蛇笏賞・迢空賞

第57回「蛇笏賞」・「迢空賞」受賞作発表
  • 2023.04.24更新
    第57回「迢空賞」受賞作発表
  • 2023.04.14更新
    第57回「蛇笏賞」受賞作発表
蛇笏賞・迢空賞とは 設立のことば 受賞者一覧

受賞のことば・選評

第21回迢空賞受賞
『雪天』(短歌新聞社刊)
岡部文夫
【受賞者略歴】
岡部文夫(おかべ ふみお)
明治41年4月、石川県羽咋郡高浜町(現、志賀町)に生れる。昭和2年、坪野哲久に兄事して「ポトナム」入会。昭和3年羽咋中学を卒業と同時に上京し二松学舎専門学校に入学、「短歌戦線」の創刊に加わる。昭和4年紅玉堂の「新興歌人」の編集に従う。昭和5年3月、二松学舎専門学校を中退して帰郷。歌集『どん底の叫び』を2月に、9月に『鑿岩夫』刊、いずれる発禁となる。昭和6年5月、橋本徳壽主宰「青垣」に加わる。同月高崎地方専売局に就職、高崎市に転住。山本賢次との合著『いしかわ』(昭12.10)『寒雉集』(昭21.9)『朱鷺』(昭22.9)『石上』(昭27.12)などを発行。この間富山新聞、NHK富山放送局の選歌などを担当。昭和42年3月、日本専売局を停年退職。44年12月、「海潮」に専念のため青垣会を去る。『青柚集』(昭50.5)『晩冬』(昭55.4)『雪代』(昭57.5)『能登』(昭60.6)『雪天』(昭61.10)それぞれ刊行。

受賞のことば

岡部文夫

 『能登』を出版したのは昭和六十年の六月であった。これは私の何番目の歌集になるのか、多分十八冊目くらいになると思うのだがはっきりしない。この『能登』を発行した翌年五月に発病したのが原因でそれ以後、歌も作れず、物を考えるのも億劫になって来ている。
 こういう状態にいるとき『能登』につぐ歌集『雪天』が「迢空賞」にえらばれたというお知らせを頂いた。思ってもみなかったことで、はじめは間違いではないかと思った。そして、それが間違いでないことが分ると、嬉しさが、一気に胸にこみあげて来た。「有りがとう、有りがとう」と幾たびも口に出して私はいいつづけた。
 「北陸に土着の者にしか作れない、作品を作りたいというのが私の長い間の念願であった」『能登』の後書きに記しているが『雪天』を発行した今も変りがない。『雪天』を迢空賞に選んで下された選考委員の方々および私のかわりになって『雪天』を編集してくれた妻に心から感謝の念を捧げたいと思う。

選評(敬称略/50音順)

「風土との拮抗」 岡井 隆

  ふるさとの冬のはげしき潮騒をこころに生きし一生と思ふ  「白」
 『雪代』『能登』『雪天』と読み継いで来て、飽くことのない「白」の世界の提示におどろいていた。しかし、これだけくりかえし雪の風土をうたい続けるのには、当然、それだけの動機がなければならぬ。右の一首は、その動機の一つを明かしている。
 岡部文夫氏の郷里は能登である。若いころから、あちこちに移り住んで、今は福井県春江町に居られる。故郷忘じがたく、しかも故郷には帰れないし、帰らないのである。能登と福井と、地図の上では遠くない。同じ北陸だと他国の人はいうだろうが、そこが違うのである。同じ北陸の内に、帰りがたく、複雑な記憶をのこす能登がある。微妙な風土の差もあろうし、人間関係は、すべてちがっていよう。 岡部氏が、くりかえし雪をうたい、老をうたい「白」の世界に執着しているのは、単に、この風土を美しくなつかしいものとしてうたっているのではない。それだけのことならうたうのに飽いてしまう。この執着は風土性との拮抗と叛意に支えられている。妥協することなく、背すじを立ててうたいつづける姿勢の底には、きびしい北陸の風土との
長い闘争があったのを忘れてはならない。

 



「稜々と風姿すがしい歌」 岡野弘彦

 選考対象となる歌集が例年よりやや少なく、単調さを感じさせる年であった。アンケートの結果を参照しながら、私は岡部文夫氏の『雪天』を推した。
 岡部氏は従来から、常に北陸の地のきびしい環境に生きて、その生活の中から骨格の稜々として風姿すがしい歌を詠みつづけてこられた。その歌の上におのずからに示される気骨と気迫とには、常々心ひかれるものがあった。
 今回の歌集に収められた千首を越える作品は、昭和六十年の初めから一年半ほどの間にできたもので、そののち作者は重い病いにかかって、推敲もままならぬ状態がつづいていたという。従来の集に比してやや同工の歌のまじるのはそのためであろう。しかし、越前にあって故郷の能登を思い、北国の風物をとらえた詠風は、凜冽として澄んだものが感じられる。
  吾が上の夜天を渡る五位鷺のこゑは鋭しふたたび聞こゆ
  創ゑの日に乞食(こつじき)のごとあしらひし能登の農どもを今に憎むに
あたかも、この賞にちなむ釈沼空生誕百年の年、迢空が眠る能登の地を歌いつづける岡部氏の受賞に、深いゆかりを感じる。

 



「「雪天」に寄す」 清水房雄

 今病中の著者岡部氏に代わって夫人の執筆した「あとがき」の中に「能登に生まれ、北陸の土着の者にしか作れない作品を作りたい」というのが常々氏の念願である由見えるが、老来雪深い裏日本の地に腰を据えて脇目もふらず歌い続けている生の見事さは言うべくも無い。その念願の帰結としての歌境の狭さや類想の散見する事は巳むを得ないし、そうした幾つかの点を乗越えて、この一巻の中味は読む者を存分に揺振り立てる。つまりは狭い歌境を徹底的に深く鋭く突進めて行っている所にこの集の性格がある。今やこのような直情型発想の極めて困難な時代に敢えてそれを避けず、深沈厳鬱な調べを成就している姿勢には、強大な権力に烈しく抵抗した嘗て青年期の不敵な面貌が揺曳する。歌は結局境涯の嘆声という事を思わしめる。
  冬の日の老のひとりのはかなきに火にかけて煮る能登の鹿尾菜(ひじき)を
のような傍らに、
  核の火のひとたびにして生けるものなべて滅びの炎に焼けむ
などを置いて見る時、喜寿に到るこの歌人の精神がまだまだ決して老いてはいない事を知るのである。

 



「青のすがしさ」 前 登志夫

 能登そして越前のきびしい風土で、孜々として細きこの一筋にいのちを賭けてこられた岡部文夫氏。この人に何かむくいられることがあったらいいなと、かねてから辺土の一人として同情を寄せてきた。
 「夫の岡部文夫はこの五月末に、突然の失語症で入院いたしました。……略……本来ならば、推敲に推敲を重ね、ノートをまっ赤にして一首を完成させる人ですので、消したい所、加えたいところもさぞ多かろうと存じます。歌が生命の人が、自分で出来ないのを見ていると哀れでなりません。能登に生まれ、北陸の土着の者にしか作れない作品を作りたいというのが、常々、夫の念願でございました。」という、夫人による「あとがき」に、『雪天』の根底が語られている。
  かく老いて吾が聞くものか雪の上を流らふ雪の夜にはげしきを
  春はなほ風の寒きに乾しあげてこの割鯖の青のすがしさ
 岡部氏の歌には天然の素直さがある。その風土の素心といってもいい。「蓮如忌」一連などに、生活者の思想の筋肉が透けて見える。
  蠟の火の長き靡きは聴聞の衆徒の上に夜すがらに燃ゆ

 


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