古井戸秀夫
『近世文芸 研究と評論』という同人誌に連載した論文「鶴屋南北」が本書の母体となりました。今から四十年前の昔、まだ大学院の学生でした。きっかけとなったのは下宿の火事でした。大晦日の夜に出火、元旦にそれを知りました。実家で屠蘇を祝ったあと駆け付けて、部屋の中に残されたノートやカードの整理に当たりました。大きな転機になったのでしょう、このときから論文に注を付けることを止めました。必要なことは、すべて本文に書く。書いても間延びしない、そのための工夫をするようになりました。罹災の体験は、わたくしの研究の原点になりました。
評伝のはじまりが押上の春慶寺になったのは、小林秀雄の『本居宣長』を真似たものでした。小林秀雄が鎌倉から伊勢に向かったように、面影橋から都電を乗り継いで押上に着くと、雨は霙になっていました。春慶寺から照光院、心行寺とゆかりの墓を訪ねることからはじまる評伝になりました。
このたびの受賞に際し、あれこれと思い出にふけっていると、ふと、そのころ呪文のように呟いていた小林秀雄の詞がよみがえってきました。
「ああ、去年の雪何処に在りや。いや、いや、そんなところに落ちこんではいけない」(「当麻」)
「混沌として流動する江戸歌舞伎の現場」揖斐 高
授賞作は「評伝」と銘打たれているが、一人の人間の生涯を批評的に再現するのが通常の「評伝」であるならば、本書はいわゆる「評伝」の枠には収まっていない。本書の主題が江戸時代後期の歌舞伎狂言作者四世鶴屋南北であることはその通りにしても、著者は南北の生涯を編年的に復原しようとしたわけではなく、「南北を取り巻いて渦巻く「畸人」たちの群像ドラマ」(「はじめに」)を描こうとした。つまり、本書において南北はいわば台風の目のような虚点として設定され、その虚の中心点を成り立たしめている諸々の事実を網羅的に明るみに出し組み合わせることによって、著者は鶴屋南北という狂言作者の在り方とその作品の特色をあぶり出そうと試みたのである。
上下二巻、二段組み一六二九頁という本書の内容は実に多岐に渉っている。江戸歌舞伎の興行の場である劇場の盛衰と交替、座元・帳元・座頭・役者・狂言作者などの役割分担と相互関係、役者や狂言作者の名跡の変化、歌舞伎界の人間関係やゴシップ、芝居の演出や役者の芸評、江戸歌舞伎と上方歌舞伎との交流、歌舞伎と戯作文学あるいは俳諧との関わり、さらには大名たちの芝居への関与の実態など、混沌として流動する江戸歌舞伎の現場がどのようなものであり、その現場から歌舞伎作品がどのようにして作られ上演されていったのかが、膨大な資料をもとに明らかにされていくのである。
南北の代表作は南北の才能のみによって生み出されたわけではなかった。複雑な筋立ての巧みな処理は狂言作者金井三笑を受け継ぐものであったこと、「おかしみの狂言」の様々な趣向は道化方の役者大谷徳次との提携によって生み出されたこと、怪談狂言における新機軸の試みには歌舞伎役者尾上松助との連携があったこと、さらに南北の「生世話」狂言は歌舞伎役者五代目松本幸四郎との提携の期間に確立されたものであったことなどが、余すところなく明らかにされている。江戸歌舞伎の在り方を徹頭徹尾その現場に拘りながら詳密に解明し得たことは本書の意義として最も高く評価されるところである。角川源義賞にふさわしい労作の誕生である。