蛇笏賞・迢空賞

第57回「蛇笏賞」・「迢空賞」受賞作発表
  • 2023.04.24更新
    第57回「迢空賞」受賞作発表
  • 2023.04.14更新
    第57回「蛇笏賞」受賞作発表
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受賞のことば・選評

第25回蛇笏賞受賞
(該当作なし)

選評(敬称略/50音順)

「苦汁のなかで」 飯田龍太

 このたびの選考会は、終始苦汁につつまれながら、結局該当者なしということになった。各人それぞれ、念頭にしたひとはあったようであるが、他を説得して同意を求めるという積極性に欠けた。むろん、私も例外ではない。
 受賞を欠くということは、もとより好ましいことではない。沈滞を印象づけ、意慾に水をさす。しかし、安易に妥協して受賞を決定するのは、賞の権威をそこなうばかりか、受賞者に対しても非禮だろう。
 他の文芸分野に較べて、句集歌集の場合は、豊凶の差がはげしいようである。適当な対象がなければ、二年でも三年でも該当者なし。そのかわり好著を得られたら二人でも三人でも同時受賞というのもひとつの方法かもしれないが、しかし、受賞が複数でもよろしいとなると、兎角選考が安易になりがちなものである。たとい該当者なし、ということがあっても、原則としては、受賞者はひとりがいいのではないか。

 



「相乗結果」 金子兜太

 蛇笏賞の選考の難しさを痛感した次第だが、昨年の角川春樹句集のように、年輪は未熟でも、そこでの集注力が高く作品に成熟感をもたらしている場合は、一つの太い節目として、そこにスポットを当てることができる。いや、できると確認して受賞に賛成したのだが、そのときから考えていたことは、作者の年輪とそのときの句集の力倆との相乗で評価するのが蛇笏賞にはふさわしいということだった。春樹氏の場合は年輪半ば、句集の水準高位ということで、相乗の結果は高かったのだ。
 今年は、和知喜八句集『川蟬』を推し、次いで鍵和田秞子『武藏野』を考慮していたのだが、和知句集の場合は、年輪はかなりに高いが、作品はなお過渡期の思いにとらわれていて、相乗結果はまあまあに止ってしまった。鍵和田句集については、年輪はまだ低く、作品はかなりに高水準だが、あと一つ筋金が入るのを待ちたい気持があった。私は、いまの鍵和田俳句の鮮度を好むのだが、蛇笏賞となればいますこし、鮮度以上に動かし難い内質を得なければなるまい。この作者の場合は年輪の成熟がそれを解決してくれるだろうと思っている。
 飯島晴子氏はその点かなりに筋の入った作品をものしている。しかし、年輪ともどもあと一歩足りない。惜しい。

 



「小感」 藤田湘子

 殿村菟絲子『菟絲』、飯島晴子『寒晴』、和知喜八『川蟬』、清水基吉『十日の菊』の四点を私はこころに置いて選考会に出席した。
 例年だと一~二点に絞って出るのだが、そこまで絞り切れなかったのは、四点それぞれに、決定的に推すことをためらわせるウィークポイントがあると思えたからであった。
 このような思いは、どうやら他の三氏も同様らしく、いつもならさしたる時間も要せず一人の候補者へ集約されていくのに、今回はいつまで経っても堂々めぐり。右四点のほかに二、三の句集が検討の対象となったが、ついに四人の歯車が嚙み合うということはなかった。むしろ嚙み合わぬままに、「受賞者なし」の雰囲気が醸成されていったようである。これは第二十二回(昭和六十三年)の「なし」の時とはまったく違った。致し方ない結末だったと思っている。

 



「感想」 森 澄雄

 蛇笏賞の「該当者なし」は昭和六十三年に続いて二回目である。その時も「鬱然たる賞」の言葉があった。今回は『菟絲』(殿村菟絲子)、『寒晴』(飯島晴子)、『吉野』(大峯あきら)、『川蟬』(和知喜八)などの句集が討議の対象に上ったが、どれも蛇笏賞にはいま一歩、というところで、各委員の一致を見ず、結論として見送りとなった。残念だが、これもまた蛇笏賞を重からしめるものであろう。
 ぼくは以上の中で大峯あきら氏の『吉野』を推した。『吉野』の「あとがき」の《人間の主観的な想いによって自然を彩色する種類の俳句をだんだん無縁なものと考えるようになった。自分のことばを花や鳥に対して強制するのではなく、花や鳥の語ることばに耳を澄ませて、これらと交響するようなことばの場所に出たい。山川草木が送ってくるひそやかで情熱的な通信を解読するといとなみとなった俳句――そういう俳句にいたるはるかな道を思う。》という言葉もぼくの共感を呼んだし、その温雅で滋潤な作品にも感銘があった。
 さらに重さを加えて、捲土重来を待ちたい。

 


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