角川財団学芸賞

  • 2022.01.12更新
    第19回 選考結果について
角川財団学芸賞とは 受賞者一覧

受賞のことば・選評

第4回角川財団学芸賞受賞
『昭和短歌の精神史』(本阿弥書店刊)
三枝昻之
【受賞者略歴】
三枝昻之(さいぐさ たかゆき)
1944年、山梨県生まれ。早稲田大学時代に早稲田短歌会で活動。卒業後、同人誌「反措定」を創刊。92年に歌誌「りとむ」を創刊、発行人。歌集に『水の覇権』『農鳥』『天目』ほか。歌書に『現代定型論』『うたの水脈』『前川佐美雄』『歌人の原風景』ほか、共著に『昭和短歌の再検討』、共編著に『短歌俳句川柳の101年』『短歌名言辞典』ほか。

受賞のことば

三枝昻之

 昭和を代表する歌人前川佐美雄の評伝を書く中で、私は既存の短歌史が持っている歪みを痛感し、短歌史の組み立て直しを模索してきました。その手探りが今回の『昭和短歌の精神史』を支えています。しかし私は研究者ではありませんから、意識したのは、短歌作品一首一首にていねいに立ち止まること、歌を通して歌人たちの内面と時代の願いを浮き彫りにすること、でした。この一冊が昭和短歌の物語といった色彩を帯びているのは、戦中戦後にタイムスリップして、現場の実況中継を心がけた、その反映と感じております。
 短歌の動きに絞ったこの狭い作業に、角川財団学芸賞がスポットを当ててくださったことは本当に予想外のことであり、短歌の評論と研究のためにも感慨深いものがあります。選考委員の先生方と財団の方々に感謝申し上げるとともに、短歌のためにも今後の微力を尽くしたいと思います。

選評(敬称略/50音順)

「心のスナップショット」鹿島 茂

 写真で綴る昭和史というものがよくありますが、それはあくまで新聞社や通信社のカメラマンの撮った報道写真を集めたもの。おのずから一定の限界があり、庶民の本当の生活感情を掬いあげたものとはいえません。もし、日本中の家庭に保存されているポジ・プリントをかき集めて、そこから優れた写真を選び出して一巻となしたら、まったく違う視点からの昭和史が可能になるはず……。
 本書は右のような私の夢想を、有名歌人から無名歌人に至る短歌を丹念に拾い集め、時代相で括ることで実現したものといえます。短歌というのは、芸術の域に達するのは難しくとも、ある程度の自己実現なら誰にでも可能という意味でカメラと同じポジションにあるからです。
 実際、既存の文学作品から構成した昭和史とはまったく違う、斬新な角度からの日本人の心性史ができあがりました。日本人にとって、短歌というものが、心のスナップショットであることをあらためて認識させられた次第です。昭和という時代の激流に巻き込まれ、なんとか踏みとどまろうと欲しながら、結局、流され、吞み込まれていった日本人の生活感情が、かつてこれほどまでに生々しく、しかも痛切なかたちで再構成されたことはないでしょう。アナール派の目指す歴史と同じものがそこにはあります。
 すでに三つの賞を受賞した作品とはいえ、その圧倒的なレベルゆえに、これに賞を与えないわけにはいかない、審査員全員がそんな気持ちになる作品でした。

 


姜 尚中

 読み進むうちにさざ波のように押し寄せる圧倒的な感慨に言葉を失う。そんな経験を久しぶりに味わうことができた。
 短歌を通じてこれほど見事に昭和史を語り尽くした本を、わたしは知らない。伝記や日記、個人史や社会史、政治史や軍事史、民衆史や国際政治史など、夥しい数の在野の、そして学問的な研究や記録が、昭和について語ってきた。だが、戦争期と占領期を通して有名、無名の人々が短歌にこめた魂を通じて、昭和史とは何であったのかを浮き彫りにしている点で、本書はひときわ高くそびえ立つモニュメンタルな意義を有している。
 戦場で銃後で、そして占領期の混乱の中で、人々は何を考え、どう感じ、何を表現しようとしたのか。その内奥に仕舞い込まれた一人一人の魂を、激動の歴史の荒波から掬い上げ、そのかけがえのない「墓碑銘」を今に蘇らせている点で、三枝氏の不屈の意志と技量には並々ならぬものがある。
 本書が何よりも意義深いのは、アカデミックな学問研究者でなくても、同時代史への深い洞察と弛まぬ研鑽を通じて、高い水準の学芸書を世に問うことができることを実証したことである。それは、現在の細分化され、専門家された人文・社会科学的な研究に対して新しい刺激を与えることになるとともに、学芸や学術の根っこにあるべきものが何であるのかを、問い糾す契機にもなるのではないか。
 この意味で、今回の本書の受賞は時宜にかなっていると言える。本書に刺激を受けて、歴史と文化、社会に関するより骨太の学芸書が世に出ることを期待したい。

 


「昭和という時代に向き合った歌人」福原義春    

 今や戦後生まれの人たちの数は七割を超えた。昭和という激動の時代の記憶はもう忘れ去られようとしている。歴史に残された出来事の記録を消すことは出来ないが、戦中に生きた人々の辿った思想の軌跡は証言されたものでしか知り得なくなった。
 開戦から戦中、そして戦後の人民短歌に至る短歌を克明に編み、読み解くことで、作者たちの精神がどのように歴史と対峙していたかを描く深みのある作品となった。
 戦争の開始とともに戦闘に加わり、或いは傷ついた身での歌が残されている。単純に戦争を讃美するのではなく、真摯に任務を歌に詠み、また控え目だが熱い恋の歌が詠まれ、有名・無名を問わず歌人たちの作品の重みによって、彼らが訴えるものが何であるかをつまびらかにした。
 戦争と敗戦という極限の状態に身を置きながら、短歌の形式を借りて情況と自らの思想を表現したアンソロジーというだけでもすぐれた仕事であろう。更には作者の内面まで考察する深さによって、短歌という限られた世界から普遍的な昭和前期に生きた人々の精神史に昇華している。圧倒的な厚みに読後の充実感を覚えた。
 角川財団学芸賞が四年前に制定されたのは、〈アカデミズムの成果をひろく読書人につたえ、知の歓びを共有する場をつくりたいという願いから〉であると承知している。しかし逆に短歌の作品を歴史的に分析する大作業によって、アカデミズムの世界で論じられる如くに、現代日本人が辿った心の軌跡に到達することが示されたと云えよう。このような方法が別な世界でも成立する可能性を考えさせるということでも、この作品の意義は大きい。

 


「この仕事を推す」山折哲雄    

 『昭和短歌の精神史』は短歌の領分をはるかに越えて、昭和という時代をベースにした深みのある精神史の域にとどいているのではないか。その点でこれは、たんに短歌界にとどまらない、その枠組をふみ破っている仕事といっていい。昭和時代における思想的課題を鋭い形でつきつけているからだ。
 昭和というのは、戦争、敗戦、戦後にわたる危機の時代だった。そこに登場するさまざまなタイプの歌人たちが、その危機をどのように受けとめ、またどのように挫折しあるいはそれを克服していったか、その精神のドラマがかれらの歌を通して克明にあとづけられている。「時局便乗」型の人間(歌人)は戦中にも戦後にもいた、開戦歌や敗戦歌には駄作もあれば良い作品もある、といった印象的な指摘がそこからつむぎ出されていく。
 著者は本書の仕事に着手して十年の歳月をかけたという。そのためであろうか、戦争期から戦後にかけて活躍する数多くの人間群像を舞台にのせ、随所に歌を盛りこみつつ一つの物語世界をつくりあげた手法は鮮やかである。一瞬、『源氏物語』の本歌取りかとも思わせる「兵士物語」にもみえてきたのであるから面白い。佐佐木信綱の敗戦歌を論じてはるか『万葉集』に言及している息の長さが、そのような感興を私に強いたのかもしれない。
 いずれにしろ、周囲の歌壇からは魂をゆさぶる叙情のひびきがほとんどきかれなくなっている今日、本書のような作品によって歌の調べの正統な源流を探ることができるようになったことが、何よりも嬉しいのである。


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