「春の風」柿本多映
蛇笏賞受賞のお知らせを受けた時、一瞬体の中を熱いものが駆け抜けて行った。思いもよらぬ出来事で暫く呆然としていた。目の前のテレビはコロナウイルスの緊迫したニュースを繰り返している。何とも身の置きどころのない自分がそこに居た。
その時、庭から突然フェフェという声が聞こえた。長年我が家に棲みついている青蛙が今年初めて姿を見せ鳴いたのだった。
赤尾兜子に始まり、橋閒石、永田耕衣、三橋敏雄、最後に桂信子を師として、師亡きあとは一人で歩いて来た十六年間。充実した日々であったことを改めて思う。
二度童子狐のかんざし挿してくる 多映
これは私の五歳の原風景が俳句となっている。滋賀里で見た呆けた老婦人。薄笑いをしながら高貴な着物をはだけて歩いていた。何故か哀しかった。あれから数十年のち、体の中にしまわれたものが俳句という詩形を得て言葉として表現される。その喜びを今、嚙みしめている。心の底から発する言葉を大切にしたいと思う。
最後になりましたが、選考委員の皆様に心から御礼申し上げます。
「言葉が生み出す世界」片山由美子
本年度の蛇笏賞に『柿本多映俳句集成』『火は禱り』の二作を推した。
『柿本多映俳句集成』は、句集六冊と、その抜粋および未完句集作品を加えた『柿本多映句集』、拾遺を収める一冊である。既刊句集による集成が本賞の対象になるかどうかについては、過去に『澁谷道俳句集成』を句集未収録作品が収められているので問題なしとした例がある。『柿本多映俳句集成』は句集未収録作品が一七〇〇句にも及び、それだけでも十分選考対象になる。その質は極めて高く句集数冊分にも匹敵する。
柿本氏は神秘的ともいえる作風を貫いてきた特異な作家である。既に存在しているものを言葉に置き換えるのではなく、言葉によって世界を生み出していく作句法であり、作品に既視感が皆無である。しかも、言葉の意味性を無視した俳句とは違い、難解ではない。どの作品にも言葉の呪術性というものを強く感じた。
白日の水蜜桃を水攻めに
魔がさして生きてゐるなり蕨山
春の夜の闇から紐が垂れてゐる
かの世では野菊でありし姉いもと
怺へゐるものに真昼の螢籠
鍵和田秞子氏の『火は禱り』は、二〇一三年から一九年にかけての作品をまとめた第十句集。つねに俳句に全霊をかけてきた氏の、渾身の一冊という印象を受けた。長年の自身の女性性へのこだわりを捨て、老いを正面から受け入れた作品は力強い。原始の匂いが立ちのぼるような句集であった。
曼珠沙華蕊逆立てて夜を燃ゆる
はればれと鳥獣のこゑ仏生会
残生や落つる椿の白がちに
入院といふさすらひに雪の華
太陽がものの始まり雑煮椀
「言葉の幽遠世界」高野ムツオ
『柿本多映俳句集成』が蛇笏賞の対象となるか、まず脳裏に浮かんだのは、その是非であった。角川文化振興財団の定義では、前年に刊行された句集を対象とし、俳句界の最高の業績をたたえる大賞とあるのみ。加えて、本集には既刊句集の作品の他に、それらに割愛された句が多数収録されている。よって十分対象としての資格があると判断した。
柿本多映の句を読むたび、俳句が、今も未知無限の可能性を秘めていることに気づかされる。俳句の詩の鉱脈は、まだその入口付近を掘り進んだにすぎない。
天涼し蠑螈(いもり)は腹をみせながら
天地の間(あはひ)ぺんぺん草咲いて
永遠といふ螢火のごときもの
これらの句は、森羅万象の命は、いかに小さくとも、宇宙大の世界を蔵するかけがえのない存在であり、時空と一体となって瞬間瞬間、そこに息づいていることを我々に教えてくれる。
躾糸抜いて落花に加はりぬ
柿本多映が落花なのか、落花が柿本多映なのか。だが、騙し絵ではない。存在することの秘密自体が十七音となって立っているのだ。
単行の新刊句集としては小川軽舟の『朝晩』にもっとも注目した。草間時彦や鷹羽狩行のサラリーマン俳句の系譜に連なる。
飯蛸やわが老い先に子の未来
蟻めきぬ蟻の巣めきし地下街に
ひぐらしや木の家に死に石の墓
平成という時代を平凡に生き、平凡な人間として、自らの生や来るべき死を見つめている。そこに非凡卓越した詩心の燃焼を実感する。
最後に柿本多映の言葉の幽遠世界に深い敬意と祝意を表し感想とする。
「選考を終えて」高橋睦郎
『柿本多映俳句集成』は質量共に卓抜な一冊だ。熟年と呼ばれるに相応しい年齢で俳句と出会った女性の半世紀に及ぶきらきらしい句業が詰まった大冊で、深く感動した者だ。ただ私はこれを正面から押す立場にはなかった。恵贈に与った直後読み通し、集中補遺部分に既刊七句集に勝るとも劣らぬ佳句が多いと指摘したところ、私が佳句と思うものを抜粋して出版したいとの話がおこり、「拾遺放光」の名のもとに近刊予定で、私は関係者ということになるからだ。ただ誰にも負けず評価したのは事実であり、他の選考委員が一致して押されることに反対する理由はなく、悦んで受容した。
そういう立場の私が一貫して押したのは小川軽舟句集『朝晩』だった。私の知る限り、昨年度最も世評高い一冊だったし、他ならぬ柿本多映さんが「俳句」令和二年三月号「俳人『超』大アンケート」で「座右の書」に挙げていられることも大きかった。その特徴を一言でいえばやさしさ、人間に対する、自然に対する、世界に対する、歴史に対する、言葉に対するやさしさ。その根底には、それらのすべてが移ろいやすく、壊れやすいものだとの認識といとおしみがある。連想されるのは小津安二郎の映画に通底する、時として無表情な深淵の覗くやさしさだ。
蛇笏賞選考会ではかねて迢空賞に較べて受賞者年齢が高いことが指摘されつづけていると聞いており、この五十歳代後半にある作者の卓れた成果は蛇笏賞若返りの又とない好機会と考え、そのことを力説したつもりだが、力及ばず結果的には断念せざるを得なかった。ほんらい自由清明であるべき詩歌文芸の世界の選考会に政治学、いっそう正確には家政学的計らいが、無意識裡にも働いていなければ幸いだというのが、選考を終えた率直な私感だ。
「全身全霊」長谷川 櫂
第五十四回蛇笏賞は選考委員四人の満場一致で『柿本多映俳句集成』一冊に決まった。まず柿本さんにお祝いを申し上げたい。
ここ数年、蛇笏賞の選考は票が大きく割れて二句集の同時受賞となることもあったが、本来、蛇笏賞は一句集に与えられるべきもの。今回は賞の本道に立ち戻った選考といえるだろう。
柿本さんの『集成』が満票を集めたのは、その圧倒的な俳句の力による。既刊七句集のほか、一九七七年から二〇一一年まで三十五年間の千五百句あまりを収録する。句集にすれば楽に四、五冊分に相当する、この「拾遺」から引くと、
梳る近江あたかも水の秋
日は月の光にかはり飼ふ兎
海へゆく蝶に菜の花地獄かな
魂が言葉となる。あるいは言葉が魂となるといえばいいか。柿本さんのすぐれた句はどれも全身全霊をかけて詠んだ句である。それゆえに読者もまた全身全霊をかけて読まなければならない。
金魚の尾ゆらぐ一日また一日
他界までざらつく秋の足裏かな
春の空わが眼球のほろびゆく
そこには俳句を作る方法もなければ、俳句を読む方法もない。しいていえば、柿本さん自身が柿本さんの俳句の方法なのだ。読者は既存の方法などあてにせず空(くう)手(しゆ)で一語一語、一句一句と向き合うしかない。
今回の選考会で私が申し上げたかったのは、このことだけである。