蛇笏賞・迢空賞

第57回「蛇笏賞」・「迢空賞」受賞作発表
  • 2023.04.24更新
    第57回「迢空賞」受賞作発表
  • 2023.04.14更新
    第57回「蛇笏賞」受賞作発表
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受賞のことば・選評

第27回迢空賞受賞
(該当作なし)

選評(敬称略/50音順)

「空谷の声と、円寂の歌集」 岡野弘彦

 迢空が「歌の円寂する時」という短歌滅亡論を書いたのは、大正十五年のことで、それからもう七十年近い歳月が過ぎている。
 あの時点では、歌は滅びるよりほかは無いのだという迢空の考えは、歌壇の中の少数派というよりはむしろ奇矯なものとして受けとられた。しかし、昭和二十年以降になると、にわかに彼の論は歌の真実を見通した、予言的なものであったことが認められ、再評価された。
 事実、迢空があの論の中でするどく指摘した、歌の滅びの三つの因由は現在も少しも変っていない。殊に、真に自立した歌の評論家がついに出なかったことと、短歌の次に来るべき新しい定型が発見できなかったことは、歌にとって致命的な問題であった。
 その上に現在は、迢空すら思いみることのなかった、新しい困難な条件が、幾つも加わってきている。
 この困難は、短歌だけに限られた問題ではなくて、文学全般、言語による表現すべての間題なのかもしれない。だが私は、そんなに拡散させて考えるよりも、執着する短歌に心を集中させて、この事を考えつめてみたい。
 いま切実に望まれるものは、まず、空谷にひびく新しい歌声の誕生である。次には、豊醇な円寂の歌集である。

 



「状況の反映として」 島田修二

 この賞の選考にかかわるようになって、平常から歌集に注意するようになった。そのように心がけてみると、候補作というようなものは、血眼になって探すものではなく、おのずと姿を現わすものであり、ごく自然に向こうからやって来るという感じがする。昨年はまさしくそのようなケースであり、選考後の実感も、手ごたえのある感じであった。
 ことしの選考は、もうひとつはっきりした形で対象が現われて来ない感じがあった。それはそれとして、仕方がない、というような思いでいたのだが、そのままの思いで会場に臨むということにもなった。期せずして他の委員も私と同じ意見であり、その状況について、かなり突込んだ議論を交したことであった。今回は、該当なしという決定に別の感慨を抱いている。
 古い話になるが、現代歌人協会賞が一年おきに該当なしということになった時代があった。昭和三十年代の終りから四十年にかけてのことである。しかし、あの時期の短歌界が不振であったとは今でも思っていない。ある種の危機感は持っていたが、何とかしなければ、という励みもあった。今はむしろ、あの時の勢いがなつかしい。あるいは、類似した時期といえるのかも知れない。

 



「所感」 清水房雄

 同じように「該当作なし」という結果になった第二十四回のことを思い出して、平成二年七月号の本誌を取り出し、その「選後感想」を読み返してみた。私もその一人の委員四名の口吻はそれぞれであったが、それぞれにうなずかれた。結局、問題の実質は今回も異なってはいないように思われる。だが今改めて思うに、私は私たちのこの国の文運――歌運について、決して悲観的ではない。小説で言えば、嘗て鷗外・漱石・谷崎・志賀の時代における中堅・新人が、やがては次の時代の大家・中堅となって行ったように、短歌にあっても、白秋・茂吉・牧水・夕暮の時代における中堅・新人が、やがては私たちのすぐ目の前に大家・中堅としての活躍を見せてくれたではないか。人は決して無くはない。作品も無くはない。
 ただこの賞のように、或る年間を限っての業績――歌集――の中から、ということになると、ふさわしい人のふさわしい集が、その年間に出ているか否かが問題になる。柿などの果樹には成り年と裏年ということがあるが、これにもそんなことが言えるかも知れない。次には成り年に当って、有力諸歌集の策出することを待望する次第である。
 くり返して言うことだが、私は日本の歌運については、決して末世観を抱いていない。

 



「精神の暢びやかさ」 前 登志夫

 バブル経済の正体についてわたしはそれが弾けるまで、くわしくは知らなかった。誰かが近来の短歌の繁昌も詩的言語のバブル現象だと言った。なるほどうまく言ったものよと感心させられた。
 歌ごころが乏しいのに、やたらと身ぶりが派手だったり、趣向をこらして景気がよい。それも才気に違いないが、ある水準まで行くとなんだか見苦しくなる。すでに芯のところがしなびているのだから、しごく当然のことではある。
 今日の歌人は大きく成熟するのが困難な時代になった。いろんな理由があろう。わけても、才走るだけで生き方の本音を見失っているからにちがいない。いのちの渾沌から言葉を発するという初心を忘れているのではないか。
 「その物につきて、その物を費しそこなふ物、数知らずあり。身に虱あり。家に鼠あり。国に賊あり。小人に財(たから)あり。君子に仁義あり。僧に法あり。」と『徒然草』は言う。
 兼好のシニカルな洞察を真似て言えば、「歌詠みに言葉あり」。あるいは「歌人に歌学あり」か。もっとずばりと言えば、歌人に賞あり!  いや勲章あり!  ショーあり! 商あり!
 まったくしようがない。むろん自戒をこめて言っている。のびやかな精神の自由が欲しい。

 


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