角川財団学芸賞

  • 2022.01.12更新
    第19回 選考結果について
角川財団学芸賞とは 受賞者一覧

受賞のことば・選評

第1回角川財団学芸賞
『口語訳 古事記[完全版]』(文藝春秋刊)
三浦佑之
【受賞者略歴】
三浦佑之(みうら すけゆき)
1946年、三重県生まれ。成城大学卒業。同大学院文学研究科博士課程修了。古代文学・伝承文学専攻。成城大学、共立女子短期大学を経て、千葉大学文学部教授(大学院社会文化科学研究科長)。受賞作のほかに、『古事記講義』(文藝春秋)、『神話と歴史叙述』(若草書房)、『万葉びとの「家族」誌――律令国家成立の衝撃』(講談社)、『浦島太郎の文学史――恋愛小説の発生』(五柳書院)などがある。

受賞のことば

三浦佑之

 一九七〇年代後半から「語り」というテーマを掲げて『古事記』を考えてきました。限られた文献しか存在しない古代への物足りなさと、『古事記』という作品が内在させているようにみえる音声への魅力とを感じたからです。それはわたしにとって、大仰にいえば、国家や天皇を超えたところで『古事記』を読みぬきたいという願望でもありました。『口語訳 古事記』は、そうしたわたしの読みの蓄積にもとづいて、お話のおもしろさを一般の読者に知ってもらうことをめざしたものです。饒舌でうさんくさい「古老」の語り口に批判があることは承知していますが、わたしなりに裏付けが可能だと考える範囲で楽しんで書き上げました。その試みを評価していただけたことに大きな喜びを感じるとともに、みなさんに深く感謝申し上げます。今回の受賞を励みに精進したいと思っています。

選評(敬称略/50音順)

「古典読書の可能性を拓く」黒田日出男

 第一回の角川財団学芸賞にふさわしい書物とは一体どのようなものであるべきか。同賞の今後やその評価にかかわってくるのだからと、大いに迷った末に、わたしは本書を推した。
『古事記』には、もとより宣長以来の膨大な研究の蓄積がある。そのなかに本書の試みがどのように位置づけられるかは、まだ分からない。その挑戦的な試みには強い異論があるだろうし、激しい拒絶反応を示された論者もおられることだろう。
 しかし、わたしの読後感は次のようなものであった。本書を読んで、わたしはとても新鮮な『古事記』を感じた。これなら、若い世代に対して学問の深い世界を魅力的な文章で提示することに成功していると言えるだろう、と。学生時代以来、西郷信綱氏の著作などに親しみ、暇をみては『古事記』を読んできた程度の者に過ぎないのだが、そのように思ったのである。著者は、老人の語り部を登場させるという工夫を凝らし、自説をきちんと書いた注釈をつけ、そして自己の学問的な立場を明快に説いた解説を用意して、『古事記』の読書の可能性を示した。巻末の地名・氏族名の解説も、参考文献や索引も充実している。読者を『古事記』の世界に誘うのに十分な本作りとなっていると言えるだろう。
 宮脇真彦『芭蕉の方法』も、わたしが最後まで迷った本であった。その連句論は、言葉を「読む」行為についての掘り下げた論述となっており、とくに前半は成功している。
 読書という行為が、若い人々のなかで危機に瀕している現在、古典を読むことの新たな喜びを生み出した両書のような企ては、とりわけ重要になっているように、わたしは思う。

 


「戦略――熟達と気鋭と」堀切 実

 三浦氏が『古事記』を「~のじゃ」「~たよのう」といった古老の語りのスタイルで口語訳したことについては、学問的には賛否両論があろう。けれども、それは単に読者を意識してのものというだけでなく、「古事記研究のための戦略」(『古事記講義』)であったという。そこに神話学・歴史学・文学など、さまざまな視点を持ち得るテキストの背後に、音声による語りの息づかいを聞こうとした「三浦古事記」の誕生があり、その思い切った「戦略」には脱帽せざるを得ない。「戦略」はむろん思いつきではなく、本格的な研究書『神話と歴史叙述』など、周到な準備があってのことであった。その学問的成果は克明な脚注や解説に生かされている。『古事記』を一般読者に開放した本書の功績は大きく、そのアカデミズムからの"逸脱"は、今日の暗い古典研究の世界にひときわ光彩を放っている。
 宮脇氏の『芭蕉の方法』では、若者たちとの付合(つけあい)体験をふまえつつ、ことばの喚起する詩情、ことばの組み合せを読むことのおもしろさといった切り口から、付合文芸の特質を導いてゆく冒頭部の「戦略」がみごとである。連歌論や俳論のエッセンスを巧みに示しながら、一般読者にどこまでも平易に説こうとしている姿勢も十分評価できる。ただし、「付かずはなれず」の呼吸で展開する蕉風連句は、ある意味ではコミュニケーションを超越するものであり、その熟成期にはことばによる詩学から文体による詩学へと変貌している。そうした点で、本書には連句論としての深化も要求されるが、これは学界の研究レベルからみて、ないものねだりかもしれない。

 


「躍動する人物と言葉の魅力」山内昌之    

 三浦佑之氏が注釈と現代語訳を試みた『口語訳古事記[完全版]』は、日本人の読書リストに古典を復活させる上で大きな役割を果たすにちがいない。とにかく読んでいてむやみに面白いのだ。たしかに、三浦氏の訳には最初は違和感をおぼえる人もいるかもしれない、何しろ次のような塩梅で訳されるのだから。「今の御世(みよ)の伝えは、筆(ふみて)を使(つこ)うて、漢(から)渡りの字(な)で書き記すのよのう。お前たちも使うておろうが、筆をのう。たしかに、あれはいいよのう。覚えるという苦しみがないでのう」。
 しかし、いちど三浦氏の文体の不思議なリズムに乗ると、日本誕生の物語があざやかによみがえる。それどころか、さながら眼前に歴史と神話の人物たちが活きているかのように躍動するのだ。第一回の角川財団学芸賞にふさわしい独創的な作品である。
 さて、連句が静かなブームを呼んでいるらしい。共同製作としての性格、作者と読者のダイナミックな変換、詩想を次々と変化させてゆく独特のスタイル。これらは、作者と読者をつなぐ共通の言葉のあり方を大きく逸脱していく文学の一ジャンルである。
 時に現代詩に立ち返りながら言葉との出会いを楽しむ著者の宮脇真彦氏は、本当に俳諧と連句が好きでたまらないのだろう。その素直な視線が随所に感じられる作品として高い評価を受けたのである。
 一部に荒削りな箇所も見られるにせよ、本書の読者たちは、芭蕉を素材に論じられる連句の魅力を十二分に堪能するにちがいない。そのために、学芸賞本賞にはやや届かなかったにせよ、委員一同はとくに奨励賞として推すことにしたのである。

 


「二つの発見」山折哲雄   

 三浦佑之さんのこんどの仕事は、『古事記』の「口語訳」となっているが、むしろ「語り訳」といった方がいい。たんなる「共通語」に訳したのではないからである。いってみれば、「語りことば」に訳してみたわけだ。そこが新鮮な面白さをかもし出す大切な原因になっている。たとえば『源氏物語』を、京ことばのリズムにのせて語りおろすときのような効果をあげたのであると思う。
 もう一つ、それが「古老」の語りになっているところが見逃しがたい発見である。なぜなら、わが国の文学伝統においては、オキナ(翁)こそがカミ(神)の似姿とみなされていたからだ。神話の語り手としてオキナほど似つかわしい存在はなかったのである。そのような工夫に到達するために費された労苦のあとが、巻末の解説や脚注の研究史的こぼれ話のなかににじみ出ている。神代・人代に登場する人物たちの詳細な系図群が巧みに連結されていて、それを睨んでいるだけで読む者の想像力がいつのまにか刺激されるような工合にもなっている。訳者の顔はいかにも涼しげにみえるのだが、けっこう苦心惨憺しているのだろう。
 宮脇真彦さんの『芭蕉の方法』は、言葉の錬金術師としての芭蕉の居場所をまことに沈着な筆致で浮き彫りにした作品である。連句という高級な言葉選びの花園で、言葉と言葉がぶつかり合い、火花を散らし、そして新奇なイメージをつむぎ出していくありさまをダイナミックに論じているところが目を惹く。だが、その芭蕉の方法を批評する作者自身の言葉を、もうすこしききたかった。今後のさらなる研鑽を願って、今回は奨励賞ということになったのである。


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