岩田 正
うれしいです。ありがとうございました。選者の方々、角川文化振興財団・角川書店のスタッフの方々、本歌集を読んで下さった歌友の皆様に心よりお礼申上げます。
賞を、しかもこんな大きな賞を戴くことは、それ自体うれしいことに違いありませんが、笑わないでください。その後、大作を頼まれることがなんともうれしいのです。これはしょっちゅう作品発表の機会に恵まれている人には金輪際わからないことと思います。
『短歌』四月号の、「岩田正年譜 藤室苑子編」によれば「昭和六十二年(一九八七)六十三歳 秋、突如二十年ぶりに作歌開始。以来手帖を離さず歌を書き留め、大学ノートにびっしりとHBの鉛筆で清書するのを無上の悦びとし優に二十冊を数える。」とありますが、これはちょっとオーバー。実際ノートは十冊程。既発表の歌を除いても、四、五千首位のストックはあるのですが、殆ど古び、発表するに価しない作品が多い。小出しならまあなんとか。いやいやこれは駄目。
目下剣ヶ峰でこらえている力士の心境です。迢空賞はそういう意味で、どう踏んでも、いい賽の目の出そうにない私を、叱咤激励してくれた、とてもありがたい恩人です。この恩に酬ゆるためにも(好きな言葉ではないが)余生を傾けて懸命にがんばる所存です。
「選考を終へて」 岡井 隆
今回の選考会では、早い段階から岩田正歌集『泡も一途』と小島ゆかり歌集『憂春』の二冊に対象がしぼられて来て、二冊同時受賞か否かが論議され、わりとすんなり同時受賞がきまつたといふ印象であつた。わたしは、お二人の受賞をよろこび、心よりお祝ひを申し上げたい。
岩田さんは、わたしにとつては若いころからの知り合ひであり、その最初のころからの歩みをつぶさに知つてゐる。戦後短歌の歴史をよく知り、その中央を歩いて来られた。わたしの作品についてもその折々にするどく深い理解を示されたりし、また敵対する論を展開されたりしたのであつて、私情を抜きにして何かを語ることの困難な歌人である。かういふ立場にわたし自身立たされたのも運命と思ふ外ない。二十年程の評論活動をへて、作歌に復帰されたのであつたが、作風は若年時のそれとは違つてゐて、わたしなどをとまどはせたのであつた。今度の歌集には、老境のもたらす〈軽み〉のごときものが見られ、また、一方で若年時のひたむきな純情を思はせるやうなものもうたはれてゐる。まだこれから、動いていかれるのかもしれない。わたしは、氏の歌境の行方に注目したいと思つてゐる。
小島ゆかりさんは、一歩一歩、確実に力をつけて来られた歌人で、『獅子座流星群』『希望』『エトピリカ』といふ風に歌集ごとに作品をふかめて来られた。特に、単なる個の生活にとぢこもるのではなく、社会的な話題や個を超えた主題にいどんでをられるのが目立つ。歌の印象は、前向きで、向日性の作家といふ思はれさうであるが、さう単純に色わけのできる歌人ではない。それはたぶん一つは、家族をかかへての実生活の基底から出て来てゐるものと思ふのである。また、他方、小島さんの実験的な作風からも来てゐるやうに感じられた。社会的な主題といつた取材の他に、今度の歌集では、落語や説教節に触発された作品群があり、これは賛否のわかれるところかもしれない。しかしわたしは、これも新しい試行にいどむ実験的精神とおもつて見てゐる。オノマトペや寓喩、隠喩の多用も目立つところであるが、これらを含めて、今後も旺盛に、新しい分野に、テーマ上も、修辞の上でも挑戦して行かれることであらう。
老練と新爽の両歌集 岡野弘彦
今年度の迢空賞は久しぶりで、老練と新爽の二人の作者に受賞が決まりました。岩田正氏は私より何ヶ月か人生の先輩ですが、その作品には自在な若々しさがあります。
腹が鳴るかなしいと鳴る食べてゐて食べられぬ人あるゆゑに鳴る
昨夜群れてをどりし余韻余所者にあたたかくさびし盆明けの空
直立不動の姿勢をつねに好みたり怖ければ鎧へり少年われは
同じ年齢で、戦中・戦後の時代を、私などよりもずっと純粋に、心を痛めながら生きてきたこの作者の、やさしさ、あたたかさ、そして頑固さが、わかりやすく伝わってきます。最近はさらに、歌に諧謔や風刺が加わってきました。八十歳には八十歳の歌の風姿があらわれてきたのだと思います。
小島ゆかりさんの『憂春』は、多様な意欲が多彩に現れた歌集です。〈なにかあやふき感覚は来ぬ岩かげを声なき蝶のもつれつつ飛ぶ〉は、北原白秋の〈物の葉やあそぶ蜆蝶はすずしくてみなあはれなり風に逸れゆく〉を、〈若宮年魚麻呂といふ人の名をおもへばたのし春の早雲〉は釋迢空の〈ゆくりなく鹽屋連鯯魚と言う名聯想びてゆふべに到る〉を下に踏んで、歌境を展開させています。
さらにオノマトペの豊かさや楽しさ。
蟬はみな小さき金の仏にてせんせんせんせん読経のこゑす
炎昼のわあんゆうんと歪みつつ樹木は蟬の声に膨らむ
『梁塵秘抄』の「金の御嶽にある巫女の打つ鼓……ていとんとうも響き鳴れ★★打つ鼓」などを連想させ、玄妙です。白秋系の才能すぐれた歌人の出現を喜びます。
「意欲溢れる二歌集」 馬場あき子
小島ゆかりさんの『憂春』は、その四十代後半期を代表する第七歌集である。「憂いの中にこそ、生きることの尊い謎がある」という発見もあった大切な時期の作品で、小島さんが従来もっていた表現のうま味に加えてさらに新生面を拓こうとする意欲が見える。
説教節の「しのだづま」や「小栗判官」などに触れて作品化をはかるなど作風の変化を求めての大胆な試行は、今後に必ずやよき実りとして表れるだろう。しかし、この歌集では、むしろ日常の素材の中に、今日性や〈私〉そのものを反映した作品に心の深さが加わった魅力がある。
午後のかぜ瀞にしづみて夏ふかしあなひそかわれに魚の影ある
シーア族難民ゆゑにパキスタン国境に来て棒で打たるる
みづからが釣りたる魚を食む子らは眼しづかに骨まで食べぬ
石川原、草川原あり 蜻蛉のにほひにみちて秋の陽は照る
岩田正さんの『泡も一途』は、長く評論を書いてきた視線が作歌にも援用されており、批評性を伴った微妙な距離の取り方や、あえて意図されたしゃにむにな独善と主観で押し通す方法などが混在し、独特の気分を横溢させている。八十歳を越えた年齢を思わせぬ少年ぽい生真面目さが、やや異様なおかしみを醸し出している。結語の早さや、わかりすぎるという直言もあるが、吉田兼好の言葉をかりれば、「おぼしきこといはぬは、はらふくるるわざなれば」という思いであろう。
こゑのみでひとのかなしさ知る茶房背中あはせの顔はみえねど
直立不動の姿勢をつねに好みたり怖ければ鎧へり少年われは
「めし」と大きく書く食堂の暖簾あり浪花の覇気は江戸にまされり
若きらの帰りのちの夜の沈黙しじまの醸す力みつむる
「歌と暮しと」 武川忠一
まず『泡も一途』から書く。この名前が面白い。集の最も根本を、結晶させている世界を、言いつくしていると言ってよい。確かに、人の一生はこの世に生まれた泡のように、浮かび漂い、たちまち消えてしまう。まさに「泡」のような存在であるに違いない。それが『泡も一途』と言うと、人間の生活、暮しの持ついとおしさ、ぬくもり侘しさが浮かび、この世に生きる大方の人々の姿と心が見えてくる。
ながらへて九条の改悪見んとするいのちとはかく不条理なもの
などの巻頭近い歌から、
内と外に緊張は日々増幅す老いても生の総括はせず
臆病の犬はよく吠ゆかすれたこゑふり絞りよく吠ゆるわれ
列帛の気合ぞ恋ひし朝覚めてヤと飛び起きると……言ふことでなし
自在な面白さ、笑いと共にある風刺や怒り、作者と一体になって歌を楽しめる。
小島ゆかりさんの『憂春』も、集の作品にいかにもぴったりした題だ。確かに「憂春」があると言える。わたしは学生の頃の小島さんの歌がどこかしっとりとしており、言葉には、おのずから、歌の格というべきものを生かしていることを知っていた。今回改めてそれを育んでこられて、こまやかな感性が「憂春」の影にも一点すこやかな思いの支えが、歌の調べになっていることを知った。知的で、生活や日常を処理できる人だろうと勝手に想像する。
玉のごと白湯やはらかし生くる身のもやもやふかい冬のあさあけ
弾丸の速さに雲へ飛び込みし冬の鳥あり のちしろき風
椿さく下土黒しこの朝は霜の神殿ひそやかに建つ
走り来て赤信号で止まるとき時間だけ先に行つてしまへり
「白湯」六首からあげた。集中の二編の長歌は意欲的。しかしやはり消化力が不足だった。