「ありがとうございます」黒田杏子
蛇笏賞決定をお知らせ頂いたのは四月七日の夕刻、十余年前に聞き手をつとめさせて頂いた『証言・昭和の俳句』に登場の十三名の大先達のお顔写真と当時頂いていた封書や葉書を一冊のファイルに収める作業を終えたところでした。十八ヶ月にわたる『俳句』誌の長期連載企画。この仕事から学ぶことは現在もなお無限にあり、このたびの第五句集『日光月光』はそのお蔭を多大に享受しています。
さらに翌四月八日には、同人誌「件(くだん)」のメンバーが飯田秀實・多惠子夫妻のお招きを受け、山廬後山の盛りの桃の花を見に境川に伺うことが決まっておりましたので、蛇笏賞決定の翌朝には予定通り私達は揃って飯田邸にお邪魔していたのでした。
『花下草上』八百句。『日光月光』七百句。二冊の句集の間に『黒田杏子句集成』。これらの装幀はすべて菊地信義さんの企画設計によるもの。私は尊敬する装幀家の提案に全面的に従いました。そして何より、「藍生」主宰としての結社活動と、頼もしき同人誌「件」に拠る活動。この両輪がうまくかみ合い、六十代の私に停滞を許さなかったのです。この世の時間は限られていますが、私は出合いに恵まれ、巡り合えた方々に大きく護られてきました。望外の賞を頂き、あらためてすべての方々に深く感謝を捧げます。
「叙情と日常と」 金子兜太
『日光月光』は黒田杏子の第五句集で、著者は七十代を迎えた。仏文学者海老坂武氏の言う「チボー家世代」を自認する著者は情熱的であり行動的である。中学三年生の少女は著者マルタン・デュ・ガールに手紙を書いた。そして五十代からの嵯峨野寂庵を起点とする四国八十八ヶ所、更に西国坂東秩父百ヶ寺とつづく巡拝吟行となり、満行も近い。春は、これも俳句仲間と連れ立っての「日本列島桜花巡礼」をつづけている。
少女期のチボー家のジャックへの情熱が、いま空海、そして特に一遍への傾倒となり、その仏心を熱く追う。桜花への情熱然り。
その情熱は叙情を熱くし、日常の有り態のままに俳句となる。日常の有り態を修飾しようとはしないのだ。
流星のわれに棲みつきたるあまた
あゆみやまざるおんまなこ十二月
そして日常を自在に。
起きて寝て食べて死ぬ極月遍路
草庭のおぼろこの世のおぼろかな
白塗りの夏蚕のかほをなつかしみ
「行動力の人」 有馬朗人
今年の蛇笏賞の選考会議では、実に長時間『日光月光』をめぐって議論が行われた。この句集には秀句が多いことは事実であるが、全体で七百句に近い句の中に、あえて言えば地歌に類するものも多くあった。そこで実力があり一層伸びることは間違いない作家であるから、もう少ししぼった次の句集を期待したいという考えもあった。一方、この句集の作り方は今後も変らない、次回まで待つべきでないという考えも強くあり、議論が二つに分かれた。しかし後者がより強く、それが結論となった。
私は先ず杏子さんの作句への情熱と行動力を買う。例えば桜の句を次々と作るエネルギーを買うものである。桜といえばどこへでも作りに行く情熱がすごい。杏子さんは一遍が好きである。私も一遍が好きである。したがって一遍の句が佳いと思った。
一片の月速かりき一遍忌
吹きてさます芋の子の椀一遍忌
十六夜の雲割つて飛ぶ一遍忌
共に山口青邨先生に学んだ人間として、杏子さんの蛇笏賞を心より祝いたい。
「底力のある句集」 宇多喜代子
『日光月光』の作品の主軸にあるのは亡き父母恋しの念である。〈子をもたざれば父母恋し天の川〉のように、その思いは時季の花鳥星辰に託される。折に触れてこの人の書く「桜は逢いにきてはくれない、だから逢いに行く」という行動原理は、時空を越えて黒田杏子の能動資質を膨らませている。
主宰誌を持ち、俳句門外の有名無名の人々との交流に時間を割き、その出会いをエネルギーにしてゆく。その一方で、「ひとり」の透徹した目を据えて句作に没入してゆく。ともすれば圧倒的になりがちな日の熱量と、月の静けさを一つにした力とする。
句集の句数が多いのは作者の句集の作り方であるからよしとするにしても、そのために生じる自己亜流は読者の目にはややうるさい。〈捨ててはならぬ手紙束ねて冬至〉のような五七五ならぬ十七音、〈立夏なほ兄に護られ父に護られ〉の繰返し、この多出は是非の分かれるところであろうが、そこを凌駕する佳句と、底力をもった句集であるところを認め、推挙の理由とした。
「素朴な作品の味」 片山由美子
長時間にわたる討議の結果、黒田杏子氏の『日光月光』に授賞が決まった。有言実行型俳人の行動力とエネルギーが結実した句集である。その中に修行者のひたむきさと、狙った獲物は決して逃さない狩人のような鋭さを感じた。とりわけ桜を追い求めて詠み続けた作品には執念がにじむ。
どの谷のいづれの花となく舞へる
さくらの夜枕の高さそれぞれに
あはうみの闇あふれしむ花篝
さまざまなジャンルを代表する人々との交流も一巻のモチーフの一つだが、亡き父母や兄を詠んだ作品に却って心惹かれた。
ちちははの大往生の雛の家
初夢のまた兄に逢ふうれしさよ
なほわれを呼ぶ母のこゑほたる川
多様な試みが見られる句集でもあるが、案外、計らいのない素朴な作品に捨てがたい味があった。
ふるさとの川は那珂川鮎の川
朝は新茶おひるごはんのあとは古茶
零余子こぼるる朝刊をとりに出て