角川源義賞

第43回 受賞のことば・選評公開
  • 2022.01.12更新
    第43回 受賞のことば・選評公開
角川源義賞とは 受賞者一覧

受賞のことば・選評

第35回角川源義賞【文学研究部門】受賞
『近代小説の表現機構』(岩波書店刊)
安藤 宏
【受賞者略歴】
安藤 宏(あんどう ひろし)
1958年、東京都生まれ。1982年、東京大学文学部を卒業し、1987年、同大学院人文科学研究科博士課程を中退。東京大学文学部助手、上智大学文学部専任講師、助教授を経て、現在、東京大学大学院人文社会系研究科教授。博士(文学)。著書に、『自意識の昭和文学―現象としての「私」』(至文堂、1994年)、『太宰治 弱さを演じるということ』(筑摩書房、2002年)ほかがある。

受賞のことば

安藤 宏

 このたびの授賞、大変ありがたく、光栄に存じております。
 私はこの三十年ほど、太宰治の作品を中心に細々と研究調査を続けて参りました。一方で太宰治の文学の特質を明らかにするためには、それ以外の作家・作品との比較検証を積み重ねていかねばならず、そのためには近代小説に関するトータルな展望を自分なりに持つ必要がある、ということを常々痛感しておりました。本書はそのような動機を秘めた仕事でもありましたので、当然のことながら、「わがまま」な、ラフな見取り図になっています。けれども「あとがき」にも記しましたように、要は最終的に何をとるか、という選択の問題であり、あえて巨視的な展望を打ち出してみたいという蛮勇に、本書の運命をゆだねてみたわけです。その過程でそれまで異なる引き出しにあると思い込んでいた作家や作品が、予想もしなかった形で繋がってくる瞬間に立ち会うことができたのは、たとえようのない快楽でもありました。「小さく入って大きく抜ける」のが研究の心構えだと、日頃学生たちに説いているにもかかわらず、誘惑に負けて先に大きく入ってしまいましたので、まだ未完成の太宰論を、今後どのようにまとめていくべきか、戸惑っている次第です。

選評

「壮大にして周到、柔軟な思考の所産」久保田 淳 

 小説は小説であるためにいかなる制約をみずからに課し、それと戦いながら豊饒な世界 を切り開いていったのかと発問し、表現自体の持つ必然性を追求して、文学史の動態の中 でこの疑問を解明しようと試みた、壮大かつ果敢な労作が、安藤宏氏の『近代小説の表現機構』である。「はじめに」において、芥川龍之介の『奉教人の死』を例に、作品中で語られる物語を小説にするために作者が用いた「よそおい」や「みぶり」といった手法を「表現機構」と名付け、これを分析概念の核に据えるとし、さらに文学を構成する三つの因子として「言葉」「人間」「状況」を挙げ、この三者の可変的な相互関係として作品の表現機構を読み解いていくという自身の方法論を述べる。そして本論は、視点、人称、言文一致体、写実主義や個人主義などの理念、自然という概念、私小説、文壇など、九章にわたる複眼的な観点から論じた第Ⅰ部と、『舞姫』『雁』『高野聖』『蒲団』『和解』『人間失格』『死霊』など、近代小説の結節点となった個々の作品を十三の章を設けて巨細に論じた第Ⅱ部との二部構成をとる。これによって「第I部で引き出した一般則を再び個別性に引き戻し、その有効性を検証し」(「はじめに」)ようと意図しているのである。
 そのための具体的な作業として、たとえば言文一致体小説における文末語「~た」に注目したり、敗戦に伴う占領下のGHQの検閲を経た文献の調査を踏まえて戦後文学を論じたりしている。第Ⅱ部で取り上げられる作品の選び方やこのような手堅い作業によって、本書は近代小説研究というきわめて学問的領域の所産を、研究者の閉じられた狭い集団から広く社会に開示し、近づけることに成功している。
 昨今の日本文学研究全体にわたって言えることであるが、近代文学研究においても、対象の膨大なこともあって、研究者の関心は個別化し、細分化された結果、全体像が見えにくくなっている。この現状から脱却しようとして、およそ百二十余年にわたる近代小説史に、細部の検証を積み重ね、柔軟な思考を貫きつつ、巨視的な展望をもたらそうとした問題意識や方法は、日本文学研究の全領域に快い刺激を与えるに違いない。


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