桜井英治
いまから一五年以上も前になるが、そのころ私は、中世後期の約二〇〇年間だけ流通したあと忽然と姿を消してしまった「割符」とよばれる定額手形のことなどを追いかけていた。その過程で、たまたま同じような機能をもつ文書が流通経済の場だけでなく、贈答儀礼の場にも存在していたことに気づいたのである。それが本書でも触れた「折紙」にほかならないが、この発見によって眼前の霧が晴れたといおうか、中世人のものの考え方というものが一気に見とおせた気がした。
要するに、本書のほぼすべては約一五年前のその瞬間にすでにできあがっており、論文もいくつか発表していたのであるが、このような一般書のかたちをとるまでは世間の知るところとならなかった。このタイムラグはけっして小さくない。一研究者として発信を怠ってきたことを深く反省するとともに、出版人の諸兄姉には、まだまだ埋もれているであろう、真に価値のあるものを掘り起こすべく、つねにアンテナを張りめぐらしていてほしいとも思う。角川文化振興財団と審査員の皆様に心よりお礼申し上げたい。
「中世の社会システムとしての贈答」 福原義春
今日この時代でさえ、頂きものにお返しすべきかどうか悩み、もし何かの具合でその機会を逸すると気持ちが落ち着かないものだ。
その贈答のルールがどんな風にして中世には確立していたかを豊富な例証で説き明したのが本書である。しかもこれまでその裏付けになっていた呪術や宗教のような古代性に頼らず、中世的な合理性をその基本に据えたのが特色だ。
単純な互酬性に基づくものでもなく、儀礼的に適い、先例をも踏まえ、当事者双方の良識と節度に負いながらも、更に高度な計算を含んだ贈答のやりとりは一種の社会システムとなっていた。
時には一般的な市場経済の枠では律し切れないような贈答経済とも言うべき取引がなされており、その世界では財が金銭に換算され、その結果として金銭そのものが贈答の世界に組み込まれてもいた。そして、「折紙」という目録が一種の約束手形の役目を持ち、しかも後日額面で相殺されるというような不思議な機能を発揮するとあれば、既に契約もなしに近代・現代の取引を超えていたのか。
贈答は朝廷・公卿・幕府などの言わば統治を動かす燃料でもあり、潤滑油にもなった。また寺社が仲立ちの機関となって、租税制度とは別の富の還流の作用を分担した。
初めは儀礼としての贈答だったものが次第に社会構造において果たしていくようになった役割は大きなものでありそうだ。
これら中世独特の贈答儀礼の慣行が今日までどのようにして維持されて来たのかを明らかにすることは、今後の課題であるかも知れない。
『贈与の歴史学』の研究はそれ自体学問的にも大きな意味を持つものであろうが、同時に現代に生きる日本人のライフスタイルを造った根源を明らかにしている点でも、一般読書人の関心をも十分にそそるものである。
ヴァレンタインデーとホワイトデーのプレゼントが現代の商業と結び付いて定着したのもこのルーツの及ぼした影響だと著者は見るのだ。