中村苑子
身にあまる大きな賞を、二つも同じ句集で頂きまして、ことばもないほど恐懼しております。ーつはご辞退すべきが本来と存じましたが「詩歌文学館賞」のあとでお知らせを頂きました「蛇笏賞」は、率直に申し上げて俳人ならば誰しも切望する魅力ある賞でございます。二、三日身の細るほど悩みましたが、この際、年に免じて頂き、二つ共にお受けする決心をいたしました。
ここに、賞に応えるべく将来に向けて精進する旨、ご挨拶するのが至当と存じますが、わが身を省りみて、それでは噓になります。この上は余生を、ただひたすらに晩年にふさわしい佳品の俳句を、と、ふかく心に期するばかりでございます。
第一句集の『水妖詞館』で賞を頂きました時に感じたことですが、句集には、それ自体に運命が宿っていて、賞を頂くというのも、作者を離れたところで、句集自体が賞を受ける運命を持って生まれるのだと思われたのですが、今回の句集にもそれを感受しました。ですから、賞を頂いたのは私ではなく、『吟遊』という句集が頂いたのだという感じがふかくいたします。
生みの親として「吟遊」と手をつなぎ、選考委員の諸先生および、関係者の方々に厚く御礼申し上げます。
「まさにこのひとを」 飯田龍太
不易流行というが、不易の俳句の典型は十七文字のリズム。流行は、ひとそれぞれの個性といっていいのではないか。中村苑子さんはその両面に目くばりして、しかもいたずらに僥倖(ぎょうこう)を求めないひとである。
別な角度から眺めると、境涯に徹して境涯の甘えを見せないひとでもある。多分、外柔内剛にちがいないが、そのあらわれ方は、控えめな知性につつまれた作品として現われる。また、名を求めるために俳句があるのではなく、おのれの「今」を知る確認の詩として、俳句に関って来た一徹の姿に私は感服する。
前にも似たような感想を記した記憶があるが、受賞によって作者に権威が加わるのではなく、賞に権威を加えるようなひとの受賞がいちばん望ましい。中村苑子さんは、まごうかたなくそうしたひとであると思う。
「独自の作風」 金子兜太
原子公平を推した。蛇笏賞は「鬱然たる賞」であって、そのときの句集を対象にしながら、同時に、その作者の全過程を視野に入れて決定することになっている。公平については、今回は、句集『酔歌』が対象だが、処女句集『浚渫船』(昭和三十、一九五五年刊)からの歩みが展望されなければならない。
一と言ではいいきれないことだが、〈戦後の空へ青蔦死木の丈に充つ〉とか、〈白鳥吹かれくる風媒の一行詩〉、〈良く酔えば花の夕べは死すとも可〉などの、この人の代表作を思うとき、硬質な叙情とともに、批評精神の確かさが見えてくる。俳壇の流行なるものと妥協することなく、独自の作風に執してきたのもそれ故で、『酔歌』も見事に独特なのだ。たとえば、〈子のたまわく青芝に猫白きは善〉、〈素敵という敵をおぼろに老眼病む〉、〈海に峰雲砲台跡に敵微笑む〉、〈初富士を盛り塩と見し大志かな〉、〈桐咲くやカステラけむる口中に〉などなどとあり、その特徴のなかでいちばん目立つのは、喩の多彩さである。さまざまに喩を試み、最短定型の表現領域をひろげようとしながら、エピグラム(寸鉄詩)の世界をふくらませてもいるわけで、「俳諧」の消化という現代俳句の課題の一つへの、個性的で知的な回答を提出してもいるのである。
飯田蛇笏のいかにも個性溢れる句作の道にふさわしい作者として、わたしは原子公平を推した。
「遊び――想念の豊かさとゆとり」 森 澄雄
一つ家に故人とふたり秋の墓
《いま、十年の忌日を迎えて、やっと本来の自分に還った思いをしているが、もはや、身のあらゆるものは燃焼し尽されて、嘗つてのような意欲も勇気も湧いてこない。それに近頃、本然の遊びの中にこそ、失われた人生の真実があると思われて、題名も『吟遊』などと名付けた次第》という「あとがき」の一節が身にしみた。ぼくの場合逆であるが今年七年忌、悲しみとむなしさのはてに、いま死をも親しいやすらぎがある。苑子氏はぼくより六つ上、女性の齢を言うのははばかられるが、もはや傘寿を超えられる。ぼくよりももっと深く、むなしさの奥に、豊かで不思議なやすらぎがあろう。
晩年もなほ日永にて摘む蓬
晩年は桜ふぶきと言ふべかり
もそうに違いないが、次のような作品には日常の現実に豊かな想念の遊びを重ねて、もはやこの世にもあの世にもなつかしさの思いがある。受賞をこころより喜びたい。
五六人穴掘つてゐる花の昼
飲食のあと白繭を見にゆかむ
人の世は跫音ばかり韮の花
反故焚いてをり今生の秋の暮
風邪寝して真水のごとく覚めてをり
「小感」 藤田湘子
中村苑子氏の作品から、颱風の余波の濤のうねりを感じている。比喩がまずいから誤解されそうだが、苑子氏の過去に、颱風に相当する爆発的な時期があったことを言っているのではなく、今の、こんどの句集に、うねりの大きさが感じられて、そのゆったりした力に、ちょっと説明しがたい魅力があることを言いたかったのだ。選考の途中で、苑子氏の"揺れ"が話題になった。振幅とも迷いともちがう。しいて言えば、ひとりの作家の呼気と吸気とのあわい。そこらに手を挙げるか拱くかの差が生じたわけであるが、私は手を挙げた。そのあわいに苑子氏の内なるものが涸れていない、まだ流露のみなもとが豊かであることが、見てとれたからである。私事になるが、苑子氏と知り合ってから四十年余りが過ぎた。ずいぶん淡いつき合いであったけれど、作品のほうのつき合いは、だんだんと濃くなるのを覚える。はじめの頃の苑子俳句が今のような姿になることなど、もちろん想像もしなかったわけだが、ここで改めて苑子俳句の軌跡をふりかえってみると、見事なひとりの女流像が屹立し、昭和戦後俳句に新しい色彩が加わったことを実感する。めでたい。