西鄕信綱
古事記はなかなか人を寄せつけぬ難解な古典だといえそうです。どこかで「読むは難く、頁は暗し」という句を引いておきましたが、このことばはなおも私につきまとって来ます。てんやわんやをくり返し少しは汗を流して事にあたりはしたものの、ではどのように新しい読みを創造できたのかと問われると、心うなだれるほかありません。ですから、立派なこうした栄誉にあずかり真にありがたいと思うのですが、一抹の恐れの情がそこに交じるのを否めないでいます。
『古事記注釈』佐竹昭広
西郷氏の『古事記注釈』全四巻は、第一巻の序章「古事記を読む――〈読む〉ということについての覚書」に始まり、第四巻「後記――〈解釈〉についての覚書」をもって終わる。氏が一貫して『古事記』をいかに読み解くかという問題と対峙していたことを如実に示している。『古事記』は読み直されなければならない。読みの厳密性を確保するためには、「注釈」こそ最も重要な方法であるという強烈な自覚の上に、氏はあえて「注釈」という形式を選び取られた。本書がいわゆる注釈書とは截然と異なる所以である。
氏は『古事記』を終始、「広義の神話的なテキスト」として読む。これは氏の認識の出発点であると共に、「注釈」の全過程において検証された到達点でもあったと思われる。
関連諸学の直訳的適用を排し、あくまで『古事記』というテキストに即してその意味を解読すること、部分から全体へ、全体から部分へという往復運動、「意味の世界が暗いページを通していかに生成してくるかを読み解く」ことに全力が注がれた。
かくて『古事記』は、氏の「注釈」によってその意味論的世界を大きく更新されるに至った。注解の後に記された百五条に及ぶ「補考」もまた、創見と挑発的な問題提起に満ちている。