角川財団学芸賞

  • 2022.01.12更新
    第19回 選考結果について
角川財団学芸賞とは 受賞者一覧

受賞のことば・選評

第9回角川財団学芸賞受賞
『漢文と東アジア─訓読の文化圏』(岩波書店刊)
金 文京
【受賞者略歴】
金 文京(きん ぶんきょう)
1952年、東京都生まれ。韓国籍。京都大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。修士(文学)。慶應義塾大学文学部、同総合政策学部助教授を経て、現在、京都大学人文科学研究所教授、韓国成均館大学東アジア学術院碩座教授を兼任。著書に、『中国小説選』『三国志演義の世界』『三国志の世界――後漢三国時代』『能と京劇』など。

受賞のことば

金 文京

 東アジアのいわゆる漢字・漢文文化圏は、キリスト教文化圏、イスラム文化圏などとならぶ、世界でもっとも古い歴史をもつ文化圏のひとつである。しかしキリスト教文化圏、イスラム文化圏が、内部の対立をかかえながらも、ひとつの宗教を共有し、同一の文化圏としての自己認識を早くからもっていたのに対して、東アジアでは、西洋の衝撃が押し寄せる近代にいたるまで、同一の文化圏に属するという意識はほとんど存在せず、そこには多様な宗教と思想、およびそれらにもとづく複数の世界観が矛盾をはらみながら共存してきたと言ってよい。そのことは今日の東アジア問題にも複雑な陰影を投げかけているであろう。従来、漢字・漢文の研究と東アジアの国家観、世界観の問題が関係づけられることはまれであったと思える。拙著は、漢文の訓読を手掛かりとして、その背景にある国家観、世界観についてのひとつの仮説を提出したものである。このような仮説に対して、栄誉ある賞を授与された角川文化振興財団および審査員の方々の見識に敬意を表するとともに、心から感謝の意をささげたい。

選評

「越境がもたらした成果」 鹿島 茂

 勤務先の大学で比較文化学の発想法について講義しています。問いの発見は、比較の対象を時間的・空間的に広げてみることによって生まれるというのが要点ですが、しかし国境やジャンルを「越境」するといっても言語や知識の限界がありますから、だれにでもできるものではありません。金文京さんの『漢文と東アジア――訓読の文化圏』は、この越境を楽々と成し遂げて驚くべき仮説を打ち出した比較文化学のお手本のような本です。金さんによれば、日本独特のものと思われている漢文の訓読は日本・朝鮮・契丹など膠着語文化圏でも観察されるものであり、それぞれの国語による一種の注釈であるということになります。
 では、なにゆえに、こうした訓読が可能になったかといえば、そのノウハウが仏典漢訳においてすでに中国語に蓄積されていたからというのが第一の仮説です。梵語の発音を表音的に漢字で表す法則性や語順を転倒させたり順序を整えたりするための転倒記号や順序数字が作られていたので、こうした梵語→中国語の翻訳の過程を日本人や朝鮮人留学生が学ぶことが中国語→日本語・韓国語の翻訳、つまり漢文訓読のヒントになったのではないかというものです。なるほど、こう解釈すれば、万葉仮名や訓読記号の誕生も理解しやすくなります。金さんはここから、新羅には日本よりも早く仏典が伝わったので、漢文訓読も新羅で始まったのではないかと第二の仮説を展開します。さらに漢文が一種の化石語となったために、逆に中国周辺に様々な漢文文化圏を成立させたのではないかというが第三の仮説です。「漢文は実際の中国語の変化に関係なく、時空を超越した約束事によって書かれるものであった。だからこそ東アジアの共通言語となりえたのである」。規範的漢文がそれぞれの国の語法や語彙の影響で変化したいわゆる変体漢文はその好例で、ここから候文や福沢諭吉の通俗文が生まれ、それが朝鮮語や中国語にも影響を及ぼすことになったのです。
 訓読こそが東アジアの文化を創ったというスケールの大きな比較文化論の成功例ではないでしょうか。


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