細見綾子
蛇笏賞をいただくことになり、ありがたくまた面映ゆく思つている。
長いということは何の取り柄にもならないが、思えば長いこと俳句を作つて来たものである。二十を過ぎたばかりの頃、人にすすめられて俳句を作りはじめたのはただかりそめのことに過ぎなかつた。それから五十年たつている。これは何たることであろう。いつか俳句は私の中に住み現在においてはほとんど領せられた形である。俳句はかりそめごとなどとたとえ言おうとしても私の中の俳句はそれを許さない。もう引き返すことの出来ない所まで来た今の時点で、私はあらためて俳句との結びつきを甘受したいと考えている。
俳句は多く自然をうたう。人間も生活も自然に托してうたう。自然、これほどはかり知れないものはない。俳句はそれに向つていどむことでもあつた。俳句のいとなみをとおして如何に多くのものを見、聞き、知らされて来たか、そうでなければ何でもかでも素通りしてしまつたであろう。
俳句から受けた恩恵ははかり知れないものがある。それに対してむくいることが少ないのがなげかれる。今回、賞をいただくのは同行者であつた俳句であると思い、いささか心が軽い。
「手鏡の澄み」 飯田龍太
細見綾子さんは、自分の世界を持つたひとである。それをいちばん目立たない姿で、鮮明に作品にするひとである。おのれに忠実に、そして、俳句を信じ切つてきびしく持するところがなければ、なし得ることではないと思う。
作品のやさしさは、いたずらに感動を増幅することをしないところから生れる。平凡をおそれずに言い切る強さといつてもいい。
春の雪青菜をゆでてゐたる間も
他愛もない日常の即事。だが、それをこよなきものと、キッパリと受けとめる感性のみづみづしさに作品の豊饒が宿る。
このひとの手提に秘められた手鏡は、いつも塵ひとつとどめないのではないか。
「をかしさの俳句」 沢木欣一
細見綾子の素材は極めて日常的である。
春の雪青菜をゆでてゐたる間も
しかし、少しばかり日常性を超えたところがある。即かず離れずという言葉があるが、それが確かである。現実と詩のけじめを割合に良くわきまえているともいえる。無理に詩的空間を作ろうなどと本人は考えていないだろうが、自然に現れている。山本建吉氏は「ふんわりとした詩的空間」という。
綾子俳句は平凡と見えるくらいに素直である。しかし読後の余韻にどきりとさせるものがある。
急ぐ雲急がぬ雲に秋立てり
螢火の明滅滅の深かりき
蟻地獄昔もここにありにけり
見るものは見て取つているという一種の冷徹さがある。女々しく、べたべたしたところが無いのがよい。
彼女の俳句は感傷的・抒情的というより知的な要素が強い。戦前の句集『桃は八重』はやや感傷的であつたが、今度の『曼陀羅』は「をかしさ」の多い句集である。「かなし」より「をかし」へ、抒情より認識へ、長く俳句をやつて来たせいであろう。
本人は何にでも驚き、どんな物にも面白さを発見する。早朝庭に出て何かの芽でも見つけると大声を発するのが滑稽なくらいである。女性には珍しい滑稽味のある人物で、それが一つの達観した詩的世界を成しているのが取得であろう。
「平明なあたたかさ」 野澤節子
細見さんの作品のよろしさは、構えのない何気なさである。構えのないようで、何気ないようでありながら、しつかりと自己の世界をもつている。たとえば、
春の雪青菜を茄でてゐたる間も
などは、全く何気ない、無垢そのままな発想でありながら、これほど印象鮮烈な作品はない。日常些事の一と駒が自然の摂理に包含されて、悠久な天地に遊び出でる。たしかな自己がなくては、これほど純粋な世界は見えてはこない。自己を越えた自在さの中で、ごく平明な明るい世界が、汲めども尽きない滋味をたたえている。細見さんはいつも素肌の美しさを好んでおられるようである。その句にはいつもすぐ身近なほほえみのようなあたたかさがある。構えのないよろしさがホッとしたやすらぎをおぼえさせてくれる。それだけに、ただごとに近いような作品がないでもないが、むしろその危うきに遊んでいるところに、細見さんの詩人としてつよさと、素質の美があるのだと思う。
稲刈りのべんたう寺にあづけおき
寒晴が瓶のあんずに及ぶかな
春の雪地につくまでを遊びつつ
風の葉の羽ばたき止めぬ牡丹かな
そら豆のおはぐろつけし故郷かな
古九谷の深むらさきも雁の頃
生きいそぎ蕗の薹やき焦したり
草むしる汁顔にとび晩夏かな
どの句も透明でしかもあたたかい。
「感想」 森 澄雄
春の雪青菜をゆでてゐたる間も
馬宿といふものぞきて秋の暮
古九谷の深むらさきも雁の頃
など、細見さんの句境のいつそうの深まりを思わせる『曼陀羅』の代表的な秀作といつていいが、また、
春となる夕べ寒しと言ひながら
夕刊が早く来てゐる雛の日
春立つや月眉形と見たるより
長靴をはくほど春の雪降りし
餅にかびつく頃に咲くすみれあり
など、ごく日常的な何気ない作品にも、こんな身近にこんな新鮮な世界と光があつたのかと、いつも心を新しくしている、細見さんのいいようのないやわらかな心の豊かさに感嘆する。『曼陀羅』の箱帯にも、
「細見さんの句を見て何時も感ずることは、日常茶飯の事を淡々と詠みながら、
何時の間にかそこに一つのふうわりとした詩的空間が浮び上つてくることだ。
読後の余響が深いのである。これはいくら句作の技を積んでも出来ることではない」
と山本健吉先生も書いていられる。
細見さんの作品をよんでいると、もはや一切の評言を必要としない、いつて見ればこれは細見さんの生得の資質ではないか、といつてみたくなる。だが、生得の資質だけでこれらの作品が生れるわけはない。細見さんも日日おのれの心を新しく、磨き鍛えられていられるにちがいない。だとすれば、おのれを鍛えるということは、結局、おのれの生得の資質を磨き出すことではないか。しかし、これも至難の業、それもまた生得の資質という他はない。細見さんの受賞を心から祝いたい。