「吉野さんのこと片々」皆吉爽雨
俳句の方で思いがけぬ賞をうけた私のよろこびは、歌の「迢空賞」受賞が吉野秀雄さんだったことで二倍になった。いや二倍どころでなく何倍になったか計りしれぬというのが正直なところだったので、吉野さんに手紙を書いた。永い病臥中のこととて、こんな手紙を読まれることだけでも負担になるのではないかと気づかいながら、やまれずにしたためた。ところがしばらくして頂いた返事の葉書はこうであった。
「拝復。十六日附お手紙十七日拝受、お礼申し上げます。私儀、葉書さへかきがたき――あすの命もしれぬ――身の上となり、数日出しおくれましたが、何よりも〝写生道〟のためによろこばしく存じます。又大兄といつしよに受賞といふこと、うれしさのきはみです。右、ねながらやつとかきました。(後略)」そして「この面秀雄自筆」と追記してあって、表面の宛名は登美子夫人の手らしい。
私は果たしてはしたないことをしてしまったことに責められた。葉書さえ書き難いその一枚を書かせてしまったという自責にうなだれてしまった。しかし自筆のこの文面はつよく私を打って、その力強さが顔をぐいと引きあげてくれた。冒頭に手紙の到着した日と数日出しおくれたことを言っておられるが、こんな事務的な書きぶりの中にも吉野さんの誠実さがいきいきと迫ってくる、それにつづく「写生道」云々のこと、これからも今更のように覚醒させられるものが押しよせてきたのである。そして吉野さんが口にされると不思議に生命をおびてくる「写生」なる言葉からはさまざまのことが思い出されてくる。
私がはじめて吉野さんに会ったのは、茅舎研究という集まりの席上で、これは「笛」を主宰していた俳人、故松本たかしを中心に、川端茅舎の遺句を合評する月一回の会合であった。東京久我山の島村茂雄居の一室、頰のゆたかな大顔に半白の髭をたくわえた吉野さんは、蓼汀、占魚、「笛」同人の人々の中に着物姿でどっかりと座って、句評が自分の番にまわってくると、大きなからだからしぼり出すような大声で、きっぱりと区切りをつけながら話された。それは戦後間もない頃だったが、その二十二年に小林秀雄編集の「創元」創刊号で「短歌百余章」というのを読んで非常な感銘をうけていながら、その作者が面前のこの吉野秀雄だということを知らずにいたその迂闊さのままで、私は眼をみはったのである。こんなにわれわれの俳句がよく分って説得力のゆたかな人がいるものだろうか、歌作りという部外の中に居てくれるのだろうかと、半ば疑うような気もちで瞠目したのである。やがて輪講がすむと酒肴がはこばれる。吉野さんはこれ亦わが領分だといった恰好で、よく飲みよく談じられた。果ては自分でももてあますほど酔って鎌倉へは帰れず一泊ということになったが、酔中の吉野さんも別れ去るにしのびないほど好もしかった。万葉人的詩心とますらおぶりが膨脹をきわめる酔いっぷりなのである。
そうした中で或時、たかし氏と「写生講演会」なるものを画策しようという話の交わされているのを聞きつけた。酔中談のたぐいのようでもあったが、有楽町あたりに進出して街頭でも会場の中でもよく、詩歌における写生を大いに説こうという話にまで及んでいて、本気以上の沙汰のようでもあった。それはいずれにもせよ、写生ということをここまで骨髄にしみこませている歌人俳人の存在にはおどろいた。私なども句をはじめた最初から「写生」なる語に接し、その態度や技法をたたき込まれ、みずからも叩きこみ通してきたが、これほど単々とした信念の披瀝にふれると、私などの抱いていた写生への考えが、いかにじめじめした後ろ向きのものだったかと恥じられるのであった。
さらに吉野さんのこの信念と情熱は、昨年の六月、私のやっている雑誌の二十周年記念に寄せられた祝辞の中におとろえもなく脈々と続いている。曰く「この世に生きた生きがいは何かといえば、写生の道を知ることができたという一事に尽きるのであります。写生は短歌俳句の本道であるばかりでなく、生そのものの大道であることを、わたしは信じて疑いません」と。終結的に喝破された吉野さんの言葉は、ここまでくると我々を締めつけて手足の自由をうばうほどのものに感じられた。二十年、高崎の上村占魚居で詠まれた
骨髄に写生を持しておのおのの道を望むはたのしかりけり
というらくらくとした歌のほとりで、吉野さんの生涯の道をしずかに聞いていたいと思うほどであった。
ちょっとからだの調子を狂わせて引籠っている私の机辺には、吉野秀雄著の本がいく冊もおかれている。どれをとり、どれを開いても著者の息吹がじかに当たってくる。今も角川文庫の歌集をあけて、解説をよんだあとで拾ってみた年譜の中からさえ、それがふとぶとと通ってくる。昭和三十一年(五十五歳)のところに「発哺・長沼を旅す。長沼の日本医大ヒュッテにて心臓に苦悶あり、下山して癒えたれば、更に一人、群馬県榛名山・長野県追分等を巡る」とある。心臓に苦悶ありなどということは、今の私には思っただけでもおそろしいことだが、しかもそれが納まるやいなやただちに旅吟をつづけるという強行である。天然を酷愛して歌いつづけずには居れない吉野さんのこのはげしい意欲は、わずかな恙でしりごみしている私をむちうってくれる。その時の歌には
わが顔に当り手に触れなびきゆく蜻蛉の群れを見返りにけり
北国街道と中仙道の追分にオイルスタンドの赤きかなしさ
などがある。どこからでも著者の声がきこえて、どんな心の状態にある読者にも話しかけはげましてくれる書物がそうたくさんあるわけではなかろう。
こんな事を書いているうちに孫が幼稚園から帰ってきて少し騒々しくなった。吉野さんには長女皆子さんの息女彩子という在米のお孫さんがあり、近頃では次女のお孫さんもある。
アメリカに生ひたつ孫を想ふとき小犬太郎の頭を撫でにゆく
うどん食べる孫懸命にすすりつつ遂にくたくたの面持をせり
私も今までに孫を句にしたものが多少あり今後も作ってみようとして、吉野さんの言う「孫をたのしむいやらしさ」のない、こういう作を範としているが、それにしても同じ年の六十五歳という因縁によってか、孫の諷詠にまで学ばせてもらっていることを有難く思う。
*病床の吉野秀雄氏に代わり、第1回蛇笏賞受賞者・皆吉爽雨氏が吉野氏へ贈ることばを寄稿。
(『短歌』1967年6月号収載)