蛇笏賞・迢空賞

第59回「蛇笏賞」・「迢空賞」受賞作発表
  • 2025.04.18更新
    第59回「迢空賞」受賞作発表
  • 2025.04.18更新
    第59回「蛇笏賞」受賞作発表
蛇笏賞・迢空賞とは 設立のことば 受賞者一覧

受賞のことば・選評

第14回迢空賞受賞
『素心臘梅』(新星書房刊)
窪田章一郎
【著者略歴】
窪田章一郎(くぼた しょういちろう)
1908年、東京市牛込区(現・新宿区)に生まれる。1921年、早稲田中学入学。1923年、胸部疾患で休学。1933年、早稲田大学文学部国文科卒業。1942年、早稲田大学講師となる。1943年、『西行研究』(八雲書林)刊行。武川忠一らが創設の早稲田大学短歌会に指導役として参加。1946年、歌誌『まひる野』を創刊主宰。1960年、「西行の研究」で学位を受ける。歌集に、『初夏の風』『ちまたの響』『六月の海』『硝子戸の外』『素心臘梅』。

受賞のことば

窪田章一郎

 『素心臘梅』は第七歌集で、一昨年までの七年間の歌をまとめて一冊としました。さいわいに無事古稀をむかえ、今後の人生へとむかう一区切りとしようとし、いささか自祝のおもいをもって編みました。歩けるだけ歩こうと思う前途へのはげましの心意でした。ところが、このたび迢空賞を受けることになりました。これは思いがけなく多くの方々に歌集が認められたことで、外からもはげましを受けることになりました。私としてはありがたいことでした。感謝せずにはいられません。
 短歌に対する考え方、詠み方は多様で、多数の歌集の中から選ばれ受賞するということは、思ってもむずかしいことと理解しています。これまで私の歩いて来た行き方もいいのだと認められたのは、うれしいことでした。常にこれでいいのかと自身思いますが、思ってもどうしようもなく、これよりほかにありません。賞を受けるのは、この意味で全く思慮のそとのことでしたから、強いはげましを受けた気持でいます。
 この歌集の中に
  長生きをしたしとぞ思ふ歌詠みて味はふ境のややにあたらし
という、あからさまな一首があります。歌は生活実感の表現だと頑固に考えていますが、果たしてどれだけの変化が歌に現れるのかと、ふと危うさを覚えます。変化がなくともいたし方なしと肚は据えるのですが、年齢とともに微々たるものであっても自覚すると、それを生き甲斐とし、長生きをしなくてはという欲が出ます。歌はおもしろいと思うひそかな気持を詠んだのがこの歌で、受賞の今の心境を代弁する一つとします。
 短歌はつくるものですが、その上に立って、つくるというよりは生れて来るもの、与えられるものという言葉の方が、私には直接感があります。当初から同じだったろうと思いますが、近年は一層はっきりし、作歌に立ちむかうのをおもしろく感じます。内に孕むものを発見し、言葉とする、全く個人的な営為ですが、その表現が客観性をもつかどうか。それが作品への欲です。

選評(敬称略/50音順)

「対蹠的な二集」上田三四二

 今回の迢空賞は生方たつゑ、窪田章一郎両氏の二人受賞となった。「持」ということになって、これもかたちだと思う。
 窪田氏の『素心臘梅』は、順直な心が順直にものを見、ことに感じて、そこにあたたかい親和的な世界を現出せしめている。父君空穂の系譜に沿う円熟を感じさせ、おのずから年齢の思いの出ているのも歌の懐をふかくしている。この、年齢の思いというのは、作者自身の上だけではなく挽歌の数の多いことの上にもあらわれており、また親和的世界といってもそこに公害問題や学園紛争などに寄せて言う社会不安の声も聴かれるのだが、それらのことをも含めて、窪田氏の歌柄はあたたかいのである。やや淡く、欲を言えば急所を要求したいが、身辺詠の滋味において到達するところ大きい。生方氏にはこの時期、『野分のやうに』のほかに『漂泊の海』があり、また『生方たつゑ全歌集』があって、全体として大きな眺望を与えてくれる。『野分のやうに』は、夫君の二年余にわたる病気、そしてその果ての逝去という人生悲苦の一身上の大変化を踏まえて激しく切実に言葉を遣っている。窪田氏の親和感とは対蹠的な生への違和感、喪失感、そして現実剝離の感覚といった生方的世界はこの歌集においてももとより変りはないのであるが、それが固定化を解かれ、流動して来た。張りつめた哀切な声が、慰籍を求め、和解に向って呼びかけている。
  待つもののなくなりし家にかへりゆくそこより帰りゆくところなく

 


「熟成の歌風」岡野弘彦

 今年の迢空賞は、窪田章一郎氏と、生方たつゑ氏とに決定した。従来、言わば中堅歌人に贈られることの多かったこの賞が、今年は二人の熟成を示した歌人に贈られることになったわけである。
 窪田氏の歌風は、平明でほどよき知性をともなった平常心の歌というべきものである。氏の歌には、公害による自然の崩壊や社会の矛盾に目をむけた歌も多いけれど、みずからの心の均衡を破って激情を発するということはない。節度ある心の動きを、やわらかく平明な用語をもって表現する歌人である。今回の『素心臘梅』もそういう特質を持ちながら、古稀の齢に達した心の深まりは、更に軽くまろやかな歌境を見せている。殊に、忘き父君を想い、身辺の死者を悼む歌は、歌境に一層の厚味を加へたことを思わせる。
  あひ会はずをれば浮び来(く)死と生と弁別(わいだめ)もなき
  人のすがたは
 生方氏には昨年『野分のやうに』『漂泊の海』と、二冊の歌集がある。五十余年にわたる歌歴と十八冊の歌集を持つ生方氏は、特に戦後歌壇において、鋭い感覚を際だたせた意志的な歌風を示しつづけてきた。ところが最近の二歌集にあっては、夫君を失なった深い悲しみの中で、より自然な感情の流露と、より自在な表現のすがたとが示されている

 


「それぞれの歌境」田谷 鋭

 窪田章一郎氏の『素心職梅』は昭和四十七年からの七年間の作品千余首を収めている。その父君空穂の述志の要素をも多く含む氏の作品質の一種の温かさに、従来から心ひかれるものがあったが、この集ではあらたに、透明で寛(ひろ)やかな心位が加わって感じられた。述志の作はむしろ少く、懇切と言っていい自然や人間との交流のかたちが見てとられ、氏の新しい方向を感じさせる一本でもあった。
  よき歌はかくの如きにあらざりと己れ知れればなほ詠みつがむ
 また、至り着いた年歯(し)ゆえにとらえ得た虚心の一首としてそのきびしい自省に胸うたれる思いがあった。
 生方たつゑ氏と言えば歌界内外の知名人でありその意味では窪田氏と同様である。今回の賞に両氏を併せて推(お)すことの意味あいについて選考の場でも論が交されたが、私の場合、生方氏の二集のうち『野分のやうに』にとりわけ心ひかれるところがあった。速度の早い歌口と独特の用語幹旋は氏の発明にかかるものだが、その風姿を創り出したかつての心熱が、夫君の病いと死に遭遇してあらたな痛みの旋律をかもし出していると思われたのである。
  湿疹の出でやすくなりし夫とゐて今は憚からず死にふれて言ふ
のさりげない一首の中にも苛烈なその精神位相は顔をのぞかしている。現実への凝視もこの集にはさまざまな角度に見られる。

 


「二歌集の到達点」馬場あき子

 窪田章一郎氏の『素心臘梅』は氏の第七歌集で、昭和四十七年から五十三年まで七年間の作品がおさめられていますが、後半にゆくに従って作品の質が高まってゆくように思われました。それは巧拙を越えた心境的なものの深まりが、歌の品位を根底から支えているという感があって、従来から氏の歌の特色であった大らかな明るい人間への信愛が、より人生的な凝視を含んだ上での大肯定の境地へと進んでいったように見うけられました。氏の歌は身辺の事象に注ぐ目や、動く心をおろそかにせぬところに特色があったと思いますが、ここに至って氏における老境の自覚は、またたちまちに平明な中に気品ある心位を、本歌集に至って確立しえたものと思います。
 また生方たつゑ氏は本年全歌集に加えて『野分のやうに』『漂泊の海』の二歌集を打ちつづいて世に問うという中に、衰えぬ創作意欲を示されたと思いますが、中でも『野分のやうに』は、夫君を亡くされた直後の歌を含む挽歌的心情の濃い歌集で、作風も、従来氏が駆使してきたさまざまな技法的試みも無用とするまでに、真率な魂の鼓動を感じさせるものであったと思われます。それはあるいは氏が長年にわたって追求されてきた短歌作法の諸問題にもかかわる新たな展開面を含んでいるとも考えられます。
 『素心臘梅』『野分のやうに』は、ともに長年月にわたる歌人の歩みに、到達点の高さを感じさせるものであったと思います。


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