「責任の重さ」小川軽舟
選考会の時間は、大阪の勤め先の自分の席にいた。気がつくと両手が冷たい。時計の針はなかなか進まない。携帯電話に受賞の報せを受けて急に肩の力が抜けた。三年前にも句集『朝晩』が候補作になったが、これほど緊張して待った記憶がない。それだけ今回の句集『無辺』には強い思い入れがあったようだ。
サラリーマンの私は、十年余り前から単身赴任の日々を送っている。その生活が新鮮だったこともあっていわゆるサラリーマン俳句を多く作り、『朝晩』は意図的にそれらを前面に出した。しかし、サラリーマン自体が平俗な存在だから、それを詠む俳句も平俗をまぬかれがたい。『無辺』はそうした要素を拭い去って構成してみた。私の俳句の立脚点が日常にあることは変わらないが、日常の先に広がる無辺に目を凝らした。無辺を思うことで日常が明瞭な輪郭で描けると信じたのである。まだまだ拙い作品に望外の評価を下さった選考委員の皆さんに深く感謝している。
蛇笏賞は句境を究めて大成した俳人に与えられるものとばかり思っていたので、そのイメージと私自身の落差に戸惑っている。選考委員の皆さんの誰よりも年少の私が受賞したのは、次の時代を託すべき後進に与える蛇笏賞もあってよいという方向転換があってのことかと想像している。そして、その責任の重さが今また私の肩に重くのしかかっている。
「近所の鳩礼賛」高野ムツオ
第五十七回蛇笏賞の最終候補には七十代に入ったばかりの中原道夫から六十代早々の岸本尚毅、小川軽舟まで五人の句集が上った。従来の顔ぶれからすれば、比較的若い世代の句集が揃ったことになる。喜ばしい反面、七十代後半や八十代以上の句集が候補に残らなかったのは長寿化の今日侘しくも感じた。もっとも若いとはいえ、すでに俳壇的に高い評価を得ている俳歴十分の五人の、しかも、それぞれ五年以上に及ぶ句業の成果である。いずれも充実した力にあふれていた。また、それぞれの在り方で、老いを意識した句が垣間見られたことも興味深かった。
中原道夫の『橋』は第十句集だが、定評の才気あふれる機知と諧謔味は変わらず縦横で、見せ場の枚挙にいとまがなかった。
はんざきに冬の時閒ののしかかる
炎天はドームの骨をまだ舐る
魔が差すごとく白鳥の翳るなり
など、その本領が十二分に発揮されていた。
猫の耳薄く尖れる祭の夜
奧行が夢にもありて冬日差す
の鋭敏な感覚も印象鮮明だった。
星野高士の『渾沌』は、伸びやかかつ瑞々しい感受性による自然把握が基調となっている。鎌倉の歴史や風光を踏まえた諷詠ぶりも安定していた。
蛇行して日を弾きつつ雪解川
春めきし野は両端を忘れゐし
手花火や山の高さの重ならず
ときにダイナミックにときに繊細にと幅が広い。
印伝の鞄の底の油照
早蕨に宿る夕星明りかな
など独自の発見が全体を豊かにもしていた。
恩田侑布子の『はだかむし』は古典の時空や駿河の地霊と交感しながら、叙情豊かに詠い上げた一集。古語に新しい息吹を与えることにも挑んでいた。
濡れ縁やほたるの闇に足を垂れ
初富士や大空に雪はらひつゝ
黒潮の担ぎ来りし荒神輿
などスケールが大きい句作りが随所に見受けられた。
青空に突つかい棒のなき寒さ
麦熟るゝかんかんと日は太腿に
の肉体感覚も惹かれた。これは資質に依るところか。
岸本尚毅は写生派ながら、新しい表現や素材に貪欲に挑む。加えてなかなかの奇想の使い手だ。『雲は友』はさまざまなアプローチで物象に迫っている。
なめくぢを越えゆく蟻や梅雨菌
黒き蝶赤きところを見せにけり
緑蔭やものを食ふ顔よく動き
など言葉によるズームアップが冴えている。
いつかどこかの土筆となつて生えてゐし
風鈴の下に老人牛乳屋
の悲哀と飄逸のブレンド具合もコクがあった。
小川軽舟の『無辺』は日常身辺を丁寧にルポルタージュしながら、言葉の映像力を生かして有限の生のおかしみを醸し出す工夫に努めていた。
わが磨きわが履く靴に花の雨
生者みな舌濡れてをり秋の風
かあさんと墓を呼ぶ父冬日差す
草間時彦とはまた別趣のサラリーマン俳句である。
光源は太陽一つ初景色
人類史地層に薄し種を蒔く
などその身辺の根底をなす時空へと転じても見せた。
選考会はそれぞれの評価を元に各句集の長所短所について意を尽くし丁寧に論議した。小川軽舟の『無辺』は当初より全選考委員の高い評価を得ていたせいもあって、難航することなく授賞が決定した。
第一句集『近所』の代表句〈渡り鳥近所の鳩に気負なし〉は、どこか物欲しげなところがあって発表当初から気に入らなかった。それは今も変わらない。だが、漂泊を繰り返す鳥も、一所在住の鳩も有為転変の世界を生きる同じ儚い命に相違はない。軽舟は啄む鳩と同じく自らの足元を見つめながら流動止まない存在事象を言葉で見出し続けてきた。今、無窮の空を翔る大鳥と近所の鳩の羽音とが渾然となって聞こえてくる。
「清新の感」高橋睦郎
今回の蛇笏賞選考に当たっての第一印象は、最終候補五句集作者の年齢が近年になく若返ったことだ。六十歳代に入ったばかりから七十歳代初めまで。短歌の迢空賞や詩の高見順賞では珍しくないかむしろ高齢の感なしとしないが、長寿の文芸ともされる俳句では、このところ七十歳代後半から上の受賞者が相次いでいただけに、やはり清新の感があった。
その中で最年少の小川軽舟氏の句集『無辺』が選考委員四名の票をまんべんなく集め受賞に到ったことは象徴的だ。今後、五十歳代、四十歳代、それ以下の受賞もありえないことではないからだ。もちろん、七十歳代後半以上の作者の活躍もおおいに願わしい。老若にかかわらず、よい俳句、よい句集が現われ競うことが、そのまま俳句の隆昌に繫がると思うからだ。
受賞句集『無辺』は小川氏のこれまでの句集を一歩も二歩も出ている。とはいえ氏の従来の句集の内容をサラリーマン俳句と捉えるのは正確ではあるまい。氏の生きることに真摯な態度が自ら選んだ生活形態に沿った佳句を多数産んだまでで、氏の句境はほんらいもっと広く自然の運行に開かれてきた。氏にとっては日常生活も自然の運行の部分、重要な部分だったのだ、と私は認識している。
氏の句境についての私の認識は『無辺』においても基本的に変わらない。変わらないままに、さらに広くさらに自由になった、と見える。しかも現在に確乎と立ちつつ過去へ・未来への想像力が伸ばされている。まさに集名にいう「無辺」である。もちろんこれが氏の到達点というわけではない。俳人としてはまだまだ若い氏のこと、生活者・表現者として成熟中の只今の成果がこれだと思えばよかろう。
神に酒仏に水や鉦叩
大阪を地下に乗り継ぎ近松忌
喨々と月光聞こゆ山桜
寒き夜の法案運ぶ台車かな
漂着のごと老人の日向ぼこ
石鹼玉吹き従へて橋渡る
四月一日名告らざる噓拡散す
電脳界曼荼羅無辺空海忌
人類史地層に薄し種を蒔く
次いで評価の高かったのが星野高士句集『渾沌』。これも集名にふさわしく従来のホトトギス的安定から敢えて渾沌を求める気味があった。この傾向がさらにさらに深まることを期待したい。
クローバーの野に広々としたる雨
雨一夜風の一夜や竹夫人
鉄棒は只の鉄なり大試験
もうすでに夜明けの色となる氷柱
中原道夫句集『橋』。
寒明の池に沈みし竹箒
極道に顏の類型秋暑し
千枚の殘る一枚漬ぬめる
これらの句の自然体に魅かれたが、他のほとんどの句が一ひねりしてあり、そのひねりの手つきが一々如実に感じられるのが気になった。詩歌は自然または偶然との出会いの代作か、せいぜいが合作と信じて疑わない私には、自らの刻印を残さなければ気が済まない氏の手法がここまで極まったかと残念でならない。自分独りの表現力など知れたものだと私は思っているのだが、氏の考えは如何。
恩田侑布子句集『はだかむし』。
山祇へ奉書一枚鏡餅
かな〳 〵の雲母ふりしきる故山かな
山水を満たす湯殿や四方の春
いずれも侑布子調でありつつ、無理なく好もしい。しかし、全体に自らを恃むあまりか言葉に負荷をかけすぎる嫌いがあるように思われる。もっと肩の力を抜いて自分から解放されたほうが、この人本来の美質が現われると思うのだが。
岸本尚毅句集『雲は友』。
打ち打ちて皆みまかりし砧かな
何淋しとてにほどりの淋しさは
土用波ひとたび深くうち窪み
これらのしみじみとした味は比類なく、私の最も畏敬する一人。まだまだ言葉で栫えているという評を聞くと、そうかもしれないとも思う。
「深奥に迫る」中村和弘
句集『橋』(中原道夫)は六百句余りを収め相変わらず多作。俳諧のエッセンスの諧謔、風刺、皮肉、そして比喩、擬人化、見立等のレトリックと天衣無縫ともいうべき智識・才気。古俳諧と現代俳句の「懸橋」のようにも読める。しかし、集中私の感銘したのは、
猫の耳薄く尖れる祭の夜
極道に顏の類型秋暑し
殼中を狹し狹しと牡蠣太る
春竆や焦げ飯ごそと水に浮く
等の句のリアリティであり、その観察眼である。祭の夜の常ならぬ気配に耳を立てる猫、極道者の荒んだ顔はどれも似通う、その殻から溢れんほどの牡蠣の身。どれも生命感をもって映像として見え心に残る。特に春竆の句は、釜で飯を炊いた経験に裏打ちされ真に迫る。このような句はまさに中原道夫の世界であろう。
最後まで蛇笏賞に推したが、レトリシアンともとられかねない表現などが気になった。
句集『はだかむし』(恩田侑布子)は、よく練れた、目の利いた作品集である。同年に出版された著作『渾沌の恋人――北斎の波、芭蕉の興』は瞠目すべき文化論。俳句・短歌・絵画などの古典の造詣をベースにした広い視野。あとがきに「論作のせめぎ合いを素志としてきた」とあるように、この句集も評論と連動している。
まつはりし孤影ぬぐはん花の雨
墓原を抜けて高きに登りけり
萬年の山がぐるりと虫送り
青苔にはづむや盲蜘蛛の恋
評論と実作、おおよそどちらかに重心が移るものであるが、掲出の句を含め並び立っている、と思う。
集中の「冨嶽三十六景」は大胆な試み、そして「北斎の波」冨嶽三十六景を意識した連作。静岡在住の作者ならではの力業である。才気無尽さらなる展開を。
句集『無辺』(小川軽舟)は、前句集『朝晩』も良い句集であったが更に領域が広くなり大胆。前に向かって攻めている気配がありこころよい。あとがきに「私たちは果てを知らない無辺世界に危うく浮かぶように日常を営んでいる……」と感慨を述べている。
集中の作品とどのように関わっているか。
日の丸の夕日と見ゆる桜かな
日に茂り月に茂りて廃市たり
鱈ちりの灰汁淡雪のごとくなり
比良八荒天を鞴と吹きすさぶ
人類史地層に薄し種を蒔く
生命感に溢れた秀句が多くその作句も無辺の中の一期一会でもあろう。句集は、その作家の思想・詩性、そして批評が籠ってこそである。その意味も含めて良き句集である。あえていえば負の領域の句が少ないことが気になった。
句集『渾沌』(星野高士)は、まさに天地渾沌の趣にして写生の王道、自選の確りとしたよき句集。令和二年に予定されていた「玉藻」創刊九十周年の行事もコロナ禍で中止など、まさに社会的渾沌で先の見えない状況であった。天地渾沌そして社会的な渾沌が集中の作品に陰影を与えているかのように、思える。
海風に流されつつも夏霞
用水は雨粒のせて冷やかに
化野の寸土彩るいぬふぐり
蜂ゆるくとんで好日溢れさす
その他秀句が多く、自然であれものであれ、それに向ける作者の視線が優しい。星野高士作品を愛する読者の一人として、欲をいえば大胆な把握が加われば、と思う。
句集『雲は友』(岸本尚毅)、あとがきに「還暦を過ぎた。遠からず「高齢者」となる」とある。人によるものの、老いの意識はもっと先であろう。作品・作品評ともに注目してきた一人である。
春塵やマクドナルドの黄なるM
石としてきらめく墓や冬椿
福笑そのまま誰もゐない部屋
初旅の印度の霞吸ひにけり
他、秀句がある一方、季重り、比喩の句は意図したにしろ、あまりうまくいっていないように思う。
最終的に句集『無辺』に決定した。あらかじめ念頭にあった一人で、この結果に満足している。
「これからの型破りも」 正木ゆう子
五作品中、一推しを小川軽舟『無辺』、二番目を僅差で恩田侑布子『はだかむし』とした。『無辺』は三人が一番に推していて、昨年の評価のばらつきとは対照的なスタートであった。しかし選考はそれほどすんなりと進んだわけではなく、中村委員推薦の中原道夫『橋』をめぐっては、かなり長い議論が尽くされた。また星野高士『渾沌』は全員が平均して高い評価という意味では一致、また岸本尚毅『雲は友』についても、誰もがその才能を認めた上での、今後を期しての見送りであったことを、それぞれの作者に伝えたい。
みづうみの波一重なり松の花 『無辺』
大阪にアジアの雨や南瓜煮る
学歴と官歴に死す赤絨毯
電脳界曼荼羅無辺空海忌
大皿に松風吹けり初鰹
受賞作『無辺』は何よりも先ず佳句が多い、そして面白い。さらに風景から人事まで作品の幅が広い。現代をしっかりと詠み込んでいる、ユーモアもある、というオールマイティ。少し前までは、単身赴任の日常というテーマが時として素材の狭さを感じさせていたが、今回はその枠が取り払われたスケール感が加わった。しかも確かな手堅さは失われていないので、上滑りなところがなく安定しており、辺りを払うような格調を感じさせる句が少なくなかった。安定は時に只事へと傾くという意見もあったが、この句集に限らず、俳人としての作者自身充分に受賞に相応しい存在と思う。還暦を過ぎたばかりの作者、これからの型破りもありそうな充実を感じる。
蕾んではひらく空あり夏つばめ 『はだかむし』
華甲とは水仙の葉をひとひねり
初富士や大空に雪はらひつゝ
水澄むや敬語のまゝに老いし恋
恩田侑布子は現俳壇においてオンリーワンの存在と常々思っている。難しい言葉を使い過ぎるという意見もあったが、辞書を引きながらでも読むと、作者が言葉を楽しみ、血肉としていることが伝わるし、虚実を織り交ぜながらも句に実があり、華やかさが香るばかりだ。確かに読者の幅は狭いかもしれない。しかしこのままに、刺激的な存在でいて欲しいと願う。
わかさぎの骨の障るも味として 『橋』
雪卸し屋根の高さを忘じけり
浴佛の血の引くやうに乾きゆく
魔が差すごとく白鳥の翳るなり
中原道夫の句に特徴的なのは、食べ物の句と雪の句の確かさで、この句集にも佳句がみっしり詰まっている。それを皆が認めながらも、中村委員の強い推挽が通らなかったのは、佳句以外の句も少なくないという意見も共通していたからである。特に言葉遊び的な句の割合が多過ぎるのではと感じた。句集も収録句も多ければ当然とはいえ、妹弟子として僭越ながら、もう少し絞ってもいいのではないかと言いたい。
雨音をさらに細かくして野菊 『渾沌』
ひとときといふ長さあり新茶酌む
鉄棒は只の鉄なり大試験
さ男鹿の一歩のあとは数十歩
星野高士の『渾沌』は、誰もが親近感と好感をもって読んでいて、特にマイナスな発言があったわけではない。声高でなく、穏やかで、楽しく、その人そのままの句風はまさに極楽の文学と呼ぶに相応しい。ただ、さらっと掬いあげた一瞬のスケッチが、それだけでは淡すぎると感じる句もあった、といおうか。それが持ち味なのだけれども。
ひとところ黒く澄みたる柿の肉 『雲は友』
槌の罅柄に及びたる砧かな
火にくべし腐れ通草や汁を噴く
土用波ひとたび深くうち窪み
岸本尚毅もまた個性的な作風であり、危うきに遊びつつ、技の冴えを見せる人だ。人の詠まないところ、美しくはない物、季重なり、特定の季語や題材への拘り。どれも意識的であって、読ませる。しかしもう少しニュートラルな句作りも読者としては見たいと思う。
選考は辛辣な言も飛び交ったが、誰もが俳句とその作者への敬意を込めて、真摯に一冊一冊に食い込んでいた。受賞してもしなくても、選考委員も含め、俳句を志す者として、これからの一句一句を作っていきたい。