宇多喜代子
まず、選考の諸先生にお礼を申し上げます。ありがとうございました。
句集の刊行も、このたびの受賞も、人に恵まれ機に恵まれて成ったものと、感謝の念を深くしております。
蛇笏賞とは、評価の定まった年上の方のための賞で、自分にかかわりがあろうなどとは露ほどにも思っておりませんでしたので、お知らせをいただきましたときには、どうしようとただ当惑するばかりでした。
『象』は、この十年間の既発表の句をまとめた第六句集です。出来上がった句集を手にしまして、死をテーマにした句を多く自選しておりましたことに自分でびっくりいたしました。多くのかけがえのない人たちとの永別の重なった十年だったのです。
このところ、深い思い、大小の出来事、風景などを、類推の方法であたかも日常身辺のことやもののように書いてみたいと試行錯誤をつづけておりますが、なかなかうまくまいりません。
まだまだこれから勉強しなくてはならないこと、やらねばならないことが山のようにございます。過分な賞の重みは胸奥におさめ、いままで通り自由に身軽に精進させていただきたく思っております。
皆様、ありがとうございました。
「低音の声音に」 飯田龍太
句集『象』の特色は、ひそかな声音の句に秀作があることではないかと思う。著者は明晰な論理を持ったひとであるが、このたびの一書は、論理の束縛をつき破って自由の世界にのびのびと歩いている感じだ。したがって新風も古格もごく自然に同居している。そこに飾らぬ感性の素肌が見えてくる。しかも作品の編集を逐年でもテーマ別でもなく一見古風に見える春夏秋冬の四季別に分類した。このことはつまり、俳句の大事な核のひとつは季にあることを明確に示している。また、作品の断面にときに硬質のひかりが見えるのは、作品のすべてが性別を離れたところから発想しているためではないかと思う。一見異色に見えるこの書名にしても、それが「悼 中上健次 六句」のなかに見えるところに切実な意味がある。
ところでこの句集にはいくつか欠点がある。欠点以上に得がたい長所がたっぷりとある。そこが面白い。欠点はないが長所もない句集など面白くもおかしくもない。句集の欠点はいわば隠し味。そこが他の文芸とのちがいだ。
「鬱然性をもった壮年」 金子兜太
「鬱然たる賞」として蛇笏賞を承知してきたつもりだが、それは、かなりの期間にわたって俳句の実績があり、現在の成果があることを意味する。そして問題は、その実績と成果の評価にあるこというまでもない。
今回は、積み上げはあるが一貫性が鈍い、あるいは日常性に甘えすぎて意欲の力感に欠ける、といった飽き足りなさに終始して、「鬱然」を基本としつつも、実績期間をもっと下げ(少くとも六十歳代まで下げ)、野(や)に資質を求める方向に範囲をひろげる要あり、と思うにいたった。野に資質とは、中央俳壇なるものには遠いところにいて、実質のある句業を積み上げてきた作者を指す。
そして、野の資質に候補者が乏しく、六十代の「鬱然性をもった壮年」として、宇多喜代子の『象』にいたった次第である。
宇多は、俳句の古格といえる内質を見つめながら、現代を生きる人間の知の求めを活かしていこうとしている。求めとは「存在」と受取るのだが、そこに新鮮なひらめきもあり、渋い寡黙もある。頼もしいと思う。
「『象』と蛇笏賞」 藤田湘子
宇多喜代子さんの『象』を推した。
宇多喜代子さんのイメージと象という名は何かそぐわぬ感じがしたのだが、句集をひもといてみると、この一冊に打込んだ著者の意図がよくわかった。いろいろな言い方ができると思うが、ひとくちに言えば、宇多さんは大きくなろうとしているのである。そして『象』はまぎれもなくそれを実現しつつある。
これまでの宇多さんの歩み方を眺めてみると、宇多さんは、地位とかある高みとかを与えられると、日ならずしてその高さにふさわしい恰幅を示すようになる。けっして位負けしないのだ。見事な作り手と言うほかない。したがって、蛇笏賞受賞以後も目の覚めるような活躍をされると、信じて疑わない。
蛇笏賞はずっと、鬱然という言葉に象徴される作家を念頭において選考が行なわれた。二十一世紀を迎えた本年からは、将来の可能性ということももう一つの基準としたい、と愚考していたが、宇多さんの『象』を得てそれがめでたく実現した。これによって蛇笏賞の将来もまた豊かになったことを喜びたい。
「いのちの自然」 森 澄雄
集名『象』は、平成四年、四十六歳で亡くなった中上健次の死を悼(いた)んだ、
八月の窓辺の象の微笑かな
からつけられている。後記に「悠然と来て悠然と去る象への愛惜を、ここにとどめました」とある。「水青き葉月に生まれ葉月に死す」などとともに、ぼくも親しかった中上氏の容姿をそのまま思い出す。だが、何よりもこの句集のよさは、単なる知を超えて、「いのちの自然」を得られたことであろう。俳壇では波郷俳句を境涯俳句と言ったり、俳句は住んでいる風土を詠む「風土俳句」という作家もいるが、それらを一切ふくめて、ぼくは大きく「いのちの自然」と言えば済むと思っている。
おのずから山険(やまさか)に立つ山桜
他界とは桜に透ける向う側
蛍にまぎれし兄を思いやる
なりふりの大事な日なり祭鱧
など、六十歳半ばになられた氏の、その自然と発想の自由、古格を得られためでたさであろう。