大塚英志
学生の頃の専攻こそ柳田民俗学ですが、大学を出てからは専らサブカルチャーの創り手として生きてきました。あまつさえ、柳田國男や折口信夫を狂言回しとする伝奇まんがの原作者でさえある身としては、アカデミズムの成果を広く世に伝えるという本賞の主旨を鑑みたとき、どうにも場違いな気がしてひたすら恐縮するのみです。まして、「あとがき」にも記したように去年から今年にかけてあたふたと書物の形にした一群の柳田論は学生時代に民俗学の手ほどきを受けた千葉徳爾先生へのようやくのレポート提出のようなもので、何を今更と、とうに鬼籍に入られた先生は苦笑なさっているに違いないと思うと冷や汗さえ出てきます。それでもこうやって思わぬ形で誉めていただけると、今は教師でもあるぼくとしてはどんなに遅れても宿題やレポートは出した方がいい、と自分の学生に説教する際、少しだけ説得力がともないそうで、何よりその点で感謝しています。しかし正直に言えば千葉徳爾先生の宿題はまだいくつも残っていて、これからものらりくらりと出来の悪い学生はレポートを書き続けることになると思います。
「「民俗学」を民俗学するメタ批判」鹿島 茂
「ファミリーロマンス」、すなわち子供が自分は親の子供ではないと思いこむ捨て子幻想や来歴否定衝動こそが近代小説誕生の主要動機であると喝破したのはマルト・ロベールですが、著者は、民俗学もこのファミリーロマンスから生まれたという仮説を立てます。柳田國男にも折口信夫にもこの傾向が強いとにらんだからです。著者は補助線としてラフカディオ・ハーンを召喚します。ハーンは自分にはロマ民族の血が流れており、その血が自分を日本へと結びつけたと信じていた節があるからです。
つまり、著者は、柳田國男とハーンを重ね合わせることで「この国の民俗学が来歴否定者によって創出されてきた」という仮説を証明しようと目論むわけですが、この「重ね合わせ」の方法とは、民間伝承を数多く集めることでその重なりあう特徴を抽出する柳田國男の「重出立証法」にほかなりません。柳田國男が民話を重ね合わせて「日本人の共通性としての『常民』を前面に押し出そう」と試みたのと同じように、著者は批判の対象である民俗学の方法論(重出立証法)を使って民俗学の本質を抽出しようとしているかに見えます。
大胆でスリリングな試みですが、記述が奔放で、証明の過程に学問的な堅実さが欠けていることが選考委員の間で議論の対象となりました。しかし、そうした欠陥を補ってあまりある着想力と膂力を評価する意見が多数を占め、授賞へと至りました。
民俗学を民俗学する。とにかく、根源的なメタ批判であることは確かなのです。
姜 尚中
民俗学が、その起源においてファミリーロマンスに属する神話や民話の説話的構造をとっていたのは、どうしてなのか。このスリリングな問いかけを、民俗学者の来歴否認と血統妄想的な物語の構造によって明らかにしようとする本書は、これまでの柳田民俗学やラフカディオ・ハーンの研究に新しい一ページを加える傑作として高く評価できる。
何よりもハーンを民俗学者として再評価し、ハーンの来歴とその作品を柳田のそれらと対比しながら、ふたりの到着点の違いを、前者の母性偏向への回帰と後者の「社会」の発見へと収斂させていく見事な展開に魅せられた次第である。
英雄神話的なファミリーロマンスやダーウィン的な進化論的言説、「無意識」と民俗学のナショナリズム的言説の構造、「探偵という方法」など、数多くのブリリアントな着想に彩られた本書は、才気煥発な評論の醍醐味に溢れている。
本書は、民俗学の言説の成り立ちが、近代というものに否応なしに孕まれている不安によって強く規定されている側面を浮かび上がらせ、それこそ、探偵小説の謎解きを読むような知的スリルを味わうことができた。
福原義春
およそ民俗学の方法とは遠く離れた場所にいる私だが、読むうちに次第に次なる展開を期待する気持ちになり、読み了えても何故か惹かれるものが残った。
それが一体何であったのか。作品に民俗学的な色彩を色濃くとり入れたハーンと、柳田・折口の二人の民俗学者の生い立ちと妄想と願望が渾然となった共通点を執拗に追い求めて、そこに民俗学の出発点を探ろうとした過程には、大げさに云ってスリリングなまでの面白さがある。
この本の中で教えられたのは、かれらの伝えた説話のファミリーロマンス的な魅力、写真の重ね撮りをアナロジーとしての人々の重なり合わせた意識からの国家論に至る考察などであった。また、人種論や進化論に拡張するには更に稿を改める機会を待ちたい。
考えてみると、生い立ちのコンプレックスや幼児体験の数々がプラス・マイナスのいずれであっても、人間一生の生き方を定めることは余りに多いのだ。本書に取り上げた三人のケースでも、己れは何処から来たか、我とは誰なのか、のごく普遍的な問いに一生かかって答え、その道程から必然的に民俗学が生まれて育ったことを知る。
そう考えると、ハーンにはハーン独自の民俗史観が成立し、柳田・折口の夫々の民俗学が形成されるのは当然のことだ。そして柳田門下の千葉徳爾の講義を聴いた学生の中から、著者が千葉の問いかけに漸く答えを提出したと考えてみると、学問の世界における師の思想の大切さをあらめて思う。柳田のあとに歩んだ千葉は二〇〇一年に没したが、今や次の世代の人が育ちつつあることを喜ぶ。
「論争を期待する」山折哲雄
親に捨てられた、という幻想がどこからくるのか。その謎のような迷路の中から、いくつかの意表を衝く鍵概念を探りあてて柳田國男とラフカディオ・ハーン(小泉八雲)を結びつけていく発想と手際が、とても面白かった。柳田民俗学の原像と小泉八雲の誌的な世界が肌を接し、火花を散らす内面のドラマが丹念につむぎだされていくのである。われわれの社会がすでに子捨て親捨ての瀬戸際に立たされている危うい現在、このようなテーマが不気味なリアリティーをもって迫ってくるようでもある。
親に捨てられたという幻想が、究極的には、柳田がくり返し主張していた民俗の「心意」現象の奥座敷をつきとめる急所であった、ということがしだいに明らかにされていくところも見どころの一つである。
大塚英志氏は、民俗学者・千葉徳爾の弟子を名乗り、千葉民俗学から多くのものを学んできたことを公言してはばからない。千葉徳爾氏の学問は、日本民俗学の世界では正統とみなされてはいないにもかかわらず、異様な光を放ちつづけていると評者などはひそかに思っているのであるが、その千葉民俗学の魅力に惹きつけられた大塚氏は、ここに師の知的系譜を継承しつつ、われわれの思いもしなかった新たな展望をこんどの作品を通して切り開くことができたといえるのではないだろうか。
これまでの民俗学が、フィールドワークの壁や実証主義のワナにはまって身動きがとれなくなっている状況をふり返るとき、氏のやろうとしている仕事にはその呪縛を解き放って自由にはばたこうとしている勢いが感じられる。ともかくもこれを機に、論争がまきおこることを期待してやまないのである。