渡辺松男
好きな野草はたくさんあって、特にキヌガサソウ、スミレサイシン、ツバメオモト、クサタチバナ、イチヨウラン。鳥も好きで、ツツドリ、キビタキ、コマドリ、木はミズナラ、サワグルミ、上げればきりもないこれらの植物や鳥に私は強く惹かれてきました。懐かしさや憧れや愛しさやいろいろな感情がごっちゃになって光とともに凝縮し、「あっ、これだ」と何度も思いました。私はこれらの野生の植物や鳥を満足に歌にできませんでしたが、「あっ、これだ」という思いは私を支えてくれました。
山をぶらぶら一日中歩くことがなによりも好きで、こんなに楽しいことはないと思っていた私ですが、二年前にALSと診断され、それもできなくなりました。希望や夢や生きる意味のようなことを時間軸上に置くことは困難となりましたが、不思議にも歌はできてきます。歌は時間の奴隷ではないからでしょう。良かったです。
今、小さい庭には亡き妻がむかし植えたスズランやシランが咲き、雨が降っていて、蛙が鳴いています。迢空賞、こんなに大きな賞は私には勿体無いことです。ただただ感謝の気持ちで一杯です。これから次の一首にかかります。
「地を穿つ歌」 岡野弘彦
今年の迢空賞は渡辺松男氏の『蝶』に決定した。最初の歌集から注目してきた特異な作風を持つ作者である。この作者が幼時の回想に託して、作歌の情動を語った文章がある。
「穴を掘っていた。柔らかい土で適度に湿り気があった。野蒜を引っこ抜こうとしたのだった。……そうしているうちに、掘ること自体がたのしくなり、やがてぞくぞくと夢中になり、野蒜のことなどどうでもよくなって、どんどん掘っていった。」
自らを語って見事な文章である。その情動の成果を作品の上に見てみよう。
ひらひらとなにげなく舞ひてゐたりしがガラスを透過しゆく紋白蝶(もんしろ)
りんくわくのなくなる春のゆふぐれの香具山の背へ腕をまはしぬ
まぼろしをみるやうにひとをみるくせのひとにかかれる霓もみてゐる
三首目の歌の霓はにじで、「光鮮明ナル雄ハ虹、光薄キ雌ハ霓」とする彼の国の習いによれば、一首は女人のあえかな眸のかげりを詠んだものであろう。平仮名ばかりの表記のうちの霓の一字が玄妙である。
だが、歌集の終り近くになると、次のような歌がつづく。
きみ病みてとんぼのめだまのやうになるとんぼのめだまだけのやうになる
きみ生きてゐてはく息のすふ息のかそけきおとがわれをささふる
「あとがき」の「妻がまだ生きていた頃、私も自分がいずれ筋委縮性側索硬化症と診断されることになるとは夢にも思っていなかった頃の作です。」とあるのが胸につきささる。地を穿ち穿って、玄奥にとどく歌を詠みつづけてほしい。
「特異な存在論的哲学詩」 岡井 隆
木にひかりさしたればかげうまれたりかげうまれ木はそんざいをます Ⅰ
生はあるかなきかのかをりと祖母はゑみにほひたちつぼすみれを食めり Ⅰ
おほみづあを給油所の白き壁にゐて朝のましづかさがここにあつまる Ⅱ
蚊にさされたるところちさき桃となりおいしさうに君のふともものうへ Ⅲ
止まらむとしておほゆれのすかんぽにおのが重みをおどろくすずめ Ⅲ
くわんぐわんとふ者はものごしやはらかく草萌えいろのほほゑみしけむ Ⅳ
ふいろそふいあ光は東からきざし楤の芽さつとゆでこぼしたり Ⅳ
集中せよ かぜに 集中せよ 雨に くきくきとまだわかき杉葉は Ⅴ
ひと生きてただあるも摩訶ふしぎにてわが見るだれも人体は火事 Ⅵ
あかりなきところの夜桜といふは うつすらと白象のぶぶんぶぶんみゆ Ⅶ
あいまいにしてきたるあまたなるものをそのままに負け蝸牛(くわぎう)けむるも Ⅶ
わたしぽとつと沼のへに生みおとされてここからむげんへひろがる波紋 Ⅷ
迢空賞の歴史でも稀にみる特異な作風の歌人の出現であらう。存在論的な哲学詩であるが戦前の西田幾多郎、三木清、九鬼周造らの歌とも違い、ハイデガー、レヴィナスらの味はひに近い。東洋的な味はひが漂ふあたり、西欧思想には還元出来ない歌であり、鳥羽僧正の鳥獣戯画にかよふ。
作者は重病に臥し、苦患に満ちた人生に在る。許されてこの歌の後を続けられむことを天に祈る。
「『蝶』その生の痛み」 馬場あき子
『蝶』は渡辺松男さんの第七歌集である。題名は『荘子』の「斉物論」の中にある言葉、「昔荘周夢に胡蝶となる。———自ら愉(たのし)んで志適へるかな。———知らず周の夢に胡蝶となるか、胡蝶の夢に周となるかを」に拠るだろう。渡辺さんは初期の頃からそうした現実と非現実を往還する作風をもっていたが、作者は近年、祖母、父、母と打ちつづき肉親との死別が重なり、さらに、まだ若い妻の死がつづいた。この歌集はその妻がまだ在世の頃の作品であるが、その後作者自身が筋萎縮性側索硬化症と診断され、闘病の日々を送ることになった。
こうした中で、作者本来の特質であった現実と非現実が交叉し、二重うつしになる。テーマは生と死、命と水、存在と影というような場面に膨らんでゆき、大きな現実への対位として作品の個性を形成するようになる。しかし、渡辺さんは病いそのものや、生活そのものはうたわない。むしろ、さまざまな自然の表情や、自然に養われるあらゆる生命体と自在に交歓をとげうる独特な存在として、実感あふれる不思議な現実を構出している。
木のやうに目をあけてをり目をあけてゐることはたれのじやまにもならず
まひまひの生まれたばかりの子の背にも貝がある、痛々しいではないか
生はあるかなきかのかをりと祖母はゑみにほひたちつぼすみれを食めり
『蝶』を貫流するテーマは重厚であるが、その表現は暗さや深刻さはなく、さりげなく仄かに明るい言葉の深さや、素材に対する異想の妙味が魅力であり、面白く、より悲しい。こうした作品の文脈を支えているのは、あまねき生あるものの、生きるけなげな姿に対する注目と、痛切な姿であるといえるだろう。
「アニミズムの歌集『蝶』」 佐佐木幸綱
渡辺松男歌集『蝶』の迢空賞受賞をとても喜んでいます。選考会当日、私はケルン郊外のデルブリュックの家にいて選考会には参加できませんでした。日本出発前に、『蝶』を受賞作として強く推すむねの意見を提出してはあったのですが、どうなるか、心配しながら遠いドイツで結果をただ待っていました。そんな事情もあって、『蝶』の受賞決定はことのほか嬉しく思ったのでした。
決定の報せがあったのは四月はじめ。ケルンの春はまだ浅く、寒い日がつづいているときでした。庭の寒暖計は毎朝零下四度、五度を示していました。
きよくたんな寒さに厳と立つ槻のまはだかはえいゑんのいりくち
この土地に槻木は見られませんが、まはだかのポプラを仰ぎながら、歌集『蝶』のアニミズムの感覚をたしかめるようにこの歌を思い出していたのでした。
この歌集では、山が、樹木が、蠅が、私たち人間がそう意識しているようにアニマを意識しています。生命を魂をもっています。ここには樹木がでてくる作を引用しておきましょう。
ふき吹かれ風のこころの澄めるとき鹿の映れる白樺の幹
ねむるきみ緑陰つくる樹のやうにうごかぬはおほきなことをしてゐる
墓のへにおもひつづけて木となりしひとありとふかく吾(あ)をうなづかす
まんかいのさくらゆ次のまんかいへあゆまば十歩待たば一年
『蝶』は、修辞全盛の歌壇の現在に、修辞へのこだわりを乗り越えるかたちで、アニミズムの感覚をくりかえしくりかえしうたい重ねている歌集です。この歌集がいま刊行された意味を深く考えたいと思います。