蛇笏賞・迢空賞

第57回「蛇笏賞」・「迢空賞」受賞作発表
  • 2023.04.24更新
    第57回「迢空賞」受賞作発表
  • 2023.04.14更新
    第57回「蛇笏賞」受賞作発表
蛇笏賞・迢空賞とは 設立のことば 受賞者一覧

受賞のことば・選評

第49回蛇笏賞受賞
『短夜』(KADOKAWA刊)
大峯あきら
【受賞者略歴】
大峯あきら(おおみね あきら)
昭和4年、奈良県生まれ。本名・顕。学生時代、高浜虚子に師事。昭和59年、宇佐美魚目、岡井省二らと「晨」創刊、代表同人。毎日俳壇選者。大阪大学名誉教授。哲学者。僧侶。句集に『宇宙塵』(第42回俳人協会賞)、『牡丹』『星雲』のほか、『群生海』で第52回毎日芸術賞・第26回詩歌文学館賞を受賞。著書に『花月のコスモロジー』『君自身に還れ 知と信を巡る対話』(池田晶子との共著)、『命ひとつ――よく生きるヒント』など。平成27年、『短夜』で第7回小野市詩歌文学賞を受賞。

受賞のことば

「詩と哲学のあいだに」大峯あきら

 生まれ育った浄土真宗の寺の僧職、少年時代から始めた俳句、東西思想の哲学的研究という三つの仕事にかかわりながら齢を重ねて来ました。「二足の草鞋をはく」とか「二兎追うものは一兎をも得ず」という言葉を耳にするたびに、忸怩たる思いを嚙みしめて来た歳月でもあります。
 若い頃は哲学の研究をつづけながら、もう一方で俳句の実作をすることがなかなかうまくゆかず、ずいぶん苦労したように思います。宇宙をそのまま受け入れる詩的直観といういとなみと、宇宙の知的分析という哲学的思索とは、或る意味では正反対のいとなみとも云えるからです。そんなわけで、俳句もダメだし哲学の方も不十分という時期が長かった気がします。
 詩作と思索との間のこのような仲違いが、自分の中で解消するようになったのは、ヘルダーリンやハイデガーなどの西欧の傑出した人々の作品から学んだ、詩の本質についての深い洞察です。俳句の世界とは別なところから来た光が意外にも俳句の深層を照らし出してくれたのです。「日常の言葉では、人間は物について自分が語ることを聞いているが、詩においては人間は物が物自身について語る言葉を聞いている」(マックス・ピカート、『人間と言葉』。)
 このたび、蛇笏賞という栄誉ある賞を頂き身に余る思いであります。

選評(敬称略/50音順)

「静思の句集」宇多喜代子

 大峯あきら氏は都塵を離れた吉野の古寺に生まれ育ち、住職を務めながら大阪大学の哲学の教授として後進を導いてこられた。而(しこう)して俳人なのだが、この三つがきわめて自然に一つとなっていると思われるのが句集『短夜』である。宗教、哲学、俳句、そのいずれもが自然や人の生死そのものの真髄にかかわるところに食い込んだ作品である。
 小賢しさや、目を引く技法、他愛ない出来事、そんなところを意としない思念を常とする大峯氏の四時の景や時間、『短夜』はそれらを基調とした句で成っている。
  金銀の木の芽の中の大和かな
  啓蟄の日は老松の上にあり
  いつまでも花のうしろにある日かな
  麦熟れて太平洋の鳴りわたる
  草枯れて地球あまねく日が当り
  昼ごろに一人通りし深雪かな
  時鳥鳴き移りゆく雨の中
  短夜の雨音にとり巻かれたる
 早春の大和を詠んだ句は古来多くあるが、〈金銀の木の芽の中の〉と眺めた句は他にないだろう。世界が大きく、読むものの心胆を刺激せずに静かに潤す。
 たまたまここに抽いた句は、やがては位置を変えたり、時を変えたりして動き出す日や鳥や波や雨などばかりである。老松の上の日も、花のうしろの日もいずれは定められた天の道を動いて去ってゆく。昼頃の雪も夕べには変化するだろうし、雨も止むだろう。一切が自然運行の則のまま動いているのだ。人もまた同じ宇宙のなかに一個としてあり、芽吹きの春を迎え衰退の秋を迎える。そんな宇宙の動の一瞬を静の一瞬としてとらえた句境。蛇笏賞推挙の理由の一端は、そんなところにもある。

 



「季節の思想」 片山由美子

 大峯あきら氏の『短夜』を迷わず推した。
 『短夜』は、これまでの大峯氏の世界の延長線上にある句集だが、それは俳句観のみならず、自然観、世界観に、ぶれが無いことの証と言える。
 大峯氏の俳句を貫いているのは季節の思想である。季節の循環の中で生きることの実感、それがひとつひとつの作品となっている。
 季節は季語によって認識されるが、大峯氏の季語に対する信頼は確固たるものがある。東日本大震災によって季語が変わったと主張するひともいるが、大峯氏の俳句からはむしろ、季語は天変地異によって揺らぐような脆弱なものではないとの信念が伝わってくる。
  金銀の木の芽の中の大和かな
 選考会において称賛された作品のひとつで、自然に対するまなざしに大峯氏らしさがある。日本人にとっての自然は、人間と対立したり克服すべき対象ではない。恵みを与えるばかりではなく、大災害をもたらすこともあるが、そうした自然を受け入れ、その中で生きる人間の信頼を感じさせるのである。
  盤石に音を消したる時雨かな
  いつまでも花のうしろにある日かな
  春の山おもひおもひに径通ふ
  大きな日まいにち沈む雪間かな
  昼ごろに一人通りし深雪かな
 格調が高く、大きな世界への広がりが感じられる作品である。
 俳句はスローガンでもなければメッセージでもない。すぐれた俳句は言葉を超えた豊かさを湛えているものである。『短夜』の一句一句にはそれがある。まさに蛇笏賞にふさわしい一冊と言えよう。

 



「〈凌辱された季語〉の行方」 齋藤愼爾

 臨済宗の僧侶としての著作を愛でてきた蛇笏門の中川宋淵に同じく、フィヒテやハイデッガー、親鸞を研究する哲学者大峯あきら氏のエッセイを愛読してきた。『短夜』の「あとがき」には他力の信心について説く八十六歳の親鸞の言葉が引かれる。同じ年齢になった氏の「現在」の内面の表白であろう。
 就中〈いつまでも花のうしろにある日かな〉には(旧作に〈いつまでも日は西にある牡丹かな〉『群生海』あり)、宇宙の循環、生命の神秘、人生の哀歓、彼岸の祈りまでを籠めた深淵があり、名吟〈日輪の燃ゆる音ある蕨かな〉(『牡丹』)に並ぶ。しかし全体的には低調。東日本大震災の句は〈はかりなき事もたらしぬ春の海〉一句のみ。「実体験したものしか詠めないという矜持がある」と称える向きもあるが。
 〈御降りの高鳴る草の庵かな〉〈灌仏の畦うつくしき大和かな〉など、何時の時代のことか。草庵ならぬ仮設住宅で暮らす衆生の想像力に届くだろうか。ここには戦争が終わった時、「これからもう日本の悲しみ、日本の美しさしか歌ふまい」といった川端康成の哀しみ、イロニーがない。「あとがき」に「季節それ自身は変わることなく回帰して来ます」とあるが、花も草も無常といえる。劉延芝も「年年歳歳花相似たり」と詠み、「花は相同じ」とはいわない。今年の花は去年の花ではない。宇宙的瞑想を称賛される氏だが、私は漱石『三四郎』の中の台詞を敷衍し、「宇宙より、頭の中のほうが広い」と考えている。
 小原硺葉氏の『無辜の民』には、「大震災」と「戦争」と同一視した思索の深さがある。「震災と原発事故とで季語が凌辱された」「花鳥諷詠派の自然認識は激震に見まわれる」という世評に俳句で誠実に応えていえる。三・一一以前の三陸地震に及ぶなど歴史的時間の重層性。家族各自の視点からの震災考、宇宙感覚がある。〈こどもらは三歳も経てば芒の子〉。

 



「宇宙性の時代」 長谷川櫂

 現代俳句の最大のテーマはじつは宇宙性である。大峯あきらさんは生涯、意識的さらに無意識的に俳句のもつ宇宙性をテーマにしてきた人である。今年の蛇笏賞は大峯さんを顕彰するだけでなく、俳句の宇宙性に光をあてることになるだろう。受賞作『短夜』から引けば、
  いつまでも花のうしろにある日かな
  草枯れて地球あまねく日が当り
 このように太陽や月を詠んだ句だけでなく、
  涼風のとめどもなくて淋しけれ
  短夜の雨音にとり巻かれたる
 こうした日常の句にも宇宙性が感じられる。宇宙的な思いが日常にまで浸透しているということだろう。
 俳句は本来、宇宙的な詩である。季語は季節を表す言葉だが、季節とは太陽系における地球の位置によって生まれるものであり、五七五のリズムは天体の奏でる音楽と唱和している。このように俳句は宇宙の静寂と向き合っている詩であり、芭蕉は〈古池や蛙飛こむ水のおと〉を詠み、〈閑さや岩にしみ入蟬の声〉を詠んで、この宇宙の静寂をとらえた。
 しかし俳句の宇宙性が明確に意識されるようになったのは、ガガーリン少佐が人工衛星で地球を回り(一九六一年)、アームストロング船長が月面を歩き(六九年)、地球の外から地球を眺める視点を人類が獲得してから、わずか半世紀のことにすぎない。現代はまさに宇宙性の草分けの時代にほかならない。大峯さんの場合、この俳句の宇宙性が長年、研究してこられた仏教の宇宙観と結びついたということだろうか。
 蛇笏賞にかぎらず賞とはその人と作品を顕彰するものである。しかし、ときには逆に受賞する人によって賞が重みを増す場合もある。今年の大峯さんの受賞は蛇笏賞にとっても名誉なことである。

 


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