今福龍太
宮沢賢治の遺したテクストから出発して、どこまで遠くに行けるか。時間的にも、空間的にもできるだけ遠くへ……。それを試みることが『宮沢賢治 デクノボーの叡知』を書くにあたっての私の心づもりでした。賢治のテクストの思想的膂力を見極め、賢治を読むことのアクチュアリティを探る、そんな試みが評価されたことに深く感謝しています。
賢治が創造した物語的平行世界「イーハトーブ」は、私たちの内なる理想郷にして批判意識の拠点です。希望や夢だけではなく、苦難や痛みさえ、そこでは人間の精神を浄化し、鍛えるためのかけがえのない手がかりです。愚かさという美徳、動物や他者との対話の可能性、失われたものの精神的奪還、完成させねばという強迫観念から逃れて「未完」を生きる意志、実現しえぬユートピアを守ろうとする決意、個人の死を乗り越える清明な神話意識。どれも、いまの私たちの社会の苦境や困難に対峙するための深遠なテーマです。
それでも賢治から透視されるのは世界の半分だけ。もう半分は、語られずに残る薄明領域。世界の全体性を繫ぎ止めるこの薄明領域へのゆるぎない信頼とともに、これからも書いてゆければと思います。
「現下の危機を克服するために、今福龍太氏は、宮沢賢治の霊を呼び出した。」 佐藤 優
宮沢賢治のテキストを読むことの面白さがリアルに伝わってくる。読んでいてわくわくしてくる。高度な学術的研究と読みやすさの両面で、角川財団学芸賞を受賞するにふさわしい作品だ。選考委員も本書に賞を与えることで全員一致した。
興味深いのは、賢治の作品を世界史的視野で考察したことだ。ジョージ・オーウェルの「象を撃つ」とのアナロジーで、〈賢治の物語の背後で、日本は、南樺太だけでなく、すでに台湾および朝鮮半島をも植民地的支配下においてきました。その意味では、「サガレンと八月」も「オツベルと象」も、北の植民地と南の植民地の苛烈な状況への思いを背後に抱きながら、政治のはたらきを、人間の心のはたらきの場に移し替えて思考しようとした賢治の生存をめぐる、終わることのないぎりぎりの闘いだったように思われるのです〉(306~307頁)という今福氏の洞察は実に鋭い。食うか食われるかの帝国主義時代において、宗主国で構造的には抑圧する側に組み込まれているが、あくまでも国籍、民族、人種にかかわらず人間を人間であるが故に尊重しようとした賢治の命懸けの営みが浮き彫りになる。ただし、この営みをヒューマニズム(人間中心主義)に還元することを今福氏はしない。賢治が考える「自然世界」について今福氏はこう描く。〈そこで人間生命は、独立した中心に位置するのではなく、すべての生き物と環境世界との相互依存性、相互共振性のなかにやわらかく包摂されていたのです。そこでは、「個」という意識はけっして外的な環境を疎外・排斥することなく、より大きな全体性のなかでつつましく、揺らぎながら住まう(=棲まう)ことができるのでした〉(358頁)。
新型コロナウイルスによる感染症がもたらしている危機は、われわれが環境世界との相互依存性、相互共振性の中でしか生きていけないことを可視化した。現下の危機を克服するために、今福氏は、賢治の霊を呼び出した。本書を書くことで、今福氏はわれわれ一人ひとりの、そして人類の救済に貢献した。(了)