橋 閒石
『俳句』編集部から突然電話があって、蛇笏賞に『和栲』が選ばれたと知らされたとき、あまりにも思いがけないことだったので、一瞬とまどいを覚え、しばらく猶予を頂いて、翌日あらためてありがたくお受けする旨を答えたような始末であった。なにしろ、若いころから心中ふかく畏敬していた大先達に因むこの賞である。受賞の栄誉もさることな がら、正直いって、ただわけもなく嬉しいのである。
ところで私の俳歴は、おおむねの方々とかなり違っているように思う。昭和六年神戸に移って間もなく、兵庫の著名な俳諸師寺崎方堂(後の義仲寺無名庵十八世)に巡り合い、連句実作の修練を通して俳文学に傾倒した。しかし、方堂の後継者と目されていた私が、年来の強い絆をみずから絶ち切って「白燕」を創刊したのは、自在に生きることを願ったからであるし、革新を志す人々とことさらに親しく交わったのも、そこにみなぎる鋭気の爽やかさに触れながら、独自の道を究めたかったからである。もともと私の頭には、推し移る俳文芸の正統とは何かという間題意識と、それに即してしかも囚われざる姿のことしかない。そして、この筋を今日まで乱さずに来られたのは、芭蕉の精神が常に支えとなっていたからだと信じている。ともあれ、このたびの受賞は老骨に少なからぬ活力を与えてくれそうである。私にとって、それが何よりありがたいのである。
「『和栲』感想」 野澤節子
一口に言って『和栲(にぎたえ)』はおもしろい句集であった。このおもしろさは作者である橋閒石氏の人間のおもしろさといえるかもしれない。
私は今日まで第三句集を持つこの作家を知らなかった。しかし、この句集を読むにつれて、なりふりをかまわぬ自在な詩境が羨しくさえおもえた。風狂の徒という言葉があるが、その言葉の概念ともまたちょっと違う。しかし、まさしく遊びの境に入った俳句である。
日輪を呑みたる蟇の動きけり
乾鮭をさげて西方無辺なり
笹鳴よこの身焼かるる日も鳴くや
歯の抜けし午後から雨の牡丹かな
雪ふれり生まれぬ先の雪ふれり
などという真面目一途な句があるかと思えば、
夏風邪をひき色町を通りけり
思い出せぬ秋草の名のひとつあり
桃咲いて犬ひたむきに通りけり
帯とけて少し歪むや夏の月
縄とびの端もたさるる遅日かな
顔じゅうを蒲公英にして笑うなり
といった良寛さんのような句もある。
人になる気配もみえず梅雨の猫
麦秋の乳房悔なく萎びたり
などは人を喰ったような句でありながら、私には心にずんとくる。
私の最も好きな句をと言われれば、
桜など描きて冬の寺襖
華麗なる寂けさの句をあげたい。
俳句に一生を賭けた人の句。また、深くして広い識見を持ったかたの句とお見うけした。現代には稀なる俳人であろう。
「したたかな生の晩景」 森 澄雄
さきの句集『荒栲』の、
《喜びも敷きも、安らぎも苦しみも、病み衰えまで含めてのいっさいに遊ぶこと》
をひたすらに願った「あとがき」にもいたく共感を誘われたが、『和栲』の、
《人生を劇の舞台に喩えた詩人の台詞も悪くないが、私はむしろ、歌舞伎の花道を更にさかのぼった能の橋懸りに、ふかい興味を覚える。もともと、神を迎えて送る道筋から始まった形象らしいが、そのような詮索はさておき、とりわけ、引き上げる際の演者が、垂幕のむこうに消えるまでの呼吸の意味を、考えずにはおれないのである。》
という「あとがき」の一節がぼくには面白かった。橋氏は明治三十六年生まれだから、既に傘寿。失礼を顧みず言えば、面白かったのは、ここに氏の行きついた人生観、俳譜観、美学の一切をくめて、晩年のいのちの風景が見えるからだ。
故山我を芹つむ我を忘れしや
寒鯔をつる夢もちて人の中
垣間みしものに憑かれて十三夜
昼風呂を出て藁塚を遠望す
春の猫抱いて川幅ながめおり
草の根を分けても春を惜しむかな
夕顔に舌灼くものを啜りおり
読書百遍にしておのずから晩夏の山
氏は俳譜連句の錬達の人(じん)、ここには巻首から思いのまま幾つかの作品をあげれば、囚われの遊びの自在の中におのれをおき、しかも広く人生と俳諧に相わたりながら、おのずから見えてくるいのちの晩景、さらに意志的に見据えようとする晩景……。
そこにこの作家の作家的健康とともに、またしたたかな妙趣があろう。さらなる南山の寿を祈りたい。
「俳味抜群」 飯田龍太
近ごろ、というよりかつても、こんな面白い句集にお目にかかったことはない。存分に年季のいった芸の確かさ。そのうえ、欲も得もなく俳諧にのめりこんだ自在の詩情。とにかく俳とは何か、を骨の髄(ずい)まで承知しぬいた面白さである。
はらわたに昼顔ひらく故郷かな
夏風邪をひき色町を通りけり
眉しろく虹の裏ゆく旅人よ
麦秋の乳房悔なく萎びたり
幼児のごと赤富士のごと冬来たる
読書百遍にしておのずから晩夏の山
あげはじめたらきりがない。しかも、
縄とびの端もたさるる遅日かな
この童心のよろしさ。
さらにつけ加えれば、委員の誰ひとり、面晤をもたぬとは、まことに愉快。
「囚われのない心」 沢木欣一
橋閒石氏の受賞に決まったことは、斬新な印象を与えると思う。
閒石氏の作品の魅力は第一に発想の自由さということである。最近の俳句界の傾向は理づめになって重苦しいものが多いが、閒石俳句は重苦しさ、粘着を脱している。囚われない心でいろいろな事象に自由に遊ぶという俳諧の味を現代に生かした作品である。
饅頭をまふたつに割る苗代寒
桃咲いて犬ひたむきに通りけり
麦秋の乳房悔なく萎びたり
白扇をたためば乾く山河かな
幼児のごと赤富士のごと冬来たる
日本語の微妙さに鋭敏で、季語の働きを十分に生かそうとする新しい試みが見られる。