角川源義賞

第43回 受賞のことば・選評公開
  • 2022.01.12更新
    第43回 受賞のことば・選評公開
角川源義賞とは 受賞者一覧

受賞のことば・選評

第31回角川源義賞【文学研究部門】受賞
『歌と詩のあいだ―和漢比較文学論攷』(岩波書店刊)
大谷雅夫
【受賞者略歴】
大谷雅夫(おおたに まさお)
1951年、大阪府生まれ。京都大学大学院文学研究科博士後期課程学修退学。大谷女子大学専任講師、京都府立大学助教授を経て、現在、京都大学文学部教授。共著に、『日本詩史 五山堂詩話』『萬葉集 一~四』(ともに新日本古典文学大系)、『漢詩文集』(新日本古典文学大系 明治編)など。

受賞のことば

大谷雅夫

 伊藤仁斎についての研究を生涯かけて一冊の本にしたいというのが、学生時代の夢でした。その仁斎研究は一向に実らぬまま、国文学の教師として教室で苦心惨憺話したことをまとめたこの本が、思いがけずも初めての著書となりました。しかし、この「歌と詩のあいだ」という書名は、三十年も前に書いた最初の仁斎論「恕とおもいやりとの間」をなぞるようなものですし、日本人が中国の思想と文学をどのように受容し、変容したかを具体的に見ることによって、和と漢のこころを対照しようとする方法も同じです。『萬葉集』から成島柳北まで、つまみ食いに食い散らしたような論文が並びましたが、和漢の比較によって自らのことばとこころを知ろうとするその点では、変わらぬ三つ子の魂の、一所懸命の仕事ではありました。それだけに受賞の喜びはひとしおです。ありがとうございました。

選評

「日中詩文への相対的な分析」鈴木日出男

 本書は、『万葉集』の古代から成島柳北の幕末に至る日本文学の多岐にわたる作品の、中国詩文との交渉を論じた一書である。とはいえ、中国から日本への一方的な影響関係として説くのではなく、むしろ二者の発想や表現の共通と相異とを相対的にとらえ、ひいては日本文学の独自性をさえ浮かびあがらせていく。作品叙述の勘どころを鋭くとらえ、日中文化間の抜きがたい課題に踏みこもうとする眼力が、本書の随所に光っている。
 その所論を一瞥してみよう。中国詩では「蟋蟀」の鳴き声を、秋を迎える人間の悲哀の情として聴いたのに対して、それに当たる「こほろぎ」を『万葉集』の歌人たちは秋の美しい声として楽しんだという。中国では「月」を眺めては遠くの友を憶い故郷を思うのに対して、わが古代の人々は懐旧の念をかみしめた。空間的と時間的との差異があるとする。また中国の詩境に学ぶことも多く、大伴旅人の「讃酒歌」も中国詩に多い独酌の境地に憧れた。そして『万葉集』に月を船に喩える表現が多いのも、海彼の発想に学んだとする。あるいは月光のなかで白いものが形を失うとする表現も唐詩の詠みぶりに習い、『古今集』以後の歌や十世紀前期の日本漢詩に多く見られる。そしてこの発想から、日本人は見ることから想像することをも学んだとする指摘は、きわめて重要であろう。他に、餞別の扇、形見の鏡、夢に現れる面影など、枚挙にいとまのないほど新見が盛られている。
 本書のすぐれた特徴を端的に示すべく、『狭衣物語』巻四の叙述分析をとりあげたい。桜のころ賀茂の斎院に源氏の宮を訪ねた狭衣大将が、若公達の蹴鞠に興ずるのを遠目に眺めて、「かうりたまかへつてあとなるはふかし」と独り口ずさんだ。この言葉は古来難解とされ、今日では本文を改訂して「桃李(たうり)先散りて後なるは深し」などと解することも多い。しかし本書では、『本朝麗藻』上巻所収の大江以言の詩句「行履珠(かうりたま)帰つて跡(あと)半ば深し」によるべきだとする。珠(たま)で飾った履(くつ)をはいて花の下を歩きまわった人々が帰り去った後、花びらが履跡に落ちてその半ばの深さを埋めた、という意。行楽の客が立ち去った後の庭の静けさのなかに、若公達にも交流できない狭衣大将の孤独さが強調される。この場面はじつは、『源氏物語』の六条院の蹴鞠で女三の宮を垣間見る青年柏木が、「花乱りがはしく散るめりや。桜は避(よ)きてこそ」と口ずさむのと二重写しに語られていて、それによってかえって柏木ならざる狭衣大将の、道心をもかかえこむ反省的な孤心がきわだってくる。以言の詩句「行履珠...」の口ずさみは、こうした大将の心象風景を鮮やかに描いたことになる。この指摘は、白楽天の名高い詩句をふまえたこの物語の冒頭「少年の春惜しめども...」ともひびきあって、『源氏物語』以後の新しい物語の特徴の一端を明らかにしてくれるのである。
 このように日中間の詩文を相対的にとらえ、さらに日本文学の本性に迫ろうとする本書は、まことに貴重な研究業績である。


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