角川源義賞

第43回 受賞のことば・選評公開
  • 2022.01.12更新
    第43回 受賞のことば・選評公開
角川源義賞とは 受賞者一覧

受賞のことば・選評

第22回角川源義賞【国文学部門】受賞
『服部南郭伝攷』(ぺりかん社刊)
日野龍夫
【受賞者略歴】
日野龍夫(ひの たつお)
1940年、東京都生まれ。京都大学文学部卒業。同大学院博士課程修了。京都大学文学部助教授を経て、同教授。文学博士。著書に、『宣長と秋成―近世中期文学の研究』(筑摩書房)、『新日本古典文学大系 江戸繁盛記・柳橋新誌』(校注、岩波書店)など。

受賞のことば

日野龍夫

 服部南郭の伝記の研究の意義について、私なりに説明することはもちろん出来ます。しかし突きつめたところ、私は、南郭が好きだったから、調べることが面白かったから、調べてきただけのことです。そろそろ還暦だし、ここらで一くぎり、と思ってまとめた本が角川源義賞受賞という光栄に浴し、何という幸せなことかと思います。ご関係の方々皆様に、心からお礼を申し上げます。私の恩師の野間光辰先生は、西鶴の伝記の研究で不滅の業績を残された方です。先生のあの峻厳な学問の前では、私のやってきたことなど児戯同然ですが、それでもなおこの栄誉は先生のお教えの賜物と思っております。
 残された時間は、注釈などの形で、南郭その他の詩人の作品を楽しむような仕事をしたいものと考えています。

選評

『服部南郭伝攷』 尾形 仂

 十八世紀の後半、近世日本の文芸界に宣長・秋成・蕪村・南畝らの活躍する、元禄期に次ぐ第二の黄金時代をもたらしたのは、荻生徂徠の古文辞学の提唱である。徂徠は“道”を中国古代の理想的君主である先王の作った政治的諸制度であると規定し、古代の人情と制度を正しく理解するために、古語の学習を説き、古語による詩文の実作を奨励した。このことは、文事をば人生にとって第二義的なものとして疎外し、勧善懲悪の具ないし消閑のすさび以上の価値を認めてこなかったわが国の文学思潮の上では、画期的なできごとであったといっていい。そこからやがて儒生でありながら経世済民の志を絶って詩文の世界に生き、詩業をもって身を立てようとする生きかたが生まれる。服部南郭はまさにその典型で、文人趣味の時代を先導した。
 本書は、その南郭の生涯を編年体に詳述したもので、「文人の成立―服部南郭の前半生」「服部南郭年譜考証」「晩年の服部南郭」の三部より成り、徂徠門の客分で、“文人”以前ともいうべき存在であった入江若水の「入江若水伝資料」を添える。早大図書館蔵の服部文庫や南郭の後裔のもとに伝存する文書類をはじめ諸方に散在する豊富な関係資料を博捜、三十年に及ぶ調査と考究のもとに編まれた詳細な編年的記述は、さながらその人が今眼前にあるかのごとき確かな実在感をもって南郭の生涯像を立ち上がらせている。
 特筆すべきは、それら豊富な資料の中から南郭の人間と時代とをとらえ出す洞察力の深さである。たとえば伝統的文雅を憧憬する由緒町人の家に育った南郭が歌人として柳沢吉保に召し抱えられ、旧套的な歌風を墨守したことが、徂徠との出逢いを通し形式重視の擬古典主義の詩に進む素地を培ったとの指摘や、柳沢家における芸者(伽衆)としての地位による鬱屈感がやがて詩文の世界に自己を解放する方向へ向かわせ、その人生は詩文の中に自己を虚構の人として作り上げてゆく過程であったとする論断、また同じ徂徠門で師の政治論を受け継いだ太宰春台との『蘐園録稿』をめぐる論争を、徂徠学派が経学と詩文とに分裂してゆく趨勢を象徴する事件と位置づけるなど、人間の生きかたと時代の歩みに向ける著者の深い洞察と円熟した筆力は、史伝としての文学的興趣をそそってやまない。
 近世文学史における転換期の中心人物の伝記考証を通じて、それを儒学と文学、和歌と漢詩、古文辞派の展開、漢詩文の盛行、文人意識の成立など、近世文学史における重要な問題の解明へと結びつけ、伝記的研究の一つの達成を示したものということができる。


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