川平敏文
このたび拙著『徒然草の十七世紀──近世文芸思潮の形成』が、角川源義賞というたいへん名誉ある賞をいただくことになり、いろいろな感慨を抱いております。私の専門は近世文学ですが、私はたとえば芭蕉や西鶴といった「王道」ではなく、「徒然草の受容史」というやや変化球気味の方法で、近世文学の解明に取り組んで参りました。ただし変化球とはいっても、狙っていたのは常にストライクを取ること、すなわち近世文学の本質に迫ることであり、そのような方法を正当に認めていただけたことに、まずは嬉しさを感じました。
過去の本賞の受賞者を眺めてみますと、国文学研究を第一線で牽引されてきた先生方のお名前がずらりと並んでおり、壮観です。私の師である中野三敏先生もそのお一人で、第四回(一九八二年)に『戯作研究』によって受賞されております。先生はこのとき四十七歳でしたが、じつは私も今年四十七歳で、奇しくも同年齢での受賞となりました。とはいえ、むろん先生の四十七歳の時点に追いついたなどと思い上がっているわけではございません。むしろその逆で、同年齢時点における力量の差を改めて感じさせられ、慄然としているのです。襟を正さざるを得ません。このたびは本当にありがとうございました。
「明快な史的展望と達意の文章」 揖斐 高
日本文学の古典として広く知られている『徒然草』という作品が、古典として認知されるようになったのは、成立後三百年近くを経た近世になってからであったという。『徒然草』古典化の背景にはどのような問題が存在していたのか、そのことを慶長期から享保期に至る近世前期百年間に出版された『徒然草』注釈書約三十種の分析によって明らかにしようと試みたのが、川平敏文氏の『徒然草の十七世紀──近世文芸思潮の形成』である。
当初『徒然草』は堂上(どうじょう)和歌の世界で評価されてきたが、近世初期の慶長期になると儒者によって教訓的・道徳的な読みが示されるようになり、続く寛文期には当時流行した儒・仏・道の三教一致思想を背景に、心法(しんぽう)教訓書として読まれるようになった。しかし、元禄期を挿んだ十七世紀末頃から十八世紀前半期になると、それまでのような思想宣揚のための教訓的な読みではなく、『徒然草』述作の動機を当代社会に対する作者兼好の「憤り」に求めようとしたり、あるいは、多様性を具えた『徒然草』を「草紙」(読みもの)としてありのままに読もうとする傾向が現れたことによって、人情を主題とする文学作品として『徒然草』は捉え直されるようになっていった。これが川平氏の説く、近世前期における『徒然草』受容の歴史的変遷である。そしてその結果、教誡性・人情の肯定・市井の隠者的生き方・文章の妙という四つの特色を兼備する、「近世の「知」と「情」のスタンダード」を示す作品として『徒然草』の魅力が発掘・定着されることになり、日本文学の古典として認知されるに至ったというのである。
川平氏は近世前期の『徒然草』注釈書を、『徒然草』という原典に対する二次テキストとして取りあげるのではなく、その時代が生み出した「一箇の当代文芸、または当代思想の結晶」として分析することで、文学作品における古典というものが、後続する時代によって作り出されるものであったことを鮮やかに示してくれた。明快な史的展望と達意の文章を兼ね備えた本書は、日本文学研究者はもちろん、広く専門研究者以外の読者にも、研究論文を読む喜びというものを与えてくれる、すぐれた研究書になっている。