「平常心にたのむばかり」草間時彦
蛇笏賞をいただいた。名誉ある事だが、今の私の健康上には重荷でないとは言えない。これもひたすら平常心で受け止めたいと思っている。
私は、俳句は石田波郷の門弟である。私の今までの俳句は、ことごとく波郷の手のひらの上から離れる事ができなかった。何とか波郷の影響を乗り越えて『瀧の音』を刊行してから波郷の作品を読んでみると、叙情豊かな事に驚かざるを得ない。これは石田波郷の天性であって、私のような凡詩人の真似のできる事ではない。お恥ずかしい次第である。
今度の作品は、口語的発想が随所に見あたる事に自分で驚いている。それも平常心の現れと言えるのかも知れない。
今回の受賞はひたすらに先輩や友人のお陰である。ただ残念なのは、石田波郷の周辺の友人の多くは既に故人となってしまったことである。
私は本稿執筆の数日後が誕生日である。五月一日で八十三。これから生きていて俳句が作れるのは精々二、三年だろう。どうか高齢、病身の私を励ましていただきたい。
「究極の私俳句」 成田千空
ぼけかけし夫婦に茄子のこむらさき
老人の日や敬ひて呉れるなよ
大根煮る湯気が幸福老夫婦
よいことのひとつもなくて洗ひ飯
ねんごろに贋端渓を洗ひけり
私はいま、こうして生きながらえておりますという消息を、誰にともなく伝える俳句ばかりといってよい。即ち私の俳句に徹している。虚も飾もなく、真の詠嘆を示している。老いと病いにさいなまれながら、私の姿勢を崩さない柔軟で頑固な境地に注目せざるを得ない。草間さんははっきりと波郷の系譜につながっているが、草間さん独自の究極の俳句に達している。即興の中にも、ときおり見せる厳格な俳句の骨法に瞠目する。
松風のときをり高き茅の輪かな
白地着て折り目正しく老いにけり
千年の杉や欅や瀧の音
華麗なる寝茣蓙の上の齢かな
糸造りさよりの春の来りけり
はじめは遺句集のつもりであったという。遺句集が先にのびたことを喜びたい。
「瀟洒と芸と」 藤田湘子
句集『瀧の音』の「あとがき」の中で草間氏は、この句集は〈生きているうちに『草間時彦遺句集』をまとめようと考えた〉のだが、句が思いもよらず多く、病気の方も好転したので遺句集をやめて第八句集とした、と発刊の経緯をしるしている。短い文章だが、古くから氏の作品を読んできた私にとっては、愁眉をひらく思いがすると共に、氏の自在さ闊達さが、ここへきてさらに恰幅を増したことを感じさせるものであった。
もともと卓越した表現力を具えた人であるが、強いて言えば、この句集では技巧が芸の領域に達していて、久しぶりに「句集を読んだ」気分を堪能できた。省略、切れ、風韻、という現代俳句の忘れかけたものを、氏はつねに念頭に置いて作句してきたと思う。形式に過分な負担を期待せず、また読者に不足の代償を払わせない。だから、ゆっくりと氏の世界を共有できる。愉しく心に沁みる作の多い所以であろう。「老」を詠いながら老人臭くないのも大きな特徴。八十歳の瀟洒な句集として強く推すしだいである。
「草間時彦流の俳句」 宇多喜代子
草間時彦句集『瀧の音』には、声高な主張もなければ、むつかしい言葉も凝った技法もなく、全句まことに平明に見える。それなのに、一巻読了ののちに迫ってくる気息に圧倒されるのである。
既刊句集には、草間時彦の横顔を読むおもしろさやさらっとした自嘲への共感があったが、今回の句集の草間時彦は、正面を向いて草間時彦その人を見せて、「軽くて強い」という独特の草間時彦流を打ち立てているのだ。平明な言葉で深い人生観を表現する機微は、〈ねんごろに贋端渓を洗ひけり〉〈飲食の座がまづ昏れて秋の暮〉〈すぐ散つてしまふポピーを買ひにけり〉〈年寄は風邪引き易し引けば死す〉など、悲しみを軽い笑いに転換させた句に顕著であった。
一句一句のどれもがすぐれてうまかったり、どれもが個性的であったりする句集は、なぜか読後の印象がうすい。むしろ一人の人間の世界が出ている愚直な句集のほうに、格段の魅力と力があるということを痛感する。
『瀧の音』にこころからの敬意を表したい。