北野 慶
奇しくも本賞と同じ日に発表された今年のノーベル文学賞の受賞者ボブ・ディランが、ある歌について「霊がぼくを選んであの歌を書かせた」と語ったことがあるそうです。天才アーティストに擬する気は毛頭ありませんが、『亡国記』を書き終えたとき、実は私も、「私以外のなにものかが私を選んでこの小説を書かせた」という気持ちを抱いたものです。
3・11は私にとって、それまでの人生観・世界観はおろか、生活そのものまで変えるほどの人生の一大事でした。そしてその後、紆余曲折を経て、ほぼ十年ぶりに、それも全く新しい分野の小説を書くことに私を向かわせました。その結果が、本賞受賞という僥倖につながったことは、私を大いに励ましてくれます。
しかし同時に、フクシマがなければこの作品がなかったこと、今もこれからもフクシマの被害が続いていくこと、そしてこの国に原発が存在する限り、私たちは常に「第二のフクシマ」の危険性と隣り合わせに暮らしていかねばならないことを思うとき、単純に本賞の受賞を喜んでばかりはいられない、いえ、喜んでばかりいてはいけないとも思うのです。
「現在を過去と未来から問う」 片山善博
第三回城山三郎賞は選考委員三人の合意により、辺見庸さんの『増補版 1★9★3★7(イクミナ)』及び北野慶さんの『亡国記』の二作とした。いずれを選ぶか、突っ込んだ議論をしたものの、敢えて一作に絞り込むことなく二作を受賞作とするのがふさわしいとの結論に達した。
『増補版 1★9★3★7』は、多くの日本人がほとんど知らされることのなかった過去、父祖の時代の歴史の闇に光を当てている。例えばNHK朝の連続テレビ小説でよく登場するのが、大陸の戦地に赴く若者を涙で見送るシーンである。残された家族は空襲で焼け出され、食料を求めて買い出しを余儀なくされるなど塗炭の苦しみを味わう。戦争が終わりやつれた姿で若者が帰ってきて、みんなで力を合せて生活を再建することになる。
ここからは、戦争が日本人にいかに酷い犠牲を強いたか、そして平和がいかに尊いかを体感できる。ただ、この種のドラマでいつも語られないのが、ではこうした若者たちは戦地でいったいどんな生活を送り、何をしてきたかということである。本作品はそこに照準を合わせ、戦地を直接あるいは間接的に体験した人たちの「語り」を通じてあぶり出す。そこにはわれわれの知りたくないことがこれでもかというほどあらわにされる。でも、それを正視しなければ、同じ過ちを繰り返す可能性を拭えない。
一方、『亡国記』は三・一一東京電力福島第一原子力発電所過酷事故を閲した日本の近未来に光を当てる。あれからまだ五年ほどしかたっていないし、まだその後始末もできていないというのに、まるであれはたいしたことではなかったかのように原発は動き始めている。あんな事故はもう二度と起こるはずがないとの慢心もはっきりと見える。それが日本や世界に何をもたらすか。一つの絶望的な道行きを示したのがこの作品である。
『増補版 1★9★3★7』は過去を振り返ることで現在を質し、『亡国記』は将来を占うことで現在に迫る。いずれもが現在の政治や社会のあり方、われわれ日本人の振る舞いや考え方を厳しく問う作品である。是非、多くの方に読んでいただくよう願っている。