安田峰俊
中国との縁は、高校三年生だった二〇〇〇年二月に福建省に旅行してからのことです。それから中国語を学び、大学と大学院で中国史を専攻して──と、気づけば人生のちょうど半分、かの国と付き合ってきました。私の「中国人生」は、現地において「八九六四」こと六四天安門事件の記憶が風化しはじめ、急激な経済発展が進んだ時期と重なります。
中国共産党による統治体制の改革を凍結させた現在の中国は、数多くの社会矛盾を抱えてはいますが、反面で驚くほど強くて豊かな国になってしまいました。そんな中国を作り上げた契機が八九六四です。いま、過去の悲劇を知る中国人が事件をどう見ているのか、事件は歴史のなかでいかなる意味があったかという問いは、中国ルポライターとなった自分がかの国への渡航を重ねるなかでどんどん膨れ上がりました。もはやこの疑問の答えを調べずにはおれないと、取材をおこなった結果が本書です。
現在、世界中で民主主義への信頼が揺らいでいます。過去にはかなく散った民主化運動への複雑な思いを持ち続けつつも、現代の中国社会で生きている人たちの姿から、私たち日本人は自国の民主主義をどう考えればいいのか。本書はそんな思いで書いた作品です。
「木を見て森を見る ~一人ひとりの天安門事件」 片山善博
第五回城山三郎賞は、候補四作品の中から選考委員三人の合意により、安田峰俊さんの『八九六四── 「天安門事件」は再び起きるか』を受賞作とした。
八九六四とは一九八九年六月四日のこと。民主化を求めて天安門前広場に集まった学生や市民を人民解放軍が武力で鎮圧し、多数の死傷者を出した日である。
中国では天安門事件のことはタブーで、公に語ることはできない。そこで八九六四が隠語になったのだが、今ではこの数字すら禁句になっているという。
天安門事件のことは中国政治ないし政治史の文脈で取り上げられることが多い。それは、民衆による政治改革運動であり、共産党による弾圧であり、歴史の隠蔽と改竄でもある。そこには権力、独裁、支配、抵抗、そして抑圧といった政治用語はあふれているものの、この運動に参加した人やその家族など生身の人間の声を聞くことはない。
『八九六四』はこれら生身の人間に焦点を当て、彼らから引き出した肉声で構成されている。政治の体制を変えたいと全力で参加した人もいれば、軽い気持ちで加わった人もいる。民主化が中国を豊かにすると信じていた人もいれば、武力鎮圧が始まるまでの天安門前広場はお祭りのようだったという人もいる。
志操のしっかりした人もいたし、いい加減な人もいた。今も改革の夢を抱き続ける人もいれば、その後は人が変わったようにひたすら経済活動に打ち込んでいる人もいる。この本にはそんな彼らの人生が凝縮されている。
木を見て森を見ず、という。ここに登場する人たちは、天安門事件という森の中の一本一本の木である。彼らの発言には独断や偏見、誇張や隠し事が混じっているかもしれない。しかし、一人ひとりのてんでばらばらな話によって、ともすれば紋切型にとらえられていた天安門事件のイメージが、多面性や奥行きを伴い膨らんでくる。一本一本の木から発せられる声を聴くことによって、これまで遠方から眺めるだけだった森の中の実相が見えてくるのである。
内外に多くの人を訪ね、直接証言を得る作業は並大抵のことではなかったと思う。著者の労苦に敬意を表するとともに、これを機にジャーナリストとしていっそう飛躍されることを期待している。