La Civiltà Cattolica

La Civiltà Cattolica
日本版
(公財)角川文化振興財団バチカンプロジェクトから刊行!
ローマで発行された最古のカトリックジャーナルが史上初、日本版で刊行されました。

日本版8号

『ローマ進軍』から100年

A 100 ANNI DALLA «MARCIA SU ROMA»
Giovanni Sale S.I.
ジョヴァンニ・サーレ神父

***
世界近現代史に大きな影響を与えた「ローマ進軍」。
日本では、ムッソリーニによる無血革命として知られています。
それがドイツのヒトラーに影響を与え、
ゆくゆくは第二次世界大戦へとつながっていったわけですが、
当時の教皇ピウス11世の動きなども含め、その顚末を改めて詳説しています。
La Civiltà Cattolica 2022, IV, 10-23

はじめに

 『ローマ進軍』から1世紀たった今、長き1900年代のイタリアの歴史にとって、不可避ではなかったとはいえ、中心的出来事となったこの事件を歴史的に考察してみよう。これをもって、「ファシズムによる不幸な20年間」と言われる全体主義国家の時代がはじまった。これは決して歴史的必然によって起きたのではなく、道徳的、そして政治的責任ゆえに起こったことである。まず何よりも、当時の政治家たちが動乱の時代の政治的、社会的危機に対処するうえで無能であったこと(または日和見主義)による。この分析においては、なぜ、民主主義の慣習を尊重せず、暴力的な態度に出た政党が政権に到達することになったのか、その理由(これはしばしば輪郭がはっきりしないものではあるが)を明らかにしていきたい。

 1922年10月、べニート・ムッソリーニによる政権獲得は、「半合法的」1な形で行われた。政府は暴動に対して受け身の対応をし、その直後に王からムッソリーニに対して出された新政府樹立という任務をもって合法的なものとされたからだ。このようにしてヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は、多くの民主主義者たちにとって国家組織に対する暴力とみなされた行為を合法の範疇に収めようとしたのである。つまり、『ローマ進軍』はある種の高額な掛け金のもとでの「ばくち」的行為であり、国家の中枢にいた者たちは弱さと優柔不断ゆえにファシストの脅迫を受け入れ、その行為を支持することを強いられた。ムッソリーニとファシスト党員たちは、この前代未聞の暴力行為によって、当時の混乱の真の原因とみなされていた社会主義者や共産主義者に対し政治的秩序を守るためにファシスト行動隊が暴力や脅しを使って2年間かけて行ってきた実績を即座に力に変え、現行の弱い政府に物理的に取って代わることを目指したのである2。しかし、この行動はムッソリーニにとっては権力の座に上り詰めるうえでの単なるステップに過ぎなかったという点を強調するべきであろう。それ自体としては、実質的作用というよりも、脅迫的、デモンストレーションとしての価値の方が高かった。彼は、彼の『黒シャツ隊』がイタリア半島の各地からローマに集結したとしても、組織も装備も整っていないため、ローマに駐屯している王の軍を打ち負かすことはできないだろうことをよく理解していた3。重要なタイミングとは政治的なものであり、それこそが、唯一全行動に良い結果を保証するものであった。そしてこの点に関して、ムッソリーニは政治における「古狐」として数か月前からすでに活動をはじめていたのだ。

『ローマ進軍』の前史

『ローマ進軍』のアイディアは、第一次世界大戦後の国家主義者たちによって再開された、マッツィーニやガリバルディの伝統を思い起こさせるものであり、ファシストの活動家たちにとっては、しっかりと定義された政治的行動、すなわち国家の首都を征服するための武装活動というよりも、支配者層を鼓舞するための象徴的な行為とみなされていた4。ジュゼッペ・ボッターイによると、具体的な提案という以前に、「ファシスト機構全体にしみこんでいったプロパガンダ的政治形式」5であったという。(ローマという)統一的形式こそ、ムッソリーニが北部のファシスト行動隊の排他主義者たちに対して、彼らが新しい党をたくさんの派閥的動きや地方主義へと分裂させる危険性があるとして、反対していたものへの対処であった。

『ローマ進軍』のアイディアは、1922年半ばからムッソリーニの戦略の中では、他の政治勢力と交渉することを可能にする圧力の手段であった。しかし、この「偉大な行為」は、政党の中にも存在していたこの試みに対する反対勢力たち、特にナショナリストや王政論者たちによって台無しにされる危険性を避けるために、慎重に準備されなければならなかった。これは、数か月にわたる労働争議や、無力で非イタリア的とみなされていた行政府に対して地方レベルでイタリアの各地でファシスト行動隊によって行われていた力ずくの行為(重要性ではなく時代順で最後のものとしてはボルツァーノやトレントで10月5日に起こったもの)のあとに起こった。1922年の9月から10月の間に、ファシスト行動隊がイタリア全土におけるファシズム勢力のコントロールを強化する一方で、ムッソリーニと、即座に行動する必要性をもっとも支持していたミケーレ・ビアンキは、『ローマ進軍』の政治的軍事的計画を調整し、「まず何よりもその実現を阻害する可能性のある障害を取り除くことに尽力した」6。ファシズムの主要な研究者たちによると7、それらの障害とは主に次の3つであったという。まずダンヌンツィオとナショナリストたち、そして王権に忠実な軍隊、それに君主制である。勝利を得るためには、これらの勢力の支持と中立性を獲得することが必要であった。しかし、この点を分析する前に、まずムッソリーニがこの当時、それをもとに損得勘定をしなければならなかった政治・組織的状況や、当時のイタリアの政治活動の主要人物たちと彼が築いていた関係から出発する必要があるだろう。

 当時、議会のレベルでは、状況はむしろ壊滅的であった。1922年の10月1日から4日にかけて開催された社会主義者たちの第19回全国大会において、イタリアのもっとも主要な政党は分裂してその政治的活動力を弱め、急進的社会主義者に道を譲り、その新しい書記長としてジャコモ・マッテオッティが選出された。共産主義者もまたファシズム行動隊による度重なる攻撃によって危機的状況にあったが、社会主義者たちの分裂をむしろ勝利とみなし、自由主義国家の終焉を望んでいた。彼らはファシズムの行動がプロレタリアート革命をすぐに勃発させるであろうと確信していた8。もう一つの国家の主要政党がルイージ・ストゥルツォ司祭によるイタリア人民党である。彼はしばしばムッソリーニの辛辣な論争の標的となっていた。ムッソリーニは同意を得るために、カトリックの政党を骨抜きにしようとしていたのである。1922年2月6日に選出された新教皇ピウス11世もまた、イタリア人民党を彼の前任者ほど擁護することはなく、ムッソリーニの「さしのべた手」(それは『ローマ進軍』以降、より確固たるものとなっていった)の戦略に気づいていないわけではなかった9。何より、国務長官のピエトロ・ガスパッリ枢機卿は10月2日にイタリアの司教たちに回状を出し、その中でイタリア人民党の政治的選択は教皇庁とは別のものであることを強調した。これは一種の政党否定(ムッソリーニが国家の手綱を掌握するようになった時初めて完成することになったのだが)のように響いた。

 自由主義のリーダーたち、ジョリッティ、サランドラ、ニッティ、オルランド、ファクタ、その他の人々は、ファシストたちによってなされた行動をあまり真剣にはとらえず、自由主義国家の構造に対する攻撃(特に地方レベルでの)や、政治的敵対者に対して至るところでなされている暴力行為を、軽く批判するにとどまった。彼らは、ファシズムの暴力行為は過去の戦争からの遺産であり、すぐにはなくすことはできないだろうと考えていた。彼らの使命とは、ファシズムを新しい憲法に基づく秩序の中に導くことだった。その点に関して、自由主義のリーダーたちはそれぞれが自分の方法で行動し、自身の政治的成功や自由主義国家の再生にとって役立つという希望のもとにファシズムを利用しようと考えた。むしろ、彼らは国の政府にこの 新しい動きを参加させることが不可欠であると確信し、「イル・ジョルナーレ・ディタリア」紙に「この壮大な動きから、不法で特に暴力的な側面を取り去り、国家とファシズムとの間にあるすべての矛盾を正す」10と書いている。つまり、国の政治指導者の中にファシストを受け入れることは、彼らを「責任ある政府側の存在」にし、内戦を避けるためのもっとも確実な方法だったのだ。

 要するに、これはファシズムやムッソリーニに対するジョヴァンニ・ジョリッティの政治プログラムであった。彼は実際、治安を乱す煽動者たちに対する強い措置を講じる考えに反対していた。むしろ、彼らの正常化を待つ方がいいと考えていた。自由主義者たちによる政府に彼らが参加することこそまさに、そのような変化をもたらすだろうと彼は考えていた。いずれにせよ、1922年の夏から、ジョリッティ(カヴールにある自身の住居にいた)とムッソリーニの間には間接的な接触が図られるようになった。特にこれは、ミラノ県知事アルフレード・ルジニョーリや、ローマではカミッロ・コッラディーニを介して行われた。こうして、ジョリッティはファシズムのリーダーを制御できていると勘違いしていたのだ。同時に、ムッソリーニは別の方面や、サランドラや、弱き首相ルイージ・ファクタといった政治的に活躍している他の人物に対してもアプローチしていた。ファクタは、『ローマ進軍』の直前に、国を守るためだけに尽力することを主張し、行政トップへのジョリッティの復帰を支持して、「ファシズムを『導く』ために、そして国に平和をもたらし、自由主義国を復活させた者として称賛されるために、直接行動する意志」11のもとに動こうとしていた。

 実際、自由主義の代表者たちは、ファシストに政府の重要ポジションを託すことなく、政治に参加させようと考えていたとはいえ、ファシストのリーダーに国の指導権を託すことなど考えてもいなかった。ムッソリーニは、この当時、政財界からの好感を得ていたとしても、信用できない存在とみなされていた。歴史家エミリオ・ジェンティーレによると、自由主義者たちは「イタリア人の中に、愛国心を呼び覚まし、社会主義改革を総崩れさせることに貢献した点では、ファシストたちに功績があるとみなしていたが、だからといって彼らに統治能力があるとはみなしていなかった」12。彼らは、ファシズムの真の性質を理解していなかったのだ。というのも、彼らは単にそれをナショナリストや決死攻撃隊のような伝統的な政治勢力の一つとしてしかみなしていなかったのであり、「それ自体特有の論理を持ち、思考や行動において独立した動き」13であるということを認識していなかったのだ。

 この当時ムッソリーニの計画を止める、もしくは挫折させることができた勢力は、特に軍と君主制であったことはすでに述べた。ダンヌンツィオに関しては、彼は脇に身を置き、自由主義国家の援護のための活動に参加しないよう説き伏せられていた(もしくはそう強いられていた)。実際この当時、彼は事故に遭い、しばらく動きが取れず、自身の邸宅を離れられない状態だった。

 軍隊に関しては、ファシズムに同調する将校たちも多く存在していたとはいえ、両者の衝突の際にこれらと王国とのどちらかを選ばなければいけないような状況になれば、もちろん王国を守るために動いたことであろう。少なくとも、その中立性を保たなければならず、実際にそうしたのである。このことは非常に重要であり、確実に『ローマ進軍』の成功を促進させた。軍の反対は、地方レベルでもファシストのいかなる活動をも不可能にしたであろう。

 君主制に関しては、ファシズムは王家の中にも支持者を持っていた。特に王の母やアオスタ公がファシズムの動きに対して、ナショナリズムの点からシンパシーを感じていたことはよく知られている14。ファシズムのリーダーの中には、エミリオ・デ・ボーノやチェーザレ・マリア・デ・ヴェッキのような君主制支持者もいて、王家の支持を得ようと尽力していた。しかし国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は親ファシスト感情を持っていたわけではなかった。「反社会主義の動きに対しては支配階級と同じく高く評価していたが、ムッソリーニやファシズムの指導者の多くの潜在的共和制主義や革命的行為に対しては信用していなかった」15。いずれにせよ、この時からムッソリーニは、政治集会やたくさんのインタビューにおいて、君主制を称賛し、サヴォイア王家の偉大さを強調しはじめるようになっていった。

ナポリからローマへ

「偉大な行為」への決意は、1922年8月末から具体的になっていた。指導者たちによってとられた戦術とは、二つの路線をとるものであった。一つは自由主義者のリーダーたち、特にサランドラや、ジョリッティ、ファクタとのコンタクトを保ったまま、選挙について言及することで時間を稼ぐことであり、その一方で、ムッソリーニに権力が渡るよう圧力をかけるために、進軍のための準備を開始することであった。きっかけとなったのは、10月23日から24日にナポリで行われることになっていたファシスト党の党大会に違いなかった。そこから蜂起の動きが首都に向かってはじまるはずだった。10月21日、党の指導者層は、権限をビアンキ、バルボ、デ・ヴェッキ、デ・ボーノによる「四天王」にゆだねた。3部隊はサンタ・マリネッラ、モンテロトンド、ティヴォリに集結し、中枢部はペルージャに置かれ、フォリーニョには遅れて到着する部隊が集まる予定であった16

 ファシストの軍隊は、重要都市のコントロールを掌握できることをすでに示していた。ミラノとジェノヴァという、歴史的に左派の居城である都市が彼らの手に落ち、ボローニャ、クレモナ、フェッラーラ、トレントや他の重要な都市も同様であったため、公権力がほぼ全面的に停止することになった。ローマに行くことは、もはや問題ではなくなっていた17

 ファクタはナポリにて何千ものファシストたちが集結することを認め、党大会の後にはファシストが政府に参加することを決意すると確信していた。この時、約4万のファシスト党員が、イタリア中からナポリに集結し、都市を平和裏に掌握して、「ローマへ、ローマへ」と叫んだ。10月24日の朝、ムッソリーニは演説(実際それは慎重で控えめなものであったが)をサン・カルロ劇場にて行い、人々の魂に火をつけた。その夜、ヴェスヴィオホテルにて、進軍の詳細が定められた。10月26日から27日にかけての未明、党の上層部は、すべての権限を「四天王」に譲った。27日に県庁や警察組織、鉄道駅、郵便局、新聞社、ラジオ局、その他の拠点が占拠されはじめた。28日には3部隊がそれぞれの配属地から首都に向かって進軍をはじめた18。その間に、各地の指揮官は、それぞれの拠点に到達するよう指示を受けていた。ムッソリーニはミラノに向けて出発し、そこから自由主義の政治家たちとの交渉の余地を残しつつも、ローマの出来事の進捗を補佐していた。旅の途中、彼のもとでは王の護衛隊や軍の何人かの将校や将軍もまた彼の味方であることが表明されていた19

『ローマ進軍』からムッソリーニ政権へ

 ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世はその夜ローマに入り、政府からの提案に従って、危険にさらされている国を守り、黒シャツ隊のローマ進軍を軍を導入して阻止すると宣言することを受け入れた。しかしここにきて事態は急変し、ファシストが勝利し、我々がよく知っている方向へと状況は動くことになる。10月28日の朝、王は戒厳令の発布を拒否したのだ20。ファクタには辞任以外の道は残されていなかった。その直後、王はサランドラに新政府を結成するよう命じ、そこには当然ムッソリーニやファシスト党員が含まれることとなった。デ・ボーノやデ・ヴェッキなどのような穏健派は、この解決策が最善のものと考えていたが、ミラノからムッソリーニは大胆な賭けに出て、「100か0か」と答えた。サランドラや彼の数多くの支持者たちとムッソリーニとの力比べは1日しかもたなかった。10月29日の夜にはムッソリーニがすでに首相となっていた。彼はローマにその翌朝に電車で到着すると、黒シャツ姿で王のもとに赴き、新政府結成の任務を受けることを告げた。その時まで都市を包囲していた黒シャツ隊もようやくローマに入り、首都を「征服した」。

 これらの事態において、歴史家にとっていまだに疑問点が残っている。それはなぜ王は、当初戒厳令を宣言することを決定していたにもかかわらず、その後考えを変えて、その発布を拒否したのかという点である。彼は自分の意思で決めたようだ。まず第一に、イタリアがカオスと暴力の中にさらされることになるため、軍隊と黒シャツ隊との直接衝突を避けたかった。さらに、この当時30万人の党員を抱えるファシズムをもはや政府から除外したままでいることは不可能であると、当時の穏健派のすべての人々と同様に彼も考えた。それゆえ、彼がファクタに言ったように「現在の困難な状態から脱出するために、合法的に政府へファシズムを参入させること」が重要であったのだ。さらに、ファシストの大半が君主制に反する傾向にあったことから、王制に対抗し、さらにはファシストにシンパシーを表明している彼の従兄のアオスタ公エマヌエーレ・フィリベルトを支持して、王の退位を要求するのではないかという恐れもあった。これらすべてによって王は国のためには戒厳令を発布しないほうがいいと確信し、政府の危機に「合憲的」解決を図るため、不本意ながらもムッソリーニによって形成される内閣を受け入れたのだ21

 これは連立内閣だった。実際、ムッソリーニは新政府にすべての穏健派の政治勢力を参加させることで、自身の政治計画への同意を広げると同時に、彼の党内の「圧力」にブレーキをかけようとした。目下、彼は組織の団結を利用して自分自身の権力を固めることを目指していたのだ。国の古いシステムを再び動かすことができる新しい人物、古い組織を生かしながら未来を計画できる人物として彼は自分自身を示した。彼の政府は、ファシスト3名、カトリック(人民党)3名、自由主義者1名、無所属1名(哲学者ジョヴァンニ・ジェンティーレ)、ナショナリスト1名(ルイージ・フェデルツォーニ)、軍人2名とその他の人々で構成されていた。彼の計画とはつまり、ファシズムの中にイタリアの政界の幅広い層を組み入れることであった。こうすることで、彼は他の政党の力を奪いながら、自身や自身の政治計画にすべての「愛国派」を組み入れ、一方で彼の党内の極端で革命的な勢力を合法の範囲に入れることで地方の反抗的勢力を孤立化させ、ファシスト党の性格を変えることを目指していた。

ファシズムと教皇庁

 教皇庁はどのような態度をとり、特に新教皇ピウス11世はファシストによる新政府とどのような関係を築いたのだろうか。教皇庁はファシズムをその暴力性から無実とはみなしていないといえ、フリーメーソンによって支配されていると考えられていた党を「キリスト教化する」ことができるだろう、そして彼の政治的ポジションから、「ローマ問題」に対する満足のいく解決策を得ることができるだろうという希望のもとにムッソリーニに信頼をおこうとしていた、と考えられる。つまり教会はムッソリーニに、教皇庁に対する新しい政治を期待していたのだ。さらにピウス11世は、アチェルボ法に対する反対として1923年の4月に政府を去ることになる人民党を、もはや「カトリックの利害」を政治世界において代表する存在とは認識していなかった。党としても、特定の宗教との関係を持たないことを明確にし、政治活動においてカトリックの指導者の指示から自由な党であり、教会に関係する問題に関しては、直接教皇庁が国家と交渉することを求めていた22。ピウス11世は公然と人民党を非難したわけではないものの、カトリック信者たちに対して、市民として他の政党とともに新政府を「支持」することを認めた。よく知られているように、どの政党よりも、ピウス11世は全力でカトリック行動団を支持し、奨励していた。カトリック行動団は、一般のカトリック信者を、監督と指導の下、一致団結させて統制する任務をつかさどっていた23。この「教皇の軍隊」は必要な場合には、宗教的なことに関して教皇庁の要求を考慮するよう政府を説得するために、政治的圧力の手段としても活用された。

 教会は、組織や出版物を通じて、当初からファシズムの動きやファシスト党による主張、さらには彼らが政治的闘争のために暴力を使用していることを非難していたが、この時には事の成り行きがさらに進むのを慎重に静観していた。しかし、『ローマ進軍』の前にファシズムによる政府は宗教には一切手を触れず、むしろ支援するという保障を得ていたことを我々は知っている24。「バチカンはファシストたちの教会に対する意図が何なのかを知ることを求めていた。その答えは完全に教会側を安心させるものであった。すなわち、絶対的な尊重である」25。このようにバチカン国務長官の報告に書かれている。新政府が発足して数日後にガスパッリ枢機卿がフランスのジャーナリストにイタリアの政治状況について次のように述べたことは、この保障(もちろんムッソリーニによってなされたものであるが)のもとに理解するべきであろう。「この動き(ファシズム)は必然となったのです。イタリアは無政府状態となりました。王はそれに対して非常に賢明な判断を下しました。なぜなら軍隊に攻撃するよう命じることは、同じく損害の大きいことでしたから」26。実際、もし軍がクーデターに対して攻撃せよという命令に従ったならば、内戦となっていたであろうし、もし命令に従わなかったとしても、国にとっては同様に深刻なことであったであろうと枢機卿は説明している。

 ムッソリーニが権力の座についた数日後、国務長官は新リーダーについて、教皇庁でのベルギー大使との会話の中で次のように述べている。「ムッソリーニは自身がよきカトリック教徒であり、教皇庁は彼に対して何ら恐れることはないと伝えました。まず最初に、彼は政府のメンバーと王自身に対して、11月4日に戦没者の魂のためにサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会で行われたミサに参加することを求めたのです」。無名戦士のモニュメントの前でムッソリーニは一分間祈りを捧げた。まさにその時間は「そこに出席した自由主義者にとっては無限のように感じられ、全員が跪いていました」。さらにガスパッリ枢機卿は次のように述べている。「ムッソリーニが見事に調整したこのクーデターに対する判断を下すまで、彼にあと数か月の時間を与えようじゃありませんか。我々が彼について知っていることは、彼が偉大なオーガナイザーであり、まさにその証拠がファシズムなのですし、そしてまた非常に強い性格の持ち主だということです」27

 新政府のポジティブな効果は、特に経済と社会の点ですぐに感じられた。合法的ではない手段によるものとはいえ、治安の回復も見られた。新首相は国家の運営の近代化、支出の削減、さらにファシストたちが重要と考えるいくつかの事柄に関して旧サヴォイア法典の補完をも遂行した。ムッソリーニ政権が行った最初の政策の中には、出版に関する法の新規定があったことも忘れてはならない。出版に関しては何十年も何らかの措置が期待されていたものであるが、この法は新政府の検閲官の方針に沿って考案された。「この時から、ジャーナリストたちはすべての批判や異論の表明が、出版の自由を制限する決定的な措置を実行するために、新首相が動くきっかけをもたらしうるということを理解していた」28とこの点に関して歴史家ニコーラ・トランファリアは書いている。言論の自由に対する懸念が強まり、すぐにイタリアの大衆紙が犠牲となった。コッリエーレ・デッラ・セーラやラ・スタンパ、イル・モンド、その他の新聞は、この時からムッソリーニ政府に対して批判的な立場をとるようになっていった29

 しかしこの当時ムッソリーニがもっとも心配していたこととは、自分自身がカリスマ的党首を務めていたファシスト党の運営についてであった。『ローマ進軍』後に党は拡大し、1923年のフェデルツォーニ率いるナショナリスト協会との合流後には、その党員は62万5000人にまで達した。このことは、ヒエラルキーではなく、「ネットワーク」システムによって組織されていた党内に、革命的考えを持つ「旧ファシスト」と、自己の利益のために「カード」を利用する方に関心を持つ「新規加入者」との間の対立を生み出していた。いずれにせよ、「旧ファシスト」の大半にとって、『ローマ進軍』による解決はむしろ不満足なものであった。特に、彼らはファシズムの「合憲化」や、その「議会化」、旧資本家層や自由主義の党派と協力して政府を運営することを望んではいなかった。さらに、彼らは郊外地域が民主的に選出された旧行政や知事たち(彼らの多くがファシズムに賛同していたとはいえ)の手にゆだねられたままであることを容認できなかった。彼らはかつての敵、すなわち社会主義者や、ストゥルツォの人民党らに対して即座に報復することを望んでいた。実際、もっとも過激なファシストたちは国の平和を調停する政治を望んではいなかった。むしろ彼らは政府に座を得たムッソリーニに国の急進的ファッショ化を進め、党をいかなる堕落からも守るよう要請していたのだ30

 地方のファシスト党実力者が支持するこれら「反主流派」の流れは、新政府をそれがファシスト国家を実現することができる限りにおいては支持していたが、同時にファリナッチが主張していたように、もし革命を達成するうえで役立つのであれば、「第二の革命の波」を実現することには自由な立場のままだった。ムッソリーニが党に対して行っていた政策とは、これらの動きに対してはっきりと対立することではなかった。なぜなら彼は同盟者に対しても、反対者に対しても使える武器として、ファシスト行動隊組織を必要としていたからだ。その代わりに彼は「抑制」の原則に基づいた政策を行うことで、少しずつそれを変容させ、新たな要素の助けによって危険な分子を少しずつ排除していった。そうして彼は党と国を自分のものとし、徐々に民主的多元的統一を弱めていったのだ。こうしていわゆる「ファシズムの20年」と言われる全体主義の時代がはじまり、これはさまざまな国(ヨーロッパのみならず)に広まり、西洋社会の多くにおいて、政治的領域であれ、経済、文化的領域であれ、民主的構造を弱めることに影響したのである。

 現在のコンテクストにおいて、この事件の記念の年が、政治的秩序のために利用されうることはないし、またされるべきではない。歴史は過去の多くのことを我々に教え、そして現在を解釈する助けとなるが、しかし歴史はまったく同じ方法で繰り返すことはない。イタリアで1世紀前に起こったことは、我々にその意義を考えさせるであろうし、また民主主義や個人の権利(移民をも含めて)の価値を守ることに対してより注意を払うべきことを我々に示すであろう。それは国民や国の利益に対して常に害をもたらす独裁的転換を避けるためにも必要なことなのだ。

[原田亜希子訳]

1 M. Palla, «Fascismo. I. Il movimento», in Dizionario storico dell’ Italia unita, a cura di B. Bongiovanni– N. Tranfaglia, Roma-Bari, Laterza, 1996, 331; R. O. Paxton, Il fascismo in azione. Che cosa hannoveramente fatto i movimento fascisti per affermarsi in Europa, Milano, Mondadori, 2005, 105s 参照。
2 ルイージ・ファクタの政治や彼のファシズムを「合憲化」しようとする意図に関しては、D. Veneruso, La vigilia del fascismo. Il primo ministero Facta nella crisi dello Stato liberale in Italia, Bologna, il Mulino, 1968を 参照。ムッソリーニやファシズムの権力掌握に関してファクタの責任を最小化する傾向にあるのが、A. Repaci, La marcia su Roma, Milano, Rizzoli, 1972である。
3 首都はエマヌエーレ・プリエーゼの指揮のもと、28000 人の兵による守備隊によって固められており、プリエーゼは ファシストたちがローマを攻撃した際には自身の義務を果たすことを決意していた。
4 E. Gentile, Storia del partito fascista. Movimento e milizia 1919-1922, Roma-Bari, Laterza, 2021, 620 参照。
5 A. Repaci, La marcia su Roma, cit., 932
6 E. Gentile, Storia del partito fascista..., cit., 932.
7 R. De Felice, Mussolini il fascista. 1. La conquista del potere, Torino, Einaudi, 1966; R. Vivarelli,Storia delle origini del fascismo. L’ Italia dalla grande guerra alla marcia su Roma, Bologna, il Mulino, 2012; E. Gentile, Storia del partito fascista..., cit.
8 P. Spriano, Storia del partito comunista italiano, vol. I. Torino, Einaudi, 1967, 216参照。
9 G. Sale, La Chiesa di Mussolini, Milano, Rizzoli, 2011, 46s 参照。
10 «Azione rinnovatrice ma nell’ ambito della legge», in Il Giornale d’ Italia, 1922 年 10月15日 .
11 E. Gentile, Storia del partito fascista..., cit, 619.
12 Ivi.
13 P. Alatri, Le origini del fascismo, Roma, Editori Riuniti, 1971, 242.
14 R. De Felice, Mussolini il fascista..., cit., 360s 参照。
15 E. Gentile, Storia del partito fascista..., cit., 625.
16 ファシストの幹部の中には力ずくで政府に到達することに賛成しないものもいた。反対していたのは、いわゆる「穏健派」のファシストであり、デ・ヴェッキ、デ・ボーノ、グランディ、ボッターイなどは進軍が革命的とみなされうることを心配していた。それに対して反対の立場だったのがビアンキで、彼は最後までその態度を頑なに維持した。まさに彼こそが、まだ不確定な段階において、ムッソリーニにすぐに行動に移すべきであると説得した人物である。1919年に社会主義者たちが犯した過ち、すなわちすぐに革命的行動にうつらず、自由主義者たちが国を統治し続ける状態のままにしたことを繰り返すべきではないと考えていた。Ivi,631参照。
17 まさにこれらの地方の状況が(特にクレモナ)、いまだ計画に対して決心がつかなかったムッソリーニを行動に移すよ う後押しすることになった。P. Milza, Mussolini, Roma, Carocci, 1999, 333参照。
18 I. Balbo, Diario 1922, Milano, Mondadori, 1932, 195参照。
19 C. Rossi, Trentatre vicende mussoliniane, Milano, Ceschina, 1958, 144参照。
20 サランドラ閣下、フェデルツォーニ閣下、ディアツ将軍やタオン・ディ・レヴェル長官など王がもっとも信頼していた助言者たちから戒厳令にサインしないよう王に進言がなされていた。P. Milza, Mussolini, cit., 334参照。
21 De Felice, Mussolini il fascista..., cit., 360s: N. Tranfaglia, La prima guerra mondiale e il fascismo, Torino, Utet, 1995, 395s 参照。この研究者は、ディアツ将軍と、ペコリ・ジラルディ将軍が王から夜中に意見を求められ、戒厳令にサインしないよう助言したと主張している。
22 G. Sale, Popolari e destra cattolica al tempo di Benedetto XV, Milano, Jaca Book, 2006, 55s. 参照。
23 ピウス11世とカトリック行動団との関係に関してはM. Casella, L’azione cattolica nell’Italia contemporanea. 1919-1969, Roma, Ave, 1992: P. Pecorari (ed.), Chiesa, Azione Cattolica e fascismo nell’ Italia settentrionale durante il pontificato di Pio XI. 1922-1939, Milano, Vita e Pensiero, 1979; G. B. Guzzetti, Il movimento cattolico italiano dall’ unità ad oggi, Napoli, Dehoniane, 1980; P. Scoppola, Coscienza religiosa e democrazia nell’ Italia contemporanea, Bologna, il Mulino, 1966, 362-418; E. Preziosi, Obbedienti in piedi. La vicenda dell’ Azione Cattolica in Italia, Torino, Sei, 1996; Y. Chiron, Pie XI (1857-1939), Paris, Librairie Académique Perrin, 2004; F. Margiotta Broglio, «Pio XI», in Enciclopedia dei papi, Roma, Istituto dell’ Enciclopedia Italiana, 2000, 617-632 参照。
24 C. A. Biggini, Storia inedita della conciliazione, Milano, Garzanti, 1942, 65参照。
25 G. Sale, Popolari e destra cattolica al tempo di Benedetto XV, cit., 188参照。ムッソリーニが首相に任命された翌日の1922年10月30日のL’Osservatore Romanoでは、教皇が「政治的対立の外に身を置きながらも、国の運命を指揮する精神的指導力を保っていた」ことを断言している。
26 «Le fascism et le Vatican», in Le Journal, 1922年11月11日.
27 Y. Chiron, Pie XI, cit., 219引用。この点に関しては、W. Rauscher, Hitler e Mussolini. Vita, potere, guerra e terrore, Roma, Newton e Compton, 2004, 79参照。
28 N. Tranfaglia, La prima guerra mondiale e il fascismo, cit., 327.
29 Id, «La stampa e l’ avvento del regime», in V. Castronovo, N. Tranfaglia (edd.), La stampa italiananell’ età fascista, Roma-Bari, Laterza, 1980 参照。
30 De Felice, Mussolini il fascista..., cit., 414参照。
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黒澤明『八月の狂詩曲』

“Rapsodia in agosto” di Akira Kurosawa
Virgilio Fantuzzi S.I.
ヴィルジーリオ・ファントゥッツィ神父

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1991年公開の日本映画『八月の狂詩曲』を、
カトリックの視点も交えながらかつ、客観的に解説、評しています。
黒沢監督が自ら脚本を書いたというこの映画、
30年前とは思えない驚きと新鮮さがいまなお続いている名画といえるでしょう。
La Civiltà Cattolica 1992, V, 212-220

 海に開けた岸辺へとゆるやかに下っていく丘陵の間にすり鉢状に広がる長崎は、平穏かつ活気にあふれている街である。しかし、緑のうちに白い建物がのぞく現代的な姿の下にはもう一つの長崎がある。断片的な情報だけが街の至る所に横たわっているが、長崎は1945年8月9日の午前、広島から3日後に、同じく原子爆弾の投下により破壊された街であるのだ。アメリカは戦争を終わらせるために日本に2発の原子爆弾を投下したのだと言われている。およそ50年も前のことだが、2発の爆弾は忌まわしい影響をもたらし続けている。日本人の中には思い出したくはないと言う者もいるが、皆が忘れ去っているわけではない。82歳の巨匠、黒澤明による映画『八月の狂詩曲』は、この出来事を忘却する者と覚えておきたい者との差異をテーマとしている。

山あいの家

 長崎を囲む山地、森の緑の中に、そして、轟々と落ちる滝の近くに一軒の古い家がある。そこには1人の老婆と4人の孫がいて、10歳から14歳の孫たちは男が2人、女が2人である。夏はバカンスの時季だ。子どもの親たちはハワイにいる。長く消息がわからなくなっていた老いた伯父と彼の家族に会うために旅立ったのだ。お祖母さんの兄であるこの大伯父さんは、1920年、まだ子どもであった頃にハワイに旅立ったが、アメリカに帰化し、大きなパイナップル農園の所有者として成功した。今では、世界中にパイナップルを輸出し、東京も含めて各国の大都市に支店を置くほどの企業を経営している。故郷とのつながりは、戦争が始まる前からもう途絶えていた。貧しく子沢山な家に生まれたお祖母さんは、兄弟姉妹全員の名前を簡単には思い出せなかった。

 お祖母さんがつくる日本の伝統的な食事に耐えかねた子どもたちは、何か料理をつくるために街へ買い物に出かけた。これをきっかけに彼らが、教師であった祖父が原子爆弾によって教え子たちとともに亡くなった小学校を訪ねると、そこには、かつての学校の遺物——ねじれまがり錆びついた鉄のジャングルジム——と日付が刻まれた石碑、ささやかな植花がされた、悲劇が起こったことを示す小さな記念碑があった。押し黙り立ち尽くす子どもたち。感傷から抑制された声により、きらめく閃光、火炎、ねじれ焼け焦げ判別のつかなくなった遺体についての話が思い出され、そして、ヴィヴァルディによる「スターバト・マーテル」の一節が聞こえてくる。甘いメロディは「呻き、悲しみ、嘆くその魂を剣が貫いた」と歌っている。いちばん年下の子が言う。「姉さん、おじいちゃん見つかんなくても、ここにいるよ、きっと」。

 破壊された街の遺構をめぐる巡礼は、カトリック浦上教会にたどり着いた。この教会堂は、爆発で壊滅した以前の建物があったところに再建されたものだ。廃墟から見つかった大理石の天使像は、顔が焼け焦げひび割れている。カメラが天使たちに向けられ、女の子が言う。「天使たちがみんな泣いてる」。少しあとの場面で映される噴水は、原爆の爆発を生き残った人々を苦しめたのどの渇きを想起させている。爆心地の近くには、さまざまな国から贈られた彫像が——多くは母性を表象しているブロンズ像だ——林立している。弟がアメリカからの彫像はないのかと問うと、姉はもっともな答えを返す。「当り前じゃない、原爆を落としたのはアメリカよ」。

 大伯父さんは死ぬ前に妹と会うことを望んで、お祖母さんと子どもたちをハワイに招いた。子どもの両親らは賛成していた。初めはためらっていたお祖母さんだが、やがてハワイへ発つことを決心する。しかし、毎年、原爆の犠牲者への慰霊を行っている8月9日を過ぎるまでは行けないと言うのであった。ためらいがちなお祖母さんと、すぐにハワイへ行きたい子どもたちとの交渉は、実のところ、こうした簡潔な言葉ではまとめられないニュアンスを持ってゆっくりと進んでいく。子どもたちの自然な感情表現と、より洗練されかつ抑制された、86歳の女優村瀬幸子の解釈によるお祖母さんの表現を対照的に描くために、この作品ではスチルとパンが多用されている。

記憶の重み

 お祖母さんは記憶があやふやながら、子どもたちに伝えるべき思い出を見出していく。歳月の重みにより背の曲がったお祖母さんが、忘れてしまった兄弟姉妹の名前や出来事を思い出そうと、いっそう身を屈める姿には心を動かされる。この作品はこうした記憶の探求をしっかりと描いているようだ。スクリーンに流れる映像を注意深く見ていくと、まさに思い出の重みというものを感じ取れるように思う。そして、時によっては、この重みは一人では抱えきれないものとなっている。これはおそらく、お祖母さんが同世代の来客を迎えるシーンに示されている。お祖母さんを訪ねて来た老婆は、同じく夫を原爆により亡くしたのだが、一言も発することなくお祖母さんと向かい合うのであった。子どもたちは唖然とするが、2人の老婆はお茶を前にしていっさい動かない。「話ばしに来たと」[あとで老婆が何をしに来たのか問う子どもたちに]お祖母さんは言った。「えっ、だって話なんかしなかったじゃん」と子どもたちは驚く。「話ばする時、だまっとる人もおっとじゃ」。

 海外にいる子どもたちの親たちへ、8月9日のあとにハワイへ発つつもりであるというお祖母さんの決心を伝える電報は、日本へ戻ってきた彼らと行き違いになり物語を不意に展開させる。ハワイで彼らは、「アメリカ人」である親類の気分を害さないよう、お祖父さんが亡くなった詳細について話すことを避けていた。しかし、お祖母さんの電報がはっきりとこのことについて触れていたため、既に経済的な援助を受けることすら期待されていた、この親類との関係をにわかに損なう可能性が生じてきた。パイナップル商社の東京支店での責任者に就任できるかもしれないというチャンスが、手のひらから零れ落ちようとしていたのである。こうした考えにお祖母さんは憤り、強く反対する。「あさましかぁ」。息子と娘、それぞれの嫁と婿に対して言い放つ。「まるで乞食じゃ」「本当のことば書いてなんで悪か、ばかかあ、原爆ば落としといて、そいを思い出すとがいやってえ、嫌なら思い出さんでよかけど、こいも知らんとは言わせん」。

 こうして物語の前半は終わる。後半は、お祖母さんの「アメリカ人」になった兄の息子、甥であるクラークの来日が物語の中心となる。彼は8月9日に亡くなった叔父や他の人々を弔うべく慰霊祭に参加しようと長崎へやって来たのであった。クラークは空港に降り立つとすぐに、どこで叔父が亡くなったのかと尋ねた。こうして場面は再びあの小学校に、小さな記念碑へと立ち戻る。私たちは先に純真な子どもの目からこの記念碑を見たが、今度は遠くからやって来た大人の視点から、そして、子どもたちが示した痛ましい驚きを抜きにして、これを眺めるのである。黒澤監督はクラーク役にハリウッド俳優のリチャード・ギアを選んだ。この配役は若々しさ、すなわち、ロッキーないしランボーのような筋骨隆々のヒーローとは異なるという点でうってつけである。原爆がもたらした生々しい傷跡を見せる生存者たちがやってきて、黙々と花を記念碑のまわりに植えるのを見てクラークは言った。「この人たち、見る、あの日の長崎、よくわかる」。

 クラークは叔父の死の状況を自分たちに隠していたことについて穏やかに従兄妹たちを咎め、彼の父に代わって、親族のうちに原爆の犠牲者となった者がいたことを知らなかったことをお祖母さんに詫びた。そして、お祖母さんと従甥姪を連れてハワイに戻ろうと考えながら、慰霊祭に列席した。しかし、父の死を知らせる電報が届くと、取るものも取り敢えず帰国せざるを得なくなった。兄の死の知らせに打ちのめされたお祖母さんは、狂乱に身を委ね、原爆が投下されたあの恐ろしい日に戻ったのだと信じ込んでしまう。お祖母さんは幻視した原爆の脅威から孫たちを守ろうとし、さらに、嵐が吹き荒れているにもかかわらず、かつてのあの日のように、家を飛び出して街へと駆け出していく。風で折れた傘を持ちながら雨の中を進むお祖母さん、それを追いかける息子・娘と孫たちの姿により、作品は幕を閉じる。

見えるものから見えないものへ

『八月の狂詩曲』は、そのものが直接に示されることがないにしても、原子爆弾の爆発という悲劇をめぐる物語である。これまで見てきたように、街を襲った破壊のかすかな傷跡が見出されている。黒澤監督は、ほとんどが再建事業により取り除かれてきたこうした痕跡を、現実に起きた爆発を暗示させるものとして扱っている。爆発を直接見せる必要はなかった。監督のねらいは一見すると、原爆の影響を——数は多くはないが——見せることにあるように思われるが、実のところは目に見えないものに向けられている。目に見える傷跡から、生存者の心に残された目に見えない傷跡へと転じていくのである。

 この作品では、原爆投下に対する責任追及はなされていない。単純なスペクタクルを盛り上げるための戦争映画にありがちな、非情な虐殺者と犠牲者、ヒーローとヴィランといった対立項に基づいて責任者が暴かれ、無垢な人々が称揚されるといったことはない。原爆投下の責任について触れた会話の中で、お祖母さんは端的に述べている。「ばってん、みんな戦争のせいたい。戦争に勝つため、人はなんでんしよる、いずれ己ば滅ぼすことまですっとじゃあ」。

 ドキュメンタリーとして、あるいは撮影技術を駆使して、1945年8月に広島と長崎で起こったことを再現しようとする作品は少なくないし、これからもつくられるだろう。しかし、これまでの監督たちと黒澤が異なるのは、原爆の影響を表し難いものとしていることである。火傷によりねじくれた異形がスクリーンに映されれば、観客は目をつむりたくなるほどの戦慄を覚えるだろう。だが黒澤監督は、爆発の影響が及ばない高高度から破滅を眺めるアメリカの偵察機による現実感のない視点も、おぞましいものを見せるために折り重なった遺体を撮影するぶしつけなビデオカメラの視点もとらなかった。原爆の爆発を想わせるために彼が選んだのは、間接的な表現である。

 この作品は憤怒や嫌悪を喚起しようというのではなく、ただ反省へと導くものである。このために、破滅が生じた場所を訪ねた人々、すなわち、原爆による被爆者たち、そこで起きたことについて語りを聞くことでしか知らない子どもたち、そして、クラークのように遠くから訪れた者の無言の思いに焦点が置かれている。クラークはアメリカ人の息子であるが、他のどの国よりもこの出来事に関係しているアメリカの人々こそ、こうした無言の思いから多くを得ることができるだろう。この作品に通底する、起こった出来事を間接的に表現するという手法は象徴的要素を活用するが、これは黒澤映画が常に示してきた強い印象とは対照的である。いくつかの要素は、東洋と西洋のさまざまな伝統から引き出されている。例えば、作中で執拗に映される供養や、「スターバト・マーテル」の歌と「泣いているように見える」天使たちの像により、キリストの受難への素朴な信仰心が正確に描かれていることからもわかるだろう。

死者と生者

 覚えている者と忘れてしまった者の違いというのが作品の根底にはある。死者を覚えているということは、心のうちにおいて彼らが生きているのだということである。そして、忘れてしまうというのは、身体的状態と同様に彼らが死ぬということだ。死と生のように若さと老年も異なる状況であるが、居合わせる者たちを隔てるのではなく結びつけるために設定されている。まっとうな考えが、他の世代(お祖母さんや子どもたち)の声に耳を傾けない中年(両親ら)ではなく、海外で暮らしてきた者であるクラークにより示されるというのは偶然ではない。彼は使命を果たすべく飛行機から降りてやって来て、これを終えた後にまた飛行機に乗って雲の間に消えていくのである。

 黒澤は子どもの親たちの機会主義を誇張して描いているように思われる。子どもたちは彼らを端的に物質主義者と切って捨てるが、彼らもまた贖われる。初めは誤った態度をとっていたのが、物語が進むとともに悔い改めるようになり、最後には自分たちがばかげていたのだと認めることができた。老人と若者に黒澤監督が魅了されていたことは明らかである。老人は古い知恵の保持者である。若者は粘土のように、不意に訪れる現実の変化を受け止めることができる存在である。善や真実よりも有用性を重視する社会において周辺に追いやられているからこそ、老人と若者は霊が糧とするものを受け入れることができるのだ。これこそが、作中を通して、黒澤が生き生きと魅力的に並外れた想像力を注ぎ込んで描いた関係のうちに、お祖母さんと子どもたちが交わしたものである。

 お祖母さんは、ともすれば怖がらせるような物語を子どもたちに語っている。のらくら者の兄たちの話だ。彼は靴屋に奉公に出されたが、親方の奥さんと恋に落ち、2人で暮らすために逃げ出して森の掘っ立て小屋に住むようになった。この小屋は雷により焼け落ちてねじれた2本の杉の樹の側にあったが、彼らにはこの杉が心中した恋人たちのように見えたのだ。この話を聞いた翌日、年長の男の子と女の子が森へ行き、お祖母さんが語った姿ほとんどそのままの2本の杉を見つけた。もう一人の兄弟、お祖母さんの弟は気が優しいが少し変わっていて、原爆のせいで髪がなくなってしまい、人前に出ることを避けるようになった。彼は一日中家を出ることなく恐ろしい雰囲気をたたえる眼を描いていたが、夏だけは夜になると滝が落ちる湖で水を浴びに外へ出たという。子どもたちは散策していると、お祖母さんの話を裏付けるような滝と湖を見つけた。

 ねじれた杉と湖に落ちる滝は、死者を思い起こさせる強い力を持つ映像となっている。これは、『乱』(1985)や『夢』(1990)といった作品が持つ強烈な映像表現を黒澤監督にもたらした力と同じものである。この日本映画の巨匠を正当にも有名にした、雄大なフレスコ画とも言える諸作品と比べれば、『八月の狂詩曲』は水彩画と言うことができるだろう。商業作品としてはつつましい出来である。しかしながら、日常に非日常を差し込む映像のうちにこそ、紛れようのない監督のスタイルが示されている。これは要するに詩が果たす役割であり、すなわち、日常的に用いられてくたびれた言葉では伝えられず、映像技術によっても——映画もそうであり、黒澤の作品とてその一つである———表現できないことを、ありきたりな視点からは捉えられないようなことを述べるということである。

蟻と薔薇

 原爆が落ちた日のことを思い出すお祖母さんは、空に現れた巨大な目について語る。「おおきか目に睨まれたごとあって、空ば見あげて動ききれんかった」。この物語は画面に具体化され、山の稜線に挟まれた空に恐ろしい目が映される。こうした特殊効果のために黒澤は、むしろ単純なトリックを用いたと言われている。インタビューで彼はこう語っている。「原爆の閃光と煙は、別に高解像度で撮った素材を使ったんだ。あの目は、コンタクト・レンズを着けた日本人と西洋人の目を何百カットも撮って準備した。編集の時にひとつひとつ見るでしょう。それでドキッとしたのを選んだ。たまたまレンズがずれてぐるっと回って、それがちょうど見たこともない目だったんだよ」。お祖母さんが庭で子どもたちと語らう場面やクラークの手を握るシーンで、優しい目のように空に浮かぶ月も特殊効果により撮影された。

 特殊効果を用いたことはこの作品のリアリティを損なうものではなく、追い求められている真実は、既に述べたように、外面ではなくむしろ内面の地平に置かれているのである。空に浮かぶ月は人工のものだが、それが喚起する感傷は本物だ。「月の光はよかぁ」。お祖母さんは言う。「おじいちゃんは月ば見るとの好きでなあ、月ば見ると心のあらわるってゆうて、よう庭に出て、月ば眺めよった」。撫でるように柔らかいお祖母さんとクラークの握手は、監督が言うように、個人的な家族についての事柄である。一方の国民による他方の国民への謝罪ではないのだ。だが、原爆の閃光のうちに現れたおぞましい目のあとに、月の優しいまなざしの下にこのシーンが示されているというのは、浄化への望みを、手を握る2人とそれを見守る家族たちの垣根を越えた平和への望みを示している。

 象徴的要素を通じて黒澤の映画に表現されているものを観察しても、これ以上何も言えることはない。作品において絡み合う象徴の中でも、初めはいくぶん謎めいたものと感じられるものが一つあるが、これも同じものを示している。慰霊祭の最中に子どもたちの中でも一番幼い子が、不思議な目標に向かって列をなす蟻の群れを眺めてうわの空になるシーンだ。クラークも従甥の視線を追って蟻の行列を眺める。お経が響き渡る中、蟻は一本の薔薇に向かって行進を続け、とげの多い茎をのぼり開いた花弁の真ん中にたどり着く。慰霊祭に差し込まれたこのシーンは何を意味しているのだろうか。思うにこの答えは、びっしりと書き記された原爆の犠牲者たちの名のうえに大書されている言葉、「俱會一處」にある。「あの世で会って、一緒になりましょう」。

 この言葉からみれば、蟻は原爆を生き残った生存者たち、あるいは爆発の直後に悲劇の場にたどり着いた人々である。こうして蟻は生者を表象している。校庭の記念碑を前にして「おじいちゃん見つかんなくても、ここにいるよ、きっと」と言った子どもの恍惚とした目に映る薔薇は祖父の魂を、すなわち、死を超えて残り続ける人間の魂を表象している。生者は死者と交流することができ、彼らの存在から、知覚できないとしても現実のものとして、肉体ではなく霊的な命を養う甘い蜜を得ることができるのである。このことこそ、最期を看取られる前にお祖母さんが子どもたちへ言わねばならないことであり、また、黒澤監督が世界中の客席にいる観客へ繰り返し伝えていることであるのだ。

[林皓一訳]

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