三枝昻之
外の仕事が全てなくなって家籠もりの日々だが、夕方には多摩丘陵をウォーキングする。四月十五日も四十分ほど歩き、帰って受賞の知らせを受けた。
この歌集の背景には多くの変化がある。七十代の豊かさも困難も身に添う暮らし、東日本大震災、山梨県立文学館に通うようになった日々。人生と時代と故郷という主題が今まで以上に反映されている。
歌集名は飯田龍太最終句集『遅速』の借用だが、「あり」と添えてお許しいただくことにした。迢空賞は蛇笏賞と兄弟の賞でもあり、今回は龍太先生に導かれての受賞と感じている。
巡り合わせが悪いのか、私が紫綬褒章を受章したときは東日本大震災、今回は新型肺炎、どうも困難と重なる。思い出すのは関東大震災に遭遇し、校本万葉集を焼失した佐佐木信綱の〈いかに堪へいかさまにふるひたつべきと試の日は我らにぞこし〉である。今の私たちも試される日々。だからこそ、自分のペースを守りながら世界と向き合い、短歌という長距離ランナーの文芸を遠く歩んでゆくことにしよう。私を支えてくださる方々に応えるためにも。
「甲斐の国を愛する歌集」佐佐木幸綱
新型コロナウイルスの影響で、今年の迢空賞選考会はスカイプを使っての選考会になりました。勇退なさった岡野弘彦さんをはじめ、かつての選考委員の方たちには思いもつかなかっただろう選考会のかたちに、いささか感慨を覚えつつこれを書いています。
今年の授賞作は、三枝昂之の第十三歌集『遅速あり』に決まりました。この歌集を読むと、甲斐の国へのふかい信頼と愛情が読者の心につよく残ります。歌の数はそれほど多くありませんが、甲斐の国をうたった作がこの歌集の芯をなし、基底部をささえている、と読みました。
冠雪の農鳥岳と間ノ岳 甲斐の深空は雪嶺のため
連山を持つ幸福を思わせて蛇笏あり龍太あり甲斐の国あり
農鳥はもう現れる…追いかけて追われて甲斐の二月三月
作者は山梨県甲府市の生まれ。二〇一三年から山梨県立文学館の館長をつとめています。その関係で、ひんぱんに甲府に通っていると聞きます。秋から冬にかけては冠雪かがやく南アルプスの山々を、春には農鳥岳にあらわれる白鳥の姿を、往復の車窓に眺めているのでしょう。
『遅速あり』という歌集のタイトルは、甲斐の生んだ俳人・飯田龍太の第十句集『遅速』からの引用と後記にあります。山梨県立文学館の玄関近くの庭には龍太の句碑があります。タイトルもまた甲斐の国を意識してのネーミングだということがわかります。
候補作の一冊、吉川宏志『石蓮花』が、物名歌、沓冠歌、回文歌、合計十首を採録しています。和歌の歴史は言葉遊びの歴史を大切にしてきました。それを意識しての試みとして大いに注目しました。
「三冊の魅力」高野公彦
今回私は、吉川宏志『石蓮花』、桑原正紀『秋夜吟』、花山多佳子『鳥影』の三冊の歌集に魅力を感じた。この中でどれが受賞してもいいと思った。
旅はたぶん窓の近くに座りたくなること 山に石蕗光る 吉川宏志
金網は海辺に立てり少しだけ基地の中へと指を入れたり
三日月と金星ならぶ それぞれが太陽光のつゆけき反射
バラの花渦ふかぶかと描かれおり母の絵はみな母を喪う
堅実な表現力を身に付け、口語と文語をうまく混交した文体を持っている。人生や物や社会や自然など多方面に関心を寄せ、歌の幅が広く、しかも視野の広さと見方の深さが両立している。平凡な事物の奥に潜む意外な真実を掘り起こす才もある。
ああこんないい秋なのにじわじわとにつぽん丸は面舵もやう 桑原正紀
月魄に呼ばれしならむ戊夜を覚めカーテン引けば全円の月
夜な夜なを妻に添ひ寝をする猫の首のほころび縫ひ合はせやる
しろたへの豆腐に落とす包丁がてのひらにとどく感触すずし
施設で療養する妻を見守る歌を軸として、思索的で温かくて物静かな作品が多い。雑味のない純度の高い抒情歌の詠み手として、自分の歌風を作り上げている。ときおり政治に向ける眼差しは鋭い。
実例を挙げるスペースがないが、花山作品は全体に落ち着いた詠み方で、抑制された抒情性が香る。孫を詠んだ歌も愛情の過剰表現はなく、読者も一緒になって幼児の姿を眺め、楽しむことができる。
「ひとりの歌人に流れる時間の確かさ」永田和宏
三枝昂之氏の第十三歌集『遅速あり』は、ひとりの歌人のなかに流れている、あるいは流れてきた時間の量というものを、強く印象づける一冊であった。
青春に見ない見えないもの多しああこんなにも銀杏の早稲田
思うことなきにもあらず病弱な甲斐のおのこが古稀となる空
青春のこころざしあり孤独あり神保町の古書店の棚
「〈革命と恋〉という遠きこころざしもとより夏草ばかりであった」という歌にも見られるように、かつては観念のなかにあった「こころざし」が、今では、古書店の棚のなかにゆったりと収まっているかのようである。
「青春に見ない見えないもの多し」は誰もが齢とともに噛みしめる思いでもあろうが、それが「銀杏の早稲田」と対になって思い起こされるところには、氏の歌人としての時間の量を裏張りする、個の具体の確かさがある。
くぬぎは深くコナラは浅く身を鎧い樹の肌に樹の温かみあり
あした舞い丘をほのかに染める雪午後の光となりて溶けゆく
このような淡白な自然詠が詠まれるようになるまでの日々をも、思うのである。
三枝氏とは、同世代の歌人として、その歩みを間近に見てきたが、昭和、平成を等分に抱え込むその時間はまた、同時代の誰もが抱えてきた時間なのでもあろう。
実作だけでなく、評論家としての活躍に加えて、日本歌人クラブ会長としての実績なども、迢空賞の受賞にふさわしいと思われる。
「『遅速あり』を読んで」馬場あき子
前歌集と年代的には重なる部分もある歌集ということだが、ここでは編年体で四部に編集されている。「壱」の部では身辺の自然をうたった歌が印象に残ったが、なかにはこんな歌もある。
まず風が、それから鳥が、やがて人が、はるか遅れて国が来し島
さまざまな場面で問題を起している領土問題に対して、その根本をあらわし本来のすがたを立ち上がらせていて面白かった。また「弐」では、故郷への思いが回想とともにゆったりとうたわれ、著者の生の源にあるものがみえてくる。
「参」もそのつづきだが、ここにはシビアな回想として、清水房雄や柏崎驍二、萩原慎一郎などの老若の死者への思い、また今日の現実としての沖縄への視線がある。しかし私は次の二首に注目した。
ギブスからやっと抜け出し地に立ちて小学七年生は歩み始めき
桃の花咲く明るさや母の知らぬわれを歩みて十七回忌
母の眼に映ることができなくなったその死後の十七年の歳月から、逆にフィルムを回してみる小学七年生、そこからの人生を噛みしめているのである。
「四」の部では著者が「あとがき」でいうところの「災害と劣化する政治」の時代を歩む思いが気仙沼地域に触れたり、日本歌人クラブ会長として振りかえるその歴史や、平成じぶん歌などを詠むことによって見えてくるものを力として、自己認識をしているようだ。回想を力とすることがふさわしい年齢になった著者のことを思った。
全体に著者の多面的な関心がみえ、ことに人名の多さは格別である。さまざまな素材に対する自己意識がくっきりしているところなども印象に残った。