馬場あき子
戦後の学生に夏休みは殆どなかった。各大学が公開の夏季講座を開いて、戦中の学力不足を補ってくれようとしていたし、私たちも学問に飢えていたので、講座から講座へと渡り学んでいるうちに簡単に夏休みは終ってしまうのだった。
そうした中に釈迢空 折口信夫の講座もあって、万葉や西鶴を聞く機会があった。沈痛な暗い横顔に窓の緑が反射して、いっそう鬱然と見えた風姿に反して、少し甲高い声で西鶴の口語訳の大阪ことばが時折生き生きと弾むのを異様な魅力としてきいていた。「女流の歌を閉塞したもの」をはるかあとから読んだ時、あの方がこういうお考えも持っていたのかと、もう一つの大きな一面を発見したように思ったのが迢空との出会いだった。
迢空の民俗学の影響も早くから受けていた私にとって、その名の冠された賞を受ける喜びは言い尽せない。選考委員会の皆さんの御選考に深甚な感謝を捧げたいと思う。
「同時代者としての感想」 岡井 隆
わたしは馬場さんの作品は若いころから、よく読んで来たつもりである。偶然が、今回、わたしに馬場さんの本を推す立場に立たせたが、迢空賞という栄誉を別にしても、『葡萄唐草』は、人生の上の感慨をふかくさせるのであり、かけがえのない同時代者の仕事と思ってよむのである。
巻末に「葡萄唐草」の連作がある。わたしは、この連作をかつて雑誌でよんだ時に、その感想を口頭で作者に伝えたことがある。これは甲州の葡萄園の大景的な把握からはじまって、さまざまな観点、文化史的な観点にいたるまで、その中へよみ込んでいる。こういう連作が、うまく熟れて、知と情の適度にまざり合った豊醇な味をもつには、なかなかの腕前がいるのである。わたしは、自分自身、こうした作品を作りたいと思い、ひそかに意想を練っていたのであったから、よけいに、この連作は、あざやかに眼を射た。
一巻のなかには、このほかにも、作者の、熟成のうちに、しかも、そこが終着地ではなくて、更に、次の展開をうかがわせるような姿勢が、いくらも見出される。わたしには、それが興味ふかい。馬場さんは充分の余力をもって此の地点を走っているように思えるのであった。
「玲瓏のしらべ」 岡野弘彦
玲瓏とあをまっむしは鳴き出でてうら 若き闇しづかに冷ゆる
馬場さんの歌が人の心をひきつける最も大きな魅力は、「しらべ」の美しさにある。短歌が本来持っていたしらべの美しさは、近代の散文時代に入っていちじるしく失なわれてしまった。殊に男性の歌人の多くがそれを失なった。その中で女流歌人にはなお、その人特有の歌のしらべを持った人が何人かあるが、とりわけ馬場さんの歌には、さわやかな華やぎがある。
あのさわやかな華やぎはどこからくるのだろうと、時どき考える。馬場さんの深いたしたなみの能、謡曲の影響もあるだろうけれど、実は謡曲の重さよりずっとすずしく、颯爽とした感じである。
もう一つ、馬場さんの歌には、現代には珍らしくなった歌枕の意識が感じられる。『葡萄唐草』にも旅の歌が多いが、単なる旅中の歌とは少し違う。旅先の土地の魂や、その路を前に通って心をとどめていった先人に送る、おのずからな挨拶の言葉が歌枕の心だが、その気分が馬場さんの旅の歌には出ている。私はむしろこちらの方に、馬場さんの身についた能の心がにじみ出してきているのではないかと思う。
「凝集の声」 清水房雄
昭和六十年度、馬場氏は第八歌集『晩花』・第九歌集『葡萄唐草』の二集を上梓した。年間二集ということは、その内容をなす作品量のみを以てしても、なみなみならぬ作歌意欲と実践力とを知らしめるものがある。当然、それに伴なう質の高さ豊かさには、私達選考委員すべてを納得させるに十分なるのがあったが、二集を読み合わせ、一集に定めることとした結果、その質・量において一段と進展の度合いを深めている後者『葡萄唐草』を、候補諸家集第一として推すことに決した。
今や誰も知る、八面六臂ともいうべき氏の活躍が、その作歌上の障礙とならず、むしろ強くエネルギー化しているのかという思いを禁じ得ない。しかも、嘗て或る時期の、良質ではあったが一種饒舌の貌を示していたものが、この集に到って歌口がきびしく引締って簡潔に、内容が凝集的になって来ている。言わば生得華麗な才の奔騰をじっと湛えた内の充実が鮮かに見て取れる。その都度都度の達成を経て来た歌境が、ここに玲瓏たる完熟を示すに到った。
集中の一首を掲げて、小評の具体に代えたい。
どくだみの白けつぺきの匂ひもて人遠ざくる道までは来つ
「ひとまわり大きくなる時」 前 登志夫
『葡萄唐草』を読んで何かが抜けているような印象を先ず感じた。抜き取っているというべきか。読者は、名づけがたい虚空を前にして途方にくれるかもしれない。
馬場さんの想像力は軽快にして強靭である。知性と感性の調和のとれた言葉や現実と夢との微妙なバランス――行動と思索、古典と現代、内部と外部の均衡など見事だった。
この稀有なる才媛の優れた作品に長らく親しんできた。そしてふと思う。それらは作品でありすぎたのかもしれぬと――。集中にはこんな歌がある。
平凡の思想きらへど柿の木に柿は実りて世をたのします
という平明な一首だ。存在するものへの根源的な畏れとやさしみの眼差が見える。
花咲きてかそけき疲れいでくるを今日夕かすみ深しと思ふ
秋風にめざむればわが父ぎみの大きふくろふになりゐましけり
あなにやしえをとめなどと言ひたりし古きこゑきこゆ朴の咲く頃
旅の歌が多い。力を少し抜いている。あわせて近代の鋭さも抜いている。そこにどっしりと湛えられた虚空とは何か。かつて誰も歌わなかった意識下の闇。万有が今ここに在ることの奇怪さ――。
月山のふもとしんしん霜夜にて動かぬ闇を村とよぶなり