蛇笏賞・迢空賞

第57回「蛇笏賞」・「迢空賞」受賞作発表
  • 2023.04.24更新
    第57回「迢空賞」受賞作発表
  • 2023.04.14更新
    第57回「蛇笏賞」受賞作発表
蛇笏賞・迢空賞とは 設立のことば 受賞者一覧

受賞のことば・選評

第22回迢空賞受賞
『朝の霧』(石川書房刊)
吉田正俊
【受賞者略歴】
吉田正俊(よしだ まさとし)
明治35年4月30日、福井市に生る。福井中学、旧制三高を経て、大正14年4月、東大法学部に入学。同年7月、アララギに入会。昭和3年3月卒業し東京石川島造船所自動車部 〔現いすゞ自動車株式会社〕に就職。9年2月28日、田中ハル子と結婚し杉並区天沼に居を構ふ。11年9月大連、奉天、新京、ハルピンを訪ふ。12年7月、朝鮮経由再び満州各地を旅行し帰京后、盲腸炎を病み手術、恢復遅々として約2ヶ月静養の止むなきに至る。 16年2月台湾各地を視察。7月朝鮮京城に赴く。8月、歌集『天沼』をアララギ叢書第89編として墨水書房より刊行。21年11月、『朱花片』27年7月、『黄茋集』上梓。31年3月、日本生産性本部のマーケッティング専門視察団の一員としてアメリカに渡る。39年8月、『くさぐさの歌』45年5月、『霜ふる土』50年11月、『流るる雲』〔読売文学賞受賞]56年8月、『淡き靄』62年6月、『朝の霧』。自選歌集『草の露』は46年7月刊。

受賞のことば

吉田正俊

 もともと寡作の性質であるが、それにしても近来頓に作歌力が衰へて、このたび刊行の『朝の霧』は、その後記に書いてあるやうに、昭和五十六年から六十一年までの六年間に発表した作品の殆んど総てを収録したのであるが、僅か五百六十五首の歌集になつてしまひ、吾れながらさびしい思ひがしてゐたのであつた。
 その『朝の霧』が、計らずる受賞の対象となつたと告げられ、一瞬とまどひに似た感に襲はれたのは、偽らざる告白である。選考に当られた委員諸氏に於かれては、かかる私の現況をあはれみ、励ましの意図をも含めての推薦ではあるまいかと、深き感銘を覚え、ありがたくお受け申した次第である。今更こころを新たにしてと言ふほどの勇気もないが、今后も細々ながら作歌をつづけ、諸氏の御厚情にいくらかでも報ゆることが出来ればと考へてゐる。これ以外に何等申し添へる言葉を持たない。

選評(敬称略/50音順)

「老賢者の歌」 岡井 隆

 わたしたちが、老者(老人といわないでおく)において見たいと思っているのは、老賢者といった存在であろう。経験が、人をおろかにする実例も、決してすくなくはないが、賢者の風貌を生むことも、ないわけではない。むかしは、そういう人が多かったようにきいている。
 吉田正俊氏は、歌壇的には、あまり業績を知られていない一人だろう。第一、『朱花片』『天沼』などの名歌集は、いま、手に入らない。全歌集もない。自選歌集も、あるとはきいていない。名は知られているかもしれぬが、その価値がほんとうに評価されてはいない歌人だと思う。この人には若年時より、企業の中で(エリートとして)働いている人間の哀歓を、素手でつかみとるようなところがあった。その長い歌歴が、今度の本では、しずかな、ややシニックな、老賢者の歌境をうみ出しているようにおもわれる。
 わたしが、望むのは、これを一つの機縁として、吉田正俊という、頑固で変くつな人物の全歌歴をかえりみるという動きが出てくることである。
 作品は淡如としている。中国の文人なんかには、こういう賢人がいくらもいたらしい。いずれは聖者の域に到るのかも知れない。

 



「眩暈に遠い歌」 岡野弘彦

 現在ほど多様な歌の姿、さまざまな歌いぶりの出現した時代は、他に無かったのではないかという気がする。歌人たちはさまざまに自分なりの定型詩の表現を求め、時に冒険しアクロバットして、華麗さや、奔放さや、時には詰屈さの中に自分の定型詩の表現の活路を見いだそうと試みつづけている。だが、それが大きな生命体としての短歌の生命に真の活力を与えているかというと、どうも少し違うような気がする。むしろ、短歌に受難を与えているのではないか、とすら思う。今年、沼空賞の候補となった幾冊かの力作の歌集を熟読していて、つくづくと私はそう思った。
  乱れふる雪に千両の朱(あけ)の実がおぼろとなりてゆくまでを見つ
  亡きを言ひ在るを語らぬ会なりしとたまたま気づく帰る道すがら
 一見、淡々として規矩ととのった歌が並んでいるだけのように見える吉田正俊氏の歌集『朝の霧』の中から、どっしりとして確かな短歌の生命力が、密度濃くかがやき出るのを感じたのは、そういう時であった。眩暈に遠いすがしい歌の力である。
 いま短歌は、こういう確かさに立ち返ってみることも大切なのだと、私は考える。

 



「所感」 清水房雄

 この『朝の霧』は著者吉田氏の第八歌集に当るのであるが、これに先行する第七歌集が『淡き靄』であり、その前が第二十六回(昭和五十一年)読売文学賞の第六歌集『流るる雲』である、というふうに、著者年齢六十代半ば以後の作を収めた集には、その命名に或る特色が見受けられる。それは著者が自らの歌を、更には歌というものが究極にどのようなものかと見透していることを思わしめる。当然それは、人間を人生を、根柢において見届けている心境の深さと、それを形象化する技術の高さとを前提としているはずであるが、今この集に至って、時流の慌しい喧騒とは関わりなく、悠揚として自己の世界に遊んで裕かである。集中どの一首を取ってみても、類稀な風韻を湛え、発想に句法に詞句に自在を極め、言わば、短歌という形式をもって表現し得るものとしては、至りついてしまったものに満ちている。と、今私は言ったものの、実はこの集を本当に読み透すのは容易でないことも思い知らされる。憚らず言えば、この賞の重味を一段と増すものと言っていいかも知れない。中より二首。
  君逝きて残る一鉢われの手の届く年月も限りあらむに
  何が歌になるか見当つかなくなりとまどふことも年にしばしば

 



「人の世のさびしさ超えて」 前 登志夫

 『朝の霧』を読んで、久々に浄福の思いにみたされた。
 無理にこしらえた歌の氾濫に食傷している昨今、無欲な作歌態度と、長い習練の歳月によって醸された、とぼけたような味わいに、心の安らぎをおぼえた。
  ゆくりなくといふ言葉のままの吾が一生蟬しぐれの中に立ちゐて思ふ
  草に寄する心もつひに及び難く嘆き過ぎ来ぬ長き年月
  ふる雪は朝まだきより人の世のさびしさ超えて清々と降る
 これらに私なりの感慨があった。「ゆくりなく」とは、この老歌人の達意のことばであろう。知人の死を悼む歌と、草花と旅の歌が多いが、「及び難し」という認識もかりそめのものではない。
 全体に市隠の枯淡な風姿を漂わせながら、どこまでも人間臭いこだわりのようなものを捨てきれない面白さがある。
  竹群に冬の日さしてしづまればいまさしあたり物思ひなし
 人が生きる苦悩などに無縁にみえながら、人が生かされる現実の、業(ごう)のようなかなしみが沈められている。

 


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