斎藤 環
精神科医としての私の専門は「ひきこもり」ですが、本書のテーマである「ヤンキー文化」は、ちょうどその対極にあります。いずれも日本特有としか言いようのない「文化」です。
してみると、「日本文化」なるものは、この両極の間に位置づけ、あるいは解体することが可能ではないか。これが本書の隠れた問題意識でした。不良体験を持たない私に本書を書かせたものは、むしろ「ひきこもり」臨床家としての立場だったのです。
「文化」という視点から眺めると、「ヤンキー」は実にさまざまな相貌を見せてくれます。バッドセンスでありながら創造性を刺激し、価値紊乱をそそのかしながら保守的倫理観に回収される。
本書の役割はそうした領域の存在を、ひとまず認識してもらうことでした。奇しくも自民党政権下で続出した多くの問題が、格好の事例集を提供してくれたのは皮肉なことでしたが。
学術書よりはエッセイに近い本書が角川財団学芸賞を受賞したという報せは、私を大いに勇気づけてくれました。角川文化振興財団と選考委員の皆様の“蛮勇”に、深い敬意と感謝の意を表したいと思います。
「換喩として眺望されたヤンキー文化」松岡正剛
呉座勇一の『一揆の原理』と斎藤環の『世界が土曜の夜の夢なら』が最終審査に残った。一揆論とヤンキー論。どちらも日本人の社会的心情を解くうえでの鍵を、一方は歴史の渦中から、他方は現在のサブカル状況から提供しようというものだが、意外性が高いという視点でヤンキー論が選ばれた。
ヤンキーはその風姿からすれば、リーゼントの髪形、革のジャケット、道端にしゃがみこむヤンキー坐り、ぶっきらぼうな口調ということになるのだが、つまりは昔流にはアメリカン・アウトローかぶれの「与太者の系譜」に入るのだが、本書で述べられているヤンキー像はそこにとどまらない。
かれらの中にひそむ仁義、年功序列観、和洋折衷感覚、反個人主義、母性憧憬、ホンネ重視などが特徴づけられ、さらには「野口英世や特攻隊や白洲次郎こそはヤンキーでカッコいい」という風変わりな価値観をとりあげた。本書の後半には「ヤンキーはなぜ天皇が好きなのか」というきわどい問題まで言及されている。
すでにこうしたヤンキー論は速水健朗、五十嵐太郎、難波功士、都築響一、酒井順子らによっても議論されていたのだが、斎藤はこれらの言いっ放し風のポップクリティックを縫い合わせ、今日の日本人の心情に巣食っているであろう「換喩型の模倣文化」を浮き彫りにした。鏡像(ミラーリング)のプロセスに注目するラカン派の精神分析医らしい著作だった。
もっとも、選考委員会でも議論になったのだが、本書はこの手の「J回帰」について存分な説得力をもちえたわけではない。また、候補となった呉座勇一の著書や佐藤健二の『ケータイ化する日本語』についても共通する「文体力の欠如」を、克服できているものとはなっていなかった。日本の学芸が、かつてのミラン・クンデラの「キッチュ」などのドイツ大衆文化批判の水準に達するには、もう少し時間がかかりそうである。