「飛翔願望」 佐藤鬼房
俳句の場にも、ポビュラーな余裕型とごく少数の狷介な深刻型がある。私はそのどちらにも片寄りたくないが、どうやら体質的に後者のようだ。私の俳句は岩に爪書きするようなもので、爪は裂け血が滲む。書いたものも永く痕跡を留めるのかどうか。しかし、映像として私の網膜に残りつづけ、僅かな何人かのあなたがたの目に映りつづけるだろう。
私は翼を欠いた鳥のようなものだ。つねに天空飛翔を念じ、上昇感覚を働かせながら、遂に飛べず地を這うばかりの哀しい存在の個体。あまりにも土俗に愛憎を傾けすぎるので飛び立てないのかも知れぬ。けれども、永遠の飛翔願望が私のすべてを支える。それは、芭蕉の「昨日に厭く」こころであり、更に言えば、ロマン追求につながるのではないか。この思いは私の初学からであり、とりわけ四十代に成る「鬼房遺文」以降顕著になって来ている。ときには、強靭な職人たれとおのれを叱咤するほどだから、個性などさしたる興味がない代りに、誰のためにでもなく、ひたすら私自身に克つたたかいを続けて行くだけだ。もとより、こうしたことが、どんな結果をもたらすのか皆目わからない。
読みづらい野人の拙句集に注目して下さった選考委員に感謝。
「一途のひと」 飯田龍太
佐藤鬼房は、七年間兵役にあったという。
しかし、昭和二十九年第三回「現代俳句協会賞」を受賞した。三十五歳。いまとちがってその当時の俳句の賞は、読売文学賞を別とすると、唯一のものであった。大正生まれの俳人のなかでは最も早く脚光を浴びたひとであった。東北人独特の重い詩風に、ながい兵役と敗戦の混沌を交えた荒々しい作品群であったように記憶する。
爾来、四十年近い歳月が過ぎようとしている。だが、氏の作品に底流するものは、基本的には変っていない。強いて変貌を求めるとすると、風土を直視する姿勢が一段と鮮明になったことだろう。右顧も左眄もすることなく、篤実ひと筋。周辺を見わたして、現今、氏ほど俳句に誠実な俳人は見当らないように思われる。
のみならず俳誌「小熊座」を主宰するようになって作品に自在を加えた。身近な衆を意識することによっておのずから生まれた余慶か。
蛇笏賞にふさわしいこのたびの著書は、その瞭らかな証(あか)しであるように思う。
「愚直の斧」 金子兜太
佐藤鬼房の受賞が嬉しい。鬼房の『名もなき日夜』にはじまる全句作を読んできた私には、俳句を決めるものは〈人間の総量〉という考えを、あらためて確認するおもいがある。総量をかけていけば、その人らしい俳句の形姿も、技法も出来上がってくるものだ、ということも。
切株があり愚直の斧があり
青年へ愛なき冬木日曇る
縄とびの寒暮(かんぽ)傷みし馬車通る
齢(よはひ)来て娶るや寒き夜の崖
初期作品から、最近句集『瀬頭』の、
頑強に年を越しけり母もわれも
わが星のひたすら歩む恵方道
食道が引き攣る年の夜なりけり
除夜の湯に有難くなりそこねたる
といった作品を読むとき、「愚直の斧」鬼房が、自分の総量を直(ちょく)に俳句に打込んできた過程が見えてきて、節目節目に光る立句も表れてくる。
俳句はかかるもの、かく作れ――といった入門講座も、愛読者の増加しているいまのときには必要かもしれないが、いつまでもそこにこだわっている限り、個性の乏しい、徒に平坦で、のっぺらぼうで、矮小な句作りに終始するだけである。昭和四十年代以降の俳句に魅力のあるものが少いのは、そのこともあると私は見ている。子規のように「俳句は文学なりと」胸を張っていえるだけの根性が欲しい、鬼房を見よ、と私はいう。
「感想」 藤田湘子
佐藤鬼房氏の句業は、私は最初の句集『名もなき日夜』からずっと見てきたわけであるが、前々句集『何處』あたりから、ずいぶんふっくらしたという印象を持つようになってきた。
若い頃の鬼房作品にいだいていた私のイメージは、暗く重く、そしてやや寒々としたものであった。それはたぶん、東北という風土と根を同じくしたものだろうなどと、勝手に考えたりしたこともあったけれど、深く考えることはなかった。しかし、こんどの受賞を機にそのへん見つめてみようという意欲が、私の中に生まれたのを感じる。ふっくらは鬼房氏の新しい魅力、それは奈辺より来るものなのかということに、私なりの興味を持ったからである。もっとも、ふっくらであろうがおかしみであろうがゆとりであろうが、その表われ方感じられ方はどうであっても、私は窮極的には作品の立ち姿を問題にしたい。キリッとたっているか、風姿すがしく立っているか。
『瀬頭』の鬼房氏は言うまでもなくキリッと立っている。そのことを選考会で言ったら共感を得、うれしいことであった。
「志の作家」 森 澄雄
佐藤鬼房と言えば、即座に戦後初期の〈縄とびの寒暮傷みし馬車通る〉〈怒りの詩沼は氷りて厚さ増す〉〈呼び名欲し吾が前に立つ夜の娼婦〉〈戦あるかと幼な言葉の息白し〉〈齢来て娶るや寒き夜の崖〉など、一庶民としての社会意識とヒューマニズムによる鮮烈な作品を思いだす。以来、この同年生れの作家の一貫したその志と誠実な営為に、作風はちがうが、親しみと尊敬を覚えて来た。〈陰に生る麦尊けれ青山河〉は昭和四十三年の作だが、自ら開眼の一作と言うように、おのれの住む東北の風土を負いつつ、この句のように『古事記』や民話的な、より豊饒な世界に発想の根をもちながら、原初的ないのちのかなしみ、またいとおしみを深め、人間凝視の広やかな空間をおのれの営為とし、誠実におのれ独特の世界を深めて来た。こんどの句集『瀬頭』は、さらに養痾と老の自覚の上に成った、より柔軟自在で深厚の句集。
また一人ありがたくなり朧雲 (死ぬ(仏となる)ことを有難くなるといふ)
露けさの千里を走りたく思ふ
白桃を食ふほの紅きところより
竈神の寄り合ひならん虎落笛
受賞を心より喜び、ともに養痾の身、切に加餐を祈りたい。