La Civiltà Cattolica

La Civiltà Cattolica
日本版
(公財)角川文化振興財団バチカンプロジェクトから刊行!
ローマで発行された最古のカトリックジャーナルが史上初、日本版で刊行されました。

日本版4号

ウクライナ侵攻に関する7つの『絵』世界はチェスゲームではない!

Sette «quadri» sull’invasione dell’Ucraina Il mondo non è una scacchiera
Antonio Spadaro S.I.
アントニオ・スパダーロ 編集長

***
世界の注目を集め、また世界経済にも打撃を与えているロシアのウクライナ侵攻。
歴史、経済、権力、暴力、主義、主張、そして宗教。
さまざまな要素が複雑に絡み合っているこの問題を、パズルのピースを一つ一つ
解いていくように、スパダーロ編集長が解説。
人間の奥底にある本質への問いかけにもなっています。
La Civiltà Cattolica 2022, II, 417-432

はじめに

 教皇フランシスコが、教会を「戦いのあとの野戦病院1」と初めて表現した際、彼の眼の前にはすでに「部分的世界大戦」の光景が広がっていた。2022年の復活祭の祝福のメッセージUrbietOrbiで、彼はその中のいくつかとして、ウクライナやエルサレム、レバノン、シリア、イラク、リビア、イエメン、ミャンマー、アフガニスタン、サヘル地域、エチオピア、コンゴ民主共和国、南アフリカ東部......を挙げている。彼は以前にもこれらの国々を挙げたことがあったが、しかしこの世界地図は常に広がり続けている。

 ウクライナに対するロシアの侵攻2は、血に染まったパズルのピースである。その代償を払うのはいつも民衆である。2022年2月のAngelusのあと、教皇は次のように述べた。「戦争をする者は、人類のことを忘れています。人々の生活を見ずに、ただ一部の関心と権力のみを重視しているのです」と。「平和を求める民衆から離れる行為であり、そしてその民衆こそ、いかなる時も戦争の狂気の代償を身をもって払わなければいけない真の被害者なのです。私は老人や、避難場所を何時間も探し求める人々、子供たちを連れて逃げまどう母親のことを思います」。
 私たちはこの戦争を直接見ているのではなく、大勢のジャーナリストたちによって語られるストーリーを見ている。これらのジャーナリストたちは、まさに教皇フランシスコが述べているように「我々がその地の人々のドラマに近づけるよう」、現地で自身の命を危険にさらしながら情報を提供してくれている。

 本稿では、光と影の中で、この戦争という「冒瀆の絵画館」に見られるいくつかの絵、すなわち政治家や宗教家に影響を与えているパズルのピースを見ていきたい。


第1の絵:帝国と戦争

 教皇フランシスコが残酷で無分別で野蛮と定義した侵攻の苦境の中で、ウラジーミル・プーチン氏が訴えたのが、まさに歴史だった。この戦いは、一見したところ戦略を欠いていて、非常識なものだった。ロシアは、たとえこの戦争に「勝利」したとしても、それによってあまりに広大な土地と多くの民を占領するという難しい「事後処理」に対処しなければいけないため、すぐに敗北を認めることになるだろう。それは1954年から1962年にかけてのアルジェリア戦争の時のフランスと同じであり、むしろそれ以上とも言える。ロシアは最初から、多くの国の援助のもとでのウクライナの勇敢な抵抗や、戦場での困難な状況をまったく考慮に入れていなかったようだ。この戦争は予見されうるものであり、また実際に何人かの分析家たちによって予見されていた。つまり、おそらく避けられるものだったのである。

 ロシアの文化や精神性の素晴らしさは、疑いのないものである。ロシアの偉大な作家や芸術作品を否定しようとすることは、あまりに視野の狭い行為である。まるでそれはヒトラーのせいで、ゲーテやヘルダリーンを読まないようなものであり、知性を差し押さえることに等しい。それに対して、ロシアの政治は、1991年のソビエト連邦崩壊後衰退し、ロシアのリーダーシップは新しい形をとるようになった。つまりロシア、ベラルーシ、ウクライナを一つの現実を構成するものとみなし、これらそれぞれの「ロシア」を結び付ける「ロシア世界」というものが出現したのである。プーチン大統領は2022年2月21日の演説の際、はっきりと述べている。「ウクライナは我々にとって隣国であるだけでなく、我々の歴史や文化、『精神性』にとって放棄できない一部なのである」と。政治家が精神性の傘のもとに発言する時は、ショートする危険が付きまとう。

 帝国論は、プーチン大統領の政治思想に大きな影響を与えていると言われているアレクサンドル・ドゥーギン氏のような思想家によって提唱されている。彼は3月19日にフェイスブックにて、ロシア語ではなく、英語で書くことで、世界に次のように発信した。「ロシアはウクライナに秩序と正義、繁栄と生活水準を回復するだろう」。一体どうして?それに対してこう答えている。「ロシアは世界帝国となりうるスラブ国家である。世界帝国を構築することが我々の任務であり、我々はそれを実現することができる。なぜなら我々はローマなのだから」。彼の目的は終末論的に「バビロニアの全権」を覆すことである。「我々は神聖な歴史のモデルを放棄することは決してできない」とドゥーギン氏は締めくくり、ロシア帝国の形成に神聖な要素を付与している。近代化や啓蒙主義と戦う世界の新しいビジョンに形を与える新ローマ帝国。ここに、ある種の保守主義がつながり、プーチン大統領やロシア正教に対する共感を見せている。そしてこれこそ、戦争の淵にそびえたつロシアなのである。

 しかし、モスクワ総主教区の対外教会関係局局長、イラリオン府主教(当時)は1月29日のRussia24でのテレビ放送にて、現状に対する懸念を述べている。彼は「アメリカやウクライナ、ロシアに、戦争がこの状況下においては正しい選択だと信じている政治家たちがいる」ことに言及したのち、「戦争は蓄積した政治的問題を解決するための手段ではないと確信するための」理由を挙げている3。さらに、別の機会にはラスプーチンにも言及し、彼が「もしロシアが戦争をすれば、壊滅的な結果によって、国全土を危険にさらすであろう」とツァーリに進言したことを述べ、ロシアの領土の一部の喪失だけでなく、「ロシア自体」の喪失につながることを述べている4。これは強い言葉であり、認めるべきものであるが、いまだあまり知られていない。

 しかしながら、革命前のロシアが、中央ヨーロッパの自由主義の動きに対抗する戦争を、大々的で普遍的な原則によって正当化する術をよく心得ていたことは軽視すべきではない。さらに革命後のロシアもまた、共産主義の原則に従って、戦争を正当化することができた。しかしながら今日では、ロシアのナショナリズムの普遍的ミッションを支持することができるような説得力のある「神秘的な」哲学など存在しない。にもかかわらず、「ロシア世界」から西欧へと知性やイデオロギーが流れていくことへの恐怖は強く残り、受容できないものとみなされている。2014年2月の独立広場でのウクライナ騒乱は、ロシア側からはこの喪失の一部とみなされた。ロシアの政治的、文化的ヘゲモニーが唯一残っているのが、正教会の精神的伝統であり、そこに、帝国論のビジョンは活力を見出しているのである。


第2の絵:玉座と祭壇

 プーチン大統領がモスクワのルジニキスタジアムに現れたのは、3月18日だった。彼はそこで拍手喝采の中、短い演説を行った。この戦いでの彼のイメージ戦略の転換によって、彼は対談者との距離を7メートルもとるようになった。

 2022年3月18日は、クリミア併合の8年目の記念日であり、また何よりフョードル・フョードロヴィチ・ウシャコフ氏の誕生日(原文ママ)であった。彼は歴史家であり、また2001年にロシア正教会から聖人とされたツァーリスト独裁政権下の不敗の将官だ。その象徴的意味は明らかである。現行の戦争は、この軍人聖人の庇護のもとにあることを示しているのであり、何より彼は2005年に核兵器爆撃手の守護聖人になっている。ここで2007年のことが思い起こされる。この時プーチン氏は記者会見で次のように言っている。「ロシア連邦の伝統的信仰と、ロシアの核武装は、ロシアを強化する二つの要素であり、国の内外の安全を保障するために必要なものである5」。キリスト教信仰と核兵器が悲劇的にも国の「安全」のために結びつけられているのだ。

 3月初頭、モスクワ総主教キリル1世はこの侵攻に対して、「物理的意味ではなく、形而上学的意味を持つ戦い」と述べた6。そうして、政治的性質の戦争を、終末的戦い、すなわち善と悪との最終決戦に投影したのである。ここには宗教が、構築された権力を投影するものとなる危険をはらんでいる。国は、「選ばれた民」であり、信仰自体が民をそれに属さないもの、つまり「敵」へと対抗させるのだ。黙示へと軍を駆り立てることは、権力を神によって望まれたものとして正当化させる。まさにそれこそ、ジハード主義であり、近年アメリカで見られる新十字軍のもとでの優越主義などと同じである7
 次の議論の場にて、総主教はウクライナでのロシアの侵攻を否認した。「我々は誰とも争いたくはない。ロシアは誰も攻撃してはいない。これほど大きく強力な国が誰も攻撃せず、ただその国境を守っただけであることは驚くべきことだ8」。

 一方で、このような神権政治にウクライナ元大統領ペトロ・ポロシェンコも無縁ではない。彼は2014年6月から2019年5月まで大統領を務め、「兵と言語と信仰」をスローガンに掲げていた。2018年12月、新生ウクライナ正教会の首座主教の選出の日、聖ソフィア教会にてポロシェンコ氏には主祭壇脇の「皇帝の」座があてがわれた。まさに国家の自己意識のもとでの宗教的動きの始まりであった。その4日後、当時アメリカ国務長官であったマイク・ポンペオはウクライナ人に祝辞を述べ、「外的影響のない」宗教の自由の保障がいかに必要であるかを強調した。



第3の絵:「慈愛」と「権力」

 この状況下で、教皇はよこしまな論理を砕くべく、つつましく、純粋な意味での預言的行動に出た。すなわち、ロシアとウクライナをともに聖母マリアの汚れなき御心に奉献したのである。それは、第二次世界大戦中の1942年に教皇ピウス12世が行った行為を引き継ぐものであった。

 このつつましい祈りの行為をよく理解するためには、少し時間をさかのぼって考える必要がある。2014年の時点で、教皇フランシスコはイスラム教のテロリストたちを、断罪と同情の双方がこもった言葉にて次のように表現している。「哀れな罪びとたち」と。敵、テロリストさえも、「放蕩息子」なのであって、決して悪の化身ではないのだ。不当な攻撃者を止めるための表現にさえも、「権利」、つまり「攻撃者の権利」があるのであり、それはすなわち「悪を行うことを止められる」権利なのだ9。実際、キリスト教の愛とは、「隣人」に対する愛だけでなく、「敵」に対する愛なのである。

 恐ろしい罪を犯す人を、慈愛をもって見る時、キリストの福音の力がとてつもない形で勝利し、敵に対する愛となる。このことなくしては、福音は建設的なものであっても、革新的なものとはならないだろう。

 これこそが、ウクライナのカトリック司教会議のメッセージだった。彼らは戦争の初めに、司牧的方法で、ウクライナの指導者や祖国を守るすべての人々のためだけでなく、「戦争をはじめ、攻撃によって分別を失ってしまっている人々」のためにも祈ることを求めた。「我々の心を、敵に対する憎しみや怒りから守りましょう。キリストは彼らのために祈り、彼らを祝福するよう教えたのです10」。しかし、この最後のメッセージは、我々が想像もできなかった戦争から3か月たつと、失われてしまったようである。

 教皇フランシスコは、3月16日にビデオ会談でモスクワ総主教キリル1世へ兄弟として呼びかけた際、次のように述べている。「教会は政治の言葉を使うべきではなく、イエスの言葉を使うべきなのです11」。つまりその言葉こそ、和解と平和と愛の言葉なのである。

 すでに愛に関しては、まさにプーチン大統領自身もモスクワのルジニキスタジアムにて口にしている。「自身の命を友人に捧げる、これ以上に大きな愛を持つことなど誰もできないでしょう」。これはヨハネによる福音書のイエスの言葉であり(15、13)、ここでは攻撃を正当化するために使われている。しかしながら宗教や友好関係における部族の概念は、福音とは正反対のものである。福音とは「敵に対する愛」(マタイによる福音書5、43)の上に根拠を置いているのであるから。そして権力や暴力に宗教的レトリックを使用することは冒瀆である。なぜならそれは神の本来の姿、すなわち愛を堕落させる行為であるから。

 またアメリカ合衆国大統領バイデン氏も宗教的レトリックを使う場面があった。彼は、ワルシャワで聖ヨハネ・パウロ2世の言葉を引用した。「恐れないでください!」しかし教皇の呼びかけの後半部分は引用しなかった。「キリストへと扉を開き、解き放ってください!」。このレトリックは、キリストや自由、NATOの意義を単純化する危険性を帯びており、キリスト教的ではない。決して宗教を政治的文脈に混ぜるべきではないのだ。宗教の傘のもとでのエスカレーションは、権力や対立を正当化するために神学的助けを借りることを意味する。しかし実際には「人々がキリスト教徒であることを誇りに思いながらも、他者を敵とみなし、戦争をしようと考えていることは、なんと悲しいことか」。こう、教皇フランシスコは述べている。聖なるものは決して権力の支えではないのであり、そして権力は決して聖なるものの支えとはならない。

 教皇はキリスト教を政治の保証(それがどんなものであったとしても)とすることに抵抗してきた。彼はキリスト教を、ローマ帝国やビザンツ帝国の後継者としようとする誘惑から遠ざけてきた。ナショナリズムの動きによるこのような試み、すなわち悪に対して善による軍事的同盟へとこれらの帝国を投影することは、時に抵抗できないように見える。しかし、政治的権力と精神的権威は、常にはっきりと区別されるべきである。それこそ、カトリックの普遍の力なのだ。教皇の白い衣服はキリスト教をキリストのもとへと戻すものである。キリストは剣で彼を守ろうとしたものを前に、「もう十分!」と二度も叫んだ。教皇は、皇帝の色であり、ローマ司教の持つ皇帝権を象徴する赤を身にまとってはいないのだ。


第4の絵:世界教会運動とナショナリズム

 ウクライナの悲劇は、キリスト教の悲劇でもある。まさにそれゆえに、全世界教会統一のための対話へと扉を開けておく必要がある。二つの国民に、実現までに長い道のりを要する一方で、非常に待ち望まれている和解の未来を切り開くために。

 フランシスコとキリル1世は2016年の2月12日にキューバ、ハバナの空港の一室で初めて会談した。これは歴史的会談だった12。すでにその当時から、ロシアとウクライナの間の対立に関しての言葉が交わされていた。状況が許されるならば、二回目の会談が期待されるだろう。

 2019年以降、ウクライナには二つの重要な正教会が存在していることを思い出さなければならない。一つはモスクワ総主教に属するものであり、もう一つは2019年にコンスタンティノープル総主教庁から独立正教会の地位を認められたものである。独立正教会とは、独立して自主的に運営する権利を有しているものを言う。独立正教会は、その首座主教であるエピファニー府主教の上にいかなる教会権力をも認めない。それゆえ、独立正教会が発足したことによって、政治的だけでなく、宗教的にも対立が生じることになった。というのもロシアの教会にとって、彼らの起源でもあるウクライナとのつながりを失うことなど考えられないことだからだ。そのために、コンスタンティノープル総主教庁、そしてエピファニー府主教との間に断裂が生まれた。

 モスクワとのつながりを保持している教会を指揮しているのは、オヌフリイ首座主教である。5月27日に開かれた教会会議では、モスクワからの完全な独立が宣言されたが、独立正教会へと統合されることはなかった。戦争に対するエピファニー府主教の主張は非常に厳しいものである。「悪や闇を愛する殺戮者には神の断罪と叱責、残酷な罰が待っているでしょう13」 (2022年3月20日)。モスクワとのつながりを持っていたオヌフリイ首座主教は、和解を要請した。「我々の軍と民のために、争いを忘れ、神の愛と祖国への愛のもとに一つとなることを求めます」。オヌフリイはウクライナの主権と領土を支持し、2月24日にはプーチン大統領に対して「兄弟間の戦争」をやめるよう要請している。「ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ、ウクライナでの戦争を中止するために全力を尽くしなさい!」そう、繰り返した。彼はウクライナとロシアの国民はともに「ドニエプル(ドニプロ)の洗礼の水を受けているのであり、この二つの戦いは、嫉妬から自身の兄弟を殺したカインの罪を繰り返すことになる」と14

 スヴィアトスラフ首座大司教が指揮するウクライナのギリシャ典礼カトリック教会は、2月24日に悲嘆の訴えを述べた。「この歴史的瞬間に我々の良心は、一致団結してウクライナの自由と独立を守ることを求めています!15

 ロシア正教会内部にも意義深い兆しがあることは重視すべきである。約300人の司祭たちが、ウクライナでの戦争をやめる決定権を持つ人々に対して強い訴えを投げかけ、この戦争を「兄弟殺し」と述べて、争いの即座の終結と和解を求めている。しかし、一方で緊張状態は、モスクワとつながっているウクライナ人たち(スームィ・アフトゥイルカ大主教など)もが式典の際にキリル総主教の名前を出さないところにまで発展している。さらにさまざまな独立正教会もまた戦争を断罪し、その中には、比較的モスクワ寄りと言われているアンティオキアのイグナティウス・アフレム2世や、エルサレムのテオフィロス3世、セルビアのポルフィリエ、ブルガリアのネオフィトも見られる。世界教会協議会は、モスクワの総主教キリルに、戦争が終結するよう声を上げるよう要請するための手紙を書いた。

 周知のように、ナショナリズムの様相は宗教的なものでもある。世界教会協議会からロシア正教会を追放することさえも提案された16。しかしこれは、さらにこの教会を政治的権力の偽りの動きの中に追いやることに他ならない。

 真の問題とは、もし教会がたとえどんなにか細く、それほど重要でないものであったとしても、その対話自体をやめてしまったなら、ナショナリズムと手を結び、政治的立場を反映した(おそらくより高く精神的な)ポジションを表明するようになることだ17。教会のミッションとは信仰ごとにその国境を定めることであると主張するような植民地主義へと戻ることになり、全教会統一の動きは死に絶えるだろう。

 真に共通の立場とは福音のものであり、平和や正義、和解のための行いである。教皇フランシスコがキーウを訪れたいという願いは素晴らしいものであるが、この訪問は、教皇の存在が和解の機会となる時(中央アフリカ・バンギにおいてそうであったように、そしてまた南スーダンのジュバにおいてそうなるであろうように)にはじめて意味を成すのであり、さらなる分裂を生み出す場合には意味を持たないだろう。


第5の絵:十字架の道行

 コロッセオでのキリストの十字架の道行の第13留(注/キリストの受難と復活を描いた15の場面の第13番目)にてウクライナ人の女性とロシア人の女性がともに十字架を掲げるよう教皇フランシスコが提案したことに対して、反対が巻き起こった。在教皇庁ウクライナ大使も、ツイッターで、「ウクライナや他の多くのコミュニティーに生じる心配を理解する」と表明した。

 この「とんでもないこと」とみなされた行為の意味とは何だろうか?攻撃する者と攻撃を受ける者はともに、教皇フランシスコによって同じ祈りの中に入れられたのであり、まさにそれは彼が聖母マリアの汚れなき御心にロシアとウクライナを奉献したことと同じことである。彼はイエスの言葉を使っているのであるが、その言葉とはいったい何だろうか?「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(マタイによる福音書5、44〜45)。教皇フランシスコは、福音の精神、つまり和解の精神のもとに行動したのである。彼は次のようにツイートした。「神は我々を悪人と善人、友と敵に分けてはいません。彼にとって我々は皆愛する息子なのです」。皆兄弟であり、息子である。だから「(あなた方は)やめてください」と2人称複数形での呼びかけが生まれるのだ。

 アルビーナとイリーナは、聖金曜日に十字架を運んだ。一言も言葉を発しなかったし、何か許しを請うようなこともなかった。何一つ。彼女たちは十字架を運び、十字架を掲げた。反対を巻き起こしたものの、一緒になって。彼女たちは預言的な兆しである一方で、闇はいまだ深い。神の娘であり、互いを友から敵へと変えてしまった戦争の姉妹である彼女たちが一緒にいることは、和解の恩恵を与えてくれるようにとの神への呼びかけだった。彼女たちが一緒にいることは、ユートピアを求める祈りではなく、恩恵であり、教皇は神のみがそれを与えることができるとみなした。神のお告げは人々の心と、歴史の影の中に入り込み、内側から復活のように爆発する。十字架の前に兄弟姉妹ではなく、友人と敵でしかいられないような世界では、イエス・キリストの神の重要さは示されず、我々を憐みのない裁きによる原始的神学モデルへと引き戻すであろう。

 十字架の道行は十字架へと向かったイエスの苦しみの道を再現するものである。儀式において苦しみは、イエスの傷と転倒によって表される。苦しみの闇の中に和解を召喚することは、「平和を求める一般の人々」を救うものである。このことは、ウクライナの多くの人から誤解された。ゼレンスキー大統領もブルーノ・ヴェスパのインタビューにて次のように述べている。「我々は教皇フランシスコに感謝しているし、彼を信頼しています。でもロシアとウクライナの国旗を手に二人の人物が並んで歩くイメージを受け入れることはできません。なぜなら我々にとってロシアの国旗は、占領を意味するのであり、その旗のもとに我々は殺害されているのですから」。もちろんこのようなことがあったわけではない。二人の女性は十字架を手にしていたのであり、国旗を手にしていたわけではなかった。

 教皇フランシスコは、十字架の下に二人の女性を置き、血に染まった十字架に触れるために彼女たちの手を握らせることで、「カトリック」の、つまり普遍的司祭としての彼の職務を果たしたのである。そうして、この困難な時代に信仰と教会の普遍性を、ナショナリズムから、そして玉座と祭壇、議会と教会の癒着から守ったのだ。炎上を巻き起こすような驚くべきことであったが、これこそ、キリストの福音を伝えることなのである。


第6の絵:教皇と外交

 戦争が残酷になればなるほど、血と涙の川はあふれ、和解の道は困難なものになるだろう。我々はヨーロッパにこのような戦争が起こるなど、想像もしていなかった。

 教皇庁はすでに長い間、この件に関して活動してきた。教皇は、ロシアのプーチン大統領と3回(2013年、2015年、2019年)、ウクライナのポロシェンコ大統領と1回(2015年)、そしてその後任のゼレンスキー大統領と1回(2020年)会見し、ゼレンスキー大統領とは戦争の間に2回、電話会談も行っている。2015年、教皇フランシスコはプーチン大統領とウクライナの状況について話し合い、「平和を実現するために、真摯に取り組む必要がある」ことで一致している。そして対話の環境を構築する重要性を述べ、ミンスク合意を実現するために尽力するよう求めた。2020年のゼレンスキー大統領との会談は、「2014年からウクライナを苦しめている対立に平和を探すこと」に充てられた。それに関しては、「当事者双方が、暴力の一番の犠牲者である国民の必要に最大限配慮し、対話に努める」という期待が共有された。

 今や周知のように、各国からの兵器の供給によりウクライナはロシアの攻撃に備えている。緊張関係がすでに明らかだったにもかかわらず、なぜ、対話の道をもっと真剣に追い求めなかったのか。そして戦争の悲惨な状況に陥ることを避けるために、適切な交渉を準備しなかったのだろうか。教皇は戦争の間もこう言い続けている。「交渉に真剣に向かうように。そして人道回廊は安全であるように」。

 教皇フランシスコは悪を完全に「排除する」ことを求めているのではない。それが不可能であることを知っているからだ。ただそれが他のところで他の形で姿を現すこと、すなわちそれを「中和させる」ことを求めている。そのために彼は外交という形で、危険で理解されない立場をとり、砂漠で一人叫ぶ声となっている。それはまさに湾岸戦争の時の聖ヨハネ・パウロ2世と同じなのである。

 バチカン外交は、現在を見ると同時に、未来をも考慮している。その意味で、非難する立場は明らかであるが、たち切るのではなく、縫い合わせようとしているのだ。攻撃者を非難することに疑いはない。教皇フランシスコも「認められない軍事攻撃」「ウクライナに対する暴力的攻撃」「ぞっとする戦争」「ばかげた殺戮」「ウクライナへの侵略」「野蛮な行為」「冒瀆的行為」などといった言葉を使っている。しかしながら教皇は宗教的、もしくは政治的指導者を攻撃しているわけではない。教皇は、これまでの教皇と同じく、対立の解決を求めているのであり、悪しき政治的戦略による選択を弾劾しているのだ。これは教皇の「中立主義」として間違って理解される可能性を生み出す。教皇は、暴力は暴力でしかなく、勝利は敗北とつかの間の平和しか生み出さないことを知っている。一体何度、教皇フランシスコはヤルタ会談を非難しただろうか。

 教皇のアプローチは、この世に善の帝国が起こることはないという確信に基づいている。そのため、すべてと、まさにすべてのものと対話する必要があるのだ。実際教皇はミャンマーの軍司令官であり、彼の愛するロヒンギャを掃討した作戦の責任者であるミン・アウン・フラインに対してもその態度を貫いた。世俗の権力はこのようにして完全に世俗化する。まさにそれゆえに、誰一人として悪の化身ではないのである。

 ピウス11世の述べた以下の原則は常に有効である。「魂を救うためには、そして魂への大きな損害を阻止するためには、悪魔とも交渉する勇気を持つでしょう」(モンドラゴーネの演説、1929年5月14日)。

 一方で、「もし教皇が戦争をする者にきちんと働きかけられないのであれば、国際連合事務総長と一体何が違うというのだろうか?18

 教皇の「外交」には、教皇フランシスコが戦争を止めるために在教皇庁ロシア大使を訪れたという前代未聞の行為も含まれる。またウクライナに二人の枢機卿(チェルニー枢機卿とクライェフスキ枢機卿)と外務局長ギャラガー大司教を派遣し、さらに2013年の9月7日にシリアに対してそうしたように、3月2日の「灰の水曜日」を、ウクライナの平和のための祈りの日と宣言し、5月31日には平和のためのロザリオの特別な祈りをも求めた。

 概して教皇フランシスコは、彼の前任者たちと同じく、常に和解と恒常的に続く安定のために活動し、和解(残念ながら今のところ我々の世代ではいまだ遠いと思われるが)が成り立つよう道を示している。そのために教皇は、これはプーチン大統領がそう呼ぶことを求めているような「特別軍事作戦」なのではなく、まぎれもない「戦争」であり、「認められない軍事攻撃」だとはっきりと述べている。


第7の絵:覇権と交渉

 和平と、共存、ヨーロッパや世界の安全のためのどのような計画を我々は心に描いているだろうか?我々はこの戦争がアフリカやアジアの大部分に及ぼす影響を自覚しているだろうか?穀物不足(ウクライナとロシアは穀物の主要な輸出国であるため)と、それによって何百万もの人々の深刻な食糧不足は、多くの移民を生み出すであろうし、エネルギー不足による影響はどうだろうか?「世界中の政権を動揺させる」すべての要素が確認できる。「そしてこのことが民主主義を強化するとは考え難い19」。

 教皇フランシスコは、国際政治に対するアプローチの点で非常に急進的であり、謁見の際に軍のエスカレーションと、軍備拡張競争を非難して次のように述べている。「世界をまるで『チェスゲーム』のように統治し、権力者が他者に害を与えて覇権を拡張するため動き方を吟味している20」。彼の「新帝国主義」に基づく戦争観は、教皇のマルタ共和国訪問後の演説でも語られているように、はっきりしている。

 何を期待するべきなのだろうか。外務局長ギャラガー大司教は、5月18日から22日にかけてウクライナを訪問し21、「平和を回復するための対話の必要性」を強調した。会見で彼は、「傷は深く」、和解のためにはかなりの時間を有するであろうことを認めている。しかし「継続中の戦争を前に、解決するためには外交以外の手段はありえず、当事者が交渉のテーブルにつく必要がある」。つまり「外交的、政治的対話を通じて紛争を解決するための責務を再認識する」必要があるのだ。

 この点に関して、イタリアのマリオ・ドラギ首相(当時)がホワイトハウスに訪問した際に発したメッセージは興味深い。アメリカ代表団との密室での直接会談のあと会見を行った際、彼はウクライナの戦争は、アメリカとヨーロッパの絆をさらに強固にするものであることを強調した。しかし同時に「イタリアやヨーロッパでは今、市民たちがウクライナにどのように平和をもたらせるかを自問している」ことを述べ、「人々はこの虐殺に終止符を打つことを望んでいる」ことも述べている。

 ドラギ氏は国際関係の中でのバランスと安定をどのように再構築するかという問題を取り上げた。諸国家の不完全な現実の中では、これは平和の意義である。このバランスを取り戻すためには、国際情勢の中で交渉の道を歩みはじめる必要がある。ソビエト連邦崩壊後に構築されたバランスシステムの崩壊によって生じた結果に、プーチン氏を対峙させる必要がある。

 とはいえ、国としてのロシアの面目の失墜を期待するべきではない。そう、フランス大統領、エマニュエル・マクロン氏は、ストラスブールで開かれたヨーロッパの未来を考える会議の最後に述べている。ヨーロッパに平和が戻る時、我々は新しい安全のバランスを構築しなければならないのであり、「決して相手を貶めたり、復讐への誘惑に陥ったりしないようにしなければならない」。マクロン氏は第一次世界大戦後、「ドイツの面目を傷つけた」ベルサイユ条約を引き合いに出している。つまり、和平は「ウクライナとロシア双方がテーブルについた状態で」構築されるべきなのだ22

 第二次世界大戦の歴史が、侮辱を感じ、復讐に燃える国がある中での国際秩序の構築が不可能であることを示している。そうではなく、ロシア23が大西洋からウラル山脈にまで広がるヨーロッパの中に統合されることを求めるべきであり、それこそ、聖ヨハネ・パウロ2世も夢見ていたことなのである。

[原田亜希子訳]

1 A.Spadaro,«IntervistaaPapaFrancesco»,inLaCiviltàCattolica,2013,III,449-477参照。
2 我々の雑誌では、この戦争や、戦争が世界に与えるインパクトに関して毎号掘り下げている。またAccentiではこの対立の起源を特集した号も出版している。www.laciviltacattolica.it/ucraina参照。
3 www.patriarchia.ru/db/text/5892566.html
4 http://interfax-religion.ru/?act=news&div=78780
5 http://en.kremlin.ru/events/president/transcripts/24026
6 www.patriarchia.ru/db/text/5906442.html
7 A.Spadaro,«Fondamentalismoevangelicaleeintegralismocattolico.Unsorprendenteecumenismo»,inLaCiviltàcattolica,2017,III,105-113参照。
8 www.patriarchia.ru/db/text/5922848.html
9 2014年5月14日、ベタニアのカトリック教会にて難民や障碍者たちと面会した際に教皇フランシスコが使用した表現。これに関しては、A.Spadaro,«LadiplomaziadiFrancesco.Lamisericordiacomeprocessopoliti-co»,inLimes,n.6,2018を参照。
10 http://kmc.media/2002/02/24/yepyskopat-ukrayiny-vidnovimo-nashe-prysvyachennya-sercyu-bogoro-dyci.html
11 www.vaticannews.va/it/papa/news/2022-03/papa-videochiamata-patriarca-kirill-guerra-ucraina-pace.html
12 «IlprimoincontrotrailVescovodiRomaeilPatriarcadiMosca»,inLaCiviltàCattolica,2016,I,417-425参照。
13 www.pomisna.info/uk
14 https://news.church.ua
15 http://news.ugcc.ua
16 www.churchtimes.co.uk/articles/2022/8-april/news/world/rowan-williams-adds-his-voice-to-calls-for-the-wcc-to-eject-russian-orthodox-church
17 A.Melloni,«LeChieseelaguerra:perchéconilconflittoinUcrainavainfrantumianchel’ecumeni-smo»,inlaRepubblica,2022年4月27日を参照。
18 L.Manconi,«PerchépapaFrancesconondeveandareaKiev»,inLaStampa,2022年4月21日
19 M.Magatti,«DisarmarePutinsipuò»,inAvvenire,2022年4月12日
20 Francesco,«Discorso»,aipartecipantiall’incontropromossodalCentrofemminileitaliano,2022年3月24日
21 彼は、リヴィウやキーウなどの場所を訪れた。また滞在中は、さまざまな宗教的リーダーや、ウクライナ外務大臣などさまざまな組織の代表者、そして多くの人々と会見している。
22 https://presidence-francaise.consilium.europa.eu/fr/actualites/discours-du-president-de-la-republique-a-l-occasion-de-la-conference-sur-l-avenir-de-l-europe
23 このヴィジョンは若きプーチンが2001年にドイツ連邦議会にて行った演説の中にも垣間見られる。その時彼は、「ヨーロッパ人が東と西でなく、北と南で分けられる世界」を望む一方で、「冷戦に対する多くのステレオタイプが完全に払しょくされていないため」この区分がいまだ根強く残っていることを認めている。www.bundestag.de/parla-ment/geschichte/gastrendner/putin/putin-196934/今この言葉を我々は皮肉として読めばいいのだろうか。それともノスタルジーをもって読めばいいのだろうか。いずれにせよ、近い将来のための警告であり続ける期待は残る。
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核兵器に対する教会の「No」

Il «No» della Chiesa alle armi nucleari Implicazioni morali e pastorali
Drew Christiansen S.I.
ドリュー・クリスティアンセン神父

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終わりの見えない戦いが続く昨今、ロシアは核兵器の使用も辞さない構えを見せ、
世界はまさに現実的な“核の脅威”に直面しています。
これは2018年に書かれたものですが、さまざまな立場に置かれた人々の視点を
考察することで、その普遍的な問題を浮き彫りにしています。
La Civiltà Cattolica 2018, I, 544-557

 海に開けた岸辺へとゆるやかに下っていく丘陵の間にすり鉢状に広がる長崎は、平穏かつ活気にあふれている街である。しかし、緑のうちに白い建物がのぞく現代的な姿の下にはもう一つの長崎がある。断片的な情報だけが街の至る所に横たわっているが、長崎は1945年8月9日の午前、広島から3日後に、同じく原子爆弾の投下により破壊された街であるのだ。アメリカは戦争を終わらせるために日本に2発の原子爆弾を投下したのだと言われている。およそ50年も前のことだが、2発の爆弾は忌まわしい影響をもたらし続けている。日本人の中には思い出したくはないと言う者もいるが、皆が忘れ去っているわけではない。82歳の巨匠、黒澤明による映画『八月の狂詩曲』は、この出来事を忘却する者と覚えておきたい者との差異をテーマとしている。

 教会の教義は、1980年代の核抑止力を限定的に承認する立場から、2000年代に入り、核武装のための核抑止力をも道徳的に受け入れられないものとして拒否する立場へと移行し、さらに近年では、2017年の9月に核兵器禁止条約への批准を求めたように、核の廃絶を強く支持している。カトリック信者たちはとるべき立場を問う必要に迫られている。

 とはいえ、自身のカトリック信仰を心配しながらも、「核兵器の所有と使用の脅し」を非難する教会の現在の教義のもとで、核兵器に対する自身の市民的、職業的義務にどのように対峙するべきなのかということに関して、これまで明らかな指示を受けてこなかった人々の悲嘆に対応しないのは、問題であろう。

 その上、司教たちはこの問題に対して、巻き込まれることが確実にならない限り、自身の司牧活動を慎重という旗印の名のもとに続けながら、一般的な答えを出すことをためらっている。このような態度は前例のないものではない。実際、過去の世代においても、教皇、司教、そして公会議はしばしば神学者や教会法学者たちに助言を求め、問題を宣言しこの論争に介入する前に、彼らが問題を解決してくれることを期待した。

 より明らかな道徳的指針を示すために、教会の司牧者たちは教会内の同意を取り付ける必要があるのであり、それは道徳神学者や司教たちによって支持され、信者の信仰の強い確信のもとになされなければならない。アメリカ合衆国の司教たちの長年にわたる熟慮の結果は、レーガン大統領期(1981-85)に発表された手紙『平和への挑戦』の中に表されているが、それは、単なる一時的な世論としてだけでなく、熟慮のもとに出された公の判断が、教会の教えの方向性の中で変わりうることを示した。


同意への道:オークランドの例

 これらの問題の単に抽象的な考察にとどまるのであれば、我々は今、道徳的理想と、核兵器で武装した世界の差し迫った現実との間で手詰まり状態にあると考えられるだろう。しかし我々は、科学者の選択が教会の教義の発展とともに変わりうるということを示す歴史的前例を有している。この場合は、物理学者の選択においてである。

『平和への挑戦』の発表後、オークランドの司教、ジョン・S・カミングは、カトリック教徒であれそうでない者であれ、カリフォルニア大学のローレンス・リバモア国立研究所で働く科学者たちのために、神学者や、バークレー神学校の倫理学の専門家たちとともに、この手紙の意味を考察するための一連の会議を積極的に行った。彼らはともにこの手紙が提示した問題を検討したのである。

 このような試みが科学者と彼らの組織に新しい選択をもたらした。科学者の中には、核兵器の計画から、管理の技術に関する研究に転向する者も現れた。また前大統領カーター時代のエネルギー政策も相まって、科学者や研究所の中には、核兵器から、代替エネルギーの発展の研究へと方向性を変える者も見られた。現在のアメリカ合衆国の政治状況では、職業や政治的行動を変えることは当時ほど簡単ではないだろう。しかしながら、オークランドでの科学者との対話は、レーガン大統領期のあまり有利とはいえない情勢の中で発展し、司教たちによる会議が、道徳的議論におけるコーディネーターとしての役割を果たし、核兵器産業における科学者や他の専門家たちが道徳的判断を下すためのガイドとして活動するために、一つの司牧モデルを提示したのである。


大人の道徳形成

 オークランドの対話は大人の道徳形成のためのモデルをも提示した。彼らは、今回のように彼らの経験が非難されている状況に置かれた時に、よりそれを学ぶこととなる。その上、『平和への挑戦』の起草について広く議論されたことで、この手紙が司教の権限にのみ基づき一般市民の参加なく「上から」出されるよりも、はるかに広くその教えが周知され受け入れられることになった。

 アメリカ合衆国における司祭の道徳的権威は、合衆国の軍の間でも影響力を持ち、それは当時の司教たちがこの手紙に対して最終的な承認を出す前にとった、オープンで人々を信頼するその態度のおかげでもあった。さまざまな場所でセッションが行われ、続いて司祭による草案は、メディアに広く公開され、教会の内外の人々によって議論された。その結果、最終的には多くの領域で――当初はこの手紙の計画に対して反対したり否定的な立場だった者にも――この教義が認められ、彼らの教えや彼らの同僚たちの職業形成において利用されるようになったのである。


対話のコミュニティーと道徳判断

 オークランドのモデルは、教会の集団的道徳判断について考察する機会をも提供した。第二バチカン公会議は、「いかなる時においても、教会の義務とは、時代の兆候を調べ、それを福音の光のもとに解釈することである1」と断言している。その後、教皇パウルス6世、そして現在の教皇フランシスコは、教会全体、そしてその内部のコミュニティーが持つ、時代の兆候を見定める責務について言及した2。その上、現在の世界の多様性や複雑性から、パウルス6世も、フランシスコも、教皇が一人で時代の兆候を読み取ることは不可能であり、その結果、さまざまなコミュニティーが司教たちとともにその判断に関わる必要があることを述べている3

 オークランドの対話は、多くの科学者たちがこの対話をもとに実際に判断することになったとはいえ、それ自体としては集団的判断を下すものではなかった。しかし教会にとっては、少なくとも「道徳的対話のコミュニティー」のモデルとなり、判断への最初の一歩となったのだ。


判断の成熟

 最終的に、教皇パウルス6世や教皇フランシスコが説いた判断のモデルは、信者の側の集団的判断が成熟し、それが教会に徐々に吸収されていくことを可能にした。このようにして道徳的教えは、枢機卿ニューマンの言葉を借りるならば、「司祭と信者のコラボレーション」として生まれるのである。その結果、教義は教会の信仰の真の表現としてより自然に受け入れられるであろう。しかしながら、公会議が予想し、教皇パウルス6世やフランシスコが提案したように、共同体の判断は積極的に活動する信仰のコミュニティーを必要とした。


最近の教会の教義

 核抑止力に関する科学者たちの責任を規定するための教会の指導者たちの最初の活動は、一般的なものであった。彼らは方向性を示したが、具体的な指示や、知識人たちに責任の所在を突き詰めるような方法を提示することはなかった。

 キューバ危機は、教皇ヨハネ23世に回勅Paceminterrisを書くよう促したが、「長い19世紀4」におけるカトリック解放の初期においては、教皇は俗人(のカトリック教徒)たちが科学的分野で権限を持ち、公共事業に参加する必要性に関心を寄せていた5。彼は、信仰生活から科学技術能力を遠ざけることをよしとするようなメンタリティーに対して異議を唱え、そうではなく「人類は、自身の内面において、科学・技術・職業的要素と、精神的価値が合体したものとして自身の活動を行う6」ことを求めた。

 現代兵器の破壊力に対する考察として、第二バチカン公会議は単に政府の代表や軍司令官に「神や人類全体に対するこれほどに大きな責任を常に検討する7」ことを勧めただけであった。

 アメリカ合衆国の司教たちは、核の時代の問題が深刻化する中で、科学の役割を強調し、1983年5月の手紙の中で、この問題の解決に科学者たちが参加することを求めた。「科学者たちが現在の方向を変え、過去において戦争の危険を強調したのと同様に、平和のために勇敢で毅然とした考えを進めるべく尽力することは、人類全体に素晴らしい恩恵をもたらすであろう8」と書いている。

 10年後、『正義の収穫は平和の中にまかれる』の中で、アメリカ合衆国の司教たちはカトリック教徒たちに、「核戦争の考えに対しても拒否」することを奨励した9。しかしながら、彼らは核兵器の分野での研究や戦略的分析を行う人々へ、道徳的に明確な指示を提示することはなかった。

 道徳神学者であるジョン・フィニスや、ジャーメイン・グリセズ、ジョセフ・ボイルは、核分野におけるさまざまな人々の責任の詳細な決議論を提示したが、物理学や核理論に関する科学者たちに何ら助言を与えることはなかった。立法者や、海軍司令官、そして、「ボタンを押す」人の責任については考えられる一方で、兵器を計画し、つくる人や、戦略のエキスパートたちの責任は考慮されなかったのである。一般の市民に対しては以下のような明確な責務が提示された。「彼らの第一の責任として同様の(核戦争の考えを拒否する)機会を得ることは、国の核抑止の政策から決別することを証明するのだ10」と。

 我々はここで、核兵器に対する政策と核抑止の戦略に対する教会の教義に関して、広いカテゴリーの研究者たち、つまり「正しい戦争論(正戦論)」の分析者たち(中でも特に道徳神学者たち)の責務について考えてみたいと思う。

「正しい戦争論」の分析者たちの責務

「正しい戦争論」の分析者たちの責務を明らかにする際は、彼らの役割と関係のもとにそれを行わなければならず、職業倫理や法的規定が存在する場合は、彼らの職業を律する規定に従ってなされなければならない。関係は根本的な要素であり、我々の現在の目的においては、分析者と教会や市民社会との関係のことである。教会との関係というのは、教皇フランシスコが書いたように、「道徳的規律によって武力の使用を制限する不断の努力によって11」教会は第一のエージェントであり続けるからだ。そして市民社会との関係というのは、市民社会が、我々の根本的な価値を議論し、我々の連帯した社会の組織をどのように形づくるべきなのかを評価する公共の場であるからである。

 それではここで、核兵器の使用と所有の脅しに対して教皇フランシスコが発した非難に沿って、核抑止力に対する「正しい戦争論」の分析者たちの八つの責務を提示していきたい。


1)積極的平和

 核兵器の禁止に関して、一般的な課題とは、ジョン・ハワード・ヨーダーが指摘するように、平和についてのより広いカトリックの伝統の中に「正しい戦争論」の分析を取り込むことで、それを「信頼できるもの」にすることである。この新たな段階において、「正しい戦争論」の分析者たちの最初の責務とは、我々が思うに、核兵器の政策を評価すること、特により広い平和倫理の中で、核抑止を評価することである。「正しい戦争論」のカトリックの分析者たちにとって、これは非暴力に関する教会の教義の発展のみならず、人類の権利や発展、世界への配慮などを含んだ積極的平和に関する教義をも包括するであろう12

 戦争や平和の問題についての考えの中に、人類の権利や発展、そして世界への配慮の意味を入れることによってはじめて、分析者たちは武装した対立と、非暴力の活動のリスクと代償に対峙することができるのだ。

 なお、この対立の道徳的分析に、カトリックの平和の倫理を入れるべき二つの理由が存在する。第一に、危機と脅威の中で「正しい戦争論」の概念を示す傾向にあるが、「正しい戦争論」の分析者たちは、俗人や宗教者たちによる平和のプロセスの意識の高まりと現在の実践状況をも考慮する必要がある。

 さらに聖アウグスティヌスによる、対立の際の正しい行いとは平和を求めることであるとみなすことを、単なる形式ではなく、この考えを現在社会の科学や国際的人権、道徳哲学、神学や教会の教義の光によって、現状に適応させなければいけないのである。


2)ざまざまな思想の派閥を巻き込む

「正しい戦争論」の分析者たちのコミュニティーは非常に広く、その内部には二つの異なる境界線が存在する。第一に、「正しい戦争に対して寛容な分析者たち」と定義できる人々――つまりいかなる軍事的実践や政策をも承認する人々――と、武力衝突を予防し、制限しようとして、より厳密に伝統的考えを適用しようとする人々とを分ける境界線が存在する。第二の境界は、もっとも厳格な「正しい戦争論」の分析者たちを、非暴力と正しい平和の伝統に従う人々から分けるものである。

「正しい戦争論」に対する現代の考えの信頼性は、少なくともその実践者たちが彼らの聴衆にこの議論の展開状況について周知させていたら、かなり広がっていただろう。平和と戦争の分析者たちの三つ目の責務とは、寛容と不寛容、正しい戦争と非暴力といった理論的に異なる考えを持つすべての研究者たちを参加させることである。

 寛容な態度をとる人々を巻き込む必要があるのは、武力対立の究極を合理化するような「正しい戦争論」の伝統の乱用を避け、可能ならばそれを修正するべきだからだ。これは核兵器の場合においては特に深刻なことである。戦争や平和の問題の分析には、武力の代替案に対する現在の知識を得、そしてある対立を解決するために何が重要かを見定めるために、「非暴力/正しい平和」の考えの前衛にいる人々を巻き込むこむことが必要である。この最後の点に関しては、近年の「戦後の法」に対する議論の中でより一層明らかにされている。


3)壁を維持する

 核の戦略家たちは核戦争と合意の戦争の間の壁について言及する。核倫理において繰り返される問題とは、この壁が時間の流れの中で何度も引き合いに出されると、戦争決疑論における実践の一つに過ぎなくなってしまうことである。兵器を計画する人々が核兵器をより使用可能なものにしようとするように、核倫理の専門家たちの中には、特定の状況を特徴づけ、その中においては結局のところ、核兵器の使用が許容されうると考えようとする者もいる。しかしこれが正常の状態となることには異議を唱えるべきである。軍事的戦略においてと同じく、倫理においても、壁は維持されるべきなのだ。

 教皇ヨハネ・パウロ2世やアメリカ合衆国の司教たちがキリスト教徒や善意ある人々に「核戦争に対して「No」という13」ことを要請したように、我々は今日、核兵器の所有と開発に対して「No」と言うべきであり、まさにそのような形で、去年核兵器の禁止のための国連の条約が採択された。「正しい戦争論」の分析者たちの三つ目の責務とは、合意のもとでの武装戦争決疑論と、核兵器に関する政治の決疑論との間の壁を維持することである。戦争と核兵器の使用は、まったく異なる問題として扱わなければいけないのであり、その分析にはかなりの慎重さを必要とする。我々は核兵器を、管理することができるものと考えることをやめ、むしろ追放すべきものと考えるべきなのだ。核兵器について、第二バチカン公会議が現在の戦争に関して言及しているように「まったく新しいメンタリティー14」のもとで考えなければいけないのである。


4)世界の世論の変化を認める

 四つ目の責務は三つ目に続くものである。「正しい戦争論」の現在の分析者たち、特にカトリック信者たち(それに限るものではないが)は、研究者としての考えの中に、昨年国連によって承認された核兵器禁止条約によって表明された核兵器の拒絶を組み込む責務を負っている15。条約は、核兵器や他の核爆発装置の開発と実験、生産、取得、保有または貯蔵を禁止している16

 分析者たちは、国連加盟国の大部分の(条約を審議するために会議を承認する)国々、核兵器からの解放を表明している国々、核の廃止を支持する市民社会の組織によって表明されたように、国の権利におけるこの変化を考慮すべきであり、条約の中の核兵器を増やさないという点に関して、いわゆる常任理事国(中国、フランス、イギリス、ロシア、アメリカ)が既存の権利として主張している、核兵器に基づく防衛戦略の正当化を拒否するべきである。

5)「教会や教区のレベルにおいて」教えを伝える

 ジェラルド・シュラバッハは、非暴力のためのカトリックにとっての挑戦とは、「教会や教区レベルにおいて」教会の教義を伝えることであると書いている17。この表現を使って、我々は平和や戦争の問題を論じる道徳神学者たちの五つ目の、そして最大の責務として、次のように述べたい。つまり「正しい戦争論」の分析者でもあるカトリックの道徳神学者たちは、全世界の道徳問題、特に核兵器の廃止に対する問題に関して、教会の教義を「教会や教区のレベルにおいて」伝える責務を負っているのである。

 教会は、この議論におけるカトリック社会の現在の教義の認識と実践における司牧の大きなギャップを埋めるために、彼らの能力を必要としている。教授たちは彼らの自主性を保持する権利を有しているものの、時に司教と学術機関との間に見られる排他感は克服されるべきなのであり、教会善と地球の未来のために、彼らは協力すべきなのである。


6)実践科学のプロセス

「正しい戦争論」の分析、もしくはより正確には平和と戦争の問題の道徳的分析は、ニュートラルな学問的活動ではなく、むしろ実践科学の行使なのであり、我々の共同生活の一部として、司牧と政治をつなげる教会内や公共の討論に貢献することなのである。社会システムの中の活動が、平和の構築と、戦争の予防と制限に関する規範や政治を定義し、適用し、支持するのだ。

 その参加者には、哲学者や神学者、法学者や司教、聖職者や聴罪司祭のみならず、軍事裁判官、戦争裁判所、軍育成システムなども含まれる。それゆえ、平和や戦争の問題の分析者たちの六つ目の責務とは、平和の構築や、戦争のコントロールに関する社会的規範を制定・適応・支持するような公共の議論に参加し、貢献することである。

 今日、「正しい戦争論」に関する問題の科学的、法的特徴は、分析者たちに、核抑止に対する批判と、核に頼らない平和への先駆者として参加することを求めている。分析者たちはともに平和の条件を構築する研究者や教授陣からなるより広いネットワークの中で責任を共有しているのであり、暴力的対立による破壊や、好戦的なメンタリティーの伝統に対してその責任を守っているのである。この相互作用から、核の科学者たちの真摯な疑問や疑念に対してより明確かつ直接的で、満足のいく答えが現れてくるであろう。

 さらに現在、公共の法廷は、核抑止についての政策に対抗するための世論が構築されうる主要な場所となっている。アメリカ合衆国の司教たちが『平和への挑戦』に書いたように、「特に民主主義において、世論は政策や国の戦略に積極的に同意しなかったり、あるいは一連の措置によって、それ以上は政府が進められないような限界を提示することができるのだ18」。

 80年代にアメリカ合衆国の司教たちが核兵器への「抵抗」を支持したように、今日において、カトリック教徒や良識ある人々は防御策としての核の抑止力に対して反対する必要がある。アメリカの司教たちが認めたように、市民もまた、「正しい戦争論」の分析のための重要な聴衆を形成している。今日ソーシャルメディアが抑止力への反対世論を構築する役割を担っているように、過去の方法もまた、その問題への知的、政治的、宗教的確固たる基盤を提示することで、いまだに核抑止に反対する世論を形成する上で重要な役割を担うだろう。公共の決議のプロセスにおいて、「正しい戦争論」の分析者たちは間違いなく、果たすべき重要な責務を負っているのだ。
 数世紀もの間、道徳神学者たちや、聴罪司祭、指導司祭たちは、国の政治に関わる政治家や軍のリーダーたちの意識の形成において重要な役割を担ってきた。司教たちは信徒を対話や道徳的判断のために召集することができ、教会の社会的教義を示し、自由裁量によって、罪を犯した人たちに対して彼らを統制する権限を行使することができる19。公会議も、彼らに現在の公共問題に対峙することを求め、公共善のために協力できるよう司教会議の開催を提案した。

「正しい戦争論」の分析者たち、神学者、道徳哲学者たちは司教の職務を助ける義務を負っている。彼らは道徳的知恵の伝統に奉仕すると同時に、これらの伝統が新しい挑戦や未踏の領域と出合うような教会の前線地帯でも活動している。教皇フランシスコは神学者たちに、科学との対話に参加することを求め、大学がそのような出合いの場所となることを推奨した20


7)核抑止システムで働く人のための決疑論

 教皇フランシスコによってなされた核抑止に対する批判に基づいて、神学者や道徳哲学者、そして国際的人権問題の研究者たちは、軍事専門家や戦略家、政治家やその他の職業の人々といった、核兵器の分野で働く人々と、彼らがその活動において直面している道徳的問題を議論し、今現在核抑止力の維持と機能に従事している人々に指標を提示する必要がある。平和と戦争の分析者の七つ目の責務とは、核兵器の分野で働く人々のための決疑論を発展させ、核システムの中での彼らの責任を果たす上で対峙しなければいけない矛盾や、倫理的・道徳的選択の中で彼らが考えられるよう手助けしなければならないことである。

 教皇ヨハネ・パウロ2世は回勅Evangeliumvitaeの中でこの責任を見定めるための指針を提示した21。教皇フランシスコは、Amorislaetitaにおいて、特にその第8章において(「弱さに寄り添い、見極め、受け入れる」)どのようにこの聖職者の役割を行使するかに関するさらなる指標を示している22

 分析者たちは、核非武装に関して、核抑止力が道徳的に許されると信じ続けているような人々を含めた、さまざまな役割を演じる人々に帰される責務の重大性を認識しなければならない。彼らは、自身の責務と、さらなる解明を必要とするマージナルな状況との間の対立に対峙しなければいけないだろう。


8)核抑止システムで働く人々への聖職者の導き

 道徳神学者や、その他の聖職者、「正しい戦争論」の分析者たちは、学問的著作の中で、非合法の行動に対するさまざまなレベルでの共犯関係を記述したとしても、この考えを実行する上では、教皇ヨハネ・パウロ2世によって表明された「段階的」司牧の原則を考慮しなければいけないだろう。すなわち「法の客観的必要性を十分に理解し、実行することができない人の場合には、活動を慎重に実行する上での段階性23」である。この配慮は、核の脅威に対して行き過ぎた悲観的メンタリティーや、神のお告げに対する極端な考えを持っている人の場合、特に必要となる。

 さらに、教皇フランシスコの教えによれば、他に二つの原則にも注意を向ける必要があるという。すなわち、「寄り添うこと」と「判断」である。教会は、教会の社会的教義の中での核抑止に対する道徳的状況の変化に沿って、職業を変え、自身の職業的アイデンティティーに挑戦しようとする人に寄り添う義務がある。分析者たちにとって、このことは核兵器の専門家たちに対する直接的責任をもたらすのであり、彼らが専門家や、軍関係者、もしくは単なる市民として、教会の教えと対立するような時に、どのように教会の教えの要求を満たせるのかを理解できるよう会話を促す。さらに、核抑止に対する教会の教えと意見を異にする人々のためにも、家族についての教会会議において表明されたように、教会の生活に参加し続ける可能性を肯定する必要があるのだ24

 特に、判断する際にはその決定のプロセスがその人物の精神生活全般を考慮することを求める25。教皇フランシスコが示したように、「さまざまな状況の複雑さを考慮しないような判断は避けるべきであり、人々がそれぞれの状況によって苦しんでいることに注意を向けるべきである26」。このような判断は、同時にその人物の生活の精神的プロセス全体に対する注意深い指導を必要とする。福音の教えにならった生活の個人的責任や、キリスト教徒の徳の発展(もしくは喪失)、精神のインスピレーションが評価されるべきなのである。

 教皇フランシスコが離婚したカップルに関してAmorelaetitiaに書いたように、「彼らに(この場合は核兵器の分野で働く人々)人生の恩恵に対する神の教えを示し、彼らの中で神の計画が絶頂を迎えられるよう、手助けすることは教会の責務であり、これは常に精霊の力のもとに可能なのである27」。つまり、八つ目の助言は、司牧者は、その分野で働く人々に対して核抑止を非難する上で、彼らの具体的な生活における精神的動きを促すよう司祭としてのセンシビリティーのもとに行わなければならないというものである。

 また、分析者たちは、核兵器の廃止の決疑論を推敲する上で、概念的正確さと、論理的一貫性のもとに行動しなければいけない一方で、今日彼らの決疑論は、立法に基いた告解の古いモデルよりも、精神的指導に近い司牧の方法に従って適応されるべきであることを自覚しなければいけないだろう。


結論

 本論では、「正しい戦争論」の分析者たち(特に道徳神学者たち)のためのいくつかの指針を出発点とし、司教やその他の分野のエキスパートたちの学問的資質は、戦略分析家や武器計画者と同様に、異なる規則や、我々がここに提示したモデル以外のものをも必要とするであろうことを意識した上で、核の分野における知識人たちの責任の概要を提示することを試みた。

 我々の希望は、分析者たちが(司教やその他の聖職者たちとともに)、2017年11月10日に教皇フランシスコによって表明された核抑止の不道徳性に対する教会の教義の施行の助けとなるよう活動することである。教会は司教や信者たちが、重要な道徳的問題に対する教えを口にし、実行に移すため、ニューマンが述べているように、「一緒に協力する」時、よりよく機能するのである。

[原田亜希子訳]

1 第二バチカン公会議 , Gaudium et spes, n.4.
2 パウルス6 世 , Octogesima adveniens, n.48; フランシスコ , Evangelii gaudium, n. 51 参考。
3 教皇が時代の兆候に対する普遍的な答えを提示することが不適当であることについては、パウルス6世, Octoge–sima adveniens, n. 48; フランシスコ , Evangelii gradium, n. 16を参照。とはいえ、核兵器の脅威の場合は、 普遍的共通善に関する世界的な問題であるため、それに対する普遍的司牧者としての教皇の判断は特に重要であ り、教皇が時代の兆候を読むことの重要性は明らかである。しかし教皇の責任は、決してその他の人々に対して社 会的コンテクストの中でこの問題を見定める義務を免除するものではない。 道徳的判断の責任は、教会全体に属 するものである。
4 カトリック教会史における「長い19世紀」という表現の使用に関してはJ. W. O’Malley, What Happened at Vatican II, Harvard (Ma), Harvard University Press, 2010, 53-92を参照。
5 ヨハネ23 世 , Pacem in terris, nn. 77-78(技術的能力に関して)、n. 7
6 (公共生活への参加に関して)を参照。 6 Ivi, n. 78.
7 第二バチカン公会議 , Gaudium et spes, n. 80.
8 アメリカカトリック司教会議 , The Challenge of Peace: God’ s Promise and Our Response, Washington,USCC, 1983, n. 320.
9 «The Harvest of Justice Is Sown in Peace: A Reflection on the Tenth Anniversaty of “The Challengeof Peace” », in G. F. Powers Al. (eds), Peacemaking: Moral and Policy Challenges for a New World,ivi, 1994, 333.
10 J. Finnis, G. Grisez, J. Boyle, Nuclear Deterrence, Morality and Realism, Oxford, Oxford UniversityPress, 1987, 253.
11 フランシスコ, 2017年第50回世界平和の日の記念メッセージ, «La nonviolenza: stile di una politica per lapace», n. 6.
12 「積極的平和」の概念に関しては、アメリカ司教会議 , The challenge of Peace..., cit., nn. 68-69を参照。
13 核兵器に対する「No」に関しては、ivi, n. 132, 139-141を参照。
14 第二バチカン公会議 , Gaudium et spes, n. 80.
15 教会による核抑止に対する拒絶に関しては、J. Finnis, G. Grisez, J. Boyle, Nuclear Deterrence..., cit. 条約によって承認された文章の識別番号は A/CONF.229/2017/L.3/Rev.1.
16  Ivi,
17 G. W. Schlabach (a cura di), Just Policing, Not War: An Alternative Response to World Violence, Col- legeville (Mn), Liturgical Press, 2007, 101.
18 アメリカ司教会議 , The Challenge of Peace..., cit., n. 140.
19 第二バチカン公会議 , Christus Dominus, n. 19.
20 フランシスコ, Evangelii Gaudium, nn. 133-134参照。
21  ヨハネ・パウロ2 世 , Evangelium vitae, nn. 68-77.
22 フランシスコ , Amoris laetitia, nn. 291-312.
23 ヨハネ・パウロ2 世 , Familiaris consortio, n. 34; フランシスコ , Amoris laetitia, n. 295.
24 フランシスコ, Amoris laetitia, n. 299参照。A. Spadaro, «Intervista a papa Francesco», in Civiltà Cttoli–ca, 2013, III, 461-464.
25 判断に関しては、フランシスコ , Amoris laetitia, nn. 296-300.
26 Ivi, n. 296.
27 Ivi, n. 297.
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パラリンピック

I giochi paralimpici
Giancarlo Pani S.I.
ジャンカルロ・パーニ神父

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東京でパラリンピックが行われたのはまだ記憶に新しいところですが、
そこで活躍したイタリアの選手たちそれぞれの軌跡を辿ります。
害を乗り越えて栄光をつかんだ彼らのストーリーが示唆するものとは。
La Civiltà Cattolica 2021, IV, 248-257

 3人のイタリア人女性が、東京で開催されたパラリンピックの陸上100メートル1で世界の注目の的となった。彼女たちは義足を付けて走り、記録を打ち立てたのだ。それは、9秒58の記録を持つジャマイカ人のウサイン・ボルトに次いで、イタリア人最速の9秒80の記録によって、100メートルでの10秒の壁を破ることに成功したラモント・マルチェル・ヤコブスが1か月前に金メダルに輝いたのと同じトラックでのことだった。1位に輝いたのはアンブラ・サバティーニ。19歳の彼女は東京でのパラリンピックの新星だった。雨天にもかかわらず、14秒11で100メートルのゴールテープを切り、世界新記録で金メダルを獲得した。彼女に続いたのがマルティーナ・カイローニとモニカ・グラツィアーナ・コントラファットである。3人のイタリア人選手たちは、三色旗をはためかせながら、パラリンピックの表彰台に一緒にのぼった。まさに「歴史的ハットトリック」だった。さまざまな新聞が、この歴史的快挙に喜びの笑顔を浮かべた彼女たちの写真を全面に掲載した。

 しかしこの勝利は、また別の勝利をも意味していた。まさにセンセーショナルな方法で、偏見に「チェックメイト」したのだ2。パラリンピックは、必要ならば何度でも、足がなくても走ることができること、腕がなくても泳ぐことができること、足がなくてもペダルをこぐことができること、手がなくても卓球ができること、そして手足がなくてもフェンシングができることを示したのだ。

「イタリアには、物理的な障害がたくさんあります。でもそれ以上に精神的な障害があるんです。もし後者を打ち破ることができるならば、すべてがもっともっと簡単になるでしょう」とアンブラは、金メダルを獲得した翌日に述べている。「義足を付けて出歩く私にとって、それほど大きな問題はありません。もちろん、パラリンピックの選手村のようにすべてが障害を持った人に合わせたつくりであるなら、夢のようでしょう。歩道が狭いこと、スロープが少ないこと、トイレが使いにくいこと、障害者用のスペースに我が物顔で駐車する人たちがいることなどは、もってのほかです3」。

 9月22日、チャンピオンはオリンピック・パラリンピックに参加したFiammeGialleの選手代表団とともに教皇フランシスコと面会した。その時アンブラは予定されていなかった行動をとった。自身の金メダルを教皇の首にかけたのだ。それは自発的で、とても感動的な行為であり、教皇はそれを歓迎した4


すべてのメダルにエピソード

 3人の勝者一人一人に、ドラマチックで信じられないようなエピソードが存在する。2019年、すでに中距離選手としての未来が約束されていたアンブラは、父親とスクーターで走っていたところを交通事故にあった。逆走してきた車と衝突した彼女は左足を失い、彼女の足は膝の上で切断された。まるでそれは夢が道半ばで打ち砕かれた人生のようだった。しかし彼女はすぐに挑戦するために立ち上がり、2年後にマルティーナの助けのもと、東京で金メダルを獲得した。病院で覚醒した彼女は、ついにレースでの世界新記録の樹立を果たしたのだ。

 40歳のモニカ・グラツィアーナ・コントラファットは、アフガニスタンの戦争で片足を失い、イタリア軍初の女性上級伍長となった人物である。銅メダルを獲得したが、実は彼女は2018年のシドニーでのインヴィクタス・ゲームでは金メダルも獲得していた。彼女の言葉はもっとも感動的なものであった。「私はこのメダルをある国に捧げたいと思います。私からあるものを奪いましたが、でも実は多くのものを私にくれた国であるアフガニスタンに5」。パラリンピックにおけるもっとも大きな喜びとはまさに、こうした悲劇が勝利に代わる喜びであろう。

 銀メダルを獲得した32歳のマルティーナ・カイローニは、FiammeGialleの一員であり、彼女も18歳の時に事故で足を失っている6。2016年にはメダルを100メートルと走り幅跳びで2つ獲得している。彼女は早くからオスカー・ピストリウスの義足を採用し、学校で自身の経験を伝えるボランティア活動もしている。何より彼女はアンブラとモニカの元気の源であった。アンブラが勝利した時、マルティーナは彼女のために喜び、手で王冠の形を示しながら彼女が「クイーン」であることを宣言していたことは、レース直後のトラックでとられた印象的な写真が伝えている通りである。


欧州議会でのベベ・ヴィオ

 東京パラリンピックは24歳のベアトリーチェ・ヴィオ、通称ベベの素晴らしさも明らかにした。彼女は11歳で髄膜炎により前腕と下肢が壊死したために、手と足の切断を余儀なくされた。その翌年、何回にもわたる手術と数か月にわたる入院の末、彼女は好きだったフェンシングを再開し、チャンピオンとなったのだ。すでにこれまでに11個の金メダル、2つの銀メダルを誇っていたが、東京ではさらに個人フルーレで金メダルを獲得した。あの日、彼女の喜びの涙に皆が心を打たれた。2016年の時と同様に、抑えきれない涙があふれていたが、今回はさらに気持ちがこもったものだった。その理由を彼女はこう言っている。「4月4日に私は手術を受けなければなりませんでした。ですからこのパラリンピックには参加できないに違いないと思われました。[...中略...]ブドウ球菌によるひどい炎症が起こり[...中略...]2週間以内に左手足の切断、さらには死も予見されていました7」。まさに彼女はパラリンピックに参加できたことを奇跡だと語った。

 突如、9月15日にベベは欧州委員会の委員長ウルズラ・フォン・デア・ライエンから、欧州連合の状態について議論する欧州議会に特別ゲストとして招待された。スタンディングオベーションで迎え入れられた彼女に、委員長は賛辞を送った。「彼女の物語は、すべての予想に反した新しい誕生の象徴です」。彼女の成功はまさに「才能、忍耐、そして比類なき積極性によって生まれたものであり[...中略...]彼女の世代を象徴する存在です8」。演説は驚くことにこう締めくくられた。「可能なことに対して私たちが持っている常識を覆し、そしてなりたいものになることができるということを我々に示してくれているベベや、すべての若者たちを見習いましょう。私たちが信じているものはすべて到達できるものなのです。[...中略...]これがヨーロッパの創設者たちの精神であり、ヨーロッパの次の世代の精神なのです9」。彼女の姿は特別な人そのものだった。彼女の信念とは、「不可能に思われることこそ、なされうる10」というものだ。先入観から解放されたベベこそが、生きる喜び、「幸せの術11」を体現しているようだった。


クイリナーレ宮とキージ宮での選手たち

 9月23日、オリンピック・パラリンピックに参加した選手たちは、クイリナーレ宮でイタリア共和国大統領セルジョ・マッタレッラに迎え入れられ、祝いの言葉がかけられた。「あなた方は全イタリア国民の期待を超えました。世界は私たちを羨望のまなざしで見つめています。[...中略...]スポーツがより大きな意味を持つ瞬間があります。私たちの国は回復期にあり、あなた方が国を代表してくれました。スポーツにとってとても重要な夏でした12」。大統領は選手たちに対して特別な感謝をもって最後にこう述べた。「あなた方が一つのチームであることを強調して締めくくりたいと思います。あなた方は友であり、団結力を示しました。そしてスポーツやスポーツをすることに対する人々の関心を促しました。[...中略...]オリンピック、パラリンピックでイタリア国旗に名誉を与えてくれたこと、皆さん全員に感謝します。素晴らしい。109のメダル。これほど多い数はありませんでした!13」選手団の旗手は大統領にすべての選手のサインが書かれた国旗を贈った。パラリンピックに関しては、マッタレッラ大統領は特にベベ・ヴィオに対して次のような言葉をかけている。「彼女の勝利は、逆境をはねかえすワクワクするような勝利でした14」。

 クイリナーレ宮での謁見では、イタリアオリンピック委員会会長ジョヴァンニ・マラゴも次のように述べている。「スポーツはそれだけのためのものではありません。特に今そのことを感じています。だからこそ選手たちは、表彰台で国旗を掲げることを楽しみにしていたのです。彼らはまさにイタリアの兄弟、姉妹です。[...中略...]イタリアにとってオリンピックの歴史上40個のメダルを獲得したことはありませんでした。すべての州が少なくとも1人以上の代表を持つこともありませんでした。そして5大陸すべてにわたった46人の選手たちによる、他民族によって構成された一つのチームとしてのイタリアというのも今までにありませんでした15」。さらに、パラリンピック委員会の代表ルーカ・パンカッリも続いた。「当時(マッタレッラ大統領が出発前の彼らと対談した際)、希望と期待の重みを背負っていたこの国旗を、今69のメダルとともにお返しします。そしてまた、前以上の夢と希望をもって。なぜならイタリアのオリンピック、パラリンピックは未来に投影されているからです」。そしてこう締めくくった。「感動ではなく、活性化を期待しているのです16」。

 最後に選手たちはキージ宮にてドラギ首相(当時)と面会し、側面に三色旗が刻まれた自転車を贈呈した。「我々が未来について話す時、よく抽象的な概念に陥ることがあります」。ドラギ首相は言った。「しかし、今ここに私は、イタリアを変えたいと思う世代を目にしています。そして彼らは確実にそれを成し遂げるでしょう。あなた方は壁を乗り越えた統合のシンボルです。今度は政府として我々が、あなた方やあなた方の同年代の人たちが力を発揮することができるようにする番です17」。


偏見に対する「チェックメイト」

 アンブラは、レースの数日前に義足に違和感を感じたため、義足を外して松葉杖を使わなければならない時があった。彼女は出会う人たちの、足を失った女性に対する憐みの視線にさらされた。しかし彼女は心の中で思っていた。「もし私がどのくらい走れるかを知ったら、きっと私に対する見方はまったく変わるだろう18」と。

 人々の憐れみ、これこそもう一つの精神的な障壁である。障害を持つ者の傷は目に見えるため、不憫に思わせる。彼らが私たちより劣っているわけではなく、むしろ人生に対する挑戦に打ち勝つ勇気を持っていることから、我々よりも豊かであるとしてもだ。もし人の内面をのぞけるとしたら、誰しもが傷を抱えていることがわかるだろう。その傷は他人には見えないが、存在する。そしてそれは、時にとても深刻で、存在を破壊するほどのこともある。それゆえ、生きるためにそれと向き合い、戦う勇気が必要なのだ。

「腕のないスイマー」鄭濤の人生もまた壮絶なものである。彼は30歳で、「腕のないトビウオ」の異名を持つ選手だ。この中国の競泳選手は、子供の頃感電事故のために腕を失ったが、決してあきらめなかった。東京では競泳で4つの金メダルを獲得し、彼はそれらのメダルを小さな娘に捧げた。「僕を見てくれ!腕がなくてもこんなに早く泳ぐことができるんだ19」。我々は、彼が金メダルをたくさん獲得したからではなく、彼が人生のために戦っているからこそ称賛したいのだ。

 ジェシカ・ロングの人生もまた特別なものである。29歳の彼女は、女子400メートル自由形で、26個目のメダルを獲得した。シベリアに生まれた彼女は、12か月の時にアメリカ人家族のもとに養子となったが、幼い頃から難病を抱え、足を切断しなければならなかった。手術のあと、彼女は水泳の訓練をはじめ、12歳にして初めてパラリンピックに参加し、複数の種目でチャンピオンとなった。今回のオリンピックでは、彼女の人生を主要な時期に分けて紹介するスポットが準備され、感動を巻き起こしたが、何よりそこでは、この類まれな才能を持つ娘に対して愛をもって夢を見た養父母の期待が前面に出されていた20


東京の特殊性

 障害を持つ者たちのスポーツへの参加が常にイベントであるとしても、今回はさらに特別なものだった。イタリアにとって、パラリンピックの歴史に残る69ものメダルを獲得することになったのだ。イタリア選手団にとって、この結果は期待を上回るものだった。むろん1960年のローマで開催され、80個のメダルを獲得した時に比べると、数の点では劣りはするが、当時とは大きな違いがある。というのも、当時は23か国から約400人の選手が参加していたにすぎなかったが、東京には163団体からの4403人もの選手が参加していたからだ。この結果は素晴らしいものである。選手団の中で最年少は卓球で好成績をあげた18歳のマッテオ・パレンザンであり、最年長は50歳のフランチェスカ・ポルチェッラートだ。彼女はパラサイクリングのメダリストであり、今回が11回目のパラリンピックの参加となった。

 最初の驚きは、競泳でのメダル獲得数の多さによって巻き起こった。イタリア選手団の中での最初のメダルは、8月25日に100メートル背泳ぎで銅をとった32歳の四肢麻痺を抱えるフランチェスコ・ベッテッラである。ベッテッラは補装具の設計に従事する技術者だ。27歳のフランチェスコ・ボッチャルドは生まれつき痙攣性麻痺に侵されていたが、200メートル自由形と100メートル自由形で2つの金メダルを勝ち取った。彼の驚異的な結果に、カルロッタ・ジーリの素晴らしい結果が続いた。20歳の彼女は、小学生の頃からスターガルト病により視覚障害を持つが、金2つ、銀2つ、銅1つの5つものメダルを獲得した21。また視覚障害を持つ選手の中では、オネイ・タピアを挙げるべきであろう。45歳、キューバ出身で、喜びにあふれた彼は、仕事での事故によって視力を完全に失ったが、部分的に視力を回復し、円盤投げと砲丸投げで2つの銅メダルを獲得した。そして特筆すべきなのが43歳のアッスンタ・レニャンテだ。彼女はオリンピックで数々の勝利を収めていたが(原文ママ)、2012年に視力を失った。しかし彼女はあきらめることなく、完全に見えない中で、東京では砲丸投げと円盤投げで2つの銀メダルを獲得し、さらにパリでの金に向けて意欲を見せている。

 パラリンピックの選手たちは、全員名前を挙げるべきであるが、中でもやはり忘れてはいけないのがジョヴァンニ・アケンツァであろう。50歳の彼は、トライアスロンで素晴らしい銅メダルを獲得した。すでに2016年のリオでも3位に付けていた彼は、インタビューで次のように述べている。「私が今ここにいるのは、アレックス・ザナルディのおかげです22」。彼は、F1での事故や、パラサイクリングでの国内ロードレース「Obiettivo323」によって、多くの障害を持つ者にとっての絶対的なモデルであり、不可欠な存在となっている。ある意味で、パラリンピックでのイタリアチーム70個目のメダルはザナルディのものであると言えるだろう!


パラリンピックの報奨金

 オリンピック・パラリンピックの報奨金に関しては、選手の所属する国ごとに定められている。そしてオリンピックとパラリンピックとでは異なり、パラリンピックの方が額は少ない。

 中には非常に高い報奨金を支払う国もある。例えばフィリピンでは国で初の金メダルに500,000ユーロを支給、フランスでは金メダルに対して65,000ユーロを定めている一方で、イギリスでは勝者に特別な報奨金は想定していない。注目すべきはアメリカで、今回初めて(原文ママ)パラリンピック選手への報奨金をオリンピックの選手と同額にし、金メダルには37,500ユーロ、銀メダルには22,500ユーロ、銅メダルには15,000ユーロとした24

 イタリアでは、オリンピックでは金メダルに対して180,000ユーロ、銀メダルには90,000ユーロ、銅メダルには60,000ユーロと定めているのに対して、パラリンピックでは金メダル75,000ユーロ、銀メダル40,000ユーロ、銅メダル25,000ユーロである25。なぜイタリアではこれほどまでに賞金の額に違いがあるのか、特にパラリンピック選手の賞金額がオリンピック選手に比べて半分以下に過ぎない点には疑問を感じる。障害を持つ者のトレーニングやそのための制度には、明らかに健常者に比べて費用がかかることを考慮するならば、一体どうやってこれほどまでに大きな賞金額の差を説明できるのだろうか?その上、賞金額はオリンピック委員会等によって定められているのであり、彼らは障害者たちが立ち向かわなければならない困難をよく理解しているであろうことを考えればなおさらである。イタリア共和国憲法第3条にて「すべての市民はみな等しく社会的尊厳を持つ」ことが定められていることから、オリンピックとパラリンピックの賞金を同額にするよう政府に対して請願がなされた26。ベベ・ヴィオは大学で彼女の夢をこう明かしている。「オリンピックとパラリンピックの世界が一つの協会に統合されるように27」と。


文明国として

 パラリンピックは国の文明の度合いを示す。文明国とは、障害を持つ者が他の人と等しく自分自身を実現することができる国のことである。足のない人は、歩けるように、またジムでトレーニングしたり、走ったり、さらにはパラリンピックに参加できるように、援助されるべきである。車いすの障害者はスロープで歩道に上ったり下りたりできるべきであり、進路を遮るようなバイクや、そこかしこに乱雑に駐車されているスクーターによってじゃまされることなく自由に移動できるべきである。イタリアはさらに文明国となってきているだろうか。いや、はっきりとこの目標からはまだほど遠いと言わなければいけないだろう。でも何か重要なことがなされたのであり、このパラリンピックはそれを示してくれた。

 このことは、視覚的にも言えることである。特徴的だったのは、東京パラリンピックの開会セレモニーで、ヴァイオリニストでありアスリートでもある右腕のない伊藤真波が音楽を披露したことだ。曲を演奏する際、彼女は切断された腕に付けられた義手を見せることに少しもためらうことなく、その顔には笑みが浮かんでいた。2004年、彼女は20歳の時に事故で右腕を失った。しかし強い意志の力で、彼女は日本人初の義手の看護師となり、さらに彼女のヴァイオリンに対する情熱は冷めることを知らず、現在の義手の技術の発達によって、今や彼女の腕前は国際的にも評価されるまでになっている28

 選手たちは我々に、偏見は取り去られるべきであるが、それは決して一度で終わるものではないということを示した。常に更新され発展し続けなければいけない。特に「普通」とは何か、この言葉についてももっと考えるべきであろう。我々は障害のある人々のことを、「いろいろな能力を持つ者」と呼んでいるが、彼らはハンデキャップを負った者、麻痺を持つ者、足の不自由な者といったように定義されることに何ら抵抗を持っていないことを忘れるべきではない。いや、むしろ我々は彼らを「いろいろな形での普通の人たち」、もしくは「普通の人たち」と呼ぶべきなのであろう。なぜなら彼らも私たちと同じ人間であり、そして我々以上に苦しい運命を背負っているがゆえに、はるかに勇気を持っている人たちなのだから。

 最後に、近年のパラリンピックは世界中で、障害を持つ者に対する新しい感覚や注意を喚起してきたことに注目するべきであろう。これはこれからますます成長していく感覚や関心であり、パラリンピックが開催される度に、前よりも大きく発展していくことは間違いない。選手や彼らを支える構造の中で、生きる喜びとともに、競技に対する力や勇気、献身、情熱がますます高まっていくことだろう。

[原田亜希子訳]

1 T63運動機能・義足。T はトラック競技であることを、63 は片側に大腿義足を装着して参加することを示す。
2 パラリンピックの歴史に関しては、G. Mattei, «Quando le “Paralimpiadi” si facevano in Vaticano», in Oss.Rom. (2021年8月21日), 8の記事を参照。障害者のための大会が20世紀初頭にベルヴェデーレの中庭にて、教皇ピウス10 世の参加のもとに行われたようである。
3 A. Sabatini, «Gli sguardi pietosi della gente, barriere mentali da abbattere», in La Stampa (2021年9月6日 ), 22.
4 S. Zuppa, «Ambra, la medaglia a Papa Francesco», in La Nazione (2021 年 9月24日 ) 参照。
5 L. Coen, «Triplete nei 100 metri: Sabatini, Caironi e Contrafatto sul podio. Con record e dedica», in Il Fatto Quotidiano (2021年9月5日), 22.
6 勝利の日に、彼女はバチカンの新聞に記事を寄せている。M. Caironi, «Vi sembro debole? No, non lo sono»,in Oss. Rom. (2021年9月4日), 2.
7 L. Coen, «Paralimpiadi, Bebe Vio da leggenda: 2°oro. Poi le lacrime: “Ad aprile ero quasi morta” », in Il Fatto Quotidiano (2021年8月29日), 15.
8 F. Basso, «Il discorso dell’Unione», in Corriere della Sera (2021年9月16日), 14.
9 Ivi.
10 A. Catapano, «Bebe Vio star a Strasburgo. Standing ovation in aula. “Una leader cui ispirarsi” », in ll Messaggero (2021年9月16日), 7.
11 Ivi.
12 C. Vecchio, «Draghi e Mattarella agli eroi di Tokyo: “Il mondo ora ci guarda con invidia” », in la Re-pubblica (2021年9月24日), 61.
13 «Olimpiadi. Mattarella riceve i medaglisti: “Siete stati squadra, avete emozionato” » (https://sport.sky.it/olimpiadi/2021/09/23/olimpiadi-tokyo-quirinale-riconsegna-tricolore-mattarella) 2021年9月23日.
14 C. Vecchio, «Draghi e Mattarella agli eroi di Tokyo...», cit., 7.
15 «Mattarella agli atleti di Tokyo: “L’ Italia si è sentita rappresentata da voi” » (https://giornalesm.com/mattarella-agli-atleti-di-tokyo-litalia-si-e-sentita-rappresentata-da-voi) 2021年9月23日.
16 «Olimpiadi. Mattarella riceve i medagliati...», cit.
17 C. Vecchio, «Deaghi e Mattarella agli eroi di Tokyo...», cit., 7.
18 A. Sabatini, «Gli sguardi pietosi della gente...», cit., 22.
19 «Paralimpiadi Tokyo 2020: Zheng Tao, la star del nuoto senza braccia: in Giappone quattro ori» (www.eurosport.it/paralimpiadi/tokyo-2020/2021/paralimpiadi-tokyo-2020-zheng-tao-la-star-del-nuoto-sen-za-braccia-in-giappone-quattro-ori_sto8521882/story,shtml).
20 «Olimpiadi. Jessica Long e Toyota: l’adozione è la vera speranza di ogni bambino abbandonato» (www.2021年7月26日を参照。
21 カルロッタ・ジーリは11 個のパラリンピックレコードを実現し、17個の金メダルを含む23個のメダルを獲得した。
22 La stampa (2021年9月6日), 24参照。
23 2020年6月19日にアレックスが重傷を負った際の、イタリアで開催された慈善活動のためのレース。
24 E. Moro, «A Tokyo le medaglie paraolimpiche USA verranno (finalmente) quanto le altre – e perché prima no?» (www.cosmopolitan.com/it/lifecoach/news-attualista/a37156653/atleti-paralimpici-paga- ti-quanto-gli-altri-tokyo-2020) 2021年8月1日を参照。
25 F. Bianchi, «Olimpiadi Tokyo, aumentano i premi: un oro vale 180 mila euro», in la Repubblica (2021 年6月17日); Il Giornale d’Italia (2021年8月24日); D. Rabotti, «L’oro paralimpico paga meno della metà», in Quotidiano Nazionale (2021 年 8月27日 ) 参照。
26 «Equiparazione dei premi dei medaglisti paralimpici a quelli olimpici: raccolte già 20 mila firme», in Gazzetta di Parma (2021年9月9日 ) 参照。
27 «Bebe Vio: “Sogno un giorno di unire Olimpiadi e Paralimpiadi” » (www.pianetascherma. com/2021/05/07/intervista-bebe-vio-sogno-olimpiadi-paralimpiadi-tutti-assieme) 2021年5月7日参照。
28 «Manami Ito, la violinista-atleta che ha incantato le Paralimpiadi» (https://it.euronews. com/2021/09/02/manami-ito-la-violinista-atleta-che-ha-incantato-le-paralimpiadi) 2021年9月2日参照。
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是枝裕和『万引き家族』

«Un affare di famiglia», un film di Koreʼeda Hirokazu
Virgilio Fantuzzi S.I.
ヴィルジリオ・ファントゥッツィ神父

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2018年カンヌ国際映画祭で最高賞パルムドールを受賞した日本映画『万引き家族』。
この映画が公開された直後に、この映画の真骨頂を理解、評価していた
神父のメッセージは、型を重視する従来の家族の在り方、形骸化した価値観に
あらためて疑問を投げかけています。
La Civiltà Cattolica 2018, IV, 188-192

  日本人監督、是枝裕和は都会のマージナルに生きる人たちの集団(家族?)を、慎重かつピリピリした感覚で観察する。マージナルに生きるとはどういうことだろうか?それは根を持たずに、自身の弱さと直面する恐怖ゆえに他者の弱さにしがみつきながら、何とか生き延びることである。映画『万引き家族』は、2018年カンヌ国際映画祭で最高賞パルムドールを受賞した。

文明社会以前

 中年男性の治(リリー・フランキー)と少年祥太(城桧吏)は、日々スーパーの棚から日用品を調達している。彼らの論理では、棚にある商品は誰のものでもないからだ。「僕シャンプーを忘れちゃったよ」帰り道に祥太が言った。団地の廊下で寒さに凍えている、幼くやせ細った悲しげな少女を見て立ち止まった彼らは、「まだここにいるの?」と互いに声をかけると、彼女を家に連れて帰った。

 彼らはコンクリートの巨大なマンションに囲まれた木造のあばら家に住んでいた。積み上げられた家具でいっぱいの家には、おばあちゃんとみんなに呼ばれている老女初枝(樹木希林)、治の妻の信代(安藤サクラ)とその妹亜紀(松岡茉優)が待っていて、みんなが少女を温かく受け入れた。少女の腕の傷は、彼女が明らかに虐待を受けていることを物語っていた。彼女はもといた場所に戻る気はなく、たとえ夜ベッドを濡らしてしまったとしても、他のすべての問題と同様に、これもまた解決されるのだろう。

 法的にみると、これはれっきとした誘拐である。しかしこの家族・柴田家は、父は父ではなく、妻は妻ではなく、妹は妹ではなく、おばあちゃんはおばあちゃんではないのであり、現行の法が何なのかを知らないのだ。彼らははるか昔、まだ文明社会が存在していなかった頃の法に基づいて生きている。

 ピエル・パオロ・パゾリーニの個人的な、そして芸術家としての人生が思い起こされる。彼は1950年代の初頭に、お金がなく、ローマ郊外のポンテ・マンモロに、泥棒や売春婦、売春仲買人たちの中で生活していた。そして彼はこれら郊外の下層無産階級の人々に対して、3つの小説と監督としての初期の映画作品の3作を捧げている。これらの人々は、当時誰も話題にしなかったがゆえに目に見えない存在であり、また数十年の間の社会状況の急激な変化によって実際に消えゆく運命の者たちだった。

「近年、富裕層と貧困層の格差は大きくなりました。ますます多くの人が、本来受けられるべき保障システムに到達できていません」と是枝監督はインタビューで答えている。さらにこう続けた。「日本では、年金不正受給や、両親が万引きを強要するといった詐欺は厳しく非難されています。そしてそれは正しいことです。でも私は、これよりもはるかに大きな犯罪が裁かれないままであるのに、人はなぜこのような軽犯罪にこれほど激怒するのか、疑問に感じます。特に2011年の地震以降は、家族のきずなが大切と語る人に対して違和感を覚えるのです。だからこそ、私は犯罪で結びついた家族を語るテーマを取り上げようと決めたんです」。


幸せの保障

 治は苦労することは望まない。日雇いの工事現場での仕事中に足を怪我しても、障害手当は受けられなかった。それよりも祥太と一緒に小さな犯罪に専念することを望んだ。彼は祥太を息子のように思い、いまだかなわないものの、「お父さん」と呼ばれることを願っていた。

 祥太は小さい頃に両親に捨てられていた。望まれない子供という状況にはいたくなかった彼は、柴田家に入り万引きで家計に貢献したが、感情に乏しかった。拾ってきた少女ゆりを「妹」と呼ぼうとはしなかった。最終的に彼が事件を起こしたことで、優しい噓で固められた城は崩壊することになる。彼の大人への道は険しい。でも成し遂げるだろう。

 信代はゆりを理想の娘と感じていたが、自身のもとにおいておくことはかなわなかった。彼女の妹亜紀は、マジックミラー越しに男性の視線にさらされる風俗店で働き、口のきけない常連客に恋をする。

 もっとも特別な人物は、自身の年金でみんなを支える初枝であり、彼女はよくこう言っていた。「お前たちがいなかったら私は孤独死するところだっただろう。お前たちは私の幸せの保障なんだよ」と。

 初枝を名演した女優、樹木希林は、2018年9月15日、長い闘病の末にがんで亡くなったという知らせが届いた。私は家族が海に行った際に、彼女が足に砂をかけていたシーンを思い起こす。まるでそれは直後の死を暗示しているかのようだった。そのしぐさは、演じた人物の死だけでなく、彼女自身の死をも思い起こさせる。

 初枝の遺体は、年金を受給し続けるために、庭にひっそりと埋葬された。祥太が犯した過ちとは、柴田家の仮面の裏に隠れていた、幼児誘拐や遺体隠避、殺人といった数々の不正に対して警察の注意を引いたことにあるだろう。過去に、治は「正当防衛」で信代の夫を殺害していたが、信代は勇敢にもすべての責任をかぶり、刑務所に収容された。

 ゆりは彼女に関心を持っていない実の母のもとに返された。祥太は児童施設に入り、学校に通うようになった。驚くべきは、関係当局の無関心さである。そこには必要最低限以外の言葉や行為は一切見られず、心はまったくない。だからこそこの無秩序さに対して、それは確かに非難されるべきものではあるが、しかし互いへの関心にあふれたこの家族の状態に同情させられるのである。まさにこの家族は、血がつながっていないがゆえに、真の意味で家族だったのだ。

[原田亜希子訳]

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福島、日本を襲った三重の災禍

Fukushima, la triplice catastrofe giapponese
Luciano Larivera S.I.
ルチアーノ・ラリヴェーラ神父

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東日本大震災から早や11年。
世界を震撼させた福島の原発事故は、当時、どのように伝えられ、語られていたのか。
La Civiltà Cattolica誌上でも早速取り上げられていた当時の記事を紹介します。
あらためて疑問を投げかけています。
温暖化やエネルギー問題など多くの懸念を包括する原子力発電。
10年以上も前の考察ながら、根本的にはいまなお解決されていない課題を
明確にしています。
La Civiltà Cattolica 2011, II, 399

   2011年3月11日金曜日から日本は、総理大臣の菅直人が言うところの「戦後直面した最悪の自然災害」のうちにある。現地時間14時46分にマグニチュード9の地震が、日本列島最大の島である本州の東海岸を襲った。東北地方と関東地方が、この国でも未曾有の激しい地震に揺さぶられた。震源は太平洋上24kmの深さであった。そして放出された力は巨大な津波をもたらした。1時間後には10m以上の高さの波が日本の海岸を襲った。テレビの映像が映す損壊した港には家や漁船、船舶が流れ着いており、仙台空港にも漂着物があふれて車や小型飛行機が漂っていた。津波の被害は561km2にもおよび、とりわけ宮城、福島、岩手を激しく打ちのめした。また、ダムが崩れて、ある村落を破壊した。

 19時になって日本政府は原子力緊急事態宣言を発した。福島にある2つの原子力発電所のうちの1つであり、70年代につくられた6つの原子炉を持ち、東京より240km北にある「第一」が、14mもの高さの波に襲われたのであった。このために、地震の直後には作動した緊急時の冷却装置は停止してしまった。この装置は5.7mの高さに置かれていたが、これはそれより高い津波が来るとは想定されていなかったからだ。さらに、内部の装置はマグニチュード9の地震を想定して設計されていなかった。4つの原子炉を持つ2つ目の発電所である「第二」は、炉心においても使用済み燃料の水槽においても、核分裂性物質の冷却装置への損害はなく停止していた。

 震央から178kmの距離にある福島第一原発では事故の連鎖が起きはじめ、25年前の4月25日から26日にかけての夜に、無謀にも試みられた安全試験により生じたチェルノブイリの第4原子炉での原子力事故1へと事態は近づいていった。地震と津波が押し寄せた時には、3つの原子炉(1号機、2号機、3号機)が稼動していたが地震直後すべて緊急停止し、4号機は点検のため停止しており炉心に核分裂性物質は入っていなかった。5号機と6号機は定期検査のために停止していたが、他の原子炉と同様に、核燃料棒が使用済みのものとともに専用の冷却用水槽に置かれていた。原子炉が停止されたとしても燃料棒の冷却は不十分であり、度合いは異なるが、1〜3号機では炉心が部分的に溶融していった。これに加えて4号機の使用済み燃料棒も部分的に溶融しており(原文ママ)、おそらく1〜3号機でもそうだった。強い余震や火事、爆発が状況を悪化させた。1号機と3号機は屋根が崩落し、放射性微粒子とガスが放出され、給電設備をはじめ施設に被害が生じたのである。

 大気中あるいは地中の透水層に放射性物質をまき散らしかねない、原子炉の爆発と燃料棒の完全な溶融とを防ぐべく、圧力を減少させようと1〜3号機の原子炉格納容器から蒸気を解放することで、放射能が外部に放出された。それから、高濃度の放射性汚染水の流出を防ぐべく、11,500トンもの海水が冷却に用いられ海に放出されたが、高濃度汚染水は僅かながら地中や海に流出していた。放射能汚染の痕跡は、80kmも離れた場所でも、野菜や母乳も含む乳、魚、飲料水のうちに見られた。そして、発電所より半径20km内の住民が避難した。

 4月12日、原子力安全・保安院は、福島第一原子力発電所1〜3号機の事故を最大レベルのものと認定した。すなわち、原子力・放射線事故へのINES基準でレベル7とされた。つまり、破滅的な事故ということだ。チェルノブイリだけがこれと同じ評価を受けていたのだ。健康と環境に広範な影響をもたらす、大気中への放射性物質の大規模な拡散が起こった。だが、これまでに放出された放射性物質量は、チェルノブイリの10%を上回っていないだろう。もしかしたらウラン燃料の部分溶融を防いだかもしれない、フランスとアメリカ合衆国が提案したような装置を冷却するための大規模な海水の注入を遅らせた責任は、施設を管理していたTEPCO(TokyoElectricPowerCorporation)にある。TEPCOは反対に、海塩によって損なわれるだろう装置を保全するべく、他の方法を模索していた。加えてTEPCOも政府機関も、マグニチュード9の地震や14m以上の津波のような非常事態における対応を予測していなかった。そして、両者は事故が重篤なものだと明らかにすることをためらったが、5月10日、首相は政府が原子力分野における新たな投資を見直すと宣言した。

 原子力緊急事態宣言は今も続いている。施設での処置は、放射能や損害状況のモニター監視、爆発を防いで冷却するための窒素と水の注入など多岐にわたっている。しかしながら、蒸気は噴出し続けている。そして放射線を帯びた水が大地や海にあふれ出すのを防ぐために、施設壁面の亀裂を埋めたのち、さらに新たな建造物が建てられている。化学物質により水中の放射性物質を分離することが試みられているが、これは冷却に使われた汚染水が、建設中の貯蔵タンクに保存するとしても多すぎるからであった。4月17日、TEPCOは、9か月のうちに原子炉を「冷温停止」させ、かつ汚染物質の放出を終わらせるための計画を示した。この後者の目的は3か月のうちに達成されるということであった。これに続いて、危機の初期に起こった水素爆発により損傷した屋根の破片回収と修復の計画が定められ53た。7月中旬のうちに、1〜3号機の破損した燃料部分が冷却されることになっている。これは水冷によるが、水の重みで装置が破壊されることはないと想定されている。

 発電所内の高い放射線量により作業は遅れた。現在、基準値を超えた放射線に曝された作業員は28名だが、数か月ないし数年のうちに致命的な後遺症をもたらすほどではなかった。施設から20km圏内には立ち入り禁止命令が出された。20kmから30km圏内に居住する人々には、避難が勧告され屋内退避が要請された。だが、放射能が危険な域にまで増大するならば、即時に避難する準備が求められた。それから30km圏外のいくつかの地域でも避難が計画された。現在では、食品へのさまざまな予防規制は解除されたが、施設付近での漁業や、損傷した原子力発電所に隣接する県での葉野菜の消費と流通に規制がかけられている。人々は明らかに慎重な態度を示しており、ペットボトル入りの水を飲み、東北産ではない農作物や魚を好んでいる。

 原子炉1号機の直近の状況悪化にもかかわらず、TEPCOは過度に楽観的であった。さらに、「ブラックアウト」をもたらすほどの巨大な津波ないし地震が再び起こった時の危機管理が徹底されていなかった。とはいえ、新たな緊急電源装置は20mの高さに設置されることになった。すべてが想定通りにいった場合、7月の半ばには、放出された放射性物質の総量を算出し、健康被害と第一原子力発電所周辺の除染にかかる時間がより正確に見積もられる。だが、施設内の放射性物質をすべて排出することは困難だろう。これに加えて、原子炉内には移送されるべき放射性の処理水が9万トンもある。さらに5号機と6号機の今後の活動も停止されるだろう。これらすべてはセメントと鋼鉄による巨大な棺に移されなければならないが、チェルノブイリの場合、1つの原子炉を「埋葬」するのに8か月を要した。また既に25年後の現在、ウクライナでは15億ドルの予算をか けてさらなる覆いがつくられなければならないとされている。おそらく300年にわたり、日本の第一原発から20km圏内の土地には人が住めず、セシウム137のために家畜の飼育や農業ができる可能性はないだろう。チェルノブイリのようにプルトニウムが顕著に流出していたならば、状況はより悪いものになっていただろう。


悲劇の「会計」

 記録上、3月11日の地震は世界で4番目の規模の大地震であった。この地震が起こったのは4つの大プレートの接点であった。すなわち、ユーラシアプレート、北米プレート、太平洋プレート、フィリピン海プレートだ。おそらくは10年にわたる重大な地殻変動の始まりである。しかしながら、耐震技術を考慮すれば、損壊はとりわけ津波により引き起こされた。波の高さは最大で38.9mにまで達していたのである。震災から40日後、確認された死者数は14,013人であり、93%は溺死者であった。行方不明者も合算すると、犠牲者はおよそ25,000人となる。そして、死者・不明者の捜索に25,000人の軍人が動員される一方、第一原発の付近では家畜が餓死しており、生き残っているものも処分されるだろう。

 明仁天皇はまずテレビ中継により国民の前に姿を現した。それから、美智子皇后とともに人々を見舞いに被災地を訪れた。被災時に避難所にすぐに来られた避難民の数は300,000人であった。他にも大勢が友人や親戚のもとに避難した。カトリック教会もまた、とりわけ大きな打撃を受けた仙台司教区において、ホームレスに施設を開放し、救援活動のボランティアを募った。4月半ば、避難所にはなお150,000人の避難民がいた。北朝鮮も含む130以上の国家と40の国際組織により、国際的連帯が即座に示された。アメリカ合衆国とフランス、ドイツはTEPCOへの支援において目立っていた。特に20,000人の合衆国軍が生存者の捜索に参加した。

 経済的損害は2,000億から3,000億ドルにおよび、保険により補償されるのは10〜15%にすぎない。TEPCOは原子力事故のために相応の賠償責任を負い、莫大な公的資金を抱えるだろう。政府は、被災地域復興のための補正予算の承認を議会から得た。現在、500億ドル相当の予算が組まれている。これは5年にわたる完全な復興への計画の最初の「第一弾」であり、まず必要とされるものが保障される。100,000戸の仮設住宅が建設され、このうち30,000戸が6月に引き渡される。また、瓦礫が撤去され、道路や橋、農地、公共施設が復旧され、地域の被災した中小企業が支援される。日本は復興を支えるべく予算を見直し、開発途上国への支援を一部削減するという。また将来には消費税の5%から8%への増税が可能となった。政府は、既にGDPの200%を超えている国債の新規発行に頼ることを恐れている。というのも、格付け会社は、長期的には日本が公的債務を管理しきれないとみなしはじめている。そうこうする間に、4月29日、東北を通って北部の青森県と東京をつなぐ高速鉄道の新幹線が再開した2

 瓦礫には、アスベストやガソリン、化学物質、放射性物質の残留があるために、重大な健康上のリスクが残っている。妊娠している女性、胎児、再生産年齢にある女性はより危険にさらされている。チェルノブイリで起こったように、数世代にもわたる遺伝的影響を子供に伝えてしまうかもしれないからだ。社会的コストの算定に加えられることとして、悲嘆による精神衛生上の影響、放射能汚染という継続的な脅威、物理的な財産の破壊がある。さらに失業というリスクもある。日本の産業は3月11日より深刻な、しかし一時的であるだろう、反動を受けている3

 日本の中央銀行は、証券買い入れにより用意された資金を緊急に供給するのみならず、政策金利を0〜0.1%に据え置きとした。さらに、被災した地域の銀行と金融機関に対し約80億ドル相当の融資を行い支援することを決定した。この前の4月にはじまった会計年度での2011年におけるGDP成長率は0.6%と予想されているが、3月11日以前の予想を1.6%下回っている。だが、復興の効果もあり、2012年には2.9%の成長を示すだろう。現在、日本は三重の災禍の前からはじまっていた自律的景気後退のうちにあり、回復は秋にはじまると思われる。慎重な検査のために他の原子力発電所が停止されていることから、日本は電力需要を満たすべく天然ガスや他の炭化水素燃料の輸入を増やさねばならないだろうが、再生可能エネルギーや省エネルギーの分野への投資を増やすだろう。


この惑星の「ガバナンス」に向けての約束

 日本の三重の災禍は世界的な衝撃をもたらした。そして、この種の災害を管理し予防する責務を果たすべく国際的な連帯が求められた。G7の中央銀行は、3月18日、金融市場への協調介入を行ったが、それは東京の政府代表が言うところの「火事場泥棒」による投機のために日本の通貨価格が上昇するのを防ぐためであった。円の過大評価は、日本の輸出を危機に陥れるだけでなく、日本がアジアと世界の経済成長を支える力をも損なってしまうかもしれないのである。中国の中央銀行も、自国の準備預金率を引き上げて円買いの投機を抑止することで日本を助けた。

 すぐに世界保健機関(WHO)と国際原子力機関(IAEA)が、各国の機関とは別に、この星の大気、海、食料における放射能の拡散を測定するために動きはじめた。イタリアでは、法的基準を超える数値はまったく出なかった。しかしながら、東京の政府により既に実行された措置とは別に日本産食品の輸入を禁止したというのは、貿易摩擦をもたらしかねない保護主義的措置だと思われる。WHOは日本に、原子力事故による健康への長期的影響を測定するべく、10年から20年にわたる健康調査の開始を要請した。現在WHOによれば、福島第一原発から30km圏外に緊急の危険性はない。だが日本政府は、海岸から12マイル圏内での海中調査の実施をグリーンピースに認めていない。

 独立した組織により行われ、国際的に通知されるモニタリングは必須である。というのも、空と海における放射能汚染は世界的な食物連鎖に侵入することであり、また、一度の被曝によってだけでなく蓄積により健康と環境へ影響をもたらすのだから。韓国と中国は、軽度とはいえ放射性の廃水を海中へ随意に排出することを歓迎しなかった。この種の決定は、事故を起こした4つの原子炉の建設の時のように一方的になされるべきではない。今なされているように、緊急事態と廃棄物の管理については、少なくともIAEAの監督下で保障されるべきだ。ちなみに現在のIAEAの事務局長は日本人である。

 世界規模でのインフレに影響を与える石油価格とその変動率の成り行きについて掘り下げなくとも、過去の大戦において二度、原子爆弾の犠牲となった日本の悲劇を特徴づけるもう一つの要素がある。それは、先進国が生産のグローバル化においてどれほど密接に結びついているかが明らかになったということだ。東北地方は日本の産業の中心地域ではない。だが、被災地域で生産されていた電子部品や自動車部品、特別な化合物が欠けることで、アメリカ合衆国やアジア、ヨーロッパでの生産に遅れや滞りが生じたのである。産業界は今、自然災害と原子力災害の危険を前にして、調達業者をより多角化し生産工場を再編するべきかどうか考えている。

 福島の原発危機はチェルノブイリの危機と同様に、世界的な問題である。2008年のリーマン・ブラザーズの破綻(また2001年9月11日のテロやイランの核開発、リビア内戦)のようにこの事件は、世界が仮説だけでなく現実として、莫大なコストと、それを経験する前に国際政治における協調を必要とする、総体的な危機にさらされていることを示したのである。日本は最大限の透明性と、IAEAや近隣諸国、援助を提供するのに十分な能力と手段を持つ諸国との満足のいく協調を続けることが求められた4。日本の原発危機は、たとえ人的要素が二次的ではないとしても、第一に自然災害に起因するものである5

 多くの根本的な問題が提起されるべきだが、特に日本のような島国に対する問いがある。津波や洪水という地震にともなう重大なリスクにさらされる地域に原子力発電所を建設する(あるいは運転する)ことは適切であるのだろうか?加えて問われるのは、(福島のように非常に進んだ形での)核分裂技術開発、新たな発電所の建設や現状について、計画段階および通常の管理、さらには緊急事態に際しての、人的過失、その他の過失や故意の過ち(無能力、向こう見ず、管理のための過剰な複雑性、放任主義、買収、癒着、利益相反などなど)が排除できるかどうかということだ。

 これに加えて、多くの古い原子力発電所の撤去を進めるにしても、政治の意思決定や技術的制約、必要な経済資源についての問題がある。放射性物質はいつ消滅するのか?何が、あるいは誰が犠牲となるのか?将来の世代に押しつけることで、廃棄物の問題を避けるのか?続く数十年の科学技術の研究が適切な解決を示すのは確かなことなのか?しかしながら、世界的に原子力のリスクをゼロにすることは不可能である。なぜなら、使用可能だが使われなくなった核兵器も原子力発電所も存在しているからだ。現在、核兵器の「ゼロ・オプション」は成立が遠のいている。古く安全でない発電所を閉鎖し、原子力処分場をより安全な形で管理し、民用の原子炉をすべて停止し、新たな原子力発電所を建設しないことはできるだろう。だが、これらのうちの最後の2つについては、多くの国が予定していない。これらの国々は、福島の経験から得られた技術と安全基準を取り入れながら、既存の原子力発電所を最新のものと同等にするか、あるいは新たに建造するつもりである6

 ロシア大統領ドミトリー・メドヴェージェフは、5月26〜27日にフランスのドーヴィルで開かれるG8の会合で、原子力発電所の安全性向上のために提言をなすことを明らかにした。フランス大統領ニコラ・サルコジは、今年のG8とG20の議長として、20カ国の原子力規制当局に国際的な安全基準を2011年のうちに定めることを提案した。ウィーンでは6月20〜24日にIAEAの閣僚会議が開催されるだろうが、そこでは、福島の事故の分析に基づいて新しい原子力規制基準の大枠が定められる。しかしながら国連事務総長の潘基文は、世界共通の安全基準を策定するのみならず、すべての施設が国際的なモニタリングを受けることを求めた。これは、ガイドラインや国際条約の提案を超えた重大な政治的問題である。諸国が本当に新たな安全基準を受け入れたとして、誰がこれを監督するというのか?多かれ少なかれ独立した当局によって各国がそれぞれ独自に見張るしかないのだろうか?これまでさまざまな国々が、民用の原子力発電所をIAEAがくまなく調査することにためらいを見せてきたが、それは軍事力にもつながる技術上の秘密を守るためであった。だが、信頼ある透明性がなくては、真に安全が希求されていないのではないかという疑念が深まるのである。

「ポスト・3.11」はおそらく、IAEAの査察権を強化するだろう。だがしかし、規則に従っていない施設を停止させ、安全基準に適合していない新たな施設の建設を禁じる認可権は誰のものであるのだろうか?国連安全保障理事会だろうか?どれほどの強制力を持つのか?これは「革命的」だが、新たな時代にふさわしい国際条約を必要とするだろう。また、原子力の安全性、新たな核分裂技術、再生可能エネルギーおよび省エネルギーについての研究が、その恩恵を最大化するべく共有されるかどうかが、国際的に決定されるかもしれない。だがこうした道理は、国家と同様に商業上の優越および特許利用の道理に勝るのだろうか?

 日本やイタリアのような、炭化水素燃料の供給国にあまり依存したくはない国にとり、こうした疑問はすべてエネルギー安全保障の問題に割って入ってくる。また、バイオマス燃料の生産のために食料安全保障を犠牲とすることなく、安価で安定したエネルギーを要する発展へ貧困国を向かわせるという課題に対してもそうである。さらには、公害や生物多様性の喪失、温室効果による気候変動の影響からの環境保護といった惑星規模の緊急性についての問題と並置される。チベットとインドシナにおける巨大な水力発電ダム計画は、国際社会に何の影響も与えていない。2010年4月20日にメキシコ湾の石油掘削施設「ディープウォーター・ホライズン」で起こった事件についても、環境と人間にまで至る食物連鎖に対して長期的にどのような影響があるのかは明らかになっていない。従って、原子力の調査と安全性について、また、エネルギーと水資源の供給、環境保護について、開かれた責任ある管理を行うためには、真に有効な力を持った国際機構が必要とされているのである。

[林皓一訳]

1 2005年に国連は、チェルノブイリの大惨事のあとに4千人が放射線により亡くなると推計している。環境団体のグリーンピースによれば、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアだけでも死者は10万人から40万人におよぶという。この3か国での汚染は150,000km2におよび、そこには5百万人が暮らしていた。とりわけセシウム137の放出がこの領域を汚染し続けている。福島第一原発での事故は今まで2名の作業員の死亡をもたらしたが、地震による倒壊が原因であった。チェルノブイリが重篤な結果をもたらしたのは、放射性物質を放つ原子炉が爆発したことによる。日本では4つの原子炉が酷く破損し、事故により最悪の事態に巻き込まれたであろう人口はソ連よりもずっと多かったはずだ。だが日本は、増大する汚染と避難の必要から人道的な問題ともなったこの危機を収拾するために、十分な技術的・経済的な資源を有していたのだろう。

2 復興の負担に加え、日本の政治指導層は日本が原子力の安全に関する世界の先例となることを望んでいることを表明している。これは、科学技術とそれを管理する組織が全能であるという神話を棄てることを求めるということである。そうした神話は現実への誤った認識と無責任をもたらしている。また日本には、3月11日のような大災害のリスクをはらんでいる原子力発電所が他にもある。同様の三重の災禍が繰り返されるということは、想像を絶する事態を、すなわち、全国GDPの40%を占め約1億2,800万の人口の1割以上が住まう東京の放棄を現実のものとした。誰もこうしたリスクを負うことを望んでいない。そのため5月の半ばに、福島での出来事を検証するための独立検証委員会が始動した。

3 2011年の3月は同年の前月に比べ、被災地で生産されていた部品が欠乏したことから自動車生産が57.3%も落ち込み、輸出は27.8%減少した。産業部門全体では15.3%減少する一方、消費は10.8%から11.4%ほど低下した。失業率は上昇していないが、給与が下落し、収益を回復させるための人員削減が予期されている。いくつかの企業は、原子力汚染により競争力を失うことを恐れて、恒久的に海外へ移転するかもしれない。

4 とりわけ日本の市民社会は、国際組織への貢献を求められている。政治指導層や官僚、企業が、福島の事故の責任と展開を調査する際に迅速さと最大限の透明性をもって取りかからず、たとえ停止中だとしても日本のすべての原子力発電所を安全に保つことをしないのならば、絶対に彼らの言いなりにはなってはならない。

5 重大な原子力事故はそれぞれ世界的な意義がある。原子力発電所の数が増すことで(3月11日以前、463基が稼働しており63基が建設中であった)リスクは増大しており、また、自然のリスクと人間の責任はいっそう絡み合っている。さらにIAEAによれば、イランの原子力施設で起こったように、業務に怠慢が生じる、あるいはテロリズムによる陰謀のための原子爆弾を製造するべく核物質が盗難の目標となるような原子力施設は、世界に1,000基もある。イランの施設はスタックスネットと名付けられた超高性能コンピューターウイルスの攻撃を受けたが、イスラエルと合衆国の当局が依頼主だと疑われている。

6 だがそれでも最後の疑問が生じてくる。どのようにして新たな福島を防ぎ管理するのかを本当に理解するためにどれほどの時間が必要であるのだろうか?そしてまた、新たな解決法が実施されるのには時間が必要となるだろうが、民用の原子力利用について反省がなされない現状が続くことは、安全の要請と両立できるのだろうか?あるいは、原子力技術に完全に反対する声を弱めることになるのだろうか?新たに建設し古いものを廃棄するよりも費用がかからない故に、あまり古くない原子力発電所を永続的に現代化して稼働させることができるのかどうかも問題である。また福島のあとに、事故が生じた際の廃棄費用を考慮した上で新たな原子力発電所の建設に融資できる銀行が、また、リスクを共有するつもりのある保険会社があるのだろうか?公的資金が中心であり続けるのだろうか?

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