「一生修行の道」岡本 眸
蛇笏賞は昭和四十二年、俳人飯田蛇笏先生のご遺徳を世に語りつぎ、俳句界最高の業績をたたえる為に、角川書店が設定された大賞と伺っております。これまで受賞された方々のお名前を拝見しても、皆吉爽雨、加藤楸邨、秋元不死男、安住敦先生をはじめ、俳句史に輝く、立派な業績を収められた方々ばかりでございます。そういう大きな賞を、こんな無力な私が頂いてよろしいのでしょうか。嬉しいというよりは、申し訳ないような、戸惑いでいっぱいでございます。
辛うじて、ただ一つの救いは、現代の長寿社会のおかげで、私も八十歳を目前にしながら、何とか元気に句作をつづけて居られる、というところでしょうか。私の師、富安風生は、若い頃、大病をされましたが、齢を重ねるごとに元気になられ、九十五齢を見事に生き抜いて、俳句史に“老艶の世界”を開かれました。
及ばずながら、師にならって、私も年齢と仲好くしながら、一句でも納得のゆく作品を生み出せるよう、努めたいものと念じております。今回の受賞を私へのお励ましの杖と心得、心を新たに、句作に精進して参りたいと存じます。本当に有難うございました。
「平明にして凡ならざる深さ」 有馬朗人
第41回蛇笏賞に岡本眸さんの『午後の椅子』を推した。
この句集では岡本眸さんの俳句における写実性の深まりと、知的な女性心理の一層の働きを感じた。そして、
歯固や東京に山見ゆる日の
階段の下暗かりき手毬唄
というようなこまやかな抒情性が佳いと思う。
温めるも冷ますも息や日々の冬
花種を蒔き常の日を新たにす
わが町や雀隠れにすずめ居て
男来て羽織紐買ふ寒の入
などの句の日常生活の中にある詩を詠っているところがよい。
岡本眸さんの句には鬼面人を驚かすとか、きわだった技巧的なところが無いことがよい。
簡潔な文来て水の澄むことを
魞挿の魞さすほかは考へず
身を包む紺の深さも帰燕以後
のような平明にして凡ならざる深さが佳いと思った。
「些事こそ大事」 宇多喜代子
岡本眸さんの旧作に〈目の前の些事こそ大事日照草〉があります。この「目の前の些事こそ大事」という思想が、岡本さんの俳句に一貫した強い根です。『午後の椅子』の、
洗ふとて食器二三や昼の虫
折りたたむ風も秋なる日傘かな
など、何の事件もない句ですが、昭和初期以来の女性たちが台所俳句と揶揄(やゆ)されながらも根強く紡いできた俳句の系譜を堂々と受けた句です。いのち大事や大人生論を大声で述べるのではなく、強者弱者寄り合って日々のいのちを生きていく、生あるものはみな愛しい、そんなところから広がる大きないのちの日々とゆるぎない普遍性、これぞ台所俳句の真骨頂でしょう。
『午後の椅子』は、その句境にさらに洗練された感覚を注ぎ込み、午後という時間の中で、歩み来た時間を振り返っている句集です。
浮氷見てゐる自由時間かな
はろかなるものに昨日と桐の花
「「俳句は日記」を一貫」 鷹羽狩行
今回は『午後の椅子』しかないと決めて選考会に臨み、その通りの結果となった。昭和・平成 今回は『午後の椅子』しかないと決めて選考会に臨み、その通りの結果となった。昭和・平成を代表する女性俳人の、むしろ遅すぎる受賞である。
岡本眸さんにとって「俳句は日記」であるという。〈夫愛すはうれん草の紅愛す〉の新婚時代、〈残りしか残されゐしか春の鴨〉の夫との死別、〈雲の峰一人の家を一人発ち〉の師・富安風生の永別、主宰誌「朝」の創刊……という長編日記につづくのが、今度の句集である。
花種を蒔き常の日を新たにす
があるように、日常を日々新たに、生き甲斐のあるその時々を確かに生きてきたという証拠をとどめている。
日傘直立水中を行くごとし
暖かし人帰したるそのあとも
初電車待つといつもの位置に立つ
全景に雨が斜めや浮寝鳥
万事控えめで、前面に出たがらない岡本さんだが、その分、内面の充実に心を向けることができたのだろう。
「新しい日常性」 成田千空
岡本眸さんは飛行機もエスカレーターも嫌いだという。強引で危うくてついて行けないらしい。嫌いなものと妥協しない潔癖さと繊細な感覚が俳句に生かされているようである。日常性がこの人の世界だが、日常を新しくする契機を大事にしている。
花種を蒔き常の日を新たにす
きのふより今日枯深し飯白し
星空へハンカチ貼つて生きむかな
雨粒のままに雨来て青葡萄
自分の世界を自分の言葉で表現し切って、俳句の類想を寄せつけない点で、お手本といってよいであろう。熟成しながら初心を失っていない作家である。