delle 95 Tesi di Lutero: storia o leggenda?», La Civiltà Cattolica, 2016, IV,
213-226.
5 D. Martin Luthers Werke. Kritische Gesamtausgabe, Weimer, H. Böhlaus, 1883年以降 (“WA), Briefe, 1,
110-112 参照。
6 «Strepitus Indulgentiarum», ivi, 111, 44.
7 W. Friedensburg, Geschichte der Universität Wittenberg, Halle a. S., Niemeyer, 1917参照。これによると、
教員ではなく、守衛が大学で議論されるべき論題を教会の門に貼る職務を有していた(ivi, 30 参照)。
8 Resolutiones disputationum de indulgentiarum virtute: WA 1, 530, 10-12 参照。
9 V. Reinhardt, Lutero l’ eretico. La Riforma protestante vista da Roma, Venezia, Marsilio, 2017, 83 s.
10 P. S. Allen, H. M. Allen, Opus epistolarum Des. Erasmi Roterodami, III, Oxford, Clarendon, 1913, 409,
16.
11 V. Reinhardt, Lutero l’ eretico..., cit., 84.
12 C. Mirbt-K. Aland, Quellen zur Geschichte des Papsttums und des Römischen Katholizismus. I. Von
den Anfängen bis zum Tridentinum, Tübingen, J.C.B. Mohr, 1967, 503.
13 Hoc enim est novam ecclesiam construere: K.V. Selge, «La Chiesa in Lutero», in K.V. Selge-G.
Chantraine-A. Bellini, Martin Lutero, Milano, Vita e Pensiero, 1984, 31 参照。
14 『ガラテヤの信徒への手紙』2, 11-14: 『使徒言行録』15. このいきさつについては枢機卿の日記と、ルターが出し
たActa Augustana の双方から分かっている。Appellatio M. Lutheri a Caietano ad Papam, WA 2, 6-33.
15 Appellatio F. Martini Luther ad Concilium, WA 2, 36-40.
16 P. Fabisch-E. Iserloh (edd.), Dokumente zur Causa Lutheri..., cit., 134.
17 Ivi, 364.
18 Ivi, 368: G. Miegge, Lutero. L’ uomo e il pensiero fino alla Dieta di Worms (1483-1521), Torino,
Claudiana, 2008, 391-397.
19 1520 年に出版された3 冊を指す。教皇と司教たちでは教会を改革することができないために、ルターはドイツ語でド
イツの貴族たち、すなわち俗人に改革を援助してくれるよう要請している。『キリスト教界の改善に関してドイツのキリ
スト者貴族に与える書』は1520 年8月に出版された。2つ目の作品は、ラテン語の『教会のバビロン捕囚について
の序曲』であり、本来は教会の自由の保障でなければならないにもかかわらず、教会を縛り付けている秘跡について
扱っている。ルターは彼にとって聖書に基づいているとみなされない秘跡は廃止し、聖体拝領、洗礼、告解のみを
残した。3つ目の作品は、『キリスト者の自由』であり、これはキリストが信者に与えた自由についてをラテン語、ドイ
ツ語双方で記したものである。
20 V. Reinhardt, Lutero l’ eretico..., cit., 164.
21 WA 7, 833, 8-15.
22 WA 7, 834, 3-5.
23 Ivi., 19-23.
24 WA 7, 837, 7- 838, 24(アレアンドロ枢機卿特使の報告書から). このエピソードに関しては、G. Miegge,
Lutero..., cit., 451-455を参照。
25 WA 7, 838, 4-9. «Ich kann nichts anders, hier stehe ich»(これは私の主張であり、これ以外のものはな
い)は改訂版の中に見られ、初期に印刷された報告の一つではあるが、後から足されたものである。G. Dall’ Olio,
Martin Lutero, Roma, Carocci, 2013, 93s.
26 「カール5 世のカトリックの告白」に関しては、R. Garcia-Villoslada, Martin Lutero. Il frate assetato di Dio,
Milano, IPL, 1985, 773を参照。
27 すべて終わったかのようであったが、まだそれから1 週間は同意に至る可能性が模索され続けた。しかしながら最終
的にこの同意は実現することはなかった。
28 P. Fabisch-E. Iserloh (edd.), Dokumente zur Causa Lutheri..., cit., 534. 29 Ivi, 523.
30 Ivi, 537.
31 V. Reinhardt, Lutero l’ eretico..., cit., 171.
32 S. Nitti, Lutero, Roma, Salerno ed., 2017, 207. A. Prosperi, Lutero. Gli anni della fede e della libertà,
Milano, Mondadori, 2017, 460参照。
33 WA Brief 6, 564; 1533 年にウィッテンベルクで横行していた冒瀆者に対する慣習であった。
34 Sermo de virtute excomunicationis, WA 1, 638-643. G. Miegge, Lutero..., cit., 234s.
35 W. Kasper, Martin Lutero. Una prospettiva ecumenica, Brescia, Queriniana, 2016, 71.
36 H. Schilling, Martin Lutero. Ribelle in un’ epoca di cambiamenti radicali, Torino, Claudiana, 2016, 8.
37 Benedetto XVI, Discorso nella sala capitolare dell’ ex’ convento degli agostiniani, Eufurt, 23 settembre
2011.
38 教皇ベネディクトゥス16世は西洋における信仰の危機に深く心を打たれていたが、それ以上にルター派の信仰が消
えつつあることにショックを受けていた。
39 www.vatican.va/ 15 novembre 2015.
40 Ivi, 26 giugno 2016.
41 Ivi, 31 ottobre 2016.
42 1999 年の「義認の教理に関する共同宣言」と2014年の「争いから交わりへ」を参照。
43 1973 年の「ロイエンベルク合意」。W. Kasper, Martin Lutero..., cit. 参照。
***

神父たちを発見した
日本の潜伏キリシタン
〜潜伏キリシタン派閥を中心にした研究〜

La scoperta dei «cristiani nascosti»
del Giappone
Renzo De Luca S.I.
レンゾ・デ・ルカ神父

***
2018年、「長崎と天草地方の
潜伏キリシタン関連遺産」が
世界文化遺産に登録されました。
約250年という長期間の厳しい禁教下でも、
信仰を継承した
潜伏キリシタンという存在を重視し、
日本のキリスト教の独自性が
評価されたということになります。
2004年から10年以上、
長崎市の日本二十六聖人記念館の
館長として
キリシタン歴史研究に勤しんでこられた、
イエズス会現日本管区長の
デ・ルカ神父の研究です。
La Civiltà Cattolica 2019, IV, 327-333

 いわゆる「信徒発見」の出来事から150年余り経っている。歴史的な出会いとしてよく知られているが、ここで潜伏キリシ タンが伝えた信仰とその形態について考察したいと思う。
 長崎の浦上村の潜伏キリシタンは命がけで大浦天主堂を訪ね、初めて出会ったフランス人の神父に「私たちはあなた様と 同じ宗旨です」と伝えた。その上、立体像では見たことのなかっ たマリア像に向かって「サンタ・マリアです。幼子イエスを抱 いていらっしゃる」と言い、その心の準備が十分に出来ていた ことを物語っていた。こうしてパリ・ミッションの宣教師たち が驚きと喜びをもって潜伏キリシタンを歓迎して受け入れたこ とまでは一般的によく知られた話である。
 その出会いまでの経緯についてはさまざまな研究や説がある が、ここであえて後述の「潜伏キリシタン派閥」を中心に考察 したい。

ライバル意識とその役割

 まずは、修道会とその会員同士の争いではなく、キリシタン同士の相違や対立を中心に見てみよう。というのは、どの修道会も200年余り日本に不在だったので、「信徒発見」の時にはキリスト教として潜伏キリシタンの信仰しかなかったからである。日本に戻ったパリ・ミッションの宣教師たちは、潜伏キリシタンが用いた典礼暦や洗礼の式文に相違があったことを確認した。そして、それは単に時間や状況の影響ではなく、ライバル意識からの相違であると断言した。
 潜伏キリシタンたちが250年間持ち続けたライバル意識はいつ生じたのだろうか。日本の宣教はザビエルとその仲間たちからはじまって以来、およそ50年間はイエズス会員しかいなかったので、他の修道会との対立がなかった。秀吉の命令によって処刑された26聖人の殉教記録(1597年)によれば確かにフランシスコ会とイエズス会同士のライバル意識があったと言えるが、その相違は、修道士に近いキリシタンたちにしか伝わらなかったと思われる。1600年前後にさらにドメニコ会、アウグスチノ会が来日するが、その活動は地域によって分かれていた。修道会を超えた司教(P. マルティンス、L. セルケイラ)の権限が強かったので、信徒の間には摩擦が起きにくかったと考えられる。徳川政権による追放が強まってから、それぞれの修道会やその下で育てられた多くの「組」が単独行動を強いられるにつれて、その競争心が深まったと解釈できよう。つまり、カトリック教会本来の信仰は共通として広まり、それぞれの修道会の霊性、宣教観も深まったからこそ、信徒もその相違を理解することになった。本来の状況であれば、その摩擦を緩和する上長がいて、その判断によって方針が決まる。しかし、迫害が長引いたので、司教だけでなく、それぞれの修道会をまとめる立場の者も不在だった1ことを考慮すべきである。
 修道会のライバル意識が日本のキリシタンたちにも伝わったことを確認できる資料として1620年代に書かれた「徴収文書」に注目したい。イエズス会側史料として、「コーロス徴収文書」があり、それについてはさまざまな研究がある2。イエズス会に対する、迫害を恐れてキリシタンたちへの対応が不十分だという批判に対して、会員の世話を受けていたキリシタンの証言を集めた史料である。日本語とポルトガル語で書かれ、それぞれの文書の最後に証言したキリシタンたちの連署が続く形になっている。ここで、コーロス徴収文書全体の15国の75箇所755人の内、明治時代にパリ・ミッションの宣教師が潜伏キリシタンと関わったと思われる箇所だけを選んだ。それを元にすると、以下のリストになる。

元和3年(1617)、イエズス会士コーロス徴収文書(230人)

文書番号 国名 地名 連署する人数
第二十五文書肥前国有馬18人
第二十六文書肥前国有家村、布津村、深江村30人
第二十七文書肥前国嶋原町、山寺、三会町33人
第二十八文書肥前国浦上15人
第二十九文書肥前国大村15人
第三十文書肥前国平戸5人
第三十一文書肥前国諫早13人
第三十二文書肥前国矢上10人
第三十三文書肥前国五島、かのこ5人
第三十四文書肥前国五島、小かわら(小河原)6人
第三十五文書肥前国五島、なつい(夏井)(連署文欠)
第三十六文書肥前国五島、大田5人
第三十七文書肥前国五島、小たいのうら(小鯛之浦)5人
第三十八文書肥前国五島、伊わせのうら(岩瀬浦)6人
第三十九文書肥前国五島、ふるさと(古里)5人
第四十文書肥前国五島、ならお(奈良尾)5人
第四十一文書肥前園五島、
大かわら(大河原カ)
5人
第四十二文書肥前国五島、平嶋(平島)7人
第四十三文書肥前国五島、恵乃嶋(江島)8人
第四十五文書肥後国天草(江島)内野村、二会、坂瀬川村、志岐、福路、都呂々、下津深江、小田床、崎之津、大江村34人

 詳細を省くが、「他の修道会ではなく、イエズス会が私たちを支えて下さる」という内容である。それによって、1617年の段階では上述の地方にはイエズス会贔屓のキリシタンが高い割合を占めていたと断言できよう。正確な場所が不明だが、1622年の段階では、長崎居住の朝鮮人がイエズス会と深く関わっていたようである。フェルナンデス神父が以下の箇所を記している。
 聖ロレンソと呼ばれる韓国人の組がいつもイエズス会の世話の下にあって、捕らわれた人々に援助を送り、時には差し入れを持っていく最初の組の一つであった3 これに対して、ドメニコ会がキリシタンたちの証言を徴収した「ドミニコ会士コリヤード徴収文書」がある。関係するところを挙げると、第二文書の元和七年十一月二十日付、「千々石村、大津留キリシタン書付」に7人、第三文書、元和八年正月十三日付、「長崎ロザリオ組中連判書付」に102人連署している4。この場合も、「他の修道会ではなく、ドメニコ会士を支持する」との内容であり、1622年(元和8年)にこれらの町のキリシタンの大部分はドメニコ会贔屓だったと解釈できよう。フランシスコ会とアウグスチノ会に関しても同じことが言えようが、地域に関しては明確な証言史料が不足している。浦川和三郎師が指摘したように、
 「アメンジウス」とは生月島の信者も誦えている、すなわちフランシスコ会に限ったものでもないらしい。たとえ浦上に残っていた告白の祈りの中に、聖フランシスコの名が出ていたにせよ、そればかりではフランシスコ派の宣教師が浦上に伝導したという証拠になるだけに過ぎない5
 迫害中、それぞれの修道会が活動した地域に、自然災害、強制移動、藩争いなどの変化によって、潜伏キリシタンの派閥に変動が生じたであろう。だからこそ、上述の修道会に対する忠実さがそのまま残ったとしても、同じ地域に同じ形で残らなかったとみてよかろう。一方で、情報が漏洩しないことを大事にした潜伏キリシタンの間では、祈り方、儀式などの統一を図ったに違いないので、宣教師が国内に現存した時代との関連性が何か残ったはずである。そうであれば、宣教した年数と関わった人数からすれば、一番人数の多い一派はイエズス会贔屓であったと思われる。
 上述した史料を基にすれば、潜伏したキリシタンたちがどのように互いに意識し、異なった儀式を行ったのかという研究が必要である。

日本で「発見された」信仰形態

 信徒発見(1865年)後、パリ・ミッションの宣教師たちは、一見カトリックの形態から離れた潜伏キリシタンの信仰生活に関して聞き取り調査を行った。その信仰が果たして17世紀の宣教師が伝えたカトリックの教えと一致するか、洗礼が有効であったか、などについての調査である。例えば、潜伏キリシタンが用いた洗礼の言葉(式文)十数種類をローマ字に置き換え、地元の人々に確認しながら、カトリックと潜伏キリシタンの接点を調べた6。また、洗礼関係の史料として、未刊ではあるがプチジャンたちがパリに送った洗礼式文のリストもパリ・ミッション本部の資料館に現存する7。当然ながら、言葉がかなり変化して内容が把握できない式文もあったが、驚くほど正確に残った地域もある。その一例として、
 勇敢な人〔神ノ島の水方ペトロ〕は、極めて重要な情報を私たちに与えてくれました。先ず洗礼の礼式文は次の通りです。エゴテ バプティゾ イン ノミネ パツリス エト フィリイ エト スピリトウス サンクティ アメン。(Ego te baptizo,in nomine patris et filii et spiritus sancti, amen8) 宣教師がいなくなってからは用いられないラテン語であったにもかかわらず、発音のズレを考えても申し分がない式文である。パリ・ミッションの宣教師はその他の祈りとその日本語の正確さを誉める。
 彼ら〔平戸と神ノ島の水方〕は、洗礼の秘跡の前後にする祈りを私たちに誦えてくれました。これはすべて、非常にカトリック的だと思われます。それは、「天に在す」 「めでたし」 「使徒信経」 「元后あわれみの母」等ですが、彼らは日本語でこの祈りを何回も誦えております。つづいて、聖三位、我が主イエズス・キリスト、聖母マリア、諸聖人たちに対する祈願です9 そして、ローマの指導者と相談しながら、潜伏キリシタンの信仰が外面上の相違点があるものの、洗礼が明らかに無効と思われた地域のものを除いて、正統なカトリックの教えに従っているという結論に至った。場合によって、条件付きの洗礼にした事例もあるので、宣教師たちが慎重に調べたことに疑う余地はない。その一例として、1866年10年18日付書簡で、ロケーニュ神父はプチジャン師に次のように伝えた。
12日金曜日。平戸の訪問者が来続けている。田崎の水方は後継者を指定しないまま亡くなった。その近所の祈りの指導者であるメンチオロは自分が水方をしてもいいかと訪ねに来た。ここで用いられている洗礼式文は完全に無効である。「私は洗礼を授ける」と三位一体の名を唱える部分が欠けている。メンチオロは私たちを完全に信頼し、洗礼式文を正しく学んで帰っていた。まだ判断能力がない子供たちに洗礼をし直す約束をしてくれた10 信徒発見一年半後、宣教師たちの皆が地元の信者たちと協力しながらカトリック教会を立て直していくような形をとっていたことが分かる。

修道会のさまざまな遺産

 潜伏キリシタンが外部に情報が漏れないように最大の注意を払ったので、それぞれのグループに独特な儀式が出来上がった。その相違に注目して調査を重ねた研究者は少なくない11。私も既に他の研究で紹介したこともあるが、それに関連する箇所を引用する12
 昔の競争心がキリシタンたちの派閥をつくったと私たちが言うのは決して大げさではない。200年以上経った今でもその区別が生き残っている。村によって百人余りの単位で、別な宗教であるかのように思われる。あるグループは水曜日、金曜日と土曜日に断食するが、他方は週末のみ断食を守る。彼等が祝う御復活も暦が異なるので相互に認めない。あるグループはレウシタン派、パタラン派、ドイジコ派という。つまり、フランシスコ会、イエズス会、ドメニコ会の霊的子供による区別である。彼等の区別は根本的なものではない。神に感謝したいが、実際、彼らは我らを昔の宣教師の後継者であることを認めてくれる。昔の対立の遺産であるこの区別は、時間の経過によって解消され、皆が同じ方針のもとに一致するであろう13 ここで取り上げられている修道会と異なった霊性を持つ、当時まで日本で活動していなかったパリ・ミッションのプチジャン師が分かるほど、潜伏キリシタンの間にもそのライバル意識が現存していたことが明白である。同時に、教義においてはその対立が根本的なものではないこと、フランス人宣教師をそれぞれの後継者として認める「寛大な」伝承でもあったことが分かる。プチジャン師は潜伏キリシタンの派閥が、日本で活動した修道会のライバル意識によって出来上がったと解釈している。しかし、何曜日に断食したからといって、それを教えた修道会が確定できる訳ではない。むしろ、同じ修道会から指導を受けたキリシタンにおいても、属する組による相違やライバル意識の可能性を考える必要がある。引用した箇所のおよそ半年後に書かれた史料でもその派閥の状況が現れる。
 6月11日。平戸の祈りの指導者が来て、祈りを正すように頼んだ。彼の村にはともに祈る18家族がある。この18家族は「クリシタンキュウ」であるが、同じ村には「パテレンキュウ」も残っている。後者は今まで私が見た中、少数派であり、前者より知識が乏しい。今日来た指導者は7月に1人か2人の「パテレンキュウ」を連れてくる努力を約束してくれたが確信がなかった。既に説明したが、「クリシタンキュウ」と「パテレンキュウ」は互いに不信感をもっている14 潜伏キリシタンの派閥は平戸にも確認できたので、長崎地方全体に広がっていたことが分かる。なお、この史料には2派しか確認されていない。プチジャン師がその2グループとしか接触しなかったか、或いは半年の間、区別が出来る派閥は2つしかないと解釈したか明らかではない。しかし、「同じ村」に2派が現存していたこと、普段は互いに接触していなかったこと、また「クリシタンキュウ」の人数が多かったことがわかっている。宣教師の願いによってその接触が可能に思えたが、その後の進展を表す史料が見当たらない。その割合が全般的な潜伏キリシタンを表すとすれば、「クリシタンキュウ」はイエズス会贔屓の潜伏グループだったと推定できる。
 潜伏キリシタンのどのグループにも宣教師が戻ってくる話は伝わっていたようであり、その伝承はさまざまな形をとっていた。その一例を紹介したい。
 今までの訪問のうち、今まで私たちと関連しなかったキリシタンの代表と名乗る人が来た。今までと同じく、正確な洗礼式文と正確でない洗礼式文、正しいものと不足した形の祈りの混じり合いであり、私たちに忙しくなるきっかけを充分に与えている。しかし、彼らの奥には素直で信頼できる信仰があり、〔神の〕恵みのもとで驚くような業を行うことが出来る。何より私たちは、皆から、昔の宣教師の後継者として認められている。人によってはあり得ない解釈をして、私たちが200年間山上に隠れ住んだ昔の宣教師であり、神の力によって苦しんでいるキリシタンを助けるために現れたと言う。3月に来た指導者の一人がこのような素晴らしい話をしてくれた15 上述1866年1月29日の報告と同様に、どの派閥もパリ・ミッションの宣教師たちを昔の宣教師の後継者として再認している。つまり、派閥を超えて伝えられた認識として、宣教師が戻ること、潜伏する必要がない時が来ることが挙げられる。なお、「宣教師は山上に隠れ住んだ」などの不思議な伝承が、少なくとも外国の教会から日本のキリシタンが見捨てられていなかった意識を示すと解釈できる。
 互いに牽制し合っていたそれぞれの潜伏グループが、キリシタン時代に日本で活動していなかったパリ・ミッションの宣教師を素直に受け入れたことは注目すべきところである。それは、信仰の基本をおさえた上、派閥を超えた司祭への憧れと尊敬を表しているからである。解釈すれば、習慣より信仰を中心にしていたからこそ、派閥を乗り越えることができたと言えよう。宣教師は自分たちが潜伏キリシタンと同じ信仰を持ったものとして認められたことを驚きをもって報告した。それは信仰の根本に関わる洗礼の秘跡との関わりがあるからだと言える。「洗礼を授け直す」必要があったとすれば、今までの洗礼が無効であり、その伝承を受けた潜伏グループはキリシタンになっていなかったことになったであろう。つまり、潜伏キリシタンは自分たちの生き方を否定されたと解釈しても不思議ではなかった。そう思わなかった理由は、やはりその先祖たちの信仰を守ろうとする意識に歪みがなかったからだと本人たちも宣教師たちも確認したからであろう。引用箇所では、「彼らの奥には素直で信頼できる信仰があり」という表現で見事にまとめられている。およそ半年後、ロケーニュ神父が派閥に関連する報告を送った。 21日日曜日。今日は浦上の至る所から多くの巡礼者が来て、赦しの秘跡とその他の秘跡が要求される。御聖体を頂いた一人によれば、昔の式典しか認めないで我が教会が罪を犯すと言っていた派閥の者が近づいてきて皆と同様な祈りを誦えることになったことを報告してくれた16 これによれば、派閥の歩み寄りがあったことが確認できるが、全般的であったとは解釈しにくい。長い間独自の発展を体験したグループから見れば、宣教師たちの典礼こそ異質と思っても不思議ではない。おそらく地域によって宣教師との接点が多くなり、潜伏キリシタンが自分の信仰と同じものであると判断した段階で、神父から秘跡を受けることにしたのであろう。パリ・ミッションの宣教師たちもそのライバル意識を知った上で、それぞれのグループが教会に戻るように働きかけた。ここで参考になる史料をもうひとつ紹介したい。
 彼〔メルチョロ〕の地域〔平戸〕の19家族の内、4家族は「パテレンキュウ」である。そこから1レグアに全体が「パテレンキュウ」で成り立つ村がある。まだ潜伏している彼らを呼び出す努力はしたが未だに成功していない。彼はまた試してみると約束し、私たちは十字架とメダルを預けた17 このように、教会に戻ったキリシタンたちが宣教師の案内役、仲介者でもあったことが明らかである。また、メダルなどが潜伏キリシタンにとって大事な徴(しるし)であったことが分かる。おそらく宣教師たちが持ってきた、普段使っていた信心物は潜伏キリシタンが大事に守ってきた遺物と同様なものであることを確認させ、同じ「仲間」であることを理解させようとした。
 ここまで潜伏の派閥の確認、共通点また進展の一部を確認してきた。上述通り、それぞれの修道会贔屓の潜伏グループの中ではイエズス会関係が多かったと推測できる。それを裏付ける情報として、潜伏キリシタンが誦え続けた祈り(おらっしょ)の内、活動した修道会の創立者(聖フランシスコ、聖ドメニコ、聖イグナチオ、聖アウグスチノ)に捧げられたものでは聖イグナチオのものしか伝わっていない。長崎県に限定したものを紹介すると、外海黒崎松本の「イナッショ様の祈り」、外海黒崎上野七蔵本の「サンタイヒナショニ御礼」、外海東樫山入口本の「いなつ所様」、奈留島永這道脇増太郎本の「イナッシヨ様」と若松島有福持木種美本の「イナシヨー様のおらしよう」が現存する18
 注目すべき情報として、上述の「コーロス徴収文書」が作成された段階(1617年)、まだ聖イグナチオは列聖されていない。これを元にすれば、潜伏キリシタンの祈りの伝承の中、上野氏の「サンタ〔聖〕イヒナショニ御礼」は列聖後(1622年)のものであり、その他のオラッショはそれ以前の伝承によるものである可能性が高い19
 以下に、現段階で確認できたイエズス会の痕跡を紹介したい。

潜伏キリシタンと聖イグナチオの『霊操』

 信徒発見の3か月後、プチジャン師が詳細な聞き取り調査をはじめる前に、潜伏キリシタンが大事にしていた本について以下の箇所を書き残した。 水方のドミンゴは今日も新たに1603年に長崎で出版された本を持ってきた。その本は次の言葉ではじまる。「すべての行いの内に一番大事なのは魂の救いである20」。 この箇所を見る限り、プチジャン師はこの本がキリシタン時代に出版された、聖イグナチオの『霊操』の日本語訳『スピリツアル修行』であることに気付かなかったようである。しかし、その前後の描写と最初の引用箇所は、まさに『スピリツアル修行』であるとしか解釈できない。プチジャン書簡の「1603年出版」という記述とこの本が実際に出版された年(1607年)と一致しないが、出版年が読みづらく印刷されていることはその誤解の原因だったと思われる。およそ一か月後に、またこの本について述べている。
 1603年に出された悔い改めについての本は、私たちが見つけた本の中で最良の物の一つです。著者たちは日本の教会に神父不在の長い時期を予告していたのかと思うぐらいです。この本は誰もが分かる明確な教義と体裁として規範本だと思います。その内容を理解し実行に移すことは、洗礼後神様に対する罪を犯した魂にとって強力な支えになったに違いありません21 プチジャン師は聖イグナチオの『霊操』を知っていたに違いないが22、手にした『スピリツアル修行』が「ロザリオの観念」などと合冊していることなどによって、判別がつかなかったものと思われる。それを考慮すれば、プチジャン師が内容だけを読んで『スピリツアル修行』を高く評価し、潜伏キリシタンの霊的な支えになったという断言は、重要である。すなわち、17世紀の宣教師たちが表面的な対立を残しながらも、信仰そのものとそれを養う方法の伝承が出来ていたことになる。それは、対立を残したことには否定的な感覚を持ったとしても、後世に信仰そのものを伝えることは可能であるという教えとなろう。1607年に出された『スピリツアル修行』は主にイエズス会員のために出版されたが、17世紀初期から信徒の間にも広く読まれていた。高山右近や細川ガラシャが愛読し、何人かの殉教者も最期まで手に握った本であったことも知られている。またこれには一般信徒にも読める工夫が導入されていた。その魅力を示す2箇所を紹介する。 かくの如きの観念は、我等が為の曇りなき鏡なれば、この鏡に対い奉る時は肉眼にかからぬ、数多の事を智恵の眼を以て見分け、我等が身持ち進退をよく改むるものなり(スピリツアル修行、1巻。原文はローマ字23)。
 短きオラショを以て心を掲げ息をつき、デウスへ度々我が一念を捧ぐることをし慣れ給ふものなり:これ折々一木の薪を焚き添えて、火の消えざるようにする如く、オラショの内に燃え立ちたる信心の火を冷ますまじき為の修行と心得べし(同上、119)。
 聖イグナチオの『霊操』の原文にない肉付けをして、分かりやすく説明し、躊躇することなく日本の土壌に合わせた。この本とそれに対する潜伏キリシタンの憧れ自体が私達への「徴」であると思う。人間的な関わりなしに信仰を伝えようとする余り、その個性と豊かさを削り、魅力のないものにしてしまっているかも知れない。
 信徒発見は歴史的な出来事であったが、その直後迫害が起こり、公に信仰を現した信徒が流罪に遭った。現地の宣教師からその情報を受けた当時の教皇ピウス9世が1868年に激励の書簡を送った。
 彼等は充分にその真意を理解しなかったとしても、あくまで組先の信仰を保持したが故に、教育が浅かったにせよ、早くも秘蹟を受け罪は浄められ、心を強くされて、たちまち初代教会の美しい精紳をその身の上に描き出すに至るものと信じます。我等はこの稀代なる出来事を喜ぶとともに、また素晴らしい果実がにわかに暴風雨の襲来を受け、無残に打ち落とされ、人類の敵なる悪魔より彼等信徒の頭上に非常な災禍を投げ付けられたことを悲しみます24 教皇も、彼等の信仰表現より、その意図を高く評価し正当化したことが明らかである。なお、これはあくまでも教会に戻ったキリシタンたちに対しての評価であり、宣教師の来日を知りながら教会に戻らないという選択をとった「隠れキリシタン」と区別したものであることに注目すべきである。当然ながら、教会に戻らなかった「隠れキリシタン」を排除した表現ではないが、おそらく潜伏したキリシタン皆がやがて教会に戻ることを想定していたと思われる。

残された「IHS」の徴

 上述のパリ・ミッションの箇所に刺激されて、私も自分の研究観点を見直すことになった。その結果の一例として、私も何回も見たことがある旧大浦天主堂の古写真をもう一度見返してみた。最初の段階、つまり建築拡張が行われる前の大浦教会正面には「天主堂」という言葉とシュロの枝とともに「IHS」が刻まれていることが分かる。パリ・ミッションが出版した雑誌「Les Missions Catholiques」の1872年6月7日付157号にも大浦天主堂の挿絵があり、同じく「IHS」が明確に描かれている。潜伏キリシタンも宣教師たちにそのような徴が刻んだメダルを見せたことを報告している。
 6月12日。近くに住んでいる頭を訪問。その一人は「J.H.S.」とローマにまつわるものを刻んだメダルを見せてくれた25 言うまでもなく、イエスの名に対しての信心を持ったのはイエズス会のみではないが、会の解散命令後、そのような徴が消されるように指示があった中26、パリ・ミッションの神父たちがあえてその徴を教会の前に刻むことにより、その300年余り前にイエズス会の影響を受けてキリシタンたちがよく馴染んでいた「暗号」の役割を持たせたと充分に考えられよう。
 実際の「信徒発見」に先立ち、パリ・ミッションがいにしえの思い出としてIHS のマークを「天主堂」の文字とともに教会に掲げ、潜伏キリシタンへの呼びかけを図ったと推定できないだろうか。
 残念ながら今のところそれを裏付けるパリ・ミッション側の史料が見当たらないが、これからの研究材料になると思う。他にも、現に廃墟化した細石流(ざざれ)教会の古い写真を見れば中央入口の真上にイエズス会員が好んで用いた「IHS に十字架」があり、教会の中に壊れたザビエル像が見える27
 このように、キリシタン時代に活躍した修道会の特徴、争いなどすべては潜伏キリシタンの支えになり、「信徒発見」の下地となったことと解釈したい。

おわりに

 人類の歴史を考えれば、宗教のために多くの人々が迫害されることは世界中で見られる現象である。しかし、日本ほどの長い期間、しかも全国的に続いたことは稀であったと言わざるを得ない。7世代にわたって司祭の支えなしに信仰を伝承した潜伏キリシタンは、1世代で変わる現代社会に対しての警告でもあると時々思う。結果として、徳川幕府からの圧力に加えて、牽制し合うライバルのキリシタンがいたことは、妨げより励みになったとも思える。潜伏したキリシタンは、特徴をなくして曖昧さを中心にした関わりではなく、幕府に対しても他のキリシタングループに対しても明確な姿勢を貫いたからこそ、その信仰が伝わったと解釈したい。
 このキリシタン派閥分野での研究を深める必要があるが、おそらく、それぞれの潜伏グループは破壊的なライバルではなく、互いに支えあったと言えよう。それに基づけば、現代社会では競争心をなくそうとする勢力は互いの破壊を招くこともあると解釈できる。あえてライバルをつくる必要はないだろうが、ライバルがいてもそれぞれの役割や使命を明確に持ち続ければ、より健全な社会が出来上がるとの示唆ではないだろうか。

参考文献
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1 それぞれの修道会に責任者がいたが連絡が取りにくかったので、多くの場合修道者たちは自分で判断することが多
かった。
2 その内容と詳細な研究は、松田毅一、『近世初期日本関係 南蛮史料の研究』、風間書房、1967年、また、『大
日本史料 第十二編之五十六』、東京大学史料編纂所、2002年、97-138を参照。
3 結城了悟訳編、『長崎の元和大殉教 1622年 ベント・フェルナンデス神父による記録』、日本二十六聖人記念館、
長崎、2007 年6月、34頁掲載。原文はイエズス会ローマ文書館Jap-Sin 60,232v
4 確認できる地域は、五島町、今紺屋町、材木町、築町、本かちや町、榎津町、今石灰町、舟大工町、油屋町、
小川町、歌舞伎町、磨屋町、いかりや町、毛皮屋町、本紺屋町、今大工町、御座町、あうかた町、桶屋町、
今魚町、新町、本興善町、豊後町、くるす町、ほうらや町、馬町、炉粕町、中町、筑後町、革屋町、舟津町、
下町、金町、後藤町、樺島町、向舟津町、今大村町となる。
5 浦川和三郎、『日本に於ける公教会の復活』、(大浦)天主堂、大正4年1月、187〜188頁。
6 式文の内容とその説明について、『プチジャン司教書簡集』(純心女子短期大学・長崎地方文化史研究所編、
1986 年3月。以下『プチジャン書簡集』)を参考にして頂きたい。宣教師たち自身の感覚、疑問、また結論に至
る経緯などがありのままに示されている。
7 この史料は、1868 年10月13日付で、同年の11月1日付のアンゲルス・アルゲンティ司教の真正認可が添付さ
れている。
8 長崎より1865 年5月16日付プチジャン書簡。『プチジャン書簡集』、94頁。
9 長崎より1865 年6月27日付プチジャン書簡。『プチジャン書簡集』、124頁。
10 長崎よりプチジャン司教宛1866 年10月18日付ロケーニュ神父書簡。AMEP 569, 1836 à 1848.(日本語は
Morishita 史料より拙訳。なお、Morishita 史料と番号とは、リオン滞在の森下シルヴィ先生がパリ・ミッション本
部に保管されている資料の内、将来出版の目的で整理し提供して下さった番号を指す。)
11 松田毅一、『近世初期日本関係 南蛮史料の研究』、風間書房、1967年、940〜962 頁の第九章 「所謂『門
派対立』問題の発端」、また、姉崎正治、『切支丹伝道の興廃』、同文館、昭和5年6月、496〜499頁「迫
害中の門派争い」。
12 本稿で紹介する史料の一部と簡単な考察は「復興までイエズス会の霊性を保った潜伏キリシタン」(越前喜六編著、
『祈り』、イエズス会管区長室、2014 年12月、235〜254 頁)で述べたが、ここでは他の修道会を含めた考察と
新たな史料を基にした。
13 1866 年1月29日付のプチジャン書簡(Petitjean Letter of 1866, January 29, Morishita n.1542)より拙訳。
14 同僚に宛てたプチジャン書簡1866年7月22日。AMEP 569, 1744 à 1757よりの拙訳。
15 パリ神学校院長宛1866年4月1日付プチジャン書簡。AMEP, 569, 1623 à 1630 原文より拙訳。
16 パリ神学校院長宛ロケーニュ神父1866年12月4日付書簡。AMEP 569, 1897 à 1914. より拙訳。
17 プチジャン司教宛1866 年10月18日付ロケーニュ神父書簡(Lettre de Laucaigne à Mgr Petitjean du 18
Octobre 1866)AMEP 569, 1836 à 1848. より拙訳。
18 『長崎県のカクレキリシタン―長崎県カクレキリシタン習俗調査事業報告書―』、長崎県教育委員会、平成11年
3月、267〜268頁「イナッショ様のオラショ」を参照。
19 内容は、「御身ノゴヒクワンサンタイナシヨ様スベレツノ大将次第ショウニ次第タテマツルゲカイデハキズヲ。コウムリ
天ノ上デハ御サントウノ位ヲ受ケ奉ル天ノ上デハ預リタモウタノミ上ツツシュンデタノミ上奉ル。アンメウゼウス。」同
上のテキストによる。
20 プチジャン書簡。1865 年5月17日付。Morishita n.1325より拙訳。
21 1865 年6月30日付プチジャン書簡。Morishita n.1360より拙訳。
22 パリ・ミッションの多くの宣教師はパリのイエズス会の神学校で勉強していた。
23 長崎大司教館蔵の本について、林田明著、『スピリツアル修行の研究』影印・翻字編、風間書房、昭和50 年4
月を参照。
24 浦川和三郎、『切支丹の復活』前篇、日本カトリック刊行会、昭和2年12月、579〜581頁を参考にしながら筆
者により簡略にした日本語文。
25 長崎より同僚宛1866 年7月22日付プチジャン書簡。AMEP 569, 1744 à 1757より拙訳。
26 1768 年に、「8月のはじめに教会、家他の施設にあるIHS 紋章、石、石膏、木や絵の具を含めてすべてを抹
消すべき命令が届いた。その代わりに王国武器紋章を入れる命令であった」。Teófanes Egido (Coord.), Javier
Burrieza Sánchez, Manuel Revuelta González. LOS JESUITAS EN ESPAÑA Y EN EL MUNDO HI︲
SPÁNICO, S. A., Madrid, Marcial Pons, Ediciones de Historia, 2004, 272より拙訳。
27 木下陽一写真集、『切支丹の里』、創思社出版、昭和54 年5月、64-65 頁を参照して頂きたい。

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