角川財団学芸賞

  • 2022.01.12更新
    第19回 選考結果について
角川財団学芸賞とは 受賞者一覧

受賞のことば・選評

第6回角川財団学芸賞受賞
『編集者 国木田独歩の時代』(角川学芸出版刊)
黒岩比佐子
【受賞者略歴】
黒岩比佐子(くろいわ ひさこ)
1958年、東京生まれ。慶應義塾大学文学部国文学科卒業。PR会社勤務ののち、ノンフィクションライターに。2004年、『『食道楽』の人 村井弦斎』(岩波書店)で第26回サントリー学芸賞[社会・風俗部門]受賞。著書に『音のない記憶――ろうあの天才写真家 井上孝治の生涯』(文藝春秋)、『伝書鳩――もうひとつのIT』(文藝春秋)、『日露戦争 勝利のあとの誤算』(文藝春秋)など。

受賞のことば

黒岩比佐子

 「人間を書きたい」という思いに駆られて、最初の評伝を上梓したのは九年前でした。さらに、近代ジャーナリズムやメディアというテーマが見えてきて、明治の雑誌の面白さに引き込まれ、出会ったのが「編集者としての国木田独歩」です。独歩は日本初の本格的グラフ誌『近事画報』や、現在も存続する『婦人画報』など種々の雑誌を創刊しています。彼が興した独歩社は「自由の国」と称され、若い文士や画家たちが集う熱気あふれるサロンのような場でした。評伝は取り上げる人物が主役で、書き手は裏方にすぎません。目の前に浮かび上がった独歩があまりにも魅力的だったので、その魅力をいかに引き出し、どう読者に伝えればいいか、ライターとしての責任を強く感じました。可能な限り資料を集め、取材をして、夢中で書き上げた一冊です。今年は、国木田独歩没後百年。この受賞の喜びを亡き独歩とともに分かち合いたいと思います。

選評(敬称略/50音順)

「研究はスリリングであるべし」鹿島 茂

 力作ぞろいの候補の中で、最も興味深く読んだのは『子宝と子返し』です。現代でさえ人口減少の真の原因がつかめないでいるのに、太田さんは江戸時代のそれを究明し、そこから「子ども観」を抽出しようというのですから、これに注目せざるをえません。太田さんは、東北と畿内に奇跡的に残されていた裕福な農民の日記を心性史の方法によって読み解きながら、これに村の宗門人別改帳の人口動態学的な分析をからめて研究を進めていきます。そして、「子返し(間引き)」は「家」を存続させながら、家督の分割を避けようとする農民の冷徹な人口コントロール法であっても、それは「子宝」として子どもを慈しむ感情とは必ずしも矛盾しないという事実を明らかにしたのです。子どもに深い愛情を注ぎながらも、さまざまな口実を設けて「子返し」する民衆のしたたかさが時代を超えて見えてくる様はスリリングでさえあります。
『編集者 国木田独歩の時代』は、「画報」の全盛時代の一翼がジャーナリスト精神旺盛な国木田独歩によって担われていたという知られざる事実を掘り起こしていたことが第一の功績ですが、それ以上に、当時すでに、雑誌ジャーナリズムを男子一生の仕事と見なしてこれに邁進する青年たちが存在していたことがある種の感動を誘います。
 総じて、文章力が優れ、それに加えて編集者の能力が生かされている作品でないと受賞には至らないことが明らかにされた選考結果でした。学問的著作であっても、本として出版される以上、読者というものが存在することを忘れてはなりません。

 


「知的刺激に満ちた豊作の年」姜 尚中

 本年度は、力作揃いの「豊作の年」だった。日本近・現代史にかかわる国民道徳の形成や皇国史観の問題に取り組んだ野心的な著作や近世日本とポルトガル・スペインとの出会いに新しい視点を切り開いた学術的な労作、さらに戦後日本のユース・サブカルチャーにカルチュラルスタディーズの立場から分析を加えた文化研究など、実にスリリングで知的刺激に満ちていた。
 ただ、そうした力作揃いの中で、受賞作の黒岩比佐子氏の『編集者 国木田独歩の時代』(角川学芸出版)と太田素子氏の『子宝と子返し――近世農村の家族生活と子育て』(藤原書店)は、とくに群を抜いていた。
 黒岩氏の著書は、自然主義作家、国木田独歩の編集者としての仕事に光を当て、日本初の本格的なグラフ誌などを手がけた独歩の知られざる側面を、同時代の多彩な人物交流を交えて鮮やかに描き出した傑作である。丹念な資料の発掘や読みやすい平易な文章など、学芸賞にふさわしい作品である。
 太田氏の著書は、近世農村社会における家意識と子育ての習俗を、貴重な文献、資料の発掘、読解を通じて実証的に明らかにした学術研究であり、著者の長年にわたる研鑽の見事な成果と言える。とくに、出生制限に対する農民の意識を、社会の単位としての「家」の特別な意識から明らかにしている点は注目に値する。
 こうして本年度は、ふたつの著書が受賞作になったが、両者とも甲乙つけがたく、学芸賞に輝いた次第である。

 


「なぜ二作品が選ばれたか」福原義春    

 まだ数日しか経っていないので、第六回角川財団学芸賞の選考会の興奮が冷めていない。と云うのは、前回、前々回ともに候補作品の中から、どちらかと云うとすんなりと学芸賞が決まったのだった。それと同時に、一次審査の対象となったいわば母集団の選択が十分であったのか、或いは一次の選考はどのようにして吟味したのかといった疑問が提起されていたのだった。
 それに対する答えであるのか、それとも収穫の多い年廻りであったのか判らないが、今回一次の選考を通過して最終の選考会に提示された六つの作品は何れも劣らない水準の作品ばかりで、当初から選考の難しさは予想されていた。
 これまでになかった議論の盛り上りの後に、最終選考には太田素子さんと黒岩比佐子さんの二作品が残り、この全くちがった世界の何れをとるかについての白熱した緊張が続いた。選考委員の誰もが、どちらを落とすという意見ではなくて、どちらを選ぶかという議論に集中した。見兼ねた角川理事長が、二作品同時授賞はいけませんか、とタオルを投げた。
 山折先生がこの賞の性格について述べられたことを私なりに理解すれば、学術的な内容を一般読者にも読みやすく提起するということだ。
 『編集者 国木田独歩の時代』は編集者・ジャーナリストとしての足蹟を論じ、女性yb写真師日野水ユキエの発見もあった。『子宝と子返し』は近世の人々が単なる間引きの概念を越える生命観に到達していたかも知れないという、大きな人口論へのアプローチから一歩踏み出した力作であった。

 


「女性の時代」山折哲雄    

 現代日本の家族は、いま激震に見舞われている。その家族の現在をどうしたらよいのか、太田素子氏の『子宝と子返し』は、その課題に正面から答えようとして発想された志の高い作品である。主題は近世の家族像の究明、キーワードは「家族の永続」をどう実現しようとしたのか、である。万葉の山上憶良以来の「子宝」思想と、人口調節のための堕胎(子返し)習俗との葛藤の歴史を、手堅い実証的な手法で浮き彫りにしている。
 黒岩比佐子氏の『編集者 国木田独歩の時代』は、独歩という人間を探偵に仕立てて同時代の多彩な人間群像をあぶり出し、独歩という作家を、たんなる文学史や文壇史の枠組から外の世界に引きずり出した意表をつく仕事である。雑誌を編集するとはつまり人間を編集することだ、という至極まっとうな考えに立つ作品であるのだが、資料の博捜とそれを整理する編集術はもちろんのこと、それらの断片的材料を一篇の物語に仕上げていく技が鮮やかで、読んでいて飽きがこない。
 惜しくも選にはもれたが、私には関口すみ子氏の『国民道徳とジェンダー』が面白かった。福沢諭吉・井上哲次郎・和辻哲郎の才幹をとりあげ、その道徳と反道徳のあわいに不敵なまなざしを注いでいるところが興味をそそる。だが、どうしたわけか、その書名「国民道徳とジェンダー」が、どう読みこんでも、本書の主題と作者自身の資質を裏切っているとしか思えなかった。出版戦略の失敗、と見るはひが目か。
 今回は、女性陣の力作が多く目についた。発想といい、力業の試みといい、女性の時代がひたひたと押し寄せている。


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