揖斐 高
わたしの「研究」生活は、江戸時代後期の埋もれた一漢詩人との偶然的な出会いから始まりましたが、それからもう四十年近くの歳月が経ちました。深く掘るためには広く掘れとよく言われます。深くなったかどうかは分かりませんが、わたしの狭かった「研究」も四十年の間には少しずつ広がっていきました。そしてその過程において、文学における「近世」という時代はどう捉えればよいのか、「文学」とはどのような言語行為を指すのか、「研究論文」とはいったい何なのか、というような根源的な問題が気になり始めました。本書はそのような大きな問題を意識しながら、折々に個別的な主題を検討してきた、ささやかな「研究論文」集です。根源的な問題については何の結論も出せず、辺境的な作品や作者ばかりに関わっている本書を、今回授賞対象として認めてくださったことに対し、厚くお礼申し上げます。ありがとうございました。
「徳川文化の内奥の手ざわり」芳賀 徹
文学の研究書とは、対象とする作家・作品との親密な交渉をかさねて、作品とその周辺に深く立ち入り、文章の味わいを吟味して、ついにその読解の奥から作者の人間像も、彼の生きた土地や時代の雰囲気も、彷彿として迫ってくるようなものであって欲しい。さらに願わくは、その研究書自体が独自のしなやかな文章で書かれていて読書のよろこびを与え、これを読むうちに当の研究対象たる作品をぜひ手にとって読みたくなり、あらためて文学のゆたかさへの敬愛の念が湧いてくるような、そのような書物でもあって欲しい。
これはいまどき高望みにすぎるだろうか。あまりにもまっとうで、そのため少々古風にも思われる願いであろうか。
いささかもそうではなかった。揖斐高氏の『近世文学の境界』は右の私たちの願いを十分に満たしてくれた上に、徳川の文化史への手応えたしかな新たな眺望をさえ開いてくれるのである。大著『江戸詩歌論』(一九九八)以来の揖斐氏の徳川文藝、とくに漢詩文との長い深いそして広いつきあいのなかから熟成された考察と共感が、二十数篇の論文一つ一つに実にゆたかに盛られている。少々古風な態度であるゆえに、かえって颯爽として香気さえただよわせているとも言おうか。
たとえば本書冒頭の「林家の存立――林鵞峰の『一能子伝』をめぐって」を見よ。林羅山のあとを継いで幕府儒官として徳川家光、家綱に仕えた鵞峰は、五十歳の年(一六六七)の歳未の一夜、漢文体の自伝「一能子伝」を書いた。自分には執政の能力も、武術の力も、権力にとりいって利を得る能力も、流行の藝事に遊ぶ能力もない。ただ文章・学術の能力一つによって『本朝通鑑』などの修史の事業を完遂する以外に自己存立の理由はない、との意味で「一能子」なる人物に仮託して語った自叙の書である。それ自体きわめて興味深いが、揖斐氏はさらに同時期の鵞峰の漢文日記を併せて読みといて、この儒者の自省と自己主張の裏には、同時代の幕閣の上司、また同僚たちの無見識、醜行、だらしなさに対する憤懣と痛烈な諷諫の意があり、さらには一年前に長子春信を病死させたことへの癒しがたい悲しみと将来への不安、そしてそのなかからみずから奮起して「文字」(学問)というこの「一能」に生きようとの決意があったことを、いきいきと明らかにしてゆく。
手塩にかけて教育し仕官もさせた一人息子定吉が、壮年になって乱心し廃人となってゆくのを見つめていなければならなかった父大田南畝の沈黙の悲哀。金沢藩家老で詩人の横山致堂と、その先妻、後妻の二人の女性が交わした濃艶な愛情競べの漢詩の世界。――あげてゆけばきりがない。揖斐氏のこれらの論攷は、「近世文学」と一言にいう徳川日本の文学と文化が、実はこれらの詩人・文人・画家たちのそれぞれに強い個我のいとなみ、彼らの生への執着と自己探求と哀歓の表出によって満たされていたこと、それが一つの大きな分厚く重い実体をなしていたことを、あらためて実感させてくれる。著者みずからのいう「独特の手触り」をもって、徳川文明の内奥を追体験させてくれるのである。