「生きている喜び」 長谷川双魚
私は、幼い時に、この地方でおもかぜと呼ばれている肺炎にかかった。十代の終りに腎臓を患い肺を病んだ。印度にいたときにはコレラに罹った。朝鮮に奉職中、肺炎が悪化して肺膿瘍になった。こんな病弱な私が、幸運にも生きのびて、来年は九十歳になる。
商社マンとして社会に出た私は、父の急死に遭って郷里へ帰り、小学校の代用教員となった。検定試験を受けて専科正教員となり、中等教員となり、朝鮮へ渡って校長になったが、たちまち、左遷につぐ左遷。昭和二十年の四月には、北鮮の中学から南鮮の田舎の学校へ移封せられて、八月終戦を迎えた。
危うく、満州へ粒致せられることを免れて、故郷へ引揚げて来ると、八室ある貸家が私を待っていた。市では新設の専門学校へ迎えてくれた。戦後一回だけ行われた文部省の高等教員英語科の検定に合格すると、岐阜薬科大学が教授で招聘してくれた。
一生涯を顧みて、全く奇蹟的な幸運がつづいている。晩年になって久々子が現われ、幸運は幸福につながった。おだやかな安らぎの中に、腰を据えて、句作し、俳誌を経営し、人となごやかに交わり、生きている喜びの日日を送ることが出来た。
この度、私の多幸な人生の総決算のように、身にあまる蛇笏賞を戴いた。今更のように師恩の高さを感じ、俳縁によって結ばれた人々との温かい交情を思わずにはおられない。深く頭を垂れて感謝の言葉を申し述べたい。
「稀有のひと」 飯田龍太
第二十a回という、まことに切りのいい今年の蛇笏賞の詮衡は、比較的短時間に決定の方向が見えた。四委員の意中に、それぞれ重く長谷川双魚氏の存在があったためだろうと思う。
双魚氏の句歴は、はるか戦前にさかのぼって存分の歳月を経ているが、氏が本腰を入れて俳句に関わりを持つようになったのは戦後のこと。さらに細かく検討すると、蛇笏の死にあい、ついで句誌「青樹」の主宰を継承することとなってこころ定まったように思われる。そのさだかな証(あか)しは、第一句集『風形』に瞭らか。この一集は当時はもとより、今日の俳壇にとってもいまなお刮目に価する好著と思うが、このたびの第二句集『ひとつとや』は、さらに詩情の明暗を加えて独自の境を展いているように思われる。
ひとびとはしばしば、氏のすこやかな長寿と、年齢を超えた詩情の若々しさをロにするが、その根源をなすものは、きびしく類型を拒否する潔癖な雄心にあると思う。みづからに加える自省の鞭に、老境の安眠はない。まこと、稀有の俳人というほかはない。
「双魚氏に共感」 金子兜太
長谷川双魚氏の長年の句業に敬意を表しつつ、氏の受賞にこだわりなく賛成した。
私は氏の今までの作品のなかで、次のような句に引かれている。つまり、氏らしく、且つ私好みなのだ。先輩大いによろし、といつも楽しみに拝見してきた次第。
蟬の穴淋しきときは笑ふなり
さくら咲くおくれて笑ふ老婆にも
寝冷子のまはりが昏しやはらかし
初秋の子がふぐりさげ地をたたく
毛虫焼く僧の貧乏ゆすりかな
挙げればまだまだあるわけだが、双魚氏と私の生理が合うのかもしれない。
ほかでは、平畑静塔氏の最近刊句集が好きで珍重していたが、日本現代詩歌文学館の賞を受けられた由である。また、郷里の先輩俳人馬場移公子さんの『峡の雲』にも引かれていたが、このほうは俳人協会の賞を受けた由である。双魚氏の受賞とともに目出たい。
「感想」 藤田湘子
長谷川双魚氏は明治三十年十一月生まれだから、今八十八歳である。そして、こんど受賞の対象となった句集『ひとつとや』は、昭和五十年代の凡そ十年間の作によって編まれているから、双魚氏の七十代半ばから八十代半ばまでの作品集ということになる。
ふつうの俳人なら、このくらいの年齢になると、感覚も鈍り、視野も狭まり、素材や表現も固定化してきて、前途に多くを望めぬといった状態になってくる。そうでないにしても、老境の解脱といったふうな、もはや"到り着いた"ことを思わせる句境に立っているところであろう。
ところが、双魚氏は、そういったけはいを少しも見せぬばかりか、今なお貪婪なほどに旺盛な吸収力を示している。私は選考会の席で、「肩の使い減りして いない ピッチャー」という例をもってこのことを言ったのであるが、双魚俳句は今後さらに、一段と大きく深くなる可能性を蔵していると思う。少なくとも『ひとつとや』は、そういうことを予感させる句集である。
もう一つ、『ひとつとや』には良質の俳諧味がある。これは近時流行の似非俳諧性とは違う。「えも言われぬおかしみ」とでも言ったらいいだろうか。そこに双魚氏の、あるいは双魚俳句の根の広がりを感じ、私は躊躇することなく推したのであった。
「円熟と若さ」 細見綾子
雀の子一尺とんでひとつとや 双魚
句集の題名はこの句からえらばれたと思うが、含蓄ある、また単純化のきいたおもしろい句である。この句集から一句を選べといわれるならば私は右の句を選びたい。
長谷川久々子さんの「双魚句集の系譜」というまえがきを読むと、双魚俳句の全貌が実によくわかる。双魚俳句が如何な道程を経て来たか、そして現在に到達しているか、双魚俳句が双魚人生と別なものでないことがよくわかる。真撃に生きて来られたことが裏付けになっている。俳句という手段をとおして表われているところに"文芸性"を感ずる。
言葉の駆使には随分努力が払われている。一句を完成させるために言葉に対する意識的な取捨がなされている。換言すればこれは双魚俳句の若さであろう。円熟と若さを兼ねそなえた句業を讃えたい。