蛇笏賞・迢空賞

第57回「蛇笏賞」・「迢空賞」受賞作発表
  • 2023.04.24更新
    第57回「迢空賞」受賞作発表
  • 2023.04.14更新
    第57回「蛇笏賞」受賞作発表
蛇笏賞・迢空賞とは 設立のことば 受賞者一覧

受賞のことば・選評

第31回迢空賞受賞
『不穏の華』(砂子屋書房刊)
富小路禎子
【受賞者略歴】
富小路禎子(とみのこうじ よしこ)
大正15年8月1日東京生れ。昭和20年植松寿樹に師事。21年寿樹創刊の「沃野」に入り現在選者、発行人。日本歌人クラブ賞、短歌研究賞受賞。歌集『未明のしらべ』『白暁』『透明界』『柘榴の宿』『花をうつ雷』『吹雪の舞』。

受賞のことば

富小路禎子

 長年遠くに仰ぎ見ていた大きな賞を戴くことになって有難く、選考委員の皆様、角川文化振興財団の方々にまず御礼を申し上げます。また今日迄私を支えて下さった周囲の方々に改めて深く感謝申し上げたいと思います。
 昭和二十年植松寿樹先生に師事して、亡くなられる迄十九年間厳しく教えを受けたことは、歌の品格・言葉・調べなど表現の基本であったと思います。一方、三十歳以上も年齢の距たる私達が戦後の新しい傾向に魅かれ、近い世代の先輩の作品に学ぼうとするのを、むしろ喜び、自由に個性を伸ばせと教えられたことを有難く思い出します。その師の墓前に詣り、早速報告とお礼を申しました。
 私は少女の頃から異常に死を恐れ、あらゆる生き物が死を行手に見つめて生きることの苦しみ、悲しみに捉われていましたが、やがてその悲しみを訴え、自分の生身を通して不可思議な人間の内面に少しでも迫ってゆくような仕事をしたいと思うようになりました。どういう形でその表現をするかを考えて、自然に短歌にゆきついたのでした。感動の頂点をしぼって、一気に表現出来るこの短い詩型は私の気質にあっていたように思います。後に短歌の調べが言葉では言い尽くせない大きな表現の力をもち、三十一字だけの小世界ではないと思うようになり、一層魅かれてゆきました。真剣に歌を作りはじめて五十年、歌を作りたくて生き、日々新しい命を得る為に歌を作ってきたような歳月を、今沁々とうべなうことが出来ます。ただ、年と共に大切なことを何気なく言い、自在に表現してゆきたいと思うようになりました。今後は上手に老いて、その時々の人間のかなしみを詠い、自分の歌を全うしたいと願っております。

選評(敬称略/50音順)

「時代を見通す感性」 岡野弘彦

 富小路さんは、ごくさりげない表情で人の眼をそばだたせることなく、楚々として道をゆく小柄な女性である。能、謡曲に達した人であるということは、その張りのある声や、身のこなしの節々からすぐ察することができるが、内に燃えたっている不穏で烈々とした魂は、その歌に触れなければ伝わってくることがない。
  遇はざりし夫か昭和の兵一人手を振りて去るうたた寝の夢
  咲き満ちて空なくなりし桜並木暗し冥(くら)しと父母の墓訪(と)ふ
  人の世の翳りずつしりと抱へたる姥の車椅子きしみつつゆく
 大正の末に生まれて昭和の転変を生き通し、いま平成の世を見ている作者には、この軽躁の世の薄い皮膜の下にうごめいている、鎮まりがたいものの隠れもない姿が、見えてきて見えてきて耐えがたいのである。
 「飢餓から飽食へ、統制から自由奔放へと長い戦後の多様な激変の中にもまれながら、私は身のめぐりにいつも、”不穏”を感じつづけて来たように思う」と作者が告白する、その不穏こそ、時代の混沌をつきぬけて未来を感じる詩の真実である。この一冊の歌集の中に示された不穏なるものの相貌は多様であり、不気味であり、また華麗である。
  デパートの最上階なべて稀薄にて刀幾振りさりげなく売る
  置き去りの自転車に這ひのぼりきて昼顔は一日花(いちにちばな)を絶やさぬ
  脛(はぎ)細き少女が捧ぐる銀の盆に吾らの老後載りきれぬなり
刻々に自然はわれわれの周辺から失なわれ、近い世の死者達の魂は忘れ去られ、詩人の感性すら乾きに抗しがたくなっている時代に、しっとりと奥の深い感性から孕まれ、生み出されたこの歌集の作品は、時代相の真実をするどく写す浄玻璃のように感じられる。
 昨年、迢空賞は三十年の折目の歳であったが、該当作を得られなかった。賞は当然、贈られるために設けられているのであって、一年の空白の後に、今年は成熟度の高い該当作として、本歌集を得られた。深くよろこびたい。

 



「その気稟の輝き」 島田修二

 充実といい、自在といい、願って得られるものではない、新しい展開をみせる上質の抒情世界が集約されている。長く、比較的丁寧に見て来た一人として、眼を瞠らせる第七歌集である。それも、従来の気稟を保ちながら、いつ、何がきっかけで、と思わず問い直したくなるような、見事なふっ切れ方である。
  遇はざりし夫か昭和の兵一人手を振りて去るうたた寝の夢
  鶴だけしか折れぬ吾もし惚けなば部屋一杯の折鶴婆(ばば)か
  一人暮しばかり四人の病室に家族ごつこのごと援け合ふ
 独り身であった作者に、救急車で入院し、点滴を受けるという初体験がある。それにしても、慌てず騒がずの育ちの良さは、余裕派の豪気さえ感じさせて、作品はいよいよ冴えわたる。心を澄ませてこの「不穏」に立ち向かう読者は、滲み出るような笑いと涙の奥に、この世のしるしの華を見せられることだろう。
  舞ひ終へてうつぶせに置く能面のわが息残る暗き凹凸
 鬼や姿が多くテーマになる作者の、現身のかなしみを垣間みるような作品が好きである。そうした日常から滲み出るような時代批判は、何の外連もなく、さわやかにひびきわたる。
  核を持つ地球のどこかに咲き闌くる芥子畑不穏なれど麗し
  戦後たのしき日々のあるゆゑ八月は負目いよいよ重くなりゆく
 作者は繰返し自身の内なる女、それも執念を持つことを歌う。まるで思い出したような懸命さで歌われるのだが、その内奥にあるのは、女男の別を越えた、より深い人間の世界への、直接の訴えであろう。作者の本質にある気稟の輝きは、年と共に衰えるのではなくて、より深い光を漂わせる。昨年の短歌界の収穫として、『不穏の華』が群を抜いた存在であることを確かめ合い、喜びを共にしたいと思う。

 



「凩の母」 塚本邦雄

 第20回以降30回まで、「馬場あき子・岡部文夫・吉田正俊・塚本邦雄・なし・安永蕗子・森岡貞香・なし・佐佐木幸綱・篠弘・なし」と一見自然な、観点を変へれば背後の空気が覘ひ得るやうな授賞暦であつた。私自身の季節外れな受賞の後、断続的に、否規則的に「なし」が出現するのも興味のある現象だが、今回の『不穏の華』クローズアップは、この賞の特異性を示唆するやうな、興味のある事実ではあつた。
 私は時として、昭和四十七年刊、小澤花子著『野守』が、たとへば昨年の上梓であつたら、「アンケート」の結果はどうなつてゐたかと、時間を無視して想像する。あれほどの名歌集でも、知名度の低さが作用して、全く無視されることもあり得る。だが然し、迢空賞に、あれほどふさはしい女性歌集は他になかつた。
 アンケートの結果を知るまでもなく、私は高野公彦の『天泣』中の絶唱「街川に自転車いくつ水漬きをり死ぬには永き歳月が要る」一首のみでも、授賞に価すると、胸中に極論を浮べてゐた。無論、他賞既得歌集に重ねての授賞が斥けられるのは自然のことではあらうが。
 それを一方に措いて『不穏の花』は、富小路禎子の歌集歴中でも、ぬきんでて秀れた一巻であることが、再読三読するほどに明らかとなり、私に迫つてくるものを感じとり、かつまた、推薦者の名簿中に、私の畏敬する何人かが名を連ねてゐる事実に鑑みても、今年はこの歌集以外にあるまいといふ結論に達した。
  わがかつて生みしは木枯童子にて病み臥す窓を二夜(ふたよ)さ敲く
  首太きものの威圧を払ふべし輪切大根飴色に煮る
  忌の集ひにかすかな笑ひおこるとき氷片の浮く水配られぬ
 たとへば右の三首だけを凝視しても、その重みは作者の人生の重みを秘めて、例外的な光耀を発してゐる。既にして常識的な「非時(ときじく)の花」など慮外とする覚悟のほどは、この時に到らねば創造不能であつた「富小路美学」を、一巻の随処に誇示してゐる。

 



「寸感」 前 登志夫

  戦火のがれしことも甲斐なきシルクハットせめて去りゆく昭和へ振らん
  遇はざりし夫か昭和の兵一人手を振りて去るうたた寝の夢
 大正十五年生まれの著者が、貴種の家門に生を享けつつ、戦後を女一人で生きてこられたことはよく知られている。昭和を送る感慨の切実さは格別なものだ。みずからの人生の来歴をうたってそのまま昭和への鎮魂歌ともなっている。
  戦傷の隻眼老いてソ連無き今もシベリアの雪野顕つとふ
  生まざりし吾子は身内に今も居て変化自在に喜怒をあやつる
 著者の日常の哀歓や生涯のすべてが、戦後の不穏なる欠落の暗喩となっている。
 昭和からの呪縛が解き放たれたように、この歌集では、暗い喪失感をのりこえるために、イロニーの世界に思いをあそばせている。
  東大に放ち飼はるる白き鶏(とり)諧謔に似て心やすらぐ
  核を持つ地球のどこかに咲き蘭くる芥子畑不穏なれど麗し
 芥子畑の歌のおわりの部分はいささか陳腐だが、世界と内面との間に一つの流動感を示している。現実に対して加害者的なエネルギーを導き入れている。たとえば、「鬼退治はめでたき噺か鬼は鬼の糧を求めて日々の切なさ」と、率直に言挙げする。
 さりながら、歌集『不穏の華』の底の力は、さりげない日常身辺の平面から、ささやかな詩の輝きを掘り出す積年に亘る芸の美しさであろう。見えないものを摑む詩人の眼の虔ましさである。
  霽(はれ)の日の元日の昏にうかぶ故いたく俗なり金色の雲
  出棺を待つ門(かど)を焼芋屋ひそと過ぎまざまざと生の側の匂ひす
  ゆるしがたきものの一つに漆黒の猫あり出で入りの路地に飼はるる
  照明器具売場殊更明るくて一日秘めしことつい口に出づ


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