「はからずも」後藤比奈夫
はからずもとしか言いようがないのですが、この度、夢にも思っていませんでした大きな賞をいただき、感激で言葉もありません。勉強を始めました頃、虚子先生の「俳句に賞は不可」というお言葉を金科玉条に、作品への賞に目を背けて参りましたが、時代が変わり、賞がなければ俳壇が栄えないような状況となって参りました。私も父の没後長年にわたり忸怩としながら俳人協会賞の選考委員を務めたりして、次第に賞に神経を使わなくなっておりましたが、どんな賞でも賞に選ばれることの大変さは身に入みて感じておりました。とりわけ俳壇では蛇笏賞ですが、それだからこそ、このようなものをいただいては神の咎めがありそうな心地が致します。
『めんない千鳥』は八十歳を越えての第十句集ですが、たまたま中心に家内の死が据わることになりました。省こうかと思いましたが、省くと余り大きな穴が空くのでその儘に致しました。「亡妻を詠んだ句集で受賞した」と評されたりもしていますが、私はそのことについて家内に申し訳のないことをしてしまったと、取り返しのつかない後悔をしております。
「心の人」 成田千空
後藤比奈夫氏の今度の句集『めんない千鳥』の中で、私が最も注目したのは平成十四年、入院中に奥さんを亡くされた際の次の一句、
滴りて噴きて溢れて追憶は
である。深い心の底のくらやみから湧き出てきたことばの純粋さである。実際は泪であろうが、その発生源として動いている心をことばとして捉えている。
写生による俳句の機微を心得た人ではあるが、実は心の表現に腐心している人である。
硯より心を洗ふ一苦労
瀧の面をわが魂の駈け上る
閉めてある障子が人を焦がれをり
先に逝かれて露葎枯葎
「写生の深まりと滑稽」 有馬朗人
今年の蛇笏賞に私は、後藤比奈夫さんの『めんない千鳥』を第一に推した。その理由は完成度が高いこと、作風にも写生の深まりが感じられ、滑稽と同時にしみじみとした味があり、何にもまして読んでいて面白いことであった。例えば、
龍の凧には負けまじき蛇の凧
無い智恵を絞り絞りて浮いてくる
水餅の暗し暗しと嘯きぬ
浮世絵に雪(ゆき)といふ字の霏々とあり
のような句に滑稽を感じた。
今生の月の懸りし厳島
面伏せに掛けて暗しや壬生の面
風が来ただけでも外れ小鳥罠
などに写生の深まりがあると思った。しかも病気のため実際現場には立たれなかったのではないかと考えると、その心象風景とでも言うべきものの写生に感心した。そして亡き夫人を想う句、
妻とするめんない千鳥花野みち
間違へて秋風と手をつなぎゐし
のしみじみとした味に打たれたのである。
「老艶の深み」 鷹羽狩行
『めんない千鳥』は、かつて〈年玉を妻に包まうかと思ふ〉と詠んだ、その「妻」を亡くした境遇の中から生まれた句集である。
滴りて噴きて溢れて追憶は
の「滴り」は“涙”である。といえばいいすぎだが、従来の用法を超えた季語の使い方となっている。
間違へて秋風と手をつなぎゐし
は、妻の手と「間違へ」たのであり、俳句だからこそ憚ることなく言える慟哭の一句。その前年の格調高き〈置きてすぐ秋風まとふ一壺あり〉の「秋風」とは明らかに違う。
これ以上咲くこともなき黐の花
叩かねば死ぬると叩き鉦叩
これらも悲しみの中にあって、それに凭れず、作家としての矜持を示す。
大病で入院中に夫人を失うという人生の逆境にあって、外界から隔絶されていた分、むしろ精神を集中できたのかもしれない。
後藤比奈夫氏の『めんない千鳥』は、既刊八句集の上に打ち立てられた盤石にして老艶をきわめた一冊である。
「後藤比奈夫流滑稽と理知」 宇多喜代子
句が似ていると言うのでもないのに、後藤比奈夫さんの『金泥』あたりの句を読み始めた頃からしばらくは、句の向う側に後藤夜半のことがちらちらして仕方なかった。ところがいつしか呪文が解けたように後藤夜半のことが頭から去り、夜半は夜半、後藤比奈夫は後藤比奈夫という読み方が当然となってきた。
『めんない千鳥』では、〈今生の月の懸りし厳島〉〈瀧の面をわが魂の駈け上る〉など、大景に心理を託した句にも感心させられたが、後藤比奈夫さんの句で独自性が出るのは人事句である。その人事句が人事を軸にしたというより、ことごとく人間を軸にしているところに魅力がある。無自覚な滑稽、端正な理知、というものがあるとすれば、後藤比奈夫さんの句境はまさにこれに当る。
間違へて秋風と手をつなぎゐし
夫人との永別を主調とした句のうち、その思いが凝縮されていると感じられた句である。
どうぞご自愛専一にと祈り上げる。