「望外なこと」 角川春樹
映画「天と地と」の演出のため、一年間、私は俳句を一つも創らなかった。というより、出来なかったのだ。専門俳人ではない私の俳句は、あくまでも檀那芸である。しかし、俳句が一番好きだ。
第八句集『花咲爺』は、あとがきに書いた通り、山本健吉先生を偲ぶ一年間の日記であって、それ以上ではない。昨年も、実例はあげないが、素晴らしい句集が何冊か刊行された。それらの作品集と比べると、『花咲爺』は、実になさけない句集である。
蛇笏賞の電話を『俳句』編集長から受けた時、やりとりが互いにチグハグで、なんのことやらさっぱり分らなかった。年齢もキャリアも作品も蛇笏賞の条件を全く満たしていないと思っていたからである。
望外とは、このようなことだ。
天と地と中に息して花あかり
「明快なこころざしに」 飯田龍太
『花咲爺』は、近頃まれに見る句作意志の明快鮮烈な句集である。これをこころざしという言葉にいいかえてもいいが、一般に用いられる志という言葉の持つ固さや、眦(まなじり)を決した悲壮感はどこにもない。この一集は、亡き山本健吉氏に対する追慕追悼を主題とするものではあるが、幽冥を異にして、逆に故人の現身(うつしみ)が著者の胸中に蘇ってふくいくたる香気を宿す。ちまちました技巧はもとより埒(らち)外のこと。女々しさを払拭し去ったこの雄心に一種爽快な読後感がのこる。その他のことはいまはすべて末梢のこと。
「重厚と成熟と」 金子兜太
今回の候補作に、藤後左右『新樹ならびなさい』、石原八束『雁の目隠し』、佐藤鬼房『半跏坐』、石田勝彦『百千』、角川春樹『花咲爺』を用意していた。別に、古舘曹人の『自解一○○句選』が私には魅力的だったが、自解一○○句では対象にしにくい。
鬼房句集は今年度の日本詩歌文学館賞を得ているので見送る。私は八束句集にこだわったが、古希にいたらんとして、すこし体調をくずしている男の、しかも杜甫のようにはとても自分の年齢が受けとれない現代の男の、くすぐったげな、自己励起と何んとない投げやりな気分のあいだを行き来する心情が、割合によく出ているとおもっていたからである。ただ、すこし弛みが見えるのは、文芸をよく知る者の自信過剰かと考え、次の句集を待つことも一法、とおもい定めた。
春樹句集は、そのこと、緊張のなかに余裕を摑もうとして、成熟への足どりを如実に示していた。山本健吉という「魂の父」(春樹の言)を失ったあとの顕著な成長ぶりと私は見るのだが、年齢も五十歳になんなんとしている。『カエサルの地』から十年ちかい歳月を経、この間七冊の句集を世に問うて、古代に遡り、注目の人間たちとの交感を惜しみなく俳句に書いてきた。その志向、重厚にしてロマンティック。時流の軽薄短小、「父」なる健吉の軽みをさえ無視してきた感がある。私はこの志向を尊重し、且つ句歴の充実を賞したいと願ったのだ。
なお、『角川書店主』と『作者』を、私は峻別している。念のために。
「私は反対」 藤田湘子
角川春樹氏は、つねに重いテーマを抱(いだ)いて、大きな弧を描きながら作品活動をつづけている。そのエネルギーと行動力は、こんにちの俳壇にあって偉観ともいえる頼もしさがある。
ことに今回の対象となった『花咲爺』は、これまでの吉野、大和詠とは異なって、山本健吉先生追慕の情が、一巻に凜凜と流れている。一句一句が鎮魂の鐘を一打一打しているような趣があって、前著『夢殿』よりさらに大きくふくよかになったことを感じさせるものであった。
龍太、澄雄、兜太三氏が春樹氏をつよく推したのも、おおむねそうした理由であったと思うが、それを純粋に評価しようという点では、私も変わりない。
しかし、その評価がすぐ蛇笏賞に結びつくということには、私は疑義を感ずるから賛成できない。蛇笏賞そのものの純粋性も考える必要があると思うからである。
蛇笏賞は昭和四十二年、角川源義によって創設され、以来二三回にわたり二六名の秀れた俳家を表彰してきた。この間の経緯や運営のあり方を私は見てきたから、春樹氏は賞を授ける側の人であって受ける立場の人ではないと信じている。
三氏はこうしたことをも考慮したうえでなお、『花咲爺』を「純粋に評価」し、受賞を是とされた。
私は、社会一般の常識に立って右のような考え方を優先するゆえに、反対した。
「感想」 森 澄雄
句集『花咲爺』の「あとがき」のはじめには《五月七日は、私にとって十月二十七日と並ぶ忌日となった。魂の父・山本健吉先生と生命の父・角川源義の命日である》とあり、おわりには《第八句集『花咲爺』は、花の吉野を、山河滴る大和を、こよなく愛した山本健吉先生を偲ぶ一年間の日記である》とある。いわば『花咲爺』は山本健吉先生の追悼追慕の一集であるが、たとえば直接追慕する
ひと亡くて山河したゝたる大和かな
健吉忌鶯いろの春の菓子
をあげても、意外に晴朗で暗さはない。山本先生の肉体としての個の存在は喪われたが、いまやその魂は四空に普遍的存在となり、句々は、私心を捨てて、その四空に呼びかけ、問うように詠われている。清明と透徹と豊潤のよって来たるところであろう。
斑鳩にいかるがの鳴く夏景色
にぎやかに早乙女の來る伊勢のくに
たうきびのひげのあかしや地藏盆
岡山の桃をむさぼる夕立かな
秋風や味噌玉つるす伊賀盆地
ものゝ葉の大きな露をとらんとす
脱ぎ捨てゝ秋の衣となりにけり
隱國のをりしも葛の月夜かな
(第一章「阿修羅像」より)
ぼくはこの句集を、ふつうの句集を読むように一句一句の巧拙是非を判じて読むことをしなかった。句の秀抜は言うまでもないが、より大きな感銘として読んだ。受賞をこころからよろこびたい。