阿部みどり女
今年は二月十九日に東北大学病院に胆石の痛みで入院した。深く考えない性質だから、変つた生活で句のひとつもできようかなどと、軽い気持で入院した。ところがいつもとは違つて非常な苦しみで、ゆとりが少しもない。ひとつの俳句の道を見付けたいと努力はするものの、こころは別の方に走つて、句作どころの騒ぎではない。寝るも起きるも傀儡のようなもので、自分の意志ではどうすることもできない。すつかり観念して医師の言われる通り順応することにした。
蛇笏賞に私の句集『月下美人』が推薦されたというお知らせがあつたと聞いて、驚くというよりも呆然と人ごとのようであった。しばらくしてからその意味がわかり、有難かつた。今日は四月八日で花祭りの日であり、私には忘れることのできない高浜虚子先生と森田恒友先生の忌日である。
飯田蛇笏先生には大正の頃、柏木の長谷川かな女さんのお宅での婦人句会ではじめてお目にかかつた。その後高橋淡路女さんと四ッ谷の寄席に御一緒したり、昭和のはじめ頃、「雲母」の大会に淡路女さん、室積波那女さんと甲府に寄せていただいたこともあつた。夢のようである。
思い出はひどくなつかしく、私ひとりが取り残された感じである。もう一度元気になつて、満足のできる俳句をひとつでも作ることが出来ればと、それのみを願っている。
「真清水のごとし」飯田龍太
『月下美人』は、澄んだ句集である。だがその澄みは、蒸留水の澄みではなく、静かに岩間を洩る真清水のような感じだ。微妙な味わいがある。かすかなひびきがある。ながい歳月を経、風雪にさらされながら、しかもさり気なく眼の前に滴りつづけている。多分このことは、集中に見える、
命より俳諧重し蝶を待つ
という心懐から、おのずと生れ出た天与の気息によるものだろうとおもう。
多くを望まず、すくなきを嘆かず、眼前にあるものを正確に見、飾らず感じとつて、それをながい人生のなかの俳人としての証(あかし)としているように見える。
秋風や凝りては動く午後の雲
鳶鴉左右に別れ冬の山
誰彼の目の集まれり紅葵
謐かな調詠である。濁りのない見事な観照の澄みだ。
海思ひ山を思ひて夏の風邪
耳も目もたしかに年の暮るるなり
九十の端(はした)を忘れ春を待つ
この温雅な自愛は、同時に、故友知人の身の上にも及んで追慕哀悼のいくつかの秀作をなす。その一句だけをあげる。
(淡路女さん色紙を手にせる遺影)
初蝶の句を書き給へ淡路女忌
「俳句の根」沢木欣一
今年の蛇笏賞は阿部みどり女さんの句集に決まつた。実にすんなりと決まって気持が良かつた。みどり女さんは大正元年から俳句をはじめられ約六十六年、その間句作を休んだことがないというから驚くべき長距離選手である。現在の俳句界では最長老の一人ともいうべきで、その人の最近作が賞を得られたことはこの上なくめでたい。
みどり女作品は老いを知らないみずみずしさにあふれている。キラキラと派手に光つているというより、大地より静かに泉が湧き続けている趣きのみずみずしさである。年とともに感性は枯渇しやすいものであるが、それが少しもなく、かえつて豊かさを増している。自然に素直に驚く純真さに徹した俳句である。従つて物ほしげなところが少しも見られない。女流俳人は自己顕示型と自然随順型の二つに大別されるが、前者は目につきやすいので華やかに見える反面物ほしげで嫌味になることが多い。後者は地味で目立たないが、米の飯のような滋味がある。みどり女俳句は後者の代表の一つで、俳句の本当の根をおさえているといつてよい。
みどり女さんは目下入院中と聞くが、御養生を切に祈りたい。
「その初々しさ」野澤節子
今年の蛇笏賞は四、五十代あたりの作家に出てほしいと、誰もが願つていたようであるが、いざ蓋をあけてみると、期せず一致して最高齢層の阿部みどり女氏に決定した。
対象となつた『月下美人』は和綴の豪華本であるが、内容のみずみずしさ、その純粋度には処女句集のような初々しさがある。
呼吸のように淡々とした表現の中に、衰えを見せぬ詩精神の緊張がこめられている。
月か雪か知らずとつとつ更けにけり
めまぐるしきこそ初蝶と言ふべきや
九十の端(はした)を忘れ春を待つ
詩精神に老いなど全く感じられない。虚子からの写生を根底にするつよさが、その裏づけになつているのであろう。また「命より俳諧重し蝶を待つ」「白芙蓉一日一日大切に」などに感じられるように、みどり女氏にとつて一日一日が新しいのである。初々しさ、自在さはそこに生れる。日頃、あまりに巧い句ばかりに接していると、この初々しさが何よりも尊く、私たちがいつもたち帰らなければならない詩の源泉のように思える。
入院の由を伺い御案じしている。きつとこの度も、いままでのように病いを克服されるものと信じている。心からご快癒をお祈りしたい。佐藤鬼房氏の『鳥食』も惹かれた句集である。
「初蝶」森 澄雄
めまぐるしきこそ初蝶と言ふべきや
今年、わが家の庭で初蝶を見かけたのは、つい二、三日前であつた。初蝶といえばまつ先にこの句を思い出す。そして他の句を思い出さない。ぼくが見かけたのは紋白蝶だつたが、この句は太陽をまとつて明るい黄蝶ととっておきたい。その初々しさ、敏感さ、明るさ、みずみずしさ、まさに初蝶、その他に言いようがない。それは、そのまま作者の心の初々しさ、鋭敏さ、みずみずしさであろう。
重陽の夕焼に逢ふ幾たりか
重陽の日の夕焼のいいようのない美しさ、切ない荘厳がぼくには見える。句集『月下美人』から好きな秀吟をあげればいくらでもある。
鴨が来てそれより鴨の渡り来る
沼の水月を動かし雁渡る
短日の気息のままに暮しけり
月か雪か知らずとつとつ更けにけり
かたつむり葵の濡れしところ食む
曼珠沙華二本づつ立ち雨の中
わが声も忘るるほどに冬籠
九十の端(はした)を忘れ春を待つ
九十の齢の心を測るには、望んで呆然たる思いがあるが、老いを越えて、いよいよ素心の初々しさに自在と清澄を加え、しかも念々切々なのであろう。ただ心配なのは、集中にも病床の作が多く、またいまも入院中ときく。切に加餐を祈つておきたい。