前田 透
賞などというものは自分には関係ないと思っていた。ひとに上げることはあっても、自分がもらうことなどは考えてもみなかった。文学の賞はスポーツの賞などとはちがって、何かのハズミでもらうものであり、自分にはそのハズミがないと思っていた。だから、角川書店の鈴木さんから、迢空賞にきまったが、受けるか、と電話があったとき、 返答に困った。しかし考えると、私に迢空賞をくれようというのは、そのハズミを私につけさせてくれた人たちの好意であり、それは裏切るべきではない。私などよりよい仕事をしている人はいくらもあり、私がすぐれているというのならそれは違う。何かのハズミなのだが、そのハズミを与えて下さったということは何よりも有難いことだ。それでお受けした。
昔、陸上競技をやっていたとき、大きな大会では準決勝に残ることを念願とした。準決勝が花である。決勝に残ってみじめに敗けるより準決勝がいい。ところが今度は決勝に引張り出されたような感じである。それならそれで、勝てないまでも自己新記録に挑んでみよう。
そういうような覚悟を覚えさせてもらったことは何れにしても有難いことである。身体をこれ以上こわさぬようにして長生きして勉強しよう。残された時間を短歌という文芸に捧げることを神も許し給うであろう。
「感想」上田三四二
中に、こういう歌がある。
アイソトープ照射室のドア重くあく傾きて永生の国を見んとぞ
やさしき手 陰影(かげ)なき室に我を容る秘跡を願う妻を残して
祭壇の滴りのごとき灯を思い闇にあり傾斜寝台の上
「包交車」と題する一連の初めの三首で、「八月九日入院 九月十七日退院。再び虎の門病院にて手術を受く。」と詞書にある。
集の後半、このあたりに来て、『冬すでに過ぐ』は風姿定まるの感がある。信仰はゆるぎなく、闘病は死をおそれず、詠嘆は傷んで、溺れない。
『冬すでに過ぐ』には幾つかの層があるように思う。民衆の場に立つ社会派としての層があり、はじめ、それが主であった のが、 深刻な病気の体験という層と、病気によって強化された信仰という層がその上にかぶさる。そして声調がいま一つそれらを統一し得ていないという評価上の難点は、後半にいたって、ようやくふっ切れる。
また歩道での歌、外光を歌った作品に心を惹かれるものが多く、この空への視線は、作者のいつのときも光をうしなわないつよい心のありどに対応し、その生のかけがえのなさを、聖書を右に、薬餌を左にするような日々のなかに摑んで、作者にとってはまさしく生涯における転機の集である点を、評価したい。
「新しい表現力」岡野弘彦
文芸はいま非常に困難な時期にさしかかっている。言葉のはたらきの奇妙にとらえどころなく拡散してしまっている現代に、小定型の中に重い凝縮としらべの昻揚を要求される短歌は、殊に、その力を盛りあげて歌うことが困難になっている。世間の中高年層に短歌を作ることがかなり盛んであるという現象とかかわりなく、あるいはそれとうらはらに、短歌は力を失い、身を細らせつつある。この痩身の定型詩をささえて、いま奮迅のはたらきをしているのは誰だろう。この賞の選考を心にもって、対象になる歌集を読みながら私はそのことばかり考えていた。
そして結局、岡井隆氏の『マニエリスムの旅』と、前田透氏の『冬すでに過ぐ』に私の心は集約されていった。岡井氏については一昨年『歳月の贈物』が対象にとなったが、この作者はすぐにもっと見事な熟成を示すにちがいないということで見送りとなった。しかし、現在の情勢の中では容易に熟成などを持たない作家こそ、最も望まれる人だと思う。岡井氏の作品はそういう類の作品である。
前田氏は従来の理智的な作風に、心の深まりが加わった。これも熟成というよりは、新しい表現の力が示されたものだと言えよう。私はできたら両氏に賞の贈られることを望んだが、結局、前田氏の『冬すでに過ぐ』一つにしぼられることとなった。作品のほかにも、評伝に研究に、氏の近業はいちじるしい。
「「義の人」の進路」 田谷 鋭
前田透氏の作品が余人にはない独特の骨格を持つものであることは氏の過去のいくつかの歌集で明らかである。それらは必ずしも読み易くはなく、ある場合には読むに苦しくさえある精神・心情の揺れを内包していたと印象する。同時代の多くの作者たちが易々としておもむいた甘美・流麗なリズムはその作品に見られず、孤独な求道者のおもむきの位相をそれらは示していたと言い得るであろう。そうした中におおらかで素純な世界がひらめき、それが父君夕暮の世界と重なって光るような清い資質を感じさせることがたびたびであった。
『冬すでに過ぐ』は右のような氏の世界にあらたな領域が生まれたことを語るものである。母堂の死、またみずからの大患による数度の手術など、現世的な苦患を越えて一層きびしく、しかし反面明るく安らかでもある境いに踏み入った作者の姿をこの集からみてとるのは容易であろう。その特長は苦しく重たい集の前半に対比される集の後部にことに明らかに示されている。
生くる世を涙の谷と言いしことおろそかならず梨の花咲く
功(いさおし)を天に積まんと耐えおれる病舎めぐりて夏の夜の雨
夏水仙乾ける土に淡く咲き行かざりし連隊会の日過ぎぬ
氏の上に従来から印象された、「義の人」のおもざしは、カトリシズムの体験を加えた多くの作品を混えてあらたに豊かな清い世界を読者に提供している。
「前田氏の近業とともにある一冊」 馬場あき子
今年度の迢空賞は前田透氏の『冬すでに過ぐ』に決った。氏の第五歌集である。前歌集の『銅の天』を出されたのは重症の胃潰瘍を切除されたあとであったが、その後前田氏はさらに二回の入院手術を繰返しておられる。
こんど対象になった歌集は、こうした試練に堪えての復活への序章をなすもので、私は前歌集に比べて、ことに後半部に心境の深まりがあるのに感銘を受けた。
霧沈む半夜一軀の置きどころ暁の光は何時吾に来む
ひぐらし啼くこの世に獲しもの少なけど力尽くせし夏過ぎんとす
暁に祈れるならん老いながら冬の鶫は高きに啼けり
こうした歌の世界は、そのまま現在の前田氏の内面的充実と無縁ではない。
氏は昭和五十年来、父前田夕暮の評伝と業積の細密なあとづけに没頭して来られたが、その補筆改訂により昭和五十四年に上梓された『評伝前田夕暮』は、まことに辛苦な労作を感じさせるものであったし、また『短歌』連載の「与謝野鉄幹」も、すぐれた近代への見直しの仕事といえる。氏の作風を重くしている内省的深まりは、こうした近業とも根底において結びつくもので、受賞に価する一冊であると思う。