尾崎左永子
創作する者にとっては、どんな時にも反逆の精神が要求されますが、一面、反逆とは、常に伝統を意識してこそ存在するものであろうと思います。永いこと日本語を愛し、古典に携わって来た私は、いま、思いがけず迢空賞という重い賞を頂いて、改めて短歌の伝統を負う者であることを、再認識しています。若かった頃の反逆精神はそれはそれとして、いまは韻律を大切に、美しいことばのすがたと重層性を大切に、むしろ頑固に、短歌のオーソドックスな面を追及し、深化して行くのだが、与えられた役割であろうかと思っています。ありがとうございました。
「現実の奥をとらえる」 岡野弘彦
尾崎左永子さんははじめ佐藤佐太郎を師として歌に励み、やがて永い休詠期があって、ふたたび短歌創作にもどってから十五年ほどになるという。そして短歌のほかに『源氏物語』の研究家であり、他ジャンルの作家でもある。この歌集の作品のできた時期は、そういう著作のための執筆にほとんど夜も眠れないほどの緊張の連続であったようだ。
そういうことが影響しているのだろうか、この歌集『夕霧峠』は複雑な印象を与える歌集である。前半の百四十頁あたりまでまでは、読むにつれて作品がこちらの胸にすっとひびいてくるというふうにはいかない。所々によい歌があってほっと心を引き寄せられるのだが、多くの歌はどうしても心になじんでこない。たとえば次のような歌がある。
暖かき車内にコートぬぐときの脱落感はひと日の安堵
含嗽(うがひ)する水のなごりを飲みくだす哀しみの影収むるごとく
これらの歌の下の句の平板さは、これだけの経験をつんだ作者の歌としてはどうしても気になる。歌よりも物語のもの言いというべきかも知れぬ。ところが百四十頁を過ぎたあたりに、「一切の余剰を捨てて寒に入るぶだうの蔓枝なめらかに照る」という見事な一首があって、そのあとの「某日の天」「椎の闇」「駅の階」「凍る夕映」「幻ならぬ」のあたりの作品は密度が濃く読みごたえがある。
あらかじめ迫る殺気を断つごとく猫が尾を立てて行く冬の坂
夜のふけに犬は鎖の音ひきて眠りのかたち選びゐるらし
春日さす寝台列車見たりしがこの夜いづこの闇走りゐん
さすがに佐藤左太郎のもとで作歌の力をみがいた人だけに、現実を確かにとらえて現実のさらに奥の世界を一首に映し出した力量はすばらしく、ここに到って、今年の迢空賞にふさわしい歌集を得たと確信することができた。
作者は「あとがき」の中で、この歌集のできた時期は、「私の原点は短歌であるということを、改めて強く意識した時期でもあった」と記している。これを機として、いよいよ歌境を深くしてゆかれることを願っている。
「完全熟成への予感」 島田修二
『夕霧峠』のあとがきに、永い休詠期を経て短歌に復帰してから十五年になると誌されており、その間に四冊の歌集を出したと言われる。私自身の印象からは、前々歌集の『炎環』が良い感触で、その次の『春雪ふたたび』は、また休詠の影響か、或いは多忙な執筆のためか、もうひとつ、自身の生の律動に乗りきれていないように思った。そして、あらためて休詠ということの怖しさを思ったことである。
私自身、休詠の経験があり、宮柊二という強烈な磁場に戻ることができたが、他のことは何もやらずに、ただ会社勤めの方に力を傾けていたのに過ぎなかったから、昔の自転車に乗るような気分でこの世界に再び帰った。それに比べると、尾崎さんの場合は放送詩を書いたり、源氏をやったり、ありとあらゆることをやり尽くしてのことであり、隅々見ていたテレビで、胸もとのアクセサリーか何かのアドバイスをしているのに驚いたことがある。休詠と言っても、何もやらずにぼんやりとしていて、それで復帰ならばもっと始末が良かった筈である。
昏れのころ中空に淡き五日月いつか帰らん故郷をもたず
幸ひはかく過ぎ易しいま見えし松虫草は霧にまぎれつ
集中後半に佳品多く、力まず言葉の技が冴える。あの『さるびあ街』のみずみずしい抒情の匂いさえあって、完全熟成への予感を覚える。
私情を抑えて選考に当ったつもりであったが、先輩の委員三氏の賛同を得て尾崎氏の受賞に決ったことは、昭和初期生まれの同世代として、喜びを共有するものである。やはり同世代の岡井隆氏と共に三人、早稲田祭のゲストとして呼ばれたのが昭和三十二年秋であり、それから四十年余、紆余曲折はあったものの、その後の昭和短歌とその後を身を以て歩いて来た感慨を禁じ得ない。集中から、私自身のことのように思われた一首を締め括りに引きたい。
切り抜けて来し歳月をつばらかに労(いた)はりて思ふ夕昏れのあり
「〈われは何者〉尾崎左永子の詠風」 塚本邦雄
その名に然るべき歌人の名を冠した賞は、いきほひ、件(くだん)の先逹の極めた歌境と、どこかで響きあふ特長を祕めてゐることを、詮衡者の面々は不知不識に、ひそかに期待して、候補作をび、かつ月旦するだらう。「茂吉」「迢空」、この二者の名の下に、同じ歌集が選ばれる例はまづあるまいし、稀に候補作にそれらが見られるとしても、結論は自明と考へられる。しかも、詮衡者の腦裏には、作者の出發=デビュー以後の經過・足跡も亦、(+)・(-)のある種の要因となるだらう。永らく芳しい作品發表もなかつた某々が、輓近のただ一册の歌集に驚くべき變貌と上逹を示しても、選ぶ側は躊躇することが多々あるはずだ。この點このたびの受賞者は永い硏鑽の過程をよく知られてゐるはずである。
・反響のなき草原に佇つごときかかる明るさを孤獨といふや 「さるびあ街」松田さえこ
・硝子戶の中に對照の世界ありそこにも吾は憂鬱に佇つ
・冬の苺匙に壓しをり別離よりつづきて永きわが孤りの喪
佐藤佐太郞門の逸材として知られた作者ゆゑに、師の特殊な詠法は見事に體得してゐる。佐太郞は『新風十人』の一人。佐美雄・哲久・史也の錚々たるメンバーに伍して、いささかも遜色のない、數多の秀作をし、現代にも特異な世界を傳へてゐる、左永子もその隨一だらう。
・終滅のたしかなる日を知らずして春日浴みゐるわれは何者 尾崎左永子
・あらかじめ迫る殺氣を斷つごとく猫が尾を立てて行く冬の坂
・生きてあることの不思議を思ふまで散りやまぬ落花の下に佇ちゐき
・若葉揉む風激しくてひと日われは騷がしき光に圍まれゐたり
迢空賞そのものが、傑れた歌集及びその作者の資質と將來性の反映を受けて、一際鮮明な光輝を示現することもあり得る。受賞歌集の他にも、決して怯むことのない、賞を再確認したいやうな秀逸がひしめいてゐる。
「自然の奥処」 前 登志夫
『夕霧峠』は安心して味わうことのできる歌集である。平明にして格調高く、人間の体温のぬくみがある。
空渡る風の音して早春の闇にふくらむ花芽幾千
さくらさくら散り紛(まが)ひに現し身は透きつつ空へ吸はれゆかんか
光差すといふにもあらぬ道の果明るき靄にさくら咲き満つ
あらあらしき濃霧の山にいましばし人間といふ位相を忘る
自然の奥処との対応の柔軟な気息に、練達のものを見る。
家族との絆をはじめ、さまざまな日常の心理的闘争やドラマが、暗示的に盛られているのは流石だが、時として通俗さをみせることもあろうか。「いつの世も変らぬ人の質ありて捨てらるる男追ひすがる女」など、時流へのなずみ寄りか。それとは逆に、「木末高く囀りゐたる四十雀落下するごとく去りて夕映ゆ」の簡素な写実と、〈落下するごとく〉という直喩の、清新な内面への反響に示唆されるものがあった。『源氏物語』研究の業績を重ねる尾崎さんの、歌人としての大成を祈りたい。
蛇足ながら、今回は選考委員として、片山貞美氏の歌集『魚雨』を推した。現代の歌界にも、かかる古武士のごとき気骨と、自在な飄逸味と、みずみずしい憧憬をもって燃焼されている生活者の存在することに歓びをおぼえた。
鼈(すっぽん)は眼(まなこ)ふたもとつき出だし久しくゐたり頼もしげにて
来迎を見むと来たれる川原は芒がなかに人群れにけり
親鸞が釈綽空(しやくノしやくく)としるす名に基づきけらし釈ノ迢空
たなぐもる日ざし明るくこもごもに囀る声の一しきりして
おしなべて茅ぶきけむらふ谷谷のなぞへにつきて久しくも来ぬ
(もとより著者にとって、世俗の賞のことなどは二の次の事にすぎないだろう。)