小澤 實
句集『澤』の題名は、ぼくが主宰する俳句雑誌の誌名から付けた。そして、その名には「澤」と名付けた会に集い、二十年を越える歳月を支えてくれた仲間への感謝の思いを込めた。この句集に収録した俳句は、ほぼすべてが俳誌「澤」に毎月発表してきたものである。もし俳誌「澤」が無かったら、この句集も無かった。この句集に賞を与えていただき、心からうれしい。「澤」の仲間とともに、心から受賞を喜びたい。
飯田蛇笏は若い時から憧憬してきた俳人である。句集を繰り返し読んできた。かつて、「澤」の全国大会で甲府を訪れ、その際の吟行で山盧を訪れたこともある。コロナ禍直前、「澤」の有志と山盧を訪れた際、蛇笏の孫である秀實氏に、その門前から北アルプスの常念岳が望めることを教えられた。常念岳は故郷松本で常に仰いで来た山である。以来、大きく言えば同郷の俳人と身近に感じられるようにもなった。
ただ、蛇笏の句〈芋の露連山影を正うす〉の垂直性は圧倒的。生産をかけても近づけないだろう。
この句集を刊行するまで、前句集から十八年が経過してしまっている。多忙ゆえだが、その時間によって、自句をより客観的に見ることができたかもしれないとも思っている。句にもかなり手を入れてみている。
次の句集は、これほどまでに時間をおかずに出したい。本句集よりも伸びやかに、自由に編みたい。
「詩想根源は風土にあり」高野ムツオ
蛇笏賞候補作として充実した四句集が揃った。まずは私の各句集の感想を五十音順に簡単に記す。
池田澄子の第八句集『月と書く』。そのミステリアスなタイトルと帯文に掲げられた、
お久しぶり!と手を握ったわ過去の秋
には少々驚きかつ戸惑った。だがコロナウイルス禍ばかりでなしに、いつの時代にも共通する回帰不能の時空への挨拶と納得すると、車窓から手を差し出す少女的愛惜があふれる。
日向は今日も静かに移動してみせる
みんな死ぬ味付海苔はすぐ湿気る
などは日常身辺の自然事象の瑣末にこそ詩の謎が潜んでいることを教えてくれる。口語は定型の可能性を今後とも開いてくれる新型エンジンなのだ。
春寒き街を焼くとは人を焼く
の戦争の時代への音なきクラクション。
小澤實の『澤』は第四句集。氏の詩想根源はやはり風土にありと再認識させられた。
青嵐われら富士への斜面にあり
三万七千鏖(みなごろし)の地秋の草
など金子兜太に通じる四駆のパワーを感じさせる。
ひとすぢの光は最上鳥渡る
も映像鮮明だが〈木曽川の今こそ光れ渡り鳥 虚子〉が先行車となっている分、損をしている。
みしみしと増ゆる人類冴返る
人間という生き物の不気味さを圧雪面に食い込むスタッドレスタイヤのように抉り取っている。素材の面白さに興じ過ぎる句が混じるのは気になる。
中原道夫の『九竅』は第十五句集。一年半の六千句ほどを十分の一ほどに削ったとある。機知に富んだ洒脱な運転は変わらないが、これまでより才知に程よいブレ-キが効いていたと受け止めた。
雪道は渚に尽きて戻るのみ
骨は白ならず雪さへさう思ふ
蕗採りし跡一日で立ち上がる
など、まだアイドリング中の所産なのだろうけれど、物の深みにタイヤ痕がくっきり残っている。
稲妻に撃たるるごとし未完の詩
は一転して暴走気味だが、コーナーギリギリの攻めが胸を空く。ただし全体にまだこの世のドライブを楽しみ過ぎの感が残る。今後最も期待する一人だ。
橋本榮治の句集『瑜伽』は焦らず安全運転に徹して、事故やエンストを起こした多くの車をついには追い越した地点へ辿り付いたというべきか。
揚雲雀大河は水の音立てず
は時間の旅の車を一時停止させ、自然の運行に耳を澄ます作者の姿が見えてくる。
肉声は絞り出すもの蟇
滅多飛びやたら飛びして残る蠅
安全運転でありながらも、必死の目配りがあって視野にこうした生き物も飛び込んでくる。生きるとはどういうことか、見えていて実は見えないものの本来の姿を見せてくれる。
八月が去る遠き蟬近き蟬
季語はポエジーの迷路の走行に欠かせないナビだが、頼り過ぎると、既視感のある道しか誘導しない。その陥穽を抜け出す難しさを感じたのも事実。
選考会では話し合いの末、次第に池田澄子の『月と書く』と小澤實の『澤』に候補作が絞られ、どちらを授賞作にするかで論議した。池田澄子の文体の新しさに重きを置いた私は中村委員とともに『月と書く』を推し、高橋委員と正木委員は『澤』を推した。意見が対立し、なおも討議を尽くした段階で、私は、この二冊は現在の俳句を対照的に高水準で示している句集と判断したので、同時授賞を提案した。しかし、賛同は得られなかった。最終的には『澤』の受賞で委員の意見が一致した。小澤實はすでに二〇一四年に『瓦礫抄』で東日本大震災当時の句をまとめ出版している。『澤』はそれ以前の句を収録したもので、初出から四半世紀前の作品も編入されている。いつの作品であるかは、蛇笏賞選考のための評価とは直接関わりがないことだろうが、震災以後の十数年に、氏の俳句営為にどんな展開変遷があったか、見極めたい思いは強い。次句集の出版を待ちたい。
「入魂多捨」高橋睦郎
今回の蛇笏賞選考会はいつになく白熱し、激論が交わされた。それはとりもなおさず良い選考会だったということだ、と私は認識している。選考会は仲良し俱楽部でも妥協の会でもない。選考委員ひとりひとりが候補作のすべてを読み込んだ上で、推すと決めた作品を掲げて議論を闘わせ、攻守を繰り返した結果、落ちつくべきところに落ちつく。むろん不満の残ることもある。それでも該当作無しも含めて、結論として落ちつかざるをえないのが選考というものだ。
今回、該当作無しはありえなかった。候補に上がってきた四作、それぞれに力作だったからだ。作者の五十音順に、池田澄子『月と書く』、小澤實『澤』、中原道夫『九竅』、橋本榮治『瑜伽』。それぞれの私の感想を順不同で述べれば次のとおり。四冊のうち、技法的に最も手堅いのは『瑜伽』。句作上、動かないという評言があるが、同句集収録の句はどれを見ても、措辞の上からも取合せの上からもほとんど動かない。その一方、いささか冒険やその結果の発見に欠けるのも事実で、選考会でいつの時代の作品なのか分からないという評が出たのも頷かれる。持ち前の手堅さを残しながらの冒険や発見を望むや切なるものがある。
『九竅』はその名に即してか表紙の三列三行、整然たる九つの押し抜き穴のデザインが意表をつくが、内容は中原のこれまでの句集に顕著な、必ずどこか一ひねりしないではすまない手つきはあまり見られず素直。西鶴の矢数俳諧さえ連想させる多作で知られる中原のこと、ひねっていないと見える句をひねることも手のうちなのかもしれないが、ただし、方向を突き詰めることは好ましく思える。この軽さはそのまま軽みではない。ほんらい重いものを軽やかに揚げてこその軽みではないだろうか。
『月と書く』は題名のゆえんとなった〈逢いたいと書いてはならぬ月と書く〉からも推察されるとおり、コロナ下の親しい人にも逢いがたい日々を踏まえた意欲的な作品群だが、いかんせん逢うに関連する句が多すぎるのが気になる。池田は人も知る口語俳句を詩の高さに上げた功績者だが、意識的にか無意識的にか読者の持つ池田句のイメージにサービスする傾きがあり、今回はそれがやや目立った。むしろ口語体にこだわらない句に佳品があり、これまでのスタイルに捉われず自由に文語体に移行するのも一方向ではないか。
『澤』は現在六十代半ばにいる小澤の四十代半ばから五十代半ばに到る句群で、つねに作者の現位置を知りたい読者にとってはもの足りなさが否めない。もう一つ気になるのは下五で駄目押しをしがちな作者の癖(へき)で、これが小澤調にもなれば、主宰する俳誌の「澤」調にもなっている。ただ句集を含むすべての著作は、年月の経過ののちには制作年代と関わりなく立つべきもの。また駄目押しについては自己の従来の句を壊し未来へ跳ぶための助走と取れば、受容の範囲だろう。私はつねづね表現の要諦は懐かしさと新しさの兼ね合いにあると思っているが、二つを兼ねた作品の質と量では、今回の四冊の中では『澤』に軍配を挙げたい。
今回の選考の過程で改めて思ったのは、句作のあるべき態度として世上当然のように言われる多作多捨、ことに多作のことだ。結果として多く捨てることで許されると見える多く作ることだが、ただ多く作ればそれでいいのかどうか。ここは芭蕉の「句調はずんば舌頭に千転せよ」に立ち返って千転(せんでん)多捨、または入魂(じっこん)多捨とすべきではなかろうか。
句案が浮かんだら、舌頭に千転して魂を入れることに努め、なおかつ意に満たないものは惜しまず捨てることではないだろうか。俳句スポーツ説などは、ほんらい深い含意があるのかもしれないが、文字どおりに受け取るなら私には馴染まない。俳句は歴史的にも世界的にもたぶん考えうる最短の詩形、それだけに一句一句の中に魂を注ぎ入れるべく舌頭千転するほどの気構えと手つづきが必要だ、と考えたい。スポーツの一挙手一投足にも魂を入れることが必須だというのなら、俳句スポーツ説に異論がないこと、勿論だ。
なお、今回候補には上がらなかったが、山口昭男『礫』、岩淵喜代子『末枯れの賑ひ』に注目した。賞の候補に上がるのは厳密にいえば偶然。候補に上がらないもの、目には触れないものにも、どんな傑れたものがあるかもしれない。出会わない傑作への想像力と敬意を無くしては、選考は務まるまい。
「月、と読む」中村和弘
今回の候補四冊の句集、その作品の収録年数が極端に異なり、そのことが選考に入る前に少し話題になった。
『九竅』(中原道夫)が一年半ほどの作品、『月と書く』(池田澄子)が三年間ほどか、そして『澤』(小澤實)と『瑜伽』(橋本榮治)がはっきりとは分からないが各々の前句集刊行から推察して十年間前後か。
長短はともかく四冊とも思想・詩性を根底に個性的な句集が揃ったと思う。
句集『月と書く』(池田澄子)
前句集『此処』に続き池田澄子調といってよい表現・リズム感である。少し変化しているのは、後記に「コロナウイルス出現以来、人が人に逢えなくなった……」とある。その想いが時に溢れる。〈逢いたいと書いてはならぬと月と書く〉他、多い。私が句集中感銘した句は、
落蟬に蟻辿り着く夕日かな
春愁の膝のお皿をぐにゅぐにゅと
無いように日輪渡る野水仙
花ふぶき知らぬ同士のわーっと言う
春昼の懐中しるこを見守りぬ
お清汁(すまし)に灯の映り揺れ虫しぐれ
草と我そよぎてなどか月の雫
腿で手をぬくめながらや枯野の椅子
初春の氷のなかの空気かな
集中、静かな抒情をたたえた句に著者の年輪が感じられた。生命感、その豊かさにおいて屈指。
句集『九竅』(中原道夫)
巻末に「一年半ほどで六〇〇〇句ほどとなり、それを十分の一ほどに削り……」とあり、まことにその多作に驚くほどである。現代の井原西鶴かと疑うばかりの多作ぶりである。前句集『橋』の、辞書にも載っていないような漢字もほとんどなく、前句集での批評を参考にされたことと思う。
天鵞絨に別珍に冬の日の埃
息を詰め巨き火鉢を運ぶなり
身幅ほど新雪に道付け戻るなり
板前の指さくらいろ芹料る
古墳には松の傾く日永かな
まろび出て雀隠れとわかるなり
馬交る荒荒しきに皆が酔ひ
爪揉の色が変はれど帰り来ず
この度の句集、言葉による知的操作と思われる句も少なく、実態感のある句が多くなっていることに注目した。
句集『瑜伽』(橋本榮治)
橋本榮治作品というと「馬醉木」の抒情のイメージがあったが、この句集はそれを抜け出て作風を確立、一読して目を拓かれた思いである。
軸足を渦に置きゐる簗作り
数へ日や一箱に盛る糶の雑魚
谿底の底を灯して里神楽
負鶏となる一瞬のつちぼこり
炊くまでは水の香の魚春浅し
死者のこゑひときはとほる薪能
どの句にも著者の人間性が感じられた。
ただ類想・類形感のある句が散在するのが残念であった。
句集『澤』(小澤實)
長らく注目してきた作家、抑制のきいた知的ともいえる作品は屈指である。
細りつつ雪渓たるを止めずあり
夜長なり即身仏を鼠食ふ
鮑の肉くつつきたしと波打てる
兜虫首取れて内虚なる
豚の尿流れて沁まず荒野の夏
など句集前半にこの作家ならではの秀句がありながら、後半燃焼度が低くなり自己模倣的句が目立ったのは残念であった。
この度の選考、『月と書く』、『澤』の二句集に絞られつつ、その評価は割れた。選考過程の中で二人同時受賞、または受賞なしの選択肢も提示された。両案とも安易にすべきではないことは勿論である。
私は『月と書く』を最後まで推した。
「分厚い喜びと死と毒と」正木ゆう子
受賞作を一位に推したのは高橋・正木。高野・中村は『月と書く』を推していたので、四作すべてに意見交換したあと、流れは自然にその二冊に絞られた。
最初、今回は四作のどれもが賞に相応しいということで皆が和やかに一致していたのに、二冊に絞ってからは一転して誰も譲らず、意見は割れに割れ、反対意見の嵐をかいくぐって突破するサバイバル状態。各自の俳句観や好みの違いに立ち往生する場面が多々あった。従ってここには、推す理由とともに、推さない理由もちゃんと記すことが必要かと思う。
『澤』は十年間の記録とあって、先ず作品内容が分厚い。一読のメモには次のように書いている。実がある・既に人口に膾炙した代表句がある・毒がある・一見平凡な地の句にも濃やかに神経が行き届く、等々。
残雪を弾き出でたる熊笹ぞ
ふかく眠りぬ秋草の生けあれば
兜虫首取れて内虚なる
肥溜の肥に張る皮木の実乗る
一句目は「澤」創刊時の句だが、生命や人生への喜びを詠むのもこの人の特徴。二句目にも同様の喜びがある。一方、三句目の即物的な死の表現には、クールな目が利いている。四句目も同様。とても良い句かどうかは別として、肥溜の句はそうそうあるものではないし、これもクールだ。さらに次のような、宗教的な言葉を宗教的でなく用いた句も、得がたい一面である。
わが肩をついばむ迦楼羅枯野行く
月光の閻浮檀金(えんぶだごん)を浴びにけり
春闌けて飛ぶものもなし有頂天
マイナス面としては、中七を「や」で切るパターンが指摘されたが、それには同感。報告的な句が多いという意見も出たが、私はそうは感じなかった。他の句も濃やかと書いたのはそういう意味である。
月を待つ春の空かな誕生日
夕されば灯して家や隅に葱
浴室のいずこも濡れて初昔
夜半から雪になるらし鯉の口
池田さんは、口語を駆使した独特の句風が注目されがちだが、『月と書く』の中で心に沁みたのは、このようなしみじみとした、どちらかといえば地味な、作者が句の表面に出ていない、文語の日常詠である。
しかし今回はその部分はあまり見られなかった。逆に、個性全開の句、たとえば〈握ったわ〉〈焦がしたわ〉〈呼ぶのよ〉などの女言葉が多く、さらに、逢いたい・寂しい・嬉しい・恥ずかしい、などの心情吐露の語も多くて、作者の感情があまりにも表面に出過ぎていたのが惜しまれた。
中原道夫の『九竅』は、前作から一年半で纏められており、多作さに先ず驚く。
海胆の棘砂を刺しては歩きけり
火落とししのちの客なり独活に味噌
麦秋や秣(まぐさ)に混じる禾の針
脱穀の夜通しの音それも止み
上手さと洒脱さ、そして強いのは、作者が都会的なものだけでなく、農事にも通じていることである。食べ物の句もいつも楽しみ。昨年候補に挙がった『橋』では、言葉遊び的な句が多いと書いたが、今回はずっとすっきりしていたと思う。しかし少なからずあった〈千金は春宵のほか釣り合はぬ〉などの機知は、やはり理に落ちるという印象を拭えなかった。
反対意見ばかり書いているような気がするが、橋本榮治の『瑜伽』に関しては、全員肯定的な感想が大方であったように思う。
軸足を渦に置きゐる簗作り
高稲架の脚の先まで乾く日ぞ
船虫を撒らせしのみに真昼過ぐ
芭蕉布を波のごとくにはおりけり
端正で、確かな言葉の技があり、佳句を書き出せばきりがないくらい完成度が高い。巧みな吟行句が多いので、旅に恵まれた時期だったのかもしれない。しかし読者とは我が儘なもので、美しい句の後には濁った句も読みたいし、整った句の後には、整っていない句も見たくなる。何かもっと整理整頓されない宝庫が作者の裡にあるのではないか、できればそれも読みたいと思ってしまうのだ。
句集を読むとは、まして評するとは、自分のことは棚に上げてするのであり、つくづく難しいものである。